・范無咎編。謝必安編に続く構成ですが、これだけでも読めます。
・暴力表現/名無しモブ/過去設定の捏造などを含みます。
・「約束を守りたくない一心で、橋の下を離れようとしなかった。」って誰の視点で書かれた物だったんでしょうね? みたいな話。片方がそこまで気にしていない事で、もう片方が強く傷つけられてしまう関係好きなんです……。ただ、どんな形であり無咎には自分の意思で死んでいて欲しいですね。
衙役というのは、今の人が中国と呼ぶ場所が清と呼ばれていた時代の職業です。
地方の役人に仕え、罪人を逮捕して令状を運び、と警察のような事を生業としていた役職なのですが、決して身分は高くありません。
彼らは簡単に言えば、肩書を持った小間使いでした。警察とは違い彼ら自身が権力を持っている訳ではなくて、あくまで権力の所在は彼らが仕えている上の人にある。給料も仕事をした際の手数料だけなので、歩合制以上に働いた分しか稼ぎが出ず、元となる手数料がそもそも大した金額ではありません。一部の衙役は民衆相手に料金を水増しし搾取していたとの話ですが、これも彼らの暮らしを思えば仕方ない事だったのかもしれませんね。もっとも、民衆には堪ったものではないでしょうが。
さて、これより語るのはとある衙役の一日です。先に断っておくと、これは何も珍しい話ではないのです。ですからこの話は語り継がれてはくれなくて、世から綺麗に忘れ去られてしまっているのでした――。
『一日後に死ぬ虎』
夜風の吹く町並みを眺めている男、名を笵無咎と云います。黒髪に琥珀の目をした偉丈夫で、周りからは虎が人になった物と揶揄されていました。即ち腕っ節が大変強く、けれども同時に手に負えない程気性が荒かったので、人々から恐れられていたのでした。
そんな彼でしたから、平時には空を眺めるなんて真似はしません。ましてやこの日の空は曇天の一言で、星も月も全く姿を現してはくれなかったのです。つまり、雅と無縁な彼でさえ物憂げにならなければならない程、事態は差し迫った物になっていたという事でした。
今日から幾らか前に、地方大員が――この話においては『お偉いさん』と捉えておいて頂ければ良いでしょう――一枚の告発状を出したのです。なんでも、酒場で飲んでいた彼の息子が、衙役に怪我をさせられただとか。笵無咎には同じく衙役をする義兄弟が居たのですが、どういう訳か、彼か義兄弟のどちらかがこの一件の犯人だろうという事になりました。
勿論、二人には全く身に覚えのなかったのだけれど、先に述べた通りで衙役というのは下っ端。本来であれば有無を言わさず牢屋にぶち込まれていても不思議ではないくらいなのですが、彼らにはちょっとした人望という奴がありまして――さっき『勿論』なんて形容をしたのは、こういう次第です――ですから、少しばかりの猶予が与えられました。二人で逃走中の犯人を追うように、委託状が届いたのです。衙役というのは使いっ走り、逆に言えば仕事として命じられたなら、依頼主の名の下に同等の権力を振るえます。二人はここのところ碌に休まず町を走り回って、犯人の手掛かりを追い続けておりました。
そうしてつい数刻前に、ようやとその尻尾を掴んだのですが――彼が難しい顔をしている以上、真相はどうにも理不尽極まる物だったようでした。
『嗚呼なった以上、思い留まってはくれんだろうな。存外頑固な人だから。
アイツが自らこそ咎人だと宣うと同時、割って入って否定するか? ……無理だな。俺はアイツに口で勝てた試しがない。丸め込まれるのがオチだ』
……。
一つ、大員の息子は確かに酒場で口論となっていた。
一つ、発端は親の七光りと揶揄われた事。
一つ、良くも悪くも衙役にしては彼らは名を知られていた。
一つ、その人には悪い噂が多く、その時には酒が入っていた。
一つ、大員の息子はその場に居合わせた者全てを、金に物を言わせて買収していた。
一つ、大員にとって衙役など取るに足りない命だった。
結論を言うと、彼ら二人は完璧なまでに詰んでいたのでした。
彼は不意に思い立つと窓際から離れて、筆と紙とを持ち寄って机に向かいます。
虎なんて言われるくらいですから、彼はこう、文化的な事柄は得意ではありません。下っ端とはいえ役人ですから最低限の礼儀なんかは出来ますが、長い文章をすらすらと読んでみせるだとか、ましてや漢詩を引用した気取った文章を書くなんて事は、とても出来やしないのです。
けれども、当時殆どの人が知らなかった事なのだけれど、彼は誰もが思う『真っすぐな人』という奴の幾倍も愚直な人間で、時折この性格の一端が言葉や仕草に不思議な説得力を持たせるのだ――と、少なくとも彼の義兄弟は思ったりしていたくらいなのです。
彼は、自分の義兄弟に文を書きました。上手い言い回しなんて全然出てはくれないので、とにかくどうしたいかというそれだけを書いて、気持ちは全部筆跡に託します。文量も大してありませんので、時間にすれば長くて十数分の出来事だったのですが、当の彼は魂が削れそうなくらい集中したもので、書き終わると同時くぁと欠伸を漏らしました。
そうして、まだ水気のある文字たちを乾かす合間に、自身も睡眠を摂ることにしたのです。
*
――負けたくない一心だった。
何せ俺はあいつを一目見た瞬間、俺が一番嫌いな、それこそ大嫌いなやつが来たぞ、と思ったんだ。
白くて、細長くて、どんな奴にも人懐っこくしている癖に、どっかでそれを嫌だと思ってる。
俺は自分のやりたいことしかしないと決めていたから、こいつを見ているとどうにも胸がむかむかとして、やたらと腹が立った。
なのにこいつは、どう言う訳かいくら無視を決め込んでも懲りずに話しかけてきた。
一回どついてやったけれど、次にはけろっとした顔をした顔で近付いてくる。やってられるかと山ん中に逃げこんだ時も、少し悩んでから着いてきた。
地元の大人だって俺が山に入れば追うのを諦めるぐらいだった。余所者なんてすぐに撒けると思ったのに、こいつは予想以上に粘って、結局最後には目くらましをしなきゃならなかった。
これでさすがに来ないだろうと思っていたら、次の日もまた同じように俺を追ってきて、その次の日には逃げ切ったと思って水を飲んでた俺の横に、気が付いたら座ってる。どうやったのかと聞けば、あれだけ走り回っていたらどこかで休憩を入れるはずだから、それらしい場所で待ち伏せしていた、と。俺はこの時初めて、天才というやつが存在していることを知った。
俺はこいつに負けたことが、恥ずかしくて許せなくて、もう食ってかかった。
そいつは俺の「なんなんだ、お前は!」という言葉を真に受けて、偉い人を前にやるような丁寧な自己紹介をしてから言うんだ。
曰く、君は周囲から粗野だの山猿だの散々馬鹿にされているのに、どうしてそこまで真っすぐ前を向けているのか、と。自分は生まれついての白い髪や肌を悪く言われるのが恐ろしく、人からつい目を反らしてしまうので、どうかこの弱さを克服する為にも教えて欲しい、と。
俺はもう、すっかり呆れかえってしまって、しばらく白い子どもが演説をするのを聞いていた。それで、そいつが全部言い尽くしたところで、当たり前のことを言ってやったんだ。
悪く言われるのが嫌なら、言ってきたやつ全員にやりかえしてやればいい。嫌ってことは、それは怒ってるってことだ。なのに怒らないで黙ってるなんて、そんな大人みたいなことをしているから、ますます周りに馬鹿にされるんだ――
*
彼が目を覚ましてみると、墨はすっかり乾ききっていました。空はやはり雲に厚く、陽の光が入らなかった為に、普段よりも起きるのが遅くなってしまった様子。普段ならこういう時には義兄弟が叩き起こしに来るのだが、やはり昨日の今日ではそうもいかないようでした。何が昨日の今日かと言うのは、ここでは置いておきます。
彼は部屋を出て、義兄弟の姿が台所にあるのを確認すると、食卓に昨日書いた文を置き去りにして身支度に戻ります。
彼の手紙の内容は、これが全く、単純明快の一言でした。実際の文面は彼の名誉の為に伏せておきますが、要約すると『南台橋で傷害事件の解決策について話し合いたい』なんて具合になります。彼は本来回りくどいのは苦手なのですが――大きな声では言えませんけど――きっと彼も恐ろしかったのでしょう。何せ今回の出来事は、彼ら二人の運命を分かつ一大事だったのですから。
さて、彼らはその日ばかりは仕事をする事もなく、休暇に外に出ていました。つまり、義兄弟は彼の誘いを受けたのです。
彼らは南台橋に行く前に、馴染みのある家や店を順番に回る事にしました。手数料を多く取る衙役の話を最初にしたかと思いますが、これもあって衙役というのは普通、町の嫌われ者みたいな立ち位置でした。ただまぁ、この二人はそういう事をする柄ではありませんでしたから、人情って奴を皆に持たれていたのですね。
もっとも、大抵の場所には義兄弟が一人で訪ねていって、彼は専ら近くで突っ立っていました。……彼自身は皆に愛されているのは義兄弟だけで、自分が行っても皆が怖がるばかりだと思っていたのです。実際これは半分正解で、半分は誤りでした。つまり、片方が完全なる嫌われ者だったら、もっと義兄弟の方に「あんな奴とつるむ必要はない」だとか「あいつに脅されてるんじゃないか」みたいな声が届いて然るべきなのですが、ある程度彼らと親しい人はそんな事一言言わなかったのです。ただ、一部の人は今言った通りに思っていて、ましてや噂になるのはそちらの言い分ですから、彼自身はずっとそれが世間の言い分だと信じ込んでいました。
その時通りかかったのも、まぁ彼らを何となくにしか知らない人でした。そうして、一人で居る彼を見て囁くのです。
傷害事件を起こすような奴なんて、これはもう疑う余地もなく決まりきっている。
それなのに、その者を放っておくだなんて上は何をしているのか。
義兄弟が出来た者だからといって、罪人を何日もそのままにしておくのは話が違うのではないか。
……彼は盗み聞きをするような性分ではありませんから、この言葉はもう、その場に居る人間ならば誰にでも聞こえるように言われていました。けれども彼は知らぬ存ぜぬと云った具合で、ただ塀の傍に立っているのです。
彼は……彼は実の所、世の人々全てがそのように考えて、義兄弟が背負いこもうとしている罪の全てを自分に引っかけてくれる事を望んでいたのでした。本当は義兄弟本人にもそう訴えたかったし、何なら昨日には大喧嘩をして主張したのですが、虎と呼ばれた彼もどうにも……義兄弟には弱かったのです。
結局その場では引かざるを得なくて、けれども諦めきれないで南台橋に誘った。どうにもならない事もあるのだと、知りながら。
ここでの話は、陰口を聞き付けて行動を起こそうとする義兄弟を彼が止めて、それが周囲にますます誤解を生じさせた所で終わっておきましょう。余談にはなりますが、義兄弟の方も彼にはめっぽう弱かったのです。
*
――南台橋に、特別思い入れがあった訳じゃない。
只、思い出が詰まった土地をこんな状況で歩む事が、俺にはどうしようもなく恐ろしかった。
それではまるで、本当に今生の別れをする様ではないかと。
俺は、一度心を落ち着ければこの境地を切り抜ける策の一つや二つ思いつくのではないかと思ったが、そう上手い事行く筈も無い。ましてや俺よりも幾らも賢い義兄弟が、寝ずに考えても――隈は無くとも、呼吸や足並みがそれを語っていた――結局、結論は一つしか出なかったのだ。
そりゃあ、俺みたいな馬鹿じゃ、どうにも出来やしない。
相手の傷も大した物ではないし、本来ならばそう重い罪にはならない筈なのだが、さして因縁もない我らに冤罪を吹っかけてくる様な輩だ。ここまで手を拱かせた以上、決して簡単には済ませないだろう。かの欲望に満ちた化生が欲しているのは、『俺の一言が有れば、一人の人生なぞ容易く狂う』と酒場で豪語する為の実績なのだ。
俺はどうすれば良かったのだろう。
散々人に恐れられて、けれども何を言われようがやはり、己の本質を曲げてまで俗世の道理に従おうとは思えなかった。謝れば丸く済む場面でも、納得がいかぬとなれば頑として頭を下げはしなかった。拳を振るった故を尋ねられても、それが言い訳になるのなら決して口にはしなかった。己を曲げぬ為だけに拳を鍛え、あらゆる物に食って掛かって、地獄に仏を見ても尚、大して本質は変わらない。
どこかで妥協していれば良かったのかもしれない。周囲の人と同じように生きて、常識的な立ち振る舞いのみをしていれば良かったのかもしれない。だがそう思案する度、かつての義兄弟の姿が脳裏に浮かんだ。常に周りの目を伺い、波風を立てない為に足を一歩踏み出すのにさえ息を詰まらせている様を、俺は最初こそ酷く嫌悪していたが、交友が深まる内に今にも溺れそうな子どもを陸に押し上げてやらねばと思うようになっていた。
珍しい髪色をとやかく言われているのを見れば、下手な嘘を並べてアイツをそこから引っ張り出した。アイツのお人好しを出汁にしようといている奴が居れば、「お前がやれ」と一言睨みを聞かせてやった。当然のように俺の評判は悪くなったが、アイツが一息つけているのが分かれば、別に構いはしなかった。
後にも先にも、あの男だけだ。俺に「どうしてそんなことをしたのか」と繰り返し尋ねたのは。気性が荒くて野蛮な奴なのだろうと結論付けて帰っていく人々の中で、アイツだけが俺の考えを汲み取ろうとした。俺にも信念があってやっているのだと、一切疑っていなかった。
……まだ、俺がここまで喧嘩っ早くなかった頃だ。近所の子供たちが、鳥の巣に石を投げ、中にある卵を割った者が勝ちという遊びをしていた。石が投げ終われば木から巣を下ろし、確認した後には川に浮かべて誰が投石で沈められるか競っていた。俺はそれが弱い者いじめの様に思われたし、親から無益な殺生は良くないと教えられてきたので、止めるように言ってやろうとしたのだが。いかんせん主導者が年上のガキ大将だったので、言った所で止められないと静観していた。最後にはまぁ、堪忍袋の緒が切れて殴りかかったのだが、けれども気分は晴れなかった。臆病者であった自身を恥じるので精一杯だった。
ガキ大将を殴り倒した事で、周囲から距離を取られるようになった時、俺は安心した。奴に喧嘩を売った理由を聞き出そうとする人が居なかったからだ。別に小鳥の死をやたらと重く受け止めていた訳ではないだろう。俺は自身の弱さに負けた事実を隠す為、あるいは秘めた弱さを隠す為に、虎の様に振る舞うようになったのだ。
きっと、アイツの接し方が少しでも間違っていたら。俺は気に食わないからという理由で殴り倒していたのではないかと思う。何せアイツは、そんな俺の弱さに憧れていると言ってのけたのだから。
南台橋に行く前に、俺は義兄弟と別れて花街の一角に来た。以前一度仕事付き合いという物をやった時に、連れて来られた場所だ。衙役でも楽しめるような安い女を買うくらいなら鍛錬に努めるのが常であり、その時まで縁も所縁もなかったが。男であれば女を全く知らんのもどうかと思い、試しに入ってみた。
ところが部屋に居たのは、これはまた、嫌気が差す程に湿気た面を下げた女だったから勃つ物も勃たない。義兄弟と初めて会った時もそうだったが、俺はどうにも、この手合いが好かなかった。胸がむかむかとして、異常に腹が立つ。
躊躇う女に酒を勧め、身の上話を聞いてやっている内に夜も更けて、こうなると抱く気にもなれないので酔いの侭に寝て帰った。
無論、俺は義兄弟と違って口が達者でないし、有難い言葉とやらも一切知らないので、本当に相槌をしてやっただけだったが。義兄弟と共に歩いていた時に、その女の事が不意に脳裏を過ったのだ。
安物ながらに簪を一本買って、そこを訪ねてみるのだが、店主によればこの女は数日前に出て行ってそれきりだと言う。衙役ともなれば、その類がどのような末路を辿るかは、否応無しに知っていた。
俺は道すがらに有った古ぼけた地蔵に簪を供えて、義兄弟の事のついでに、この女の事も祈っておいた。
結局、俺には金も権力も無い。例えこれから件の女に出逢った所で何もしてはやれないし、今は義兄弟の事で手一杯だ。故に、祈る所は『御仏の力で彼らを守って欲しい』ではなく、『俺が守ってやれる様であらば、その決意をさせて欲しい』と。
自分を曲げない様に生きてきた癖に、いざ危機に陥れば弱いこの身をつい嗤ってしまった。
だが今更仏に縋るなど、それこそ不敬だ。平時坊主のように熱心に崇めてもいない癖に、斯様な時にばかり頼られては仏も困ってしまう。仏は悟りを志す全ての信者に目を配らせておいでなのだから、一見の男の祈りなんて聞いている暇はないだろう。
結局誰しも、己の事しか見てはいられない。
頭を下げ謝罪をすると、南台橋を目指した。
……結局、他の奴らの言う通りだった。俺は只の虎だ、虎の化生だ。中途半端に力ばかりが在って、心の底から救いたい一人が死のうとしても何も出来ないでいる。
*
彼と義兄弟は南台橋で落ち合うと、解決策をああでもないこうでもないと話す――事はせずに、あくまで昨日の夜に話して決めた内容を確認し合いました。
つまり、義兄弟の方が咎人として名乗り出る、と。
これは義兄弟として片方を庇いたがったというのも勿論ですが、何もそれだけではなく、人望に厚く好青年として知られている方が罪を背負えば、他の人々が「これはどうにも、可笑しいんじゃないか」なんて味方してくれるのではないかという、そういう期待もありました。彼が反論出来なかったのは、それが義兄弟にしか出来ない事だと分かっていたからなのでした。今日行った挨拶回りもこの策の布石だった訳です。
ですが、これは……望みの薄い策だと言わざるを得ませんでした。誰だって権力に立ち向かうのは怖いですし、何より一人二人迎え撃ったところで勝てる相手ではありません。それでも、世間の目があれば無茶苦茶な刑には処され難いのは確かでした。
二人がそうやって話をしている内に、とうとう曇り空がどす黒くなってきました。燕が低い所を飛んでいます。雨の匂いもしてきたもので、義兄弟と彼とでどちらが家に戻って傘を取ってくるか話せば、さて、彼の方が橋に残る事になりました。
……実はこの時、彼はもうすっかり俯いて拳を痛い程に握り締めていたので、見兼ねた義兄弟は理由を付けて彼を一人にしてやる事にしたのです。自分が……『自分が橋の下に迎えに行くまで、待っていて下さい』と。彼も相手に手間を掛けるよりも、自身の表情を見られる方が堪えたので、これに了承しました。
ですからこの先は……彼しか、知らなかった話なのです。
義兄弟の言葉に納得していた彼は、どうして先に死んでしまったのでしょうか。
*
……彼は橋の下に潜り込むと、ここで一人咽び泣きました。家だと義兄弟に聞こえてしまいますからね。人通りのない暗い場所で丁度雨も降り始めていたから、男が一人隠れて泣くには打ってつけだったのでしょう。
この人は泣く事は愚か、普段ならば表情だって碌に浮かべない人なのですが、もう……情けなくて、仕方がなかったのでしょうね。彼の心は一人になったその瞬間に、一度折れてしまって、だから只管に泣いていた。彼には自分が弱く、酷く未熟なものに思われていたのです。
理不尽を押し付けてくる心無い人を憎みました。こんな目に遭っていない平和な人たちを羨みました。一人で全てを背負っていく義兄弟を恨めしく思って……けれども何より、何も出来ずにただ周りに敵意を持っている自分がいっそ殺したい程に……嫌い、だったのです。
彼の中では様々な感情が綯い交ぜになっていましたが、けれども、幾ら心を痛めたところで現実は変わりません。世界はそこまで人間に対して同情的ではありません。
それは、涙を粗方流しきって『馬鹿か。今更泣いてもどうにもならないだろう』などと思った時のことでした。土手から下って、こちらへと歩いてくる音がするのです。彼はてっきり義兄弟だと思って袖で顔を拭うのですが、視界が塞がれ耳の感覚が研ぎ澄まされれば、すぐに足音が複数あることに気付きます。
つまり、お相手も彼の義兄弟と同じことを考えていた訳です。人々からの信頼に厚い一人よりも、もう片方の方が何かと好き勝手出来る。民草の心を掴んでいる人を貶める方が余程実績になると思うのですが、まぁ、復讐だとか報復に怯える程度には元凶も人間らしかったのでしょうね。
……。
屈強な男たちが、彼の前後を差し固めていた。左右も川と橋脚とで塞がっているので、これはもう、どこにも逃げ場はない。傍らの川は大雨に猛り狂っており、呑み込まれれば最後、浮上するのは困難に思われた。
今まで泣き伏せていた筈の彼は、瞬間冷静さを取り戻して、相手をどういなすか考える。
――まず、眼前の男が襲い掛かってくると同時に、彼は自身が有利な状況に置かれていると悟った。即ち、自らは長く橋下に居て暗闇に目が慣れているが、相手の方はどうもそうではない。でなければ、武器を手にしているとは言えここまで杜撰な距離の管理はしないだろうと。
彼は恐れる事なく、前に一歩出ながら身を屈め、走るその人の足を横から払った。足払いによろけた人の横っ腹にさらに追撃を入れ、川へと叩き落とす。そうして、一瞬の出来事に呆けている人の下へこちらから肉薄していって、鳩尾に拳をめりこませた。これだけの事で、彼は瞬く間に集団に対して優位に立った。
彼は愚直な男である。これは戦闘においても同じで、彼は相手に武器があると見た時点で手加減をする事を一切放棄していた。どうして自分が襲われているか、敵は一体何者なのか。戦闘に必要のない事を全て切り捨てて、ただ相手をぶん殴って黙らせる為だけに動く。これこそ彼が人にして虎と畏れられた理由なのだろう。
虎は群れをなさない孤高の狩人。故に一度傷を負えば、助けは来ずにただ朽ち果てるのみ。なれば生き残る術は一つ、身を害される前に敵対者を排除し、常に勝ち続ける事だ。判断を誤り躊躇えば、獣の王とて引き裂かれ毛皮に成り下がる。
だが、それは所詮野生の獣の話だ。生憎と、彼は人間だった。
「――お前、謝必安がどうなってもいいのかッ!」
倒れた人を踏んで、呆然とする誰かの顎を蹴り上げようとした一瞬。彼は動きを止めた。
その刹那に、腹から槍の先端が生える。さらにもう一本、今度は前から槍が迫り、胸板を貫いて背中側から突き出ていった。
*
内臓が傷付いた事で血が喉を遡り、唇から垂れていく。視界が端から赤く染まり、筋肉の緊張が解けて腕がだらりとした。傷口が、熱い。全身を劈くような痛みの波が、正気を瞬く間に奪っていく。
先の言葉から言って、大方この者たちは大員の息子が差し向けた刺客だろう。ならば、ここで自分が死ぬだけで済むのは不幸中の幸い。義兄弟の決意を無駄にしてしまうのは残念だが、これで良かったのではないか?
串刺しの激痛を前に、今まで胸に抱いていた臆病が膿のように溢れ出し、戦意と生への意欲を確実に蝕んでいく。瞳の黄金が、泥のように濁る。
この時、相手は致命的な間違いを犯した。つまり、仲間の何人かを屠った男が瀕死になって虹彩を小さくするのを前に、すっかり良い気になって、止めを刺すのを後回しにしたのである。
彼が遠くなる意識を寸でで縫い留められたのは、男共が片割れの事を口に出したからだった。
曰く。
「こいつを殺せなかったら、向こうを殺すしかなかったからな」
腹から突き出た穂先を両手で握ると、胸を貫く槍を持つ人の股座を槍で抉り取った。男たちは絶叫に耳を
劈かれながらも急ぎ得物を構え直すのだが、その間にも一人が槍の柄で胸を突かれて荒れ狂う川の中に落ち、近場のもう一人が首を横薙ぎの槍に裂かれて死んだ。
彼は本当に、愚直な男だったのです。
……例えるなら、彼らは罠にかかった虎を揶揄いにやってきた猿だった。遠巻きから衰弱するのを眺めていれば良いところを、調子に乗ってその尾を勢いよく踏み付けたのである。さて、激昂した虎を木から降りた猿がどうにか出来るだろうか? 否、そのようなことは出来やしない。
とはいえ、男たちには数と武器がある。虎と化したモノが一人を仕留める瞬間を狙い放たれた刃は、その肩や髪を深々引き裂いた。挙動に合わせて鮮血が舞い、解けた長髪はそれ自体が一匹の獣であるかのように踊り狂う。
「何故だ、何故死なない!?」
しかし幾ら傷付こうとも、瀕死の筈の一人は動きを止めずに次々と敵を屠る。今も振り翳られる得物を肉に沈んだ槍で防いで、指で目玉を突き潰した後に川へと叩き込んだ。
見開かれた黄金が、薄暗がりで爛々としている。竹林に潜んだ、虎さながらに。
まず、彼を貫いた槍は幸運にも肺や心臓を貫きはしなかった。他の臓器は傷付いているので放置すれば確実に死に至るだろうが、体内に異物を埋める激痛にさえ耐えられれば動ける範疇にあった。引き抜かれなかったお陰で出血が少なく済んだのも、大きい。
次に、男たちは殺したつもりの男が凄まじい抵抗を示したもので、すっかり肝を冷やした。川から離れさえすれば槍の刃でしか致命傷になり得ないのだが、それを考えるだけの冷静など持っていられない。
何故なら、これこそ最後の理由となるのだが、彼らが殺そうとしている相手はどこからどう見ても満身創痍だ。あと一撃入れてやれば、物言わぬ肉塊と成り果てる人。しかも攻撃は入っているとなれば、後少しと欲張ってしまうのは人の常というものだ。対する彼は致命傷だけを避け、肉を切らせてでも敵を殺そうとしていたのだから、これはもう、全てが上手く噛み合ってしまっているのである。
背骨や肋骨に柄を押しつけて軸にし、右手で胸の、左手で腹の槍を振るう化生を、焦り直情的な攻撃を繰り返す雑兵が止められるものか。何せこの人は、腹に刺さった槍を『いくらか手を離しても、直ぐにまた構えられて便利だ』とさえ考えているのだ。
追い込まれた人間は尋常ならざる力を発揮するというが、それにしたって度が過ぎている。その理由は、きっと一つだろう。
――義兄弟を殺すなぞという選択肢を取れる者を、一人たりとて生かしてなるか。と。
己と敵の血に塗れ、髪を振り乱すこの獣は、最後の一人の心臓を貫いたところでようやと動きを止めた。雨の音がやたらと煩い事に、その時になって気付いた。川の水位は高くなる一方で、既に自身の足首の上まで来ている。
切り刻まれた体を引き摺って、ゆっくりと土手の方へと歩いていく。
『筋肉を張って傷口をなるべく塞いで、呼吸は浅く――槍を振り回したのは流石にやり過ぎたか? だが出血にさえ気を配れば、アイツが俺を見つけるまでの時間も稼げるだろう。適切な手当てを受ければ、どうにかなる傷だ』
黄金の双眼は完全に据わっていた。これは彼の名誉の為に言うのだが、彼は決して死を前にして生に縋りついた訳ではなく、今まで敵を殲滅すべく身体の機能を止めまいとしていたので、精神も幾らかこれに引っ張られていたのだった。
だから笛の音のように掠れた息を吐きながらも、歩いて、
『生きて――生き延びて、どうするんだ?』
歩みが止まった。そこで、正気を取り戻してしまった。
『俺の惨状を見れば、アイツは間違いなく相手への報復を考えるだろう。そもそもこの重傷だ、治療費はどれ程になる? ましてや、その間俺は働けない。アイツが優秀だからと言って、重傷人を一人養うだけの余裕はない。
大体、傷害事件はどうなる。今度こそ俺は、どうする事も出来ない。俺には想像も付かないが、アイツはきっと、どんな手段を使ってでも俺を救おうとするだろう。それが、自身の名や手を汚す様な方法であったとしても』
両手で、槍を一本ずつ握った。
貧血と激痛とで意識は朦朧としていたが、けれどこれだけははっきりとしていた。
「嗚呼。それじゃあ俺は……生きてちゃ、駄目だなぁ」
力を入れて引き抜けば、槍は傷口を更に広げながら、臓物の欠片を伴い地面へと落ちていく。
栓を失った穴から鮮血が噴き出し、彼は体が急速に冷えていくのを感じていた。大雨で気温が下がっている所為ばかりでは、もちろんない。
*
彼は今度こそ瀕死に陥って、もはや立つ事さえ出来ないで、川岸に俯せに倒れました。橋の下はすっかり水に浸かっているので、彼は薄く張った水に身体を横たえる形になります。泥で濁った水に血の赤色が混ざる様は、まるで彼の命が少しずつ溶けだしていくようで。
『お前も本当に馬鹿な男だよなぁ、』
雨音よりも何よりも、とにかく自身の鼓動の音が煩く。心も体ももう生きる気はないのに、その中で唯一心臓だけが生きようと足掻いておりました。
『……学も人望もあって、その上で常に心穏やかで。俺なんかを義兄弟に貰わなければ、今よりずっと……良い人生とやらを、送れただろうに……お前、人を見る目だけは、なかったんだなぁ……』
……そうしている内にも、水位はどんどん増していきます。鼻や口に水が入るようになると、彼の体は弱弱しく咳きこむのですが、もう、顔の向きを変えるだけの力も残っていません。浅瀬で溺れかけながらも、けれどもやはり、考えるのは義兄弟の事ばかり。
『嗚呼、本当に……俺には勿体ないくらい、出来た義兄弟だった……きっと将来は、良い嫁さんを捕まえるだろうな……子供も孫も、お前を重んじて……それで最後は皆に……皆に看取られて、寝具の上で死ぬんだ……』
驚くべき事としか形容のしようがありません。そんな空想を頭に浮かべた瞬間、彼は嬉しそうに微笑んだのです。義兄弟に対してでさえ、そこまで穏やかな笑みを見せたことはなかったというのに。体中、血と泥水と解けた髪でべったりとしていて、今にも溺れかけ、胸と腹には穴だって開いているのに、本当に嬉しそうにその人は笑ったのでした。
『……俺はもう……それら節目には立ち会えない、が……お前が天に昇るその日には、今一度……その顔を見せて欲しい……きっと訪ねる人は幾らもあるから、俺は……最後で、いい……』
その時、遠くの方で凄まじい音が鳴りました。彼は知る由もなかったのですが、これは上流にあった土堰堤が大雨のあまりに決壊して、塞き止められていた水が一斉に川を下る音でした。上空からこの様を見れた人が居たのなら、きっと生き物のようにうねる濁流が、通り道にある橋や岩を全て粉々に砕きながら駆け下りていくのを目の当たりにしたでしょう。人間がこんな物に呑まれたら、手足や首なんか簡単にもげてしまう。
『嗚呼、別れる最後に、ここで待てと言われた……あの契りだけは、どうにか守れたか……』
彼は最後、息を引き取る代わりに、一言呟きました。
「――我很喜歡你。どうか、笑顔で」
南台橋が、雨に沈んだ。
*
土堰堤が崩壊する音を聞いて、私は一層歩みを早めました。傘は走るのに邪魔だと途中で閉じてしまったので、すっかり濡れ鼠になってしまいましたが気にはなりません。彼の安否が何よりも気掛かりで、どうか無事であってくれとそればかりでした。
川に辿り着いた時、そこはもう、すっかり様変わりしていました。掛かっていた巨大な橋は辛うじて無事でしたが、橋の下と呼べる場所は何処にもありません。瓦礫交じりの濁った水が、今にも土手から溢れんばかりに溜まっているだけなのです。
私は、義兄弟の名を呼びながら川に沿って土手を歩きました。自身も濁流に巻き込まれるかもしれない、という事は二の次で。そうして随分と下流の方まで進んだ所で、ひょっとしたら反対岸に逃げているかもしれないと、遠く川向うに視線をやったのです。私が人影の代わりに見つけたのは、土手に引っかかった流木と、絡みついた赤い紐と名札でした。
嫌な予感がしました。見ない方が良いとも思いました。けれども、そんな事がある筈もないと傘の柄で流木を引き寄せて、名札に書かれた文字を確認します。
嗚呼、義兄弟は文字を読むのが苦手な癖に、書道となれば大層達筆な人であったのでした。
*
12. 云销雨未霁
再见,岂会此生不见?
一张结案状:衙役范无咎在酒肆伤人,但在案情查明之前,就遇暴雨溺亡于南台桥下,伤人案就此作结。
*
これで、この話はお終いです。
人の生とはかくも儚く、宛ら川の中で浮かぶ泡の様な物。その泡の大小に関わらず、ただ、突き出す岩にぶつかったかどうかで全てが決まる。
……はぁ。私の話ですか。きっと彼は知りませんし、私も敢えて語ろうとは思いませんから。どうにもこの体、私に主導権とやらがあるようなのですよ。彼は昨今に至るまで居館にさえ顕現できませんでしたし、そもそもあの男は昔はもう幾許か体格が良かったのです。
我らが此処に居る理由は。世を恨み人を恨み、魂を求め彷徨う狩人は、恐らく――。
――嗚呼、失礼。私はこれから遊戯に赴かねばなりませんので、ここでお暇させて頂きます。
どうぞあの男を宜しくお願いします。不愛想ですが、気は良い奴ですよ。
*
俺は間違えた。選ぶべき択を違えた。
俺は何一つ守れはしなかったのだと、死んでからようやく気付いた。また何より、己が目覚めなかったならば自分はこの罪を知らずにいたのだと、その事実がやたらと恐ろしく、濡れた髪の様に体にへばりついていた。
どうすれば良かったのだろう。アイツの様に人懐っこければ、周りの人々に助けを求められたのだろうか。アイツの様に賢ければ、窮地に陥る前に何かしら手を打てただろうか。それともいっそ、こんな運命であるならば、出逢うべきでは無かったのか――罪悪感に己を罰し続けても、けれど頭蓋の中の獰猛な狩人はそれらは全て誤りだと断じていた。
俺はきっと、あの時に――
「……」
さて、狩人として呼ばれた今生。行われる遊戯で相応の成績を残せば、願いが叶えて貰えるらしい。俺が居館で動いていられるのは、アイツがそれを望んだからだと聞いた。
俺にはどうしても、知らねばならない事があった。