ただいま高度約一キロの上空から落下中。
――なーんて、一瞬お気楽に考えた。
はっきり言うが現実逃避以外の何物でもない。
「ぅおおおおおおおぉぉぉぉぉ!!」
腕や脚で空気を蹴ってみても、当然ながら浮けるわけがない。あくまで悪足掻きだ。
『魔人』になっていてもあくまで人間だからな。翼があるわけでもないし、『飛翔』のスキルを持ち合わせているわけでもない。
「――とか考えてる場合じゃねぇ!」
〈今のご主人様なら落ちても無傷で生還できるですよー〉
頭のなかにお気楽な声が響く。
「空から人が降ってきたら下にいる人がどんな反応するかわかったものじゃないだろ!!」
「空から女の子がッ!!」なんてことはないだろうからな。
空飛べる悪魔を呼ぶことも一瞬考えたが、東京封鎖のときと今とでは状況が違う。
あの時は悪魔が当たり前のようにいたから、恐怖されることはあってもその存在が悪魔であることは公然の事実だった。
今は、そもそも悪魔なんてものが一般に認知されているわけではないだろう。そんなところで悪魔に乗って俺が現れるのは明らかにマズイ。
〈そんなことを考えてるうちにどんどん地面に近づいてますよー〉
どうも、死に直結しないと気づいてしまっているせいか、自分の思考回路がいくぶん暢気だった。我ながら呆れるほどの能天気さだ。
「てか、ニャルさんならなんとか出来るんじゃないの?」
〈ん~。……実はワタシー、ご主人様の魔力を抑えるためのリミッター的な役割をしてましてー。今ワタシが外出ちゃうと完全に魔力垂れ流しですよ。そっからこの街の天使やら悪魔やらに注目されちゃったりなんかしたりして? どうします? 出ましょうか?〉
「他のヤツ呼んでも魔力漏れるよなぁぁぁ!?」
だんだんと重力によってスピードが加速度的に上がっているのを感じる。
だって、地面がますます近づいてるから。
〈そうですねー魔力がちょっと漏れて「少し調査しましょうか」ってのと、かなりの魔力が発生して「今の魔力は何!? 全員警戒して!!」ってぐらい違いますかねー〉
「マリさんみたいに、俺が体貸すのは!?」
〈アッ、その手がありました!! でわでわ選手交代をお知らせします。ご主人様に変わりましてぇ、ニャルラトホテプ~、ニャルラトホテプ~。背番号~、無限〉
一瞬、意識が遠のく。
「でわ、ゲートオープンッ!!」
俺の口から出たとは思えないほどの軽い口調でニャルさんがそう言うと、足元にまた黒い穴が現れる。
「むっ、北西方向の公園にてイベントの気配を感知。うしうし、乱入が漢の華よの~。ワタシ女の子だけど。てか、邪神だけど」
穴のなかに体が入り込んだ瞬間、
「これ以上、ワタシが出てるといろいろメンドーなんで選手再交代です。ニャルラトホテプに変わりましてぇ~、ご主人様ぁ~、ご主人様ぁ~。背番号~、666」
再び俺の意識が遠く。
そして、完全に意識が入れ替わった瞬間――。
「クソがッ、あとで覚えてろよ」
荒い言葉になるのも仕方ない。
イベントに乱入とか言っていたが、そこに突撃するのは俺なんだから。
丸投げにもほどがある。
地面から四メートルのところで再び現れることとなった俺は大地の上に着地した。
下手したら怪我をするような高さだったが、まったくもって無傷だった。余裕と言ってもいい。
降り立った場所は、どうやら公園らしい。四方を木々で覆われていて、人の気配もない。
一瞬、よく行った芝公園を思い出したが、そこまで大規模な公園ではなかった。
そして、
「――ッ何者よ!?」
黒い翼を羽ばたかせた黒髪の目のパッチリとした少女と、
「な、な、んだ――?」
腹に穴を開けて倒れ込んでいる少年がいた。
それを視界に入れた瞬間、目の前が真っ赤に染まる。
あぁ――、よく知っている。
俺はこの光景を、よく知っている。
この世の理不尽をすべてかき集めてぶちまけたようなこの惨状を――。
耐えようのない怒り。ありえないほどに頭が熱い。
左手の親指をグッと噛んだ。今までよりも鋭い痛みが奔ったが、知ったこっちゃない。
俺は右腕にラインを乱暴に引く。
「来いッ――!! 【女神】ノルン!!」
ヘカーテやベルセルクを呼び出したときよりも強烈な閃光。
そして、現れたのは俺の身長と同じぐらいの時計だった。その周りには金色に輝く美しい片翼の天使が三人装飾されていた。
「御用でしょうか――?」
装飾だと思っていた天使の一人、時計の上に腰掛けていた女性が言葉を発した。凛とした鈴の音のような声だ。
「彼の治療を頼む。俺は――」
――アレを殺す。
自分でも驚くぐらいの低い声が出た。
今までにないぐらい魔力が体内を荒れ狂っている。
「主よ。怒りで、我を忘れぬように――」
ノルンが忠告してきたが、今の俺には意味がない。それぐらいに頭は怒りに燃えていた。
「下等な人間如きが私を殺すですって。フフッ、身の程知らずもいいところだわ」
ようやく口を開いた堕天使のほうに向き直った。
「なぜ、その男を殺そうとした」
「今から死ぬあなたに答えて必要があって? でもいいわ。冥土の土産に答えてあげる。その男には〈神器(セイクリッド・ギア)〉が眠っている。どうせ死ぬんだから最期にイイ思いさせてあげようと思って彼女になってあげたわ。感謝してほしいわね。私が彼女になってあ――」
愉快そうに高笑いを上げている堕天使の言葉を遮る。
もう、限界だった。
「黙れ――」
「貴様、人間如きが――」
「ドブくせぇ口を閉じろっつってんだよ!!」
一気に走り出す。
俺と堕天使の距離は遠い。
遠距離から攻撃することもできたが、コイツみたいなクズは直接一発殴らないと気がすまない。
「アハハハハッ、薄汚い人間が何を言っているのかしら。そのクソガキは、私がアザゼルさまから寵愛を受けるための糧になるのよ。最期に教えてあげる。私は堕天使レイナーレ。――それじゃあ、消えなさい!!」
まったく負けるという予測が出来ないからか、余裕そうな表情をしている。
彼女の右手にゆっくりと魔力が集まっていくのを感じるが、その収束はあまりにもお粗末なものだった。
こんなもんなのか?
呆気に取られる。沸騰していた血が、急激に醒めていく。
もしかしたら、隠し玉でもあるのかもしれない。
冷静になる頭のなかでいろいろな考えが過ぎっては消えていく。
伏兵?
俺たち以外の魔力反応はない。
余裕を見せて、コチラの油断を誘っているのか?
全速力だったスピードを少しだけ下げて、様子をしてみるが、相手は先ほどと同じペースで魔力を集め、
「喰らいなさい――ッ!」
身の丈ほどある光の槍を作り出し、こちらに向かって投擲してきた。
バチバチと音を立てて迫りくる槍。
しかし、それを見ている俺はあまりにも落ち着いていた。
遅すぎる。
俺を貫こうとやってくる光槍の穂先を無造作に掴み取った。
「なんですって!?」
そんなに驚くべきことだろうか? あー、なるほど。この世界での強さのレベルはあの世界よりも一段低いところにあるらしい。
これぐらい出来ないと生き残れなかったからな、なんて端的な思いが頭に浮かんだ。
とはいえ、とりあえずコイツはほんとうに弱いことがよく解った。
さっきまでの警戒心を返してほしい。ほんとうなら今頃地に伏したコイツを見下ろしていたはずなんだから。
しかし、今から反撃を開始しようとした矢先のこと、ノルンの切羽詰った叫びが響きわたった。
「主、転移用魔法陣の発生を確認しました。間もなく、何者かがコチラに来るかと思われます」
体は堕天使に向けたまま、返事をする。
「魔法陣!? ――原因は?」
「解りません。ですが――時間はあまりないかと」
思考がぐるぐると回転する。俺があの八日間で学んだこと。
それは常に思考を止めないこと。
そして、決断は早くする。
時間はどこまでも残酷なのだから。
「なにが出てくるか解らんから、一度身を隠す。ノルン、少年の治療は?」
倒れたままの少年を連れて行くのは難しい。気絶した男を抱えて街中を歩くのは危険な行為だ。
それに俺自身、自分の身の振り方すら決まっていない状況なんだから。
「治療はすんでいます。ただ、血が足りていません。目を覚ますにはもう少し時間がかかるかと」
チラリと横目で少年を確認する。
意識のない少年の表情は先程よりも穏やかだった。たしかにまだ血の気は薄いが、目を覚ますのも時間の問題だろう。
無責任に思われるかもしれないが、切り捨てなければいけない時もあるのだ。
命は救ったのだから、それで勘弁してほしい。
「ちぃッ、次会った時はかならず殺してあげる」
俺たちの会話を聞いていたレイナーレが黒い翼を広げて飛び立った。
「逃がすと思ってんのかよ」
未だに俺の手のなかで音を弾けさせている光の槍を振りかぶって、思い切り投げた。
唸りを上げて空気の壁を突き破る槍は、後ろを向いて飛んでいくレイナーレとの距離を一瞬で縮め――。
力強く羽ばたいていた翼の一つを貫いた。
かすかに聞こえてくる呻き声とともに、レイナーレのバランスが崩れる。
そこに向けて、俺は右腕をかざす。
魔力を感じて、タトゥが妖しく輝いた。
「『裁きの雷火』――」
彼女に狙いを定め、呪文を紡ぐ。
すると、最初からそこにあったかのようにぶ厚い雲があたりを漂い始め、彼女の頭上に真っ白な魔法陣が展開される。
そのことに気付いて慌てふためくレイナーレ。出来るだけ距離をとろうと進路を変えようとしているが、あまりにも鈍重な動きだった。
巨大な魔方陣の範囲からは到底逃れられるわけはなく、魔法陣から発生した雷のような魔力の一閃が一筋駆け下りた。
ジグザクな軌道を通りながら、見事レイナーレの体へと直撃し、その身を焦がす。蒸発音に近いような低い轟音が響いた。
それを尻目に、俺は少年のほうに近づく。
そっとその顔を覗き込む。その顔立ちからは溌剌とした印象を受けた。今まであまり見たことのないタイプだった。もしかしたら、悪魔や天使なんかとはまったく関係のない人生を送ってきたのかもしれない。
アツロウもこんな感じの顔立ちだった気もするが、あいつはネットや機械のプログラミングの印象が強すぎた。
彼も見かけによらない何かを持っているのかもしれないな。――〈神器(セイクリッド・ギア)〉という言葉も気になるし。
「悪いな。ココに放っておくのは忍びないが、我慢してくれ。……縁があったら、また会おう」
少年にそう告げて、公園の出口に向かって走り出した。
後ろのほうで、魔法陣からあふれ出す魔力の流れを感じた。
ようやくの登場らしい。
レイナーレも逃走したことから判断すると、おそらく彼女にとっての敵が現れるのだろう。
それだったら問答無用に殺されるということはないはずだ。
彼が生きていれば、そのうち必ず会えるだろう。
なぜならすでに彼とは“縁”が出来ているのだから……。
【スキル解説】
・裁きの雷火
敵全体に相手の現HPの半分の魔力属性ダメージを与える。
現HPの半分のダメージを与えるので、実はあまり使い勝手がよくないスキルの一つ。耐性の関係もあるので、実際に半分のダメージを与えるのは難しかったりする。
【仲間解説】
・【女神】ノルン
北欧神話に登場する運命の女神。非常に多数存在しているようだが、主に語られるのは、長女ウルズ、次女ヴェルザンディ、三女スクルドの三姉妹である。
世界樹ユグドラシルの根元にあるウルザルブルン(「ウルズの泉」)のほとりに住み、ユグドラシルに泉の水をかけて育てるらしい。ウルズとヴェルザンディは木片にルーン文字を彫っている。スクルドはワルキューレの一人として語られている。
ちなみに【3】という数字は神的な完全を指す数字である。神話では三兄弟や三つの試練といった形で【3】という数字が多く見つけることが出来る。
余談だが、白雪姫の中でも女王が白雪姫を殺すために『腰紐』『毒のついた櫛(くし)』『毒リンゴ』の3つのアイテムを利用している。