ザ・ヴァンパイアハンター~黒鷹のマリアッチ~   作:PlusⅨ

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2・戦場のギター弾き

 今から一年前の冬の日。あれが運命の日だった。

 

 大陸の北方、それもさらに奥地の山岳地帯とくれば冬の厳しさも相当なもので、暦は 秋から冬へと変わったばかりとだというのに、吹きぬける木枯らしは身を切る冷たさで、拡がる山々の景色はすでに白銀に染め抜かれていた。

 

 まだ紅葉の残る西海岸から馬を飛ばし、陸路を行くことおよそ三週間。

 

 初めは広く整備されていた街道も、北の奥地に入るにしたがって荒れ始め、道幅も狭くなっていた。

 

 山々の峠に入った後、道は既に道路とは呼べない状態で、人も通らず、薄雪も積もりだし、もはや俺たちが乗っている馬だけが知っているような獣道と化していた。

 

 手綱を握る俺たち三人、三頭の馬が、狭い道を一列になって山々を行く。

 

 すでに山岳地帯に入ってから一週間が経過していた。しかしその間、馬を休ませるための最低限の休憩しかとっていなかった。少ない睡眠時間と、少ない食事。そして身を切る寒さが、容赦なく体力を奪う。随分と過酷な強行軍だった。

 

「マリアッチ」

 

 背後からグレイヴの声が聞こえ、俺はハッと意識を取り戻した。いつのまにか馬上でまどろんでいたようだ。

 

「すまん、グレイヴ」

 

 振り返った先で、馬上のグレイヴが気にするなとでも言うように頷いた。その背に負われたライフル・ウィンチェスター銃が揺れている。

 

「マリアッチ?」

 

 今度は女の声。俺が再び前を向くと、前方を行く馬の上から、彼女が俺の方を振り返っていた。

 

「夜更かしするからよ」

 

 イザベラ=シュミット。

 

 振り返った彼女の姿に、俺は目を細める。傾いた太陽が低い空から黄色い陽光を放ち、それが彼女のブロンドの髪と横顔を照らし上げていた。彼女のきらめくブルーアイが俺を見つめている。

 

 もっとも、かけてくれた言葉は随分と辛らつだったが。

 

「ちゃんと休めるときに休まないからだわ」

 

「お前が寝かしてくれなかったからだぜ。この温もりから離れたくないわ、なんて言って」

 

 俺の言葉に彼女の顔に赤みが差した。と、見えたのは夕日のせいかな。

 

「莫迦莫迦しい。焚火の番なんて私に任せて寝ていればよかったものを、いつまでも起きていたあなたが悪い」

 

 なんでもなくそう言って、彼女はまた前を向いてしまった。

 

 ま、実際になんでもないことだったのだけどね。俺としちゃ不服だが。

 

 昨晩はどうせなら、もうちょっと強引に迫ればよかったかな。でも二人きりならともかく、グレイヴも居るからな。なんてあくび交じりに考えていると、前方でイザベラが「あれを」と言って彼方を指差した。

 

 俺とグレイヴがその指先を追った先、この狭い道の続く先、連なりあう山々の峻厳な頂きの一つに聳え立つ古い城が見えた。

 

 俺たち三人はしばらく無言でその城を見つめ続けていた。

 

 堅牢な古い石壁に、天を突く三つの尖塔。それは訪れようとしている逢魔が時の夕空を背景に、山岳地帯の四方の谷々から湧き上がる霧を纏わり付かせ、なにやら物の怪めいた奇々怪々な様相を呈していた。

 

 この城こそ、俺たち三人が目指していた場所。

 

「魔界城……」

 

 我知らず言葉が漏れた。それは、この世の怪奇が集う、魔界の城。魔界城は一際高い山の頂上の、辺りに広がる山脈地帯を見晴らす突端に立っていた。

 

 屏風を立てたような千尋の絶壁、その天辺に立っている壮大な城の姿がここからよく見える。四方に連なる峨々たる峻峰と城との間は大きな谷になっているようだ。そのあたりには何となく凄愴な気が漂っているようであり、木枯らしとは違う冷たさが、俺たちの背筋を駆け抜けていった。

 

 ふと、視線を下ろすと、その城へと続くウネウネと曲がりくねった道の、その途中を進む集団の姿が目に入った。

 

 ここからまだ遠く、その姿はまだ小さく見えるが、およそ十人かそこらか、そのうちの五人が五頭の馬に跨り、残りの五人が乗った四頭立ての馬車を中心として一団をなしながら、城へと急ぎ上っていた。

 

 しかしその馬車の豪華なこと。

 

 目もくらむような豪奢な装飾品に身を包み、辺りに積もる薄雪よりも鮮やかな白馬に牽かれている。それなのにその一団からは、あの魔界城と同じく凄愴の気が漂っていた。

 

 斜めに差し込む夕日が、馬車に付けられた巨大なエンブレムを輝かせ、その蝙蝠をかたどったシンボルが黄金色の輝きを持って俺たちの眼を撃った。

 

 その時、イザベラが初めて我に帰ったように叫んだ。

 

「吸血王!」

 

 その声に、その言葉に、俺とグレイヴもはっと我に返った。

 

 しかし、もうその時既に、イザベラは自らの馬を駆って一団を追い始めていた。

 

 俺とグレイヴも慌てて馬を駆って彼女を追う。

 

 俺の視界に、彼女が背負う長剣がやはり夕日に輝くのが見えた。その鞘に刻まれた装飾には、あの馬車と同じ蝙蝠のシンボルが煌いていた。

 

「ま、待て。イザベラ」

 

 疾走する彼女の様子は一変していた。俺の言葉など耳にも入らないようで、ただひたすらにあの一団を目指している。

 

 再び、彼女が叫んだ。

 

「王よ。ついに見つけた。ついに追いついた。もう逃しはしない!」

 

 その叫び声を聴いたとき、俺はまるで雷撃を受けたような衝撃を受けた。

 

 そうだ、おっとり刀でイザベラの背中を追いかけている場合じゃない。あの馬車に居るのは王なのだ。俺たちは王を追いかけてここまでやってきたのだ。

 

 王。

 

 血を吸う怪物。

 

 生きている死者。

 

 遥かなる時を経た者。

 

 夜闇を統べる男。

 

 吸血鬼の王。

 

 俺たちが長き時をかけて、そう俺の人生よりも長い間にわたって、戦い続けてきた因縁の相手。その相手に、俺たちはついに、ようやく、追いついた。

 

 俺の脇を、グレイヴが追い抜いていく。彼は既に背のウィンチェスター銃を引き抜いていた。

 

「マリアッチ、遅れるな」

 

「応ッ!」

 

 答えて俺は馬の腹を蹴った。馬は一声高く嘶いて、更に速度を上げた。前を行くイザベラが、背から長剣を抜き放っていた。

 

 山々に馬蹄の音が木霊する。

 

 前を行く一団の数人が驚いたように振り返り、俺たちの姿を視認した。ついに向こうも俺たち追撃者の存在に気がついたようだ。

 

 五頭の馬のうち二頭が踵を返して、俺たちの方角へと走り出した。馬上の人影が、ライフルを構えているのが見て取れた。馬車は更に急ぎ足に、馬を駆りたて城へと急ぐ。

 

 相手のライフルが轟音と共に火を吹いた。

 

 一瞬あとに、俺の耳元を弾丸が掠め飛んでいく。反射的に、俺は片手を手綱から手放し、腰のホルスターから拳銃を引き抜いていた。

 

「イザベラ、下がれっ」

 

 先頭を行くイザベラはまったく躊躇せずに馬を走らせていた。

 

 正面から駆け向かってくる相手がまた銃を撃つ。だが、まだお互いに距離はある。馬上に揺らされながら発射された弾丸は、誰にも当たらずに彼方へ飛び去った。

 

 相対する五頭の馬。互いの馬が速度を上げ、その距離が見る見るうちに近付いていく。

 

 隣でグレイヴがウィンチェスターを構えた。俺も拳銃を構える。45口径・銃身長10,5吋(インチ)のリヴォルヴァー。“黒鷹”の銃口が奴らに向く。

 

 ついに射程内。奴らのライフルが、俺たちの先頭を行くイザベラにはっきりと向けられた。

 

 彼女は片手に長剣を引っさげたまま、上体を馬上に押し付けるようにして身体を下げる。

 

 その瞬間、俺の黒鷹とグレイヴのウィンチェスター銃が同時に火を吹いた。

 

 放たれた二発の弾丸は、正確にそれぞれの敵に命中した。二頭の馬の上、その二人組が呻き声を上げて上体を仰け反らす。

 

 その二頭の馬の間をすり抜けるように、イザベラが駆け抜けていった。その際、手にしていた長剣が一閃し、まるで手品のように二つの首が天高く舞い上がった。

 

「Amen。さすが」

 

「見事」

 

 俺たちの賛辞も、彼女は無視して馬車を追撃する。

 

 判っている。彼女は焦っているのだ。

 

 太陽は刻一刻と山の端へ沈み込もうとしていた。もうじき夜が来ようとしているのだ。

 

 まだ太陽が出ているうちなら吸血鬼は無力だ。

 

 いま、あの馬車に納められている“王”は、棺の中で文字通り「死んだ」ように眠っていることだろう。だが、日が落ちればそれは奴らの時間だ。王は再び力を取り戻し、自由の身となって、いくら追いかけても捕まらない様々な形に変化できる存在と化す。

 

 まだ日没まで多少の時間はあるだろう。しかし、馬車は今にも魔界城へ駆け込む勢いで走っていた。あの城は王の領土だ。永遠の夜の闇に閉ざされた吸血鬼の世界だ。

 

 これはまさに昼と夜の競争だった。

 

 馬車は死に物狂いで城へと走る。

 

 それを追う俺たちも死に物狂いだ。

 

 両者の距離はジリジリと近付き、ついに馬車を護衛する者たち一人ひとりの顔つきがハッキリと視認できるまでになっていた。

 

 護衛している奴らは吸血鬼ではない。だが、温かい血のかよった生者とも違う。いつか吸血鬼の一族に名を連ねることを望み、そのために魂を売り渡した者たち。

 

 レンフィールド。血隷者たち。吸血鬼からその冷たい血を与えられたことにより人間以上の力を持ちながらも、太陽の光も平気な彼らは、吸血鬼たちの昼の時間の手足といっても良かった。

 

 馬車の手綱を握るレンフィールドの一人が、俺たちを振り返り、大声で叫びだした。

 

「イザベラ=シュミット。この裏切り者。主の下から逃げるに飽きたらず、よりにもよってハンターに成り下がったか!」

 

 イザベラが叫び返した。

 

「吸血鬼に成り果てようとする者たちの言うことか!」

 

 レンフィールドたちが手に手に、拳銃、ライフル銃を構えだした。馬に乗った三人が馬頭を巡らし、銃声を響かせながら俺たちに向かってくる。

 

 弾丸は次々とイザベラを、俺とグレイヴの傍を跳び退っていく。だが、馬上から片手でもって撃たれた弾丸はただ無闇に銃声と硝煙を辺りに撒き散らすだけだった。

 

「銃ってのはなあ、こう撃つんだよ」

 

 俺の黒鷹と、グレイヴのウィンチェスターが、三人のうち二人を馬上から撃ち落した。

 

 イザベラが残る一人に迫る。

 

 相手は慌てて、目の前の彼女に対して拳銃の引き金を引いたが、その瞬間、イザベラは馬を高く跳躍させて弾丸をかわしていた。その長剣が鮮やかに弧を描き、相手は血しぶきを上げてドウッと地に落ちた。

 

 イザベラは勢い衰えず、馬車へと接近する。

 

 城が間近へと迫っていた。

 

 俺たちの視界の中で、その巨大な姿が、まるで圧し掛かるように更に大きくなっていく。道幅が急に広くなり、足元は舗装された石畳へと取って代わった。

 

 馬車上に残る五人のレンフィールドのうち、御者以外の四人が協力して、馬車の中から何かを引っ張り出してきた。連中はそれを馬車の屋根に据え付ける。

 

「ガトリングっ!?」

 

 俺はそれを見て思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

 回転式機関砲。

 

 四人がかりで据え付けるだけあってまさに大砲同然の大きさだ。屋根上で踏ん張る三脚の上、八本の銃身が束ねられたその根元に着いた手回し式ハンドルを、連中の一人がグルグルと回し始めた。

 

 その銃口が向いた先に居たのは、イザベラだった。

 

 身の毛もよだつような連射音を立てて、弾丸が雨のように吐き出され、彼女の目前が血煙に包まれた。

 

 銃声に驚いた彼女の馬が棒立ちとなって、その振り上げた前足が粉々に砕かれたのだと気付いたのは、その一瞬後のことだった。前足を折るようにして馬が崩れ落ち、イザベラの身体が宙に投げ出された。

 

「イザベラっ!」

 

 俺は追いついた。

 

 ギリギリだった。投げ出された彼女の身体を身を乗り出して抱きかかえ、俺の馬の上へと引き上げる。

 

 しかしその時、俺もまた馬車のすぐ近くにいた。

 

「マリアッチ、横にッ!」

 

 イザベラの声に、俺は横を見た。

 

 まさに目の前だった。

 

 ガトリングの八つの銃口が音を立てて俺の方へ向けられていた。ハンドルを握るレンフィールドと目が合う。奴はにやりと笑ってハンドルを回し始めた。

 

 俺は咄嗟に背負っていたギターケースを引っつかみ、それを銃口に向かって掲げた。

 

 そのギターケースの向こう、ほんの1m足らずの距離でガトリングが野獣のような咆哮を上げ始めた。撃ち出された数十発もの弾丸がギターケースを穿っていく。

 

 しかし、その一発たりとも、俺のギターケースを撃ちぬくことは出来なかった。銃声が鳴り止み、俺が掲げていた防弾板仕込みのギターケースを下ろした向こう、ガトリングのハンドルを握ったレンフィールドが呆然とこちらを見ていた。だが、俺が黒鷹を構えたのを見て、奴は慌ててハンドルを回し始めた。

 

 八本の銃身の束はカラカラと回り続けるだけで弾は出なかった。弾切れなのだ。馬車の屋根上で、他のレンフィールドが慌ててガトリングの弾倉を交換しようとするより速く、俺の黒鷹が火を吹き、息をもつかせぬ二連射で、砲手と給弾手を撃ち落した。

 

 御者を除く他の二人が慌ててガトリングに駆け寄ろうとしたが、今度はグレイヴのウィンチェスターが連中を撃ち落す。

 

 俺の馬から、イザベラが軽い身のこなしで馬車へと飛び乗った。

 

 屋根上へ着地すると同時に長剣が唸りを上げ、あの忌々しいガトリングの銃身を叩き斬る。破壊したガトリングには目もくれず、彼女は屋根上を御者席へと走り寄った。

 

 御者は手綱を握り締めたまま、イザベラに向かって振り返り、まるでこの世の憎悪全てを集めたような激しい形相で睨み付けた。火でも吹きつけんかとばかりに御者が口を開いて、何事か叫んだ瞬間、イザベラの長剣が御者の首を薙ぎ払っていた。

 

 御者の首は宙を跳びながら尚も呪いの言葉を吐き出して、そのまま何処かへと転がっていった。

 

「イザベラっ、早く馬車を止めるんだ!」

 

「言われずともッ」

 

 しかし、イザベラが御者席に飛び降りたとき、その首を失った御者の身体が最後の抵抗を行った。

 

 恐らく死体特有の筋肉の硬直だったのだろうか、首無しの御者は力いっぱいに手綱を引き寄せ、その勢いのあまりの強さに四頭の白馬たちはパニックに陥って、更に我武者羅に走り始めてしまった。

 

「そんな!?」

 

 激しく揺れる馬車の上、イザベラは振り落とされまいと必死にしがみつきながら、長剣を手綱めがけて振り下ろした。

 

 手綱は容易く斬りおとされ、死してなお主に忠誠を誓ったレンフィールドの身体は支えを失い、馬車から振り落とされていった。

 

 イザベラは続いて、激しく暴れる馬たちに向かって長剣を次々と振り回した。まさに電光石火とはこのことで、四頭の馬と馬車を繋いでいた綱と棒は瞬く間に斬り払われ、自由になった馬たちは各々、好き勝手な場所へと駆け去っていった。

 

 あとには、惰性でなお疾走を続ける馬車のみ。

 

「マリアッチ、グレイヴ!」

 

 馬車の上からイザベラが叫んだ。

 

「車輪を破壊して!」

 

「承知ッ」

 

「任せろッ」

 

 俺とグレイヴは馬車の両脇を並走し、それぞれ後輪に銃口を向けた。黒鷹とウィンチェスターが同時に火を吹き、二発の弾丸は正確に車輪の軸を破壊して見せた。同時にイザベラが馬車上から、再び俺の馬へとめがけ、宙へと身を躍らせた。

 

 俺がイザベラを抱きとめたと同時に、後輪を失った馬車は後部を石畳の路面にこすりつけながら、車体全身を軋ませ、まるで悲鳴のような激しい音を立て、ついに止まった。

 

 これで間に合った。日没前に吸血鬼を捕まえることができたのだ。

 

 しかし、そう思ったのも束の間だった。

 

 そこはもう、魔界城のすぐそばでもあった。

 

 その城門は、己の主の帰りを待つべく分厚い扉を開け放ち、黒々とした城内の闇を俺たちに向け晒しだしていた。

 

 夕焼けの黄金の輝きが魔界城の斜め後ろから差し込み、その逆光によって魔界城は闇そのもののシルエットと化し、その巨大な影が馬車のすぐ向こうにまで迫っていた。

 

「拙いぞ。城の影が伸びてくる!?」

 

 沈もうとする夕日が、魔界城の背後に隠れようとしていた。

 

 魔界城の影は更に濃く、大きくなり、馬車に向かってゆっくりと伸び始めていた。

 

 まるで城が自ら馬車を迎えに来たようだ。

 

 それとも夜が、王の帰還を待ちきれなくなり、この昼の時間にその手を伸ばして来たのだろうか。

 

 グレイヴが、いつも冷静沈着で知られるグレイヴが、この男にしては珍しく、焦りを隠そうとせずに大声で叫んだ。

 

「影に飲み込まれる前に、馬車から棺を出さなくては。太陽の光が残っているうちに、棺から吸血王を引きずり出さなくてはっ!」

 

 俺たち三人は馬から飛び降りるや否や、一目散に馬車へと駆け寄り、その扉に手を掛けた。

 

 だが、その扉には鍵がかかっているようで押せど引けどもビクともしない。グレイヴがウィンチェスターに残るありったけの弾丸をその扉にぶち込んで、それでようやく鍵が破壊され、扉は開かれた。

 

 そこに、漆黒の闇よりなお深い暗闇の黒で塗り固められた、巨大な棺が納められていた。

 

 俺たちはもう互いに言葉を交わすのももどかしく、三人一斉に棺の端に手をかけ、馬車から引きずり出そうと試みたが、巨大な棺はピクリとも動こうとしなかった。全体重をかけ、何度も試みるも無駄だった。

 

 城の影はもはや、馬車のほんの一歩手前まで迫っていた。

 

「間に合わないわ」

 

 イザベラは言うなり、長剣を構えた。

 

「馬車ごと破壊する」

 

 イザベラが馬車の屋根に駆け上り、その天蓋に刃を勢いよく振り下ろした。

 

 屋根に亀裂が入り、そこから僅かながらに明りが差し込み、棺に降り注いだ。何度も、何度も彼女はその作業を繰り返す。

 

 俺とグレイヴも、彼女がつけた亀裂を更に押し広げるべく、持っている銃のその銃杷を馬車に向かって叩き付けた。

 

 刻一刻と、ジリジリと、影が馬車に、棺に迫る。

 

 俺たちは一心不乱に屋根を破壊し続け、ようやく棺の半分に光が降り注ぐだけの穴を開けることに成功した。

 

 その時、城の影に沈もうとする夕日が、一際強く輝いた。

 

 あの日没の直前に起きる特有の現象。夜の支配下に置かれようとする寸前に放った、昼の最後の抵抗だった。

 

 これが最後のチャンスだった。イザベラの長剣が棺の蓋の隙間に滑り込み、梃子の原理を利用して、一気に引き上げた。蓋を固定していた釘が数本、音を立てて弾けとび、蓋はわずかに持ち上がった。

 

 俺とグレイヴはすぐさまその隙間に手をかけ、力の限りに蓋を持ち上げた。残りの釘が甲高い音を立てて抜け、蓋がついにバックリと開き、棺の中身を夕日の輝きの下に曝け出した。

 

 その瞬間、俺たちは息を呑んだ。

 

 棺の中に横たわる一人の男の姿があった。

 

 その長身を黒いマントで包み込み、その整った容貌は、一目見ただけで呼吸を忘れそうになるほどに秀麗で、差し込む黄金の夕日に照らし出された吸血鬼の姿は、まるでこの世のものとは思えない美しさだった。

 

 そこには、胸を打つ一種の荘厳さが伴われていた。

 

 そこに生と死の、昼と夜の、ある種の共存があった。

 

 “生ける死者”などと言う矛盾した存在の頂点に立つものが、昼から夜へと移行しようとするこの一瞬に、死から生へと目覚めようとする、まさにその瞬間に、俺たちは不覚にも心奪われたのだ。

 

 思わず我を忘れた。

 

 まるでこの一瞬、時が止まり、全てが幻に包まれたようだった。

 

 刻は黄昏。

 

 そう、忘れたのだ。この瞬間が逢魔が時と呼ばれていることを忘れたのだ。

 

 吸血鬼とは、その頂点に立つこの吸血鬼の王とは、何と言う恐ろしい存在なのだろう。

 

 これまで、幾多の戦いの中で吸血鬼の力を思い知ってきた。

 

 その常人離れした膂力を、どんな傷もたちどころに癒えてしまうその回復力を、蝙蝠や狼や霧にすら姿を変えるその超能力を、人間や動物を使い魔として自在に操るその支配力を、俺たちは思い知ってきたはずだった。

 

 だが、真に恐ろしいのは、その恐ろしさすら忘れさせてしまう、その存在の圧倒的な美しさなのだ。

 

 俺たちはその美しさの前に、千載一遇のチャンスを逃したのだった。

 

 太陽が出ている間ならば、この吸血鬼に銀の弾丸を撃ち込み、その首を切り落とし、そしてその心臓に杭を打ち込むなどという行為はまったく容易いものであっただろうに。

 

 俺たちは、指一本すら動かせぬ、ただ横たわるだけの無力な吸血鬼を前にして、ただその存在に圧倒されて身動き一つ出来なかったのだ。

 

 太陽はついに魔界城の影に完全にその姿を隠し、そして夜の闇が俺たちを包み込んでしまった。

 

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