夏の暑さはまだ残りつつも、じわりじわりと夕日の沈む時間が早くなってくる九月、氷川日菜は霞ヶ丘昂輝のいる楽器店に向かっていた。
恋人に会えるということで鼻歌交じりの日菜に、ついてくる影が一つあった。
「いらっしゃ……ってなんだ日菜か」
「こーくんただいまー!」
「ここは日菜んちじゃないです」
そんな言葉を交わしながら昂輝は、えーだって夏は基本コッチにいたから~と笑う日菜の隣にいる人物に気付きいらっしゃいませ、と頭を下げた。
おじゃまします、と優雅に一礼する人物は昂輝の知り合い、というほどではないが日菜のバンドメンバーであり芸能人、白鷺千聖であった。
「白鷺さんはここに来るのは初めてでしたっけ?」
「千聖でいいですよ? 私も敬語や霞ヶ丘さんって呼ぶの少し面倒ですから」
「それじゃあ、千聖さん、と呼べばいいかな?」
「ええ、昂輝くんとは久しぶり、ということになるかしらね」
「そうだね」
日菜のことで相談に乗ってくれそうな相手でもあり、また長い間恋人のいる身でありながらそれを感じさせないクールさを秘めた、昂輝にとってはリスペクトできる同年代の一人でもあった。そのクールさ、という部分で日菜が苦笑いをしたことに関しては話題を避けることにしながら。
「今日はどうしてここに?」
「少し細かいものを買うついでに日菜ちゃんが泊まらないように監視の役目もあるの」
「なるほどね」
当の監視対象である彼女はいーじゃんと不満げに唇を尖らせており、全く反省もダメだと言われても泊まろうとしていたという様子であるため確かに必要だと昂輝は頷いた。
そんな日菜の保護者とも言える千聖に、昂輝はいつもありがとうとほほ笑んだ。
「いえいえ、おかげで日菜ちゃんも随分と落ち着きましたし」
「あたし変わった?」
「ええとても」
含みのある千聖の言い方に昂輝も笑いをこらえきれず噴き出す。
そんな暖かな時間を過ごしながらも、やはり恋人が傍にいるということで日菜はそわそわとし始めていた。
「……日菜ちゃん?」
「だって! 千聖ちゃんだって亮太くんといるとそわそわってしてなんだかんだ理由付けて二人きりになるじゃん!」
「へぇ、千聖さんって案外……」
「ひ、日菜ちゃん!?」
意外な弱点を突かれた千聖は日菜の悪魔のような笑みを受けて、こめかみを抑えながらわかった、わかったわ、と妥協を示した。
逆に昂輝からすると、あれ? と首を傾げるような展開になってしまっていた。監視なのに監視対象に負けてしまっているという状況はまるで意味がないのではと考えるが、千聖に頭を下げられては許すしかなかった。
「ごめんなさい……私も、恋人との時間はとても貴重なのがわかるから、その……」
「つい甘やかしてしまう、と」
「……恥ずかしいことだけれど」
そんな普段は凛とした雰囲気を纏う千聖のかわいらしい弱点を知った昂輝はいやいやと手を振った。公には付き合えないからこそ、ちょっとした恋人との時間を大事にする千聖の感情に甘いはちみつの色が混ざっていたからこその反応だった。
「カレシさんのことが大好きなんだね」
「……ええ」
「甘い色してるもん」
「はちみつ色は幸せの色なんだって、千聖ちゃん」
「そうなのね」
なにより千聖もそうだがみんながみんな、昂輝の視えている世界を話しても怖がったり信じなかったりする人物がいないということが、彼の心を穏やかにしていた。それに心の色は影響し合うことも知った彼としては、みんなの色を良くするには自分の心に嘘を吐かないということが大切だということを学んでいた。
「えへへ~、こーくんとイチャイチャできる~♪」
「はいはい」
弦やその他の細かいものを、経費で買いつつ、千聖は当初の予定を変えて日菜を置いて帰っていった。どうしても帰らせたかったら紗夜ちゃんでも呼びなさいという言葉を残して、日菜に意味深なウィンクをしてから。
「おいで、日菜」
「うん!」
部屋に上がり、日菜は昂輝にしっかりと抱き着く。千聖も零した色であるはちみつ色を声に浮かべながら、キラキラと瞬いて見せていた。
その時、抱きしめていつものように首にある指輪を外そうとした時、昂輝はようやくその首に未来という彼女の約束を支える銀色がないことに気付いた。
「指輪は?」
「あ、えっとね……この間チェーンが切れちゃって、家に保管してあるんだ」
「そうだったんだ」
「うん、せっかく買ってくれたのに、ごめんね?」
「ううん。あれは日菜のものだから」
チェーンが切れた。それ以来日菜は指輪にすがることもなくなっていた。彼女にはそれがまるでもうその指輪に縋ることをしなくても未来が切り開けているのだと予感していたが故に、大切に手入れをし、いつか自分の姉にその約束の銀色を渡そうと考えていた。
「正直に言うとね、よかったって思うところもある」
「よかった? なんで?」
「あれを渡してからしばらく、日菜が変だったから」
「……変」
それは未来というものに縛られ、遠くを見過ぎていたことを指摘しているのだと日菜は気づいた。他にも弦巻こころには少しだけ明かしていたし、顧問である清瀬一成はその正体について知っているような口振りで止められていた。そんな日菜やみんなを振り回した未来というものを手放したことを、昂輝は安堵していたのだった。
「ごめん」
「いいよ。今はいつもの日菜だから」
「うん! こーくんが好きで大好きで……あたしはこーくんが愛してくれて幸せだから」
「俺も。日菜が愛してくれて、幸せだ」
「……えへへ~」
まるで煌く星々のように照れや幸せ、好きという感情を瞬かせながら破顔する日菜に、昂輝は自ら口づけをして、その色をより鮮明にしていく。何度も何度もついばむようなものから、しっとりと熱を帯びたピンク色が浮かぶ長いものへと変化していく。
「ふ……こーくん、もっと」
「うん。幾らでも……泊まるんでしょ?」
「ん、泊まる……」
「なら遠慮しなくていいよね?」
GW後から夏の中盤くらいまではどこか一歩引いていたような感覚すらあった日菜だったが、日が沈むのが早くなるにつれてどんどんと元のわがままで独占欲の強い氷川日菜になっていることが、昂輝には幸せでたまらなかった。
──それを罪悪感なく受け止められるのだと思うことがたまらなく幸せだった。
「はー……満足したぁ」
「激しすぎるんだけど……ちょっとセーブしない?」
「むりだよー、こーくんのこと好きすぎてトンじゃうんだもん」
そのとんでもない理論に苦笑いをしながらも、裸のまま腕に頭を乗せ、甘えてくる日菜をしっかりと抱き留める。何度か唇を重ね、蕩けそうなくらいの幸せと愛情を分け合っていると、だんだんと日菜は瞼が重くなっていくのを自覚していた。
頭を撫でられ、間近で囁くような声を出され、昂輝から発せられる優しく幸せに包まれる音色に日菜は眠りへと堕ちていくようだった。
「こー、くん」
「どしたの日菜?」
「んーん。あたしは、すっごく……しあわせだなぁって」
「これからも、だよ。幸せになっていくんだから……これから先も」
「……うん。でも……おねー……すぅ」
「……日菜?」
声を掛けるがもう返ってくるものは寝息だけだった。
そんな一定のリズムで奏でられるアイスブルーの星の優しい明滅に昂輝は日菜と同じく堕ちるように、瞼が閉じられた。
──その日、日菜が見た夢は不思議な夢だった。起きた頃には既に忘れてしまうのだが、それは日菜が変えていった、幸せの未来への道標のようなものだった。
「あれ、こーくんは?」
「……あっち」
「わかった、ちょっと行ってくるね!」
「うん──と一緒に来てね、待ってるから──」
例え忘れてしまっても、日菜の胸の中には暖かいものが残っていた。
もう銀色を付けなくても大丈夫だという確信と、いずれ悲しい別れを経験するというのに、日菜の中にはそれでも、暖かな光がしっかりと残っているのだった。
CHAPTER:C‐8 END