氷川日菜と今井リサが霞ヶ丘昂輝と出会って、その日は楽器を弾き、笑顔で語り合い、そして氷川紗夜は氷川日菜と一緒に家へ帰った。
――問題はないのか、否、まだ日菜が昂輝に負の感情をぶつけたことが残っているのだが、紗夜に日菜を問いただすことは出来なかった。
「あ、おねーちゃん」
「……おはよう、日菜」
それから、何度目かの朝の挨拶。練習も夏期講習もない筈なのにギターを背負って朝早くから出掛けようとする紗夜と、まだパジャマ姿の日菜が顔を合わせた。欠伸混じりに時間を確認した日菜は、少しだけ静かな声で紗夜に問いかける。
「あの人のところ?」
「ええ、そうよ」
「ふーん。そっか」
含みのある言葉に、紗夜は緊張感を覚えた。最近では自分ではない人、というものに興味を抱くはずの日菜が、まるで興味がなさそうに。
――その理由は、紗夜には理解できなかった。
「おねーちゃんは、あの人に会って……あの人がギターをやっていて、嫌だ、とは思わないの?」
「……? そんなわけないでしょう。むしろ昂輝には、もっと表に出てほしい、そう思うくらいよ」
紗夜の本心だった。彼はあんなところで燻っていていい才能ではない。ガールズバンド、という名がなければRoseliaとして自分と代わってもいいくらいだと、そう思っていた。言えば昂輝に「紗夜の活躍を奪うことはしないよ」と苦笑いをされてしまうのだが。
「……行ってくるわね」
「うん」
パタンとドアが閉まる。紗夜は行ってしまった……あの男のところへ、自分に近いもののところへ。そんな脱力感から、日菜はその場に座り込み膝を抱えて寂しさに震えた。
――かつて、いつも自分の真似ばかりすると、そしてその真似をしたもので自分を越えてしまうと厳しい表情を向けた姉が……あの男のところへ。
「……あたしじゃだめなの? おねーちゃん」
その言葉が紗夜の耳に届くことはなく、彼女は少しだけ早足でスタジオへ向かう。昂輝は「えー、いいよ。俺が呼んでるんだし」とは言うが、いつも利用料は払っていた。譲らない昂輝によって従業員割の値段になってはいるが、オーナーである昂輝の父を困らせるようなことはしたくなかった。
「ああ、紗夜ちゃんいらっしゃい」
「おはようございます、店長さん」
「昂輝が待ちかねていたよ」
「て、店長! そんなことわざわざ言わなくていいよね!?」
「おはよう、昂輝」
「あ、うん、おはよう……紗夜」
紗夜は、昂輝に挨拶の時に名前を呼ばれる、その時の音が好きだった。まるで紗夜には見えない音色をどうにかして見せたい。そんな心の篭った間のとり方とトーンが、紗夜の頬を緩ませた。
――私も、伝えたい気持ちがある、と言わんばかりに、けれど、無音で。
「……紗夜は、だいぶ付き合い方がわかってきてるよね?」
「昂輝のシナスタジアに?」
「うん、嘘をつかない隠し事が上手くなったよ」
「褒めてないわね、それ」
「だって、俺の知らない紗夜がいるってことなんだからね」
「不都合があるのかしら?」
「あるよ」
唇を尖らせて、昂輝は端的にそう言ってみせた。その表情は、紗夜に鏡を見ているような気分にさせる。自分のもどかしい想いがわからなくて、なんとか理解しようとしたことがあった。その時にいつも見ていた鏡の向こうの氷川紗夜……その表情が今、昂輝に貼り付いていた。
「俺は……紗夜を知りたい」
「昂輝……?」
「よくわかんないんだけど、日菜とかが俺の知らない紗夜を知ってるって思うと……胸が痛い」
「胸が……」
「……ごめん、変なこと言って」
「え? ど、どうしたの?」
「紗夜を困らせるのはもっと嫌なんだ……聞かなかったことにしてよ」
しかし、そんな表情は作り笑いに変えられてしまった。それは紗夜が困惑の色を声に乗せていたからであり、昂輝のリアクションに紗夜はしまったと表情を歪めた。彼は偶にこうして紗夜の手の届かないところへ感情を置いてしまう。それは、彼の心が迷子になっている証拠なのだが……紗夜にはどうしていいのか、わからなかった。
――音楽でしか語り合うことのできない不器用な二人は、不器用なまま、今日も練習を重ねていく。
「……今日の紗夜は、紗夜の音は、迷いが多い」
「――っ、すいま、せん……」
しかし、今日はそんな音楽ですら、紗夜は昂輝との壁を感じていた。迷いが多くて、色の明滅する紗夜の音……昂輝は段々と不機嫌になっていった。
――音が不快だから、ではなく、この迷いの音こそが紗夜の隠し事であるという見当違いの予想をして、それでも黙って下を向いてしまう今の状況に、それを訊きだす方法がわからない自分に苛ついていた。
「集中できないなら、今日は帰っていいよ……身にならないでしょ?」
「まっ、待って!」
「今のままじゃ、いい音は出ないよ」
「……まって」
「練習してるのに、他事を色々考えて、上手くなるわけないよ」
「……っ、昂輝……!」
縋るような声と色。弱々しく名前を呼ばれた昂輝は、紗夜を悲しませてしまっている自分が嫌になっていた。紗夜は、今の状態では、練習はする意味がないという昂輝の意見には賛同していたが、それ以上に単純に昂輝の傍にいたいという依存心を剥き出しにしている自分への嫌悪が胸から溢れ出していた。
「ごめん、今日はもう――」
「――そうだねぇ、今日はもう練習にはならないかなぁ」
「て、店長……さん」
そんな、いつもの喧嘩ではない不穏なやり取りをしていた紗夜と昂輝に助け舟を出すのは、レジにいたはずの店長だった。去年の雨の日からずっと、二人を見守ってきた店長は、もちろん、大人として二人のすれ違ってしまう想いに気付いていた。故に、店長はそんな若い二人に傘を差しだそうとしていたのだった。
「こんなところで喧嘩されたら売り上げに影響が出ちゃうから、やるならアッチで」
「で、でも……」
「店長命令、昂輝くんは今日もう上りでいいから」
「……わかり、ました。紗夜」
「え、ええ……」
昂輝は普段はのんびりで温和な店長のにこやかな
初めてみるような威圧感に口論をする気もなくなったまま、リビングのソファに座らせて冷えた麦茶を出した。
――隣り合ったまま、しばらくの沈黙が流れる。そうして、やっと冷房が効き始めた頃、昂輝が沈黙を破った。
「ごめん……紗夜。強く当たり過ぎた……」
「……私こそごめんなさい。少し、集中できてなかったわ」
「どうして……? 紗夜は何を考えてたの……?」
どうしてもこの話になってしまう……紗夜は覚悟をしていたものの、いざ口にしようとすると、まるで喉が詰まったように、呼吸が苦しくなる。けれど、そんな苦しい状況でも、昂輝の方が……感情が色となって伝わってしまう昂輝の方が苦しいと思えば、勇気が出る。そう思って紗夜は昂輝をまっすぐ見つめた。
「昂輝のことを、考えていたの」
「お、俺のこと?」
「ええ、昂輝の気持ちが知りたくて、時々、昂輝は自分の気持ちを私の見えないところへ置いて行ってしまうから……」
「……そ、それって……」
優しい光を放つ言葉と感情に、昂輝はもしかして……と僅かな希望を持った。紗夜は自分のことを想っていてくれているのか、名前の知らない
「い、いつの間にか、ギターだけではなく、昂輝のことばかり考えていたの……日菜と昂輝が楽しそうに話をしていた時からは、特に……」
「それって、ヤキモチ……?」
「そんなの、わかるでしょう?」
「ご、ごめん! 睨まないで……」
昂輝は、照れながら怒る紗夜に慌てて首を振る。片想いだと信じ込んでいた紗夜が嫉妬と共に勝手に壁を感じて、そんな壁に昂輝が嫉妬をして、紗夜がそんな昂輝に余計に壁を感じる。仕組みが分かってしまえば笑い話にでもなりそうな空回りに、紗夜も昂輝も段々とこらえきれずに、最後には声を上げて笑ってしまう。
「あははは、そっか……ごめん。勘違いさせて」
「ふふ……いえ、私こそ、勘違いをさせてしまって、ごめんなさい」
「はは……」
「ふふ……」
そんな言葉を最後に再び沈黙が訪れ、冷房の音だけがリビングに響いていた……否、それと同時にお互いが、自分の早くなる鼓動を耳にしていた。そんな中で、最初に不安にさせたのは自分だ、と昂輝が「紗夜」と名前を呼ぶ。
「――俺は、紗夜が、好き……です」
出逢ってからどんどんと楽しそうにギターを弾くようになった紗夜が好きだった。厳格できちんとしないと気が済まないけれど、意外に抜けているところもあって、健康とかに気を遣うくせにポテトが好き。なにより自分のシナスタジアを理解しようとして、歩み寄ってくれた。そんな知れば知る程、好きになっていく氷川紗夜を……昂輝は独占したい、と思うようになっていた。
「わ、私も……昂輝が、好き……」
出逢いは最悪だったけれど、ギターが自分よりも才能に溢れていて……けれどその才能に苦しみ、ギタリストとして芽の出ていない彼に、いつの間にか惹かれていた。初めは同情だったのかも知れない。けれど、そんな雑草の如く踏みつぶされても力強くギターを演奏する彼が、紗夜には眩しかった。そんな気持ちがいつしか彼に寄り添いたい、理解したいという思いに……やがて紗夜は、霞ヶ丘昂輝への依存へと繋がっていったのだった。
「……紗夜。俺の恋人になってよ、俺だけの紗夜を、見せて」
「ええ、私も、昂輝の恋人でいたい。昂輝に求められる、私でいたい」
恋心はやがて愛情へと変わる。そうしてまた顔を赤くしながらぎこちなく笑う二人を、そっと見守りにきた店長が笑顔で頷き、店へと戻っていくのだった。
――CHAPTER:3「