想いの通じあった霞ヶ丘昂輝と氷川紗夜は、それでも表面上はいつもと変わらない生活を送っていた。昂輝の家がある楽器店へと紗夜が足を運び、ギターを弾く。しかしその変わらない関係の中でも、二人の表情は以前とは違うものとなっていた。
「なんか、一気に良くなった?」
「そうかしら?」
「うん、なんだか、明るくなった」
「それは、色が、ということ?」
「そうそう。明度が上がった感じなんだよ。それに色々な色があって、すごく聴いてて楽しい」
昂輝の言葉に紗夜は顔を綻ばせ、それと同時に前は少しだけ余計なことを考え過ぎていたことを反省した。今ではその余計なことは紗夜がこうして楽器を演奏している意味そのものになりつつあるため、ギターはそれに応えた、という感覚だった。
「さて、休憩しようか。疲れたでしょ」
「……かなり、弾いていたのね」
「時間を忘れるのは集中してた証拠だね。よく頑張りました」
「……恥ずかしいわ、昂輝」
長いアイスグリーンの髪に触れられ、紗夜は顔を赤らめた。恋人に触れられるのは口の中が甘酸っぱくなり、照れと同時に言い知れない幸福感で胸がいっぱいになる。そんな微笑みを浮かべる紗夜に昂輝は紗夜と同じように顔を綻ばせ、目を閉じた。
「はちみつ色」
「え?」
「今の声、はちみつ色だったんだ。見てるこっちが甘くなっちゃうくらい」
「……それは多分、幸せの色ね」
「幸せ……そっか」
昂輝は顔を輝かせる。子どものような純粋な瞳で、そして夜空に浮かぶ一等星のような輝きで……それは紗夜を衝動的にさせる優しい光だった。それをなんとか堪えていると、昂輝が無邪気な顔で「今日のお昼はどうする?」と問いかけた。
「……そうね。いつもファミレスかファストフードでは飽きてしまうわね」
「あ、うちにそうめんあるけど、それでもいいなら」
「ええ、それで……うち?」
「うん、母さんがさ、紗夜といつも外食だって言ったら用意してくれてさ」
「そ、そうなのね……」
それはつまりまた昂輝の家に上がる、ということであり……紗夜に妙な緊張感が走った。一方の昂輝はそんなことは気にも留めていないようで、店長に「紗夜とご飯食べてくるねー」と呑気に話していた。店長は店長で付き合っていることを知っているはずなのに「いってらっしゃい」と温和な笑みを浮かべるだけで、紗夜はどうにか言葉に出さずに昂輝にこの気持ちがわかってほしい、と考え、すぐにその方法に思い当たった。
「こ、昂輝」
「なに、紗夜?」
「あの……こ、昂輝の家で、食べるのよね?」
「……? なんで……あ」
それは感情をそのまま声に出すこと。紗夜の声に羞恥が混ざっていることに疑問を持った昂輝は彼女が言わんとしていることに漸く気付いたのだった。
──しかし、昂輝はそこでは止まらず、紗夜の手を取る。
「大丈夫……ご飯、食べるだけだから」
「う、そ、そう……?」
それを一般的には「フラグ」と言うのではないかと思うのだが、紗夜はそれ以上何も言えずに昂輝に手を引かれたまま、リビングの椅子に座った。冷蔵庫を覗いてめんつゆや麺を出してくる彼の後ろ姿を見ながら紗夜は鼓動を鳴らす心臓を抑えていると、彼は少し気まずそうな顔をしながらゆっくりと口を開いた。
「紗夜は、俺んちじゃ嫌だった?」
「い、いえっ、二人きり、というのは少し……心の準備ができていなかったので」
心の準備ができていなかっただけで、嫌ではない。それは紛れもない本心だった。
恋人というものがどういうものか、まだよくわかっていない紗夜にとって愛しいと思える人と触れ合うというのには勇気のいる行為だった。けれどそれに反して紗夜の深層では触れたい、触れられたいという欲求が確かにある。それと同時に離れたくない……という以前が可愛く感じてしまうほどの依存心も燻っていた。
「そっか……俺は、なんだか、紗夜が笑ってくれるだけで、傍にいてくれるだけで、すっごく胸が熱くなるから……」
「いるだけって……それじゃあ前と変わらないじゃない」
「そんなに劇的に変わりたいわけじゃないよ。ただ、紗夜のことをもっともっと、知りたいだけ」
「……昂輝」
その言葉は昂輝の精一杯の気遣いがある気がして、紗夜は衝動に任せて立ち上がり、彼の背中に抱き着いていた。早鐘を打つ鼓動、甘酸っぱい恋心は、彼への愛おしさに変わっていく。紗夜は昂輝の気遣いが好きではなかった。気を遣われることで、まるで置いて行かれてしまっているようで……怖かった。ただでさえ必死に追いつこうと走っているそのゴールが、消えてなくなってしまうような恐怖が紗夜の依存心の正体だった。
「……独りにしないで、昂輝」
「紗夜?」
「昂輝がいなくなってしまったら、私はどうしたらいいのかわからないの。きっと昂輝に出逢う前みたいに、ただ闇雲にギターを弾くだけの人間になってしまうわ」
「でも紗夜はいつか……俺を必要とせずにギターを弾く時が来るよ。賭けてもいい」
「嫌よ! 例えそうなったとしても、傍に昂輝がいてくれないと、私……わたし……っ!」
口を衝いて、隠していた依存心があふれ出てしまい、紗夜は少しだけ自己嫌悪に陥って、昂輝から一歩離れていく。しかし、困惑させてしまったと思っていた紗夜の予想とは裏腹に昂輝はとても穏やかな瞳で、今度は真正面から紗夜を受け止め抱きしめた。
「ごめん、意地悪なこと言ったね」
「昂輝、私……」
「いいんだよ。それが、紗夜の本当の気持ちなんだから」
「でも……きっとキレイじゃないわ」
「そんなことないよ。紗夜のさっきの声、キラキラしてた」
「……そんな」
嘘だ、と言いたいのを紗夜はなんとか堪えた。昂輝が嘘を言うとは考えられない、昂輝にしか見えないものを信じている根拠でもある紗夜の認識がその言葉を飲み込んで……代わりに、昂輝の腕の中で、思いっきりの依存心を彼に吐き出した。
「ずっとずっと、傍にいて。もしも私がギターを弾くことが出来なくなっても、ずっと……」
「そんなことにはならないよ。でももしも、ケガとかで弾けなくなっても……俺は紗夜の傍にいる。その時は、紗夜が好きだったギターをずっと弾いていてあげる」
「うん……ありがとう、昂輝」
「よしよし。紗夜っていつもはキリってしてるのに、今日はなんだか小さな子どもみたいだね」
「……余計なこと、言わないで」
「あ、ごめん」
自分を見上げた紗夜に睨みつけられ、昂輝は「しまった」と苦い顔をした。しかし、紗夜はそんな昂輝にふっと微笑みを浮かべて、見上げたまま目を閉じて踵を浮かせた。
一秒、二秒……三秒の静寂のあと、紗夜が再び踵を床に着け、潤んだ瞳と赤い頬を昂輝に見せる。頭がショートしているような彼の表情が少しだけおかしいと思いながらも、彼の温もりに顔は綻んでいた。
「……きっと、こういうことが抑えられない、ということが……恋人同士なのかも知れないわね」
「そ、そうなの……かな?」
「だって……もう一度、してもいい、って思うから」
「──!」
昂輝の頬がさっと朱色に染まった。これは冗談ではない、と判断したものの、普段からは考えられない程開放的になった紗夜の誘惑に、彼女を誰よりも愛おしいと感じている自身に満ちた昂輝が、抗えるはずがなかった。
──故に、そのまま一度だけでなく二度目の接触をする。甘酸っぱい恋の味が口いっぱいに広がるようで……それだけで、夏の暑さを忘れるような幸せに満ちたはちみつ色が昂輝の視界でキラキラと瞬いた。それは紗夜の心臓の音か、それとも触れ合う音だったのか……昂輝にはわからなかったが、それでも紗夜が幸せだということだけは、わかった。
──CHAPTER:4「