ザ・ヴァンパイアハンター~黒鷹のマリアッチ~ 作:PlusⅨ
荒野に鳴り響いた銃声はどこか遠雷にも似ていたが、その後すぐに三発の銃声が聞こえ、続いて複数の馬の嘶きと、ガラガラと馬車が走り去るような音も聞こえてきた。俺はそちらに目を向けた。
視界の遠く、雪に隠されてはっきりと見えないが、馬車か荷車のようなものが走っているのが見えた。
それを追うように四頭の馬も走っている。
やがてそれらは、雪の向こうに消えていった。
俺はそちらに向けて歩き出す。
すぐに雪の平原に、荒々しい馬蹄の跡と、真新しい轍が現れた。その後を追うように俺は進む。
何故かって?
それはこの進む先に、あるものを見つけたからだった。
一人の男が雪の平原を朱に染めて仰向けに倒れていた。両手で散弾銃を構えたまま、その表情は苦痛と驚愕に冷たく固まっていて、胸に数発の弾痕が生々しく残っている。
なるほど、さっきの銃声の正体はこれか。傍に残る轍と馬蹄の跡からみて、恐らくこの男は馬車に乗っていたのだろう。となれば、撃ったのは馬に乗っていた連中か。
などと考えていると、轍の伸びる先で再び銃声が上がった。
続いて馬の嘶きと車輪が軋む音がし、雪の白幕の向こうから一台の馬車が勢い良くこちらめがけて近付いてきた。
馬車は一頭立ての荷馬車で、剥き出しの荷台には一抱えぐらいの大きさの木箱やパンパンに膨らんだ麻袋が積み上げられていたが、その荷馬車の手綱を握っていたのはたった一人の老婆だった。
その老婆は左手で手綱を握りながら、もう片手に切り詰めた散弾銃を持っていて、後方を気にしながら必死の形相で馬を駆る。
荷馬車が倒れたままの死体の傍まで近づいて止まった。
老婆はそこで初めて俺の存在に気がついたようで、ギョッとして白髪を振り乱しながら叫んだ。
「な、何やお前はっ。連中の仲間かっ!?」
そう言って俺に散弾銃の銃口を向けてきた。
フム、なるほど。どうやらあの馬の連中に追われているというわけか。
「なあに、俺は怪しいもんじゃない」
俺はギターケースを足元に置き、背中のギターを示して見せた。
「ただの、マリアッチ」
「ギタ-弾きじゃと?」
老婆は訝しげに眉をひそめたが、その時、遠くからあの馬蹄の音が近付いてきたのを聞いて、カッと目をむいて、背後を振り返ってその音のする方向へ向けて散弾銃をぶっ放した。
雪の向こう、馬が怯えてたたらを踏む気配がする。
だが、すぐに体勢を立て直し、またこちらへ向かってくる。
「ええい、しつこい連中じゃわい」
老婆は再び散弾銃を撃とうとしたが、今度は弾が出なかった。
弾切れか、不発か。
老婆はすぐに散弾銃を投げ捨てると、まるで転げ落ちるように荷馬車から飛び降りて、例の死体へと駆け寄った。
その死体の持っていた散弾銃をひったくると、すぐに馬がやってくる方向めがけて撃とうとした。
が、やはり弾は出なかった。
老婆は驚いたように手元の散弾銃を見つめ、もう一度引き金を引いてみて、それでもやはり弾が出ないことを知ると、それを放り出してあたりをキョロキョロと見渡し始めた。
そこで、もう一度俺の方を向いて、老婆は再びギョッとしたように目を見開いた。
正確に言うと、老婆は俺と目が合ったわけじゃなく、俺の腰のホルスターに目を止めたのだ。
「何じゃそのゴツイ銃は!?」
「ただの、護身用さ」
「よこせ!」
俺は一瞬、自分の耳を疑った。
なんだって、よこせだと? 今度は俺が目を剥く番だった。
「莫迦いうな」
「ならば買い取る。二百出す。早くよこせっ。ええい、三百じゃ、これでいいじゃろう!」
なんて無茶苦茶な婆さんだ。
俺の腰のホルスターに取りすがってこようとする婆さんを、俺は押し留めようとして――ほんの一瞬早く感じ取った殺気に、俺は婆さんの肩を掴んだままその場に伏せた。
銃声と同時に、伏せた俺の頭上をライフル弾が風を裂いて飛び去っていった。
すぐに、雪景色の向こうから四頭の馬と、それに跨る四人の男たちが手に手に銃を持って現れた。
ライフルが二人、散弾銃が一人、拳銃が一人。意識するまでも無く目がそれを確認し、自分でも気がつかぬうちに手袋を外して、俺は立ち上がった。
「かっ。乱暴な若造じゃ」
俺に引き倒された婆さんも、俺をジロリと睨み付けながら立ち上がる。
命拾いしたのは誰のおかげだ、と言いたい所だが黙っておくとしようか。
婆さんは服についた雪を払いながら――またみすぼらしい服だな、おい――やってきた男たちに目を移し、フンとふてぶてしく鼻を鳴らした。
男たちの訝しげな視線が俺に集まり、すぐに四人の間にも視線が飛び交う。
無言の会話は一瞬で終わり、拳銃の男が俺に銃口を向けて、引き金を引いた。
男が発砲する直前に、俺は右脚を僅かに後ろへ引いた。
相手の銃口の角度から予想した通り、一瞬前まで俺が右脚を置いていた場所が銃弾に抉られ、雪交じりの土が舞い上がった。
問答無用でえげつない真似しやがる。とりあえず、そのまま後ろへ倒れるように座り込んだ。
そんな俺の姿を見て、男たちの視線は訝しげなものから、愉快げな表情に取って代わった。連中の遊び相手と認識されたらしい。
「婆さん、もう次の用心棒を雇ったのか。手際の良い事だ」
拳銃が乱射され、目の前で土が次々に舞う。
「まてまて、俺は用心棒なんかじゃない。俺はただのマリアッチだ」
俺は、ギターケースを引き寄せて見せた。
「マリアッチ? ギター弾きか。こりゃあ良い。おい、早速一曲頼もうか」
「選曲は?」
「挽歌だ。婆さんとお前の分」
「ご冗談」
俺はギターケースを前に立て、身を隠す。
拳銃の最後の一発が、ギターケースに当たって跳ね返った。気がつきゃ、婆さんも俺の背後に隠れている。
「四百じゃ。まだ売らんか」
まだ言うのか。
「あんたに扱える代物じゃない」
「フン、ケチめ」
他人を勝手に盾にしておいて良くぞ言えたものだ。
「おいマリアッチ、腰に必要ないものがぶら下がっているぜ。そいつをよこせ」
男の一人が散弾銃で示しながら、俺に命じてくる。
「こりゃ、よこすならワシによこせ」
「だから、そいつは無理だって。……いやいや、あんたらに言ったわけじゃない。なぁ、大人しく渡したら見逃してくれんのかい?」
「そうだな、寿命は延びるだろう」
ライフルが、散弾銃が、今度ははっきりと俺に向けられた。
「今すぐじゃなく、婆さんの後に殺してやる」
ありがたい申し出に涙が出そうだ。
俺の背中からは相も変わらず、婆さんが俺の拳銃を競り落とそうとしていた。
「六百じゃ。もう出さんぞ」
この婆さんも大概だな。だが、まあ仕方ない。
「こいつは、サービスにしとくよ」
座り込み、ギターケースに身を隠したまま、俺は黒鷹をホルスターから引き抜いた。
「あっ」
と誰かの驚きの声と、銃声。散弾銃と二挺のライフルが跳ね飛んだ。
三人は呆然として、何も無くなった手元を見ていた。
拳銃の男が慌てて俺に向けて引き金を引いたが、撃ちつくしたはずの銃から弾が出るはずも無く、撃鉄の落ちる音だけが虚しく響いた。
とりあえず、その拳銃も弾き飛ばしておく。
「さて、どうする?」
俺は赤鷹も引き抜いて立ち上がる。
「寿命は選ばしてやるよ。だれから死にたい?」
俺の言葉に、男たちの表情が見る見ると変わっていくのが判った。それはもう、はっきりと。
捨て台詞の一つも吐かずに、連中は馬頭を巡らせて一目散に逃げ去っていった。
その姿が雪霧の向こうに消え、その馬蹄の谺が遠ざかっていくのを確認して、そこで俺はようやく黒鷹と赤鷹をホルスターに納めた。
「さて婆さん、こんなもんでどうかな?」
そう言って振り返ってみると、婆さんが散弾銃を構えていた。
「おいおい、何の冗談だよ?」
銃口ははっきりと俺に向けられている。
「おぬし、一体何者じゃ?」
俺を睨み付けながらそう言う婆さんは、今にも散弾銃の引き金を引きそうな勢いだ。
でも、この銃は確か弾が出なかったんじゃないか?
まぁ、整備不良だろうが、不発弾だろうが、何にしろ銃なんてものは正面から拝むもんじゃない。
「何者も何も、最初に言っただろう? 俺は、ただのマリアッチ。しがない、流しのギター弾き」
とりあえず、敵意の無いことを示すために両手を頭上に掲げ挙げて見せた。
「“ただの”“しがない”ギター弾きのくせして、銃の扱いに長けとるようじゃの?」
妙に強調して言うのはやめて欲しいもんだ。自分で言っておいてあれだが、他人に改めて言われると気が滅入る。
「言っただろう、護身用だって。お守りじゃない。使いこなせなきゃ、ただの重い鉄の塊だ」
「フン」
婆さんは不審げに鼻を鳴らして見せた。果たして納得してくれたかな。
と言うより、この婆さんこそ何者だ。
「婆さん、何であんな物騒な連中に追われていたんだ?」
「こりゃ、質問しとるのはワシじゃぞ」
俺の胸に、銃口がぐいぐいと押し付けられた。
「判った判った、俺は何も聞かない。婆さんの質問に答えるだけ。だから、頼むから引き金引くなよ。弾が出ても出なくても、心臓に悪い」
「もう一つじゃ。ワシを婆さんと呼ぶな」
「じゃあ、なんて呼べば良い?」
「マドモアゼルに決まっとるじゃろう」
お嬢さん(マドモアゼル)。なんて呼べる少女が何処にいる?
口が曲がっても言えるか。
「なんじゃい、その嫌そうな顔は?」
「いやいや、そんな顔しないから、お願いだから鼻先に銃口押し付けるのは止めてくれ」
「だったらワシをちゃんと呼んでお願いせい。ほれ」
「マ、マドモ……マド…モア――」
いかん、喉が引きつりそうだ。
「無理だ!」
「失礼なやっちゃのう」
ガチン、と俺の目前で撃鉄の落ちる音が響き渡った。うわぁ、あっさり引き金引きやがったよ、この婆さん。
「驚いたか? 安心せい、この銃はとっくに弾切れじゃわい」
婆さんはそう言って、ようやく俺から銃口を逸らした。そのシワだらけの顔に、何とも人の悪そうな笑みが浮かんでいる。
「おぬし、悪い人間じゃなさそうじゃのう」
「すぐにでも悪人になりそうだ」
「ふぇっふぇっふぇっ、どうせ弾が出ない銃と気付いていたんじゃろうに。それでも大人しく従ってくれたお人好しがそんなこと言っても説得力無いわい」
婆さんは俺の横をすり抜けて、俺が撃ち落した散弾銃やライフル銃を拾い出した。
拾いながら、
「おかげさんで助かったわい。礼を言うぞ」
「ようやくか。まぁ良いけどな。俺のこと、信用してくれたんだな」
「本物のギター弾きかどうかは別としてだがの。ま、どっちでもワシには関係ないわい」
婆さんは両手いっぱいに武器を抱えもつと、よたよたと自分の馬車へ歩き戻った。
荷台に拾った銃を放り込み、よっこらせと掛け声をかけて御者席によじ登る。
婆さんはそこで荷台に手を伸ばし、手近にあった袋から何かを一掴み取り出した。婆さんは手の中でそいつをより分けると、
「ほれ、さっきの礼じゃ」
そう言って、俺に放ってよこしたのは、数枚の銀貨だった。
「サービスだって、言ったぜ」
「物事には常に相応の値が付きまとうんじゃ。見返りを求めない行為なんぞワシは信用せん。ええか、タダほど怖いもんは無いんじゃぞ。黙って受け取れ」
「なるほど」
なかなか、面白い人生哲学だ。
俺は受け取った銀貨を懐にしまいこんだ。
「じゃあな、婆さん」
俺はそう言って歩き去ろうとしたが、
「まぁ待てマリアッチ、おぬしはこれから何処へ行く?」
「北はずれの村だ」
「ワシと同じじゃな」
婆さんは一つ頷くと、御者席の自分の隣の席をポンポンと叩いた。
「何だ婆さん、乗せて行ってくれるのか?」
「言っておくが、タダじゃないぞい」
「いくらだ?」
「ちょうどおぬしに渡した銀貨分じゃ」
そう言ってにやりと笑った。まったく、この婆さんは。
「客じゃなく用心棒として乗せてくれ。それでチャラだ」
「ええじゃろう。商談成立じゃ」
俺が御者席の婆さんの隣に座ると、荷馬車は再びガタゴトと進みだした。
「ところで」
と、俺は背後の荷馬車を眺めながら、隣で手綱を握る婆さんに訊ねた。
「この大荷物は一体なんだい?」
「気になるか?」
「そりゃ当然。さっきの連中に襲われていたのもこれが原因じゃないのかい」
「ふぇっふぇっふぇっ、そうじゃ。ワシの全財産よ」
「本当かよ」
俺は改めて荷台をしげしげと眺めてみた。
さして広くも無いその空間に、木箱が一つと、大中小といろんな大きさのズダ袋が身を寄せ合って詰め込まれている。
「中身は?」
「食料と衣服と金じゃ。ついでに銃」
どれがどの袋に入っていようが、これはかなりの量だ。婆さん一人の荷物にしちゃあ多すぎる。
「旅の商人か何かか?」
「いいや、ワシの土地と家を売り払って手に入れたもんじゃ。まったく、どこから嗅ぎ付けてくるのか、盗賊どもがしつこく襲ってきよる」
そりゃそうだろう。大荷物に婆さん一人じゃ、襲ってくれと言っている様なものだ。
振り向いた俺の視界の遠く、野ざらしのままの男の死体が、雪幕の向こうに消えていった。
「あれは前の用心棒か?」
「気にする必要は無いわい。用心棒ゆうても、盗賊に襲われた途端に手の平を返したような奴じゃ」
「盗賊の一味だったのか」
「違うじゃろう。単に命が惜しくなったか、ワシの財産が欲しゅうなったか、どちらにしろ裏切りそうになったからワシが先に銃を突きつけてやった。そうしたら泡食らって馬車から飛び降りて行ったわい。その後は知らん。銃声が聞こえたから、盗賊どもに撃たれたんじゃろう」
さいですか。あの用心棒も、盗賊も、この婆さんを侮ったのが運のつきって訳だ。
名も知らぬ元・用心棒に対し、とりあえず十字を切っておく。
「Amen」
「何の真似じゃ?」
「死者は、悼むべきだ。一応」
「一応、か。いい加減な男じゃのう。マリアッチじゃろう。どうせなら鎮魂歌の一つでも歌ったらどうじゃ」
「マリアッチだからな、商売じゃないと歌わない。どうせ、あんたは金を払う気なんかないんだろう?」
「当然じゃ」
「だったら、これだけの財産、何のためにここにある?」
「これだけの財産と引き換えにするだけの、価値あるものを手に入れるためじゃ」
婆さんの声が不意に低くなった。
その目は、馬車の行く先をジッと見つめていた。
「おぬし、若さを与える聖女の噂を知っておるか」
この問いに、俺は首を横に振った。即座に、本当に知らないように、だ。
俺は、ただのマリアッチ。北はずれの村へ行くことに、商売以上の意味は無い。
俺のそんな態度を、婆さんは横目で見て、そしてゆっくりと説明しだした。
「おぬしがこれから行こうとするところ、ワシが向かおうとするところ、その村の教会に、人を若返らせる術を持つ女が居るそうじゃ。ワシはその真偽をこの目で確かめに行く。そして、もしそれが本当なら……」
「……若返らせてもらおうというのか。この、全財産と引き換えに」
婆さんは頷いた。
その表情は真剣そのもので、それどころか妙な気迫まで漂っている。
若返る。
それだけのために、家も土地も売り払い、盗賊の横行する荒野を老いた身一つで旅する危険を冒すのか。
「そこまでして、若返ってどうしようって言うんだ」
「どうしよう、じゃと?」
婆さんが俺を睨み付けてきた。
「若返るんじゃぞ。それ以上のことなぞあるか」
「それだけ。それだけなのか」
理解できない俺に、婆さんの視線が不意に哀れみを込めたようなものに変わった。
「のうマリアッチ、おぬし、歳は幾つじゃ」
「歳?」
突然の質問に、俺は少々面食らいながらも、自分の年齢を指折り数えてみようとして―――途中でやめた。
「二十から三十の間ぐらい、どっかその辺りだと思う」
「何じゃいそりゃ」
「親は、俺の生まれた歳を憶えちゃいなかったのさ。親父自身も自分の歳を知らなかった。俺たちの一族にとっちゃどうでも良い事だったんだ。だから俺も知らないのが当たり前だった」
「とことん適当な男じゃのう。おぬしは」
婆さんは呆れたように溜息を一つ吐いたが、
「だが、おぬしは若い。それだけは確かじゃ。恐らく普通の生き方をしていれば、この先、今の年齢の倍ぐらいは生きることも出来るじゃろう。たとえ今の行き方を変えたとて――そう、おぬしがマリアッチ以外の生き方を選んだとして――充分にやり直す時間が残されておる。だがな、ワシを見ろ。この先いくらも残らぬ老いた身じゃ。ワシが出来る事といったら、朽ち果てるのを指折り数えてただ待つだけの日々じゃ。それは、あまりにも虚しいと思わんか。悔しいと思わんか。だから、ワシは若さを買いに行くんじゃ」
真剣に語るその表情。
俺は、問いかけた。
「人生を、やり直したいのか。……自分の人生を後悔しているのか」
「ふむん。後悔、か」
婆さんは鼻を鳴らした。
俺は重ねて問うた。
「だって、そうだろう? 若返るってことは、今までの人生を否定することだ。あんたが積み重ねてきた時間も、思いも、人生そのものを、巻き戻したいということじゃないのか?」
「ふぇっふぇっふぇっ」
突然、婆さんが笑い出した。
「だから、おぬしは若いというのじゃ。たかだか三十年も生きておらんようなガキに、いったい何が判る」
「判らんね。だが、俺はたとえ激しく後悔するような人生でも、やり直そうなんて思わない」
「いっちょ前の振りして気張ったことを言いよってからに。人生なんていつだってやり直せるんじゃ。こんな老人でもじゃ。ワシはそれを証明しちゃる。そのためには、今のワシの全財産をなげうっても構わんのじゃ。いや、ワシの新しい人生を買うんじゃ。それだけの対価はむしろ当然じゃろうて」
婆さんが手綱をふるい、馬車が僅かに速度を上げた。揺れた荷台で、積み込まれた婆さんの全財産がゴトリと音を立てる。
この重そうな荷物を、婆さんは本気で全部捨て去るつもりなのだろうか。己の若さと引き換えに。そのことに、それだけの価値があるのか。
若返りの術。
その正体がもし俺の考えているものだとしたら、婆さんのその行為は単なる愚か者の所業に過ぎない。
だが、俺はふと自分の服装と、そしてギターケースに目を落とした。
黒い服は親父から、そしてギターケースは祖父さんから、先祖代々受け継がれてきた、俺の全財産にして宿命そのもの。
もしも、これを投げ捨てることが出来るなら。などという考えが、ほんの一瞬、俺の脳裏を過ぎり去った。
すぐに俺の心に激しい後悔が襲い掛かってきた。
何を莫迦なことを考えているんだ。出来るはずが無い。一年前、自分勝手な想いから、彼女を殺せずに苦しめ続けているこの俺に、そんな資格は無い。
「……罪は、消えない……」
我知らず、思わず口を吐いて出た言葉に、
「ふん」
と、婆さんは短く鼻を鳴らして見せた。
日暮れが近付いてきたのか、少しずつ、周囲が薄暗くなり始めた頃、馬車は北はずれの村に辿り着いた。