氷川紗夜に優しい音色を届けるまで   作:黒マメファナ

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CHAPTER:6「悪魔の紫色は雨音に隠れる」

 九月になり、紗夜も、昂輝も、日菜も、二学期が始まり一ヶ月が経った。紗夜はいつも通り……しかし、時折委員会や部活の後の、家に帰るまでの僅かな時間にも、会いたがるようになった。無論それは昂輝も同様であったため、そこに余計な疑問を差し挟むことなく、彼女の呼び掛けに応えていた。

 

「昂輝?」

「うん?」

「……よ、呼んだだけ……」

「なにそれ、もっとこう……キス、したかったとか、じゃないの?」

「っ! い、いいの……かしら?」

「もちろん。だいすきな紗夜なら大歓迎だよ」

「そ、それじゃあ……」

 

 付き合い始めて間もない二人だが、イベントやその前の一年間で近づいていた心の距離が、順調にそのステップを踏み込ませていた。二人きりの空間で唇を重ねて、頬を桜色に染める。なにもないと、ギターしかないと乾いていた紗夜の心に満たされていく幸せ……それを感じる度、昂輝もまた、満たされていた。

 

「……ねぇ、紗夜」

「なに……?」

「もっと……紗夜に触れていたい」

 

 ──満たされていたはずなのに、それでも唇の触れ合わせだけではすぐに物足りなくなっていた。腰に触れる手が、絡まり合い、紗夜の手を包む指が、全てが紗夜を求めているようで、抱き寄せて唇を奪った。急な触れ合いに紗夜は目を見開いたものの、すぐに熱に歪められ、唾液が絡まり合う水音に絆され、情欲へと変わっていく。

 

「はぁ、こ、こう、き……?」

 

 気づけば、紗夜はソファーに押し倒されてしまった。残暑の日が差すリビングで、彼の影を見上げた紗夜は、その見えない彼の眼を視線に籠った感情に身体を震わせた。自分がここで受け入れれば、彼の独占欲は満たされる……そして、彼女の依存心も……満たされていく。その甘美な毒を飲み干してしまいたい、と思うことに、紗夜はもう躊躇う理性を失っていた。

 

「……こうき」

「なに?」

「──初めては、貴方の部屋が、いいわ」

「……わかった」

 

 彼女たちは間違えた。紗夜は求めるものを、昂輝は求められるものを、間違えていた。お互いの傷を癒すため、舐め合うために最適で最善の手段であるその関係は……昂輝の目に見えない嘘で塗り固められていた。しかし、ギターを持たず、お互いの手と欲だけを握った二人には、それが最善でありながら最悪であることに、まったく気づけずにいた。

 ──故に、二人の世界に入った氷川日菜は、その事実に目を輝かせていた。

 

「ふーん? それで帰りが遅かったおねーちゃんの腰と、あと背中に痣があったんだー」

「……よく見てるね」

「こーくんにもついてるんでしょ? 流石に首は遠慮したっぽいけど」

 

 ニヤニヤとからかうような日菜の言葉に昂輝は顔を赤くした。紗夜へ付けた腰と背中への(キスマーク)は彼の本質の表れでもあり、そんな欲求を日菜に晒してしまったことへの羞恥、そして自分の鎖骨についているソレもまた……紗夜の欲求であり、淫らな獣の本質と言っても過言ではなかった。

 ──それを見抜いていた日菜は、悪魔の笑みを昂輝にぶつけた。

 

「でもさー、おねーちゃんって……()()()()()()()()()()()()()()()?」

「……どういうこと?」

「だって、おねーちゃんって、自分のギターが好きじゃないから、こーくんの音に縋りついてるだけじゃない?」

 

 日菜の悪魔の囁きに、昂輝の胸中にジワリと黒いシミが生まれた。依存している……それは紗夜も言っていたことだった。昂輝がいないと、なにもわからなくなってしまう、それは……初めて会った時に昂輝のギターに何かを見出したからで、昂輝自身に依存しているわけではない……日菜の指摘を昂輝はすぐに否定することができなかった。

 

「それは……」

「あとさ、こーくんだって、ホントにおねーちゃんが好きなのかなーって思うなぁ」

「なんで……?」

 

 自分の言葉で昂輝が揺らいだことで効果を実感した日菜はますます口角をあげた。能面のように張り付けられた笑顔の下は、なんの表情もない、真っ黒に赤く裂けた歪な笑顔……見たものを恐怖させるような暗い悦楽の笑みに気づかないまま、昂輝は戸惑いに視線を揺らした。

 

「こーくんは、おねーちゃんがこーくんの()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、絆されちゃっただけじゃないの?」

「──っ!」

 

 咄嗟に否定できない。呼吸が浅くなる感覚がした。その表情に日菜は……日菜の仮面を被った「ナニカ」は、その黒いシミによって隙間の空いた昂輝の心に入り込んでくる。姉に振り向いてほしくて、興味をしめさなくなってしまった姉が憎くて……彼女が今もっとも執着しているものに、無遠慮に手垢をつけようと迫る。

 

「あはは、やっぱりこーくんって面白いや! ……ねぇ、こーくん? あたしも、こーくんの世界を信じてる、るんってくるあの音が見えてるなんて、すっごく面白いんだもん!」

「……まって、それって……」

 

 日菜の言いたいことは分かった。だからこそ、昂輝は背筋が寒くなり、震えることができた。否定できなかった彼への言葉を真実と仮定し、その上で、日菜は迂遠に言い切ったのだ。

 ──あたしじゃ、ダメ? と。

 

「こーくんに興味がある! これって好きってことなんだな、ってなんとなくわかったんだ!」

「……っ!」

 

 悪魔の、魅惑の紫色……情欲とドロドロに煮込んだシチューのような粘度くざらざらとしたような、感情……これが日菜の嘘のない愛、嘘のない性、そう思うと、どこかで惹かれてしまう部分があることを、昂輝は否定できなかった。

 紗夜は透き通っている。まっすぐで、明るい色で……紗夜という名前とは違って感情が太陽に照らされて光っているようだった。情欲も、独占欲でさえも……光っていた。日菜とは対照的だった。蛇に睨まれた蛙のように動けない昂輝の頬に、耳に唇に手を伸ばした彼女が微笑むその感情は、どこまでも煮詰まって、明度の低いドロドロとした……日の届かないくらいに息の詰まりそうな深海に眼を向けたような……人間の色をしていた。

 

「あはは……へぇ、拒絶、しないの……? おねーちゃんが、いるのに……?」

「そ、その声を出しておいて……その問いかけなんて……日菜は意地悪なんだね」

「あたし、好きな人には悪戯したいタイプだから♪」

「冗談でしょ?」

「冗談だと思うんだ? こーくんってケッコー嘘つきだね」

 

 その言葉に口を開けて否定しようとしたとき、ぬるりとしてざらざらとした舌ざわりの感触に口はふさがれた。それは日菜の感情ではなく、実際に感じた日菜の舌だった。力で振りほどけばケガをさせてしまうかもしれない、逃げようにも、首には彼女の細い腕が巻き付き、離れることはできない。店の死角で繰り広げられる男女の睦み合いは、橋がお互いの舌先に架りながら終わりを告げた。

 ──どうしてこんなこと、昂輝は訊く気には到底なれなかった。ただ、呆けていたというのも理由だが、それ以上に、触れれば火傷をしてしまいそうで、そして底なしの沼のような感情の波に、呑まれ……溺れてしまいたい。紗夜とどこまでも理性的な男女関係を結んでいた昂輝にとってそれは、遊園地でお化け屋敷に足を踏み入れたり、ジェットコースターに乗ったりするという気持ちと同じ……スリルを楽しみたいという平穏からは程遠い思考回路に火がついてしまった。

 

「……はぁ、はぁ……ね、このままあたしを……抱いてよ」

「メリットが、ない」

「えー、あたし、魅力ない?」

「そういうことじゃ……」

「なんだっけー、こーゆーの、諺にあるじゃん」

 

 据え膳食わぬは男の恥……男性として、抱かれたいと言い放つ美少女を拒絶するのは、不能であるのでは……そんな日菜の安い挑発に、昂輝は日菜を抱き寄せた。この時点で……否、日菜の言葉を否定できなかった時点で昂輝は既に詰んでいたのだった。

 ──ここで日菜を拒絶しては紗夜が選んだ自分の男性としての魅力を否定することになる。それは日菜の主張であった紗夜は彼のギターにすがっているだけという言葉への肯定となってしまう。日菜も昂輝も、それをわかっていて、言葉を向け合った。

 

「好きだよ、こーくん♪」

「……俺は、日菜が嫌いになりそうだ」

「だいすき♪ ねね、初めてはおねーちゃんとシたところがいいな、こーくんちのベッド?」

「日菜……」

「好き、好きだよ、こーくん? こーくんがあたしを求めてくれるまで何万回だって言ってあげる!」

「そんな時はこないって……」

「だいすきだよ、だいすき……あたしは、ギターだけじゃなくて、こーくんを見てるよ。愛してる、おねーちゃんに囁いたことと、おんなじこと、囁いて……おんなじところにキスマークつけて……おんなじこと、シて」

「……日菜っ」

「──んっ♪ ふ、んっ……ちゅ、はぁ、こーくん、こーくん……っ!」

 

 音を立てて崩れていく二人の……三人の平穏。それに気づかずは、己の音を嫌う紗夜のみだった。

 ──ポツリ、ポツリと雨が降る。やがて地や建物を叩く雨粒は、ベッドを揺らす二人の吐息を、覆い隠すように……酷く大きく、そして冷たい音を奏でていた。

 

 

 ──CHAPTER:6「悪魔(日菜)紫色(情欲)は雨音に隠れる」 END

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