「
呆然と
「嘘、だ……」
何本か尖った石が千春の身体を貫いている。
「貴女を苦しめた奴等は生かしておけないわ。塵一つ残さないから安心しなさい」
背後からは何やら叫ぶ声が聞こえる。話し合おう、渚は自由にする、二度と近付かない、助けて、と。千春は当然耳など貸さず、渚を見詰めた。
「ごめんね、鈍感な姉で。苦しみの全部を知らなくて……」
フルフルと頭を振り、渚の眼に涙が滲む。言葉が出ない。
「その仕草、好きよ。でも泣き顔は嫌い」
アゾビズ達の悲鳴が響き渡るが、やはり千春は見向きもしなかった。
ポタリ。落ちた血が渚を紅く染めた。
一滴、一滴と頬に落ちて来る。
温かい……
命の温度……
「千春……どうして……」
「理由? 簡単よ、渚が大好きだから……」
「血が……千春の血が……」
「不思議、痛くないわ。ちょっとだけ寒いけど」
「やめて……」
「渚。もし
「や、やめてよ……お願い……」
「渚のお願いは何時も難しいね。叶えてあげたいけど、もう……無理みたい」
「……嫌だ」
「生きて、帰りなさい……こんな狂った世界に居てはダメ……渚、大好き、よ……」
「千春……」
「お願い……お姉ちゃん、て、呼ん、で……」
「お姉……」
世界は真っ白に染まっていく。
喉は震えるだけで、それ以上何も聞こえなかった。
○ ○ ○ ○ ○
ゆっくりと重い目蓋を上げる。
少し燻んだ色合いのフローリングの床。
2DKの賃貸アパートは家賃の割に広い。ダイニングの向こう側にも部屋があり、子供の頃から愛用している学習机が見えた。その上には紙切れが何枚か。夜なのか、窓の外は暗い。青色の遮光カーテンは力無く垂れている。
うつ伏せに横たわったまま、渚はボンヤリと眺めた。
此処は間違いなく自分の住んでいた部屋だった。三年前、大学に提出する予定のプリントに書き込んでいた時と変わっていない。
身体に力が戻り、少しずつ感覚が戻っていく。すべては夢だったのかと、夢であってくれと思った。しかし、それもわずかな時間で否定される。慣れた感触が右手から伝わり、其れはこの三年間ずっと共にあったから見なくても分かってしまう。
カエリースタトスの冷たい肌が感じられて、同時に自らも変わらず少女のままだと理解した。
つまり、全ては現実に起きた事。
「千春……」
やっぱり甲高い女の子の声だ。
さっきまで存在を感じていた愛する人の姿はない。記憶では体が泡の様に分解されていって、視界が白く変化した。千春をあんな世界に残したくなくて、必死に抱き締めようと……なのに、泡となっていく指や手から何も感じられなくなって悲鳴を上げた。どう叫んだのか憶えていなかった。
「千春? 千春、どこ?」
誰も答えない。あの優しい声は耳に届かない。
一人、帰って来た。懐かしい世界、懐かしい日本なのに幸せなど欠片も感じない。外からは車の走る音や遠くからは電車の騒音が響くのに。
「嘘だ」
上半身を起こし、両膝をフローリングに立たせた。
見たくない、現実を直視なんてしたくない。それでも渚は部屋の全てを見渡した。
「いない……誰も」
直ぐ側に居た大好きな千春の姿はなかった。例え万が一に命が尽きたとしても、この世界に帰還したなら少しは救われたのに。あの狂った世界に、マーザリグの地下に残して帰って来てしまったのか……
のそりと立ち上がり、フラフラと前へ歩く。硬い革靴を履いたままだが気にもしない。畳を踏み締め、机の上にある書類を見た。記入は約半分で、間違いなく昔の自分の筆跡だ。日本語で、平仮名と漢字が目に入る。
此処はマーザリグじゃない。
視線を下げた事で服が赤褐色に染まっているのが分かる。千春の血だった。直ぐ横にある低床のベッドに身を投げ、渚は動かなくなった。
何故か涙は溢れない。
異能を使い、千春との出会いや日々を見直している。
もう二日もベッドの上に横たわり、アルバムを鑑賞する様に何度も、何度も、何度も。残念な事に映像だけで、声音も匂いも体温も感じない。だけど、千春の顔や姿だけは綺麗なままだ。揺れ踊る長い黒髪が美しい。
他に何も見たくない、感じたくない、在るのは千春だけでいい。
渚は自身が衰弱していくのが分かったが、心からどうでも良かった。息が止まる瞬間まで千春を側に感じたい、ただそれしかない。
『マスター、水分を摂って下さい。身体機能の低下が顕著です』
カエリーが幾度も渚を促すが、反応も返事もしない。
その日も陽が暮れて、夜が訪れようとしていた。
……
渚の意識が浮上していく。
帰って来て初めての事だった。横たわったままに耳を澄ます。いつの間にか点灯していたテレビからの音声のようだ。いや、最初から点いていたのかもしれない。
「いやぁ、仰る通りです。レヴリに有効とされながらも
「まだ名前だけですが、間違いなく念動の持ち主との事ですね。警備軍からの情報では、過去最高の力を持つかもしれない……此れを信じてよいのでしょうか?」
「断定は出来ませんが、可能性は高いと思います」
「ほう、それはどうしてでしょう」
「正式なお披露目が半年後だからですね。強力な異能ほど使い熟すのに時間が必要で、ましてや念動となると。しかしながら、異例の早さだからです。未熟なまま世間に知らせると良からぬ輩が現れるかもしれません。しかし安定しているならば危険はグッと下がる。発表時期は慎重に選ぶものです」
「なるほど。では期待出来ると」
「ええ、だから情報を公表したのでしょう。既にかなりの使い手となっているのは間違いありません。名前は何でしたかな?」
「第三師団の管轄で、かの有名な三葉司令の元に配属となります。名前は、
その名が渚に届くと、ぼんやりとしていた意識が戻る。
「危険な任務……アカナシ、ヒサ……命を賭けて?」
千春が何度も口にした名前、大好きな妹だと。
話す内容の意味は分からないが、苗字と名前が一致するなどあり得るだろうか? 何れも中々耳にしない響きで、渚は偶然と思えなかった。
身体を引き摺るようにテレビの前に座る。全身が酷く重くてふらつくが無視した。両膝を抱えてジッと画面を眺める。
どうやら軍?に志願した兵士の様だ。渚の記憶では日本には軍隊は定義上存在しない筈だった。自衛隊と呼ばれる組織はあったが、この様にテレビで発表されるなど聞いた事がない。レヴリと言う聞き慣れない単語は敵性の存在を示唆している。命を賭けてとは、このレヴリとの戦争を表しているのか……未だ理解が及ばない渚だったが、陽咲と呼ばれる人が近々戦場に赴く事は分かった。
「行方不明のお姉さんを探しているそうです。何とも健気な人ですね……頑張って頂きたいものです。では、次のニュースに……」
「行方不明、お姉さん……」
もう間違いない。
渚はテレビを消し、閉じていたノートパソコンを開いた。電源を入れて立ち上がるのを待つ。ふと喉が渇いているのを自覚して、ダイニングの冷蔵庫に向かった。記憶では二年も経っているが、その中身に変化はない。ペットボトルのミネラルウォーターを取り出し、蓋を取ろうとした。しかし、中々開かない。体力が落ちているのは勿論だが、何より筋力が大幅に下がったのだ。
昔はごく普通の男子学生だったのを思い出して顔を顰める。
ペットボトルを腿の間に挟んで、頑張ってキャップを捻る。暫くグググと力を込めていると、漸く音がして蓋が開いた。
コクコクと喉を鳴らし、久しぶりの水分を身体に補給する。図らずも愛銃の言う通りになったが、そのカエリーは何も言わなかった。
そして汗と血の匂いをそのままにして、再び畳部屋に戻る。
今から出来る限り調べて、陽咲の居場所を見つけるのだ。顔は分からないが情報は転がっているだろう。
レヴリ、命を賭けて、第三師団、三葉司令、そして名前。テレビで言う位なら探すのも苦労しないと予想出来る。意味不明な言葉達もついでに調べたら何か判明する筈だ。そうつらつらと渚は考えながら、ノートパソコンの前に座った。
もし彼女が何かと戦うならば、必ず守らなければならない。この穢れた身体も、ちっぽけな命も、全てを千春に捧げるのだ。千春の死は、間違いなく自分の存在が原因なのだから。殺したも同然で、もし出会わなければ今頃は……
あの人が愛した妹、陽咲の為なら自分など消えて無くなっても構わない。
悲壮な覚悟を千春は嘆くだろうか?
それでも……
それは……渚と陽咲が出会う、半年前の事だった。
再び陽咲達の世界へ戻ります。