先輩明日も会えますか? 作:萩山カオル
人数が少なくなった教室で響くペンを走らせる音。クーラーの真下に設置された席に座っているだけあり、七月なのにお腹が冷えてきていた。
だが、誰もが静かに自習している教室で突然立ち上がりトイレに行くなど恥ずかしくて僕には出来なかった。
期末試験を終え、赤点を取ってしまった僕はあと二週間ほど放課後自習を強いられる。
──鳥たちは呑気だなぁ。
校舎のすぐ横に生えている桜の木に雀がとまっていた。小さく高い声で鳴きこちらに何かを問いかけているようにも思える。もちろん、そんなはずはないのだが。
──少しだけ寝てしまおうか。
僕は冷えたお腹を抑え机に突っ伏す。
隣、後ろから聞こえるカリカリと言う音を
子守唄とし十分ほど眠るつもりだった。
だが、目が覚めると周りには誰も居らず、鳥のさえずりの代わりに虫の鳴き声が響き渡る。
七月だと言うのにあたりは既に暗くなっていた。
「起こしてくれたっていいのに…」
急ぎ荷物を片付けリュックを背負う。
黒板の上に掛けてある時計を確認すると時刻は七時半。どうやら二時間ほど眠っていたらしい。
──心細い。
壁伝いに暗い校舎を歩く。物音はせず、自身の足音、そしてコオロギだろうか、キロキロと小さな鳴き声を聞き歩き続ける。
虫は苦手ではないのだが、こうも暗い廊下で響く音がこれだけというのは少々寂しい気分だ。
──車椅子…?
前からキィ…キィと独特な車輪のような音がする。こんな夜の学校に?と不思議がっていると正体は既に目の前までやってきていた。
一つ下の学園だと制服刻まれた赤い刺繍でわかる。
一年生の女子生徒だった。
少し短めの髪はボサボサでろくに手入れしていなさそうだ。そばかすのある顔は日に焼けている。運動部なのだろうか…。
「…あの、そこ通れない。」
人見知りなのか声がすごく小さかった。
かと言って聞こえない声量でもない。
しばらく呆然としているとしびれを切らしたように彼女はまた─
「…あの…」
「あぁ、ごめんね。ぼぅっとしてた」
ふと彼女の足元に目を向けると片足を覆う白いものが目に入る。
「…足…怪我したの?」
なぜこんなこと聞いたのか分からない。
名前も、顔も知らない下級生になぜだか興味が湧いた。
「はい。階段から落ちちゃって…」
あははと乾いた笑いをする彼女に俺は
「そう」としか言えなかった。
気の利いた言葉など言えるはずもない。
だが、彼女が嘘をついた事は鈍感なこの頭でも理解ができた。
「エレベーターまで行くの大変でしょ?…俺押すよ」
車椅子の上で酷く慌てる彼女を見て俺は自然と笑みが溢れる。俺がもう一押しすると顔を伏せながら「お願いします」と絞り出すように告げるのだった。
そこから話すのは他愛もない世間話。
軽く自己紹介をし、当たり障りのない会話をする。
「高崎先輩も補習なんですか?」
「残念ながら勉強は得意じゃないんだ。…そういう花瀬さんもだろ?」
彼女の名前は花瀬夏帆《はなせかほ》といい、女子ボクシング部に所属しているらしい。やはり俺は先程から気になっている階段から落ちたという話に踏み込めはしなかった。
「あ、教員玄関からじゃないと出れないと思います」
「あー、はいはい」
先程よりも声に元気が出ているようだ。
ちなみに教員玄関に行かねばならないのは、彼女の親がそこに来るという理由と、昇降口がこの時間には空いていないというのもある。
キィ…キィと車椅子で拍を刻みながら俺たちは会話に花を咲かせていた。響いていたコオロギの鳴き声もいつの間にか聞こえなくなっており、時計の針は八時を指す。
「あ、あれ?」
教員玄関から外へ出ると遅れたのだろうか、花瀬の親の姿はなく、暗い夜に街灯と通り過ぎる車のヘッドライトという少ない光だけの世界となっていた。
「…親には連絡した?」
俺がなるべく優しく問いかけると彼女は何度も頷きこちらを見る。
再びかけるも今朝電話は繋がらず『現在電話に出ることができません』と機械音声が聞こえてくるばかり。
「…とりあえずうち来なよ。…ここからさして遠くないし」
「…大丈夫ですよ。待てますから高崎先輩はどうか気にしないで…」
そんな彼女の言葉を無視し俺は車椅子を押す。
さすがに学校内とはいえ年下の女子を置いていくほど鬼畜ではない、たとえ女子ボクサーだろうと。
「とりあえず連れてくから。親にはメッセージでも送っておいて、入れ違いになっても困るからね」
と言う俺も母親に連絡を入れていた。
文面は『後輩連れて帰るわ』の一言。
数分後に母親からの『おーけー』という返事を見てスマホをポケットに突っ込んだ。
ここから俺の家は歩いて十分しないくらいの場所にある。目立った坂もなく、特に荒れた道でもない。
車椅子は問題なく押せる道だろう。
先程から花瀬は顔を下に向けたままだ。
照れているのかどうか後ろからでは確認することも出来ない。
するつもりなどないが。
「花瀬さんの家ってここから遠いの?」
十分程度とはいえお互い無言というのもどこか気まずいので俺は彼女に軽く質問をする。
「そこまでですよ。ここから電車で二駅くらいです」
「自転車でも充分来れる範囲だね」
俺の返しに「私は電車ですけどね」と返してくる花瀬。
先程とは違いちゃんと顔を上げている。
どうやらもう照れてはいないらしい。
家が近くなったので花瀬に「もうすぐ着く」と伝えると急に彼女は固まってしまう。
普段表に出てくることの無い陰キャラが突然表彰を受けるかのような固まり具合。
微動だにすらしない。緊張しすぎではないだろうか。軽く俺が「おい」と声をかけたても反応がないのだ。
「…入るからな」
「えええ、心の準備が…」
やっと口を開いたかと思うとこちらを向き抗議の言葉を投げる花瀬。
「いや知らないよ。別に彼女とかでもないのに何をそんなに緊張してるのやら…」
そう言いながら俺は車椅子を家の敷地に押し込む。花瀬は顔を両手で隠しているがまあ、大丈夫だと思う。
玄関の扉を開け母を呼ぶ。ドタドタと大きな足音を立てながらすぐ横のリビングから母が出てきた。
「いらっしゃーい。…ん、駿いつ彼女できたのよ」
彼女じゃねーよ。
「は、初めましてお邪魔します!」
否定しなさいよ。
「いえいえ、ゆっくりしていってね…。でもさすがに車椅子は家の中居られないなぁ。あ、駿あんたおぶってあげな」
「…わかったよ。リビングのソファでいいよね」
彼女は軽かった。運動部、しかもボクシングとなるとかなり筋肉が着いて重くなっているだろうに。とりあえずそこは彼女も女の子だったと納得する。
少し緊張の緩んでいた花瀬は俺におぶられることでまた顔を赤くする。目を伏せ赤くなった顔を見ると、暗い学校ではわからなかったが彼女は少々つり目でそばかすの目立つ子だった。髪の毛も部活の影響だろうか、短め。
「よいしょっと」
「すみません…重かったですよね」
彼女をソファに下ろすと花瀬は申し訳なさそうに顔を伏せたままこちらに謝罪した。
「別に重くなんかないよ。むしろ軽いくらいだ」
「…そうですか」
本当だ。彼女の疑いの目線を無視し台所で客人用のコップを探る。特にこれといった装飾のないガラスのコップに烏龍茶を入れ、彼女に差し出す。彼女はありがとうございます、と静かに礼を告げると一口啜る。
「今日はご飯食べていきなさいよー、ね?駿もそれがいいと思うでしょ?」
「…母さん、さすがに初対面の男の先輩の家でご飯って少しハードル高くないか?」
そういい俺と母さんは花瀬を見る。
「…私のお母さんから連絡ないんでお願いしてもいいですか…?」
「いいわよ〜」
──マジですか。案外図太いのなこの子。
俺だったら絶対拒否してる事を特に考えもせずに決断した。そこからはただの食事。
ダイニングへと移り、母さんの手作り料理へと箸を伸ばす。母さんの手料理は花瀬の口にも合ったみたいで随分と美味しそうに箸を進めていた。
食べ終わり、リビングでテレビを見ながら花瀬の学校での過ごし方等を聞いて彼女の親が来るまで時間を潰す。
だが、彼女の母親が俺の家に着いたのは午後十一時。夕飯を終えた約三時間ほど後の事だった。