青年──レイン・アルベールがヴィクトリアへ帰還したのは、日が昇り始めてまだ間もない時だった。
この時間帯独特の涼しい空気を胸いっぱいに吸い込む。少し長めの藍色が風に揺れている。
「ふぃ〜…やっぱりヴィクトリアの朝は最高にいい空気だ。あんな古びた遺跡なんて目じゃないな!」
門を潜り、まだ誰もいない大通りを歩く。遠くから香ばしいバターの香り──老若男女問わず人気のパン屋がパンを焼いているのだろう。レインもよく訪れる店だ。今すぐ、あの柔らかなパンを頬張りたい気持ちを抑えて、目的地まで早足に進む。
大通りを進んでいくと、そこにあるのはアリシア城。城は周囲を水で囲まれていて、敷地へ入る道は架かる石橋の一つだけだ。門の前には、朝早く衛兵が──夜中にも他の衛兵がいるであろうが──警備の目を光らせている。その衛兵たちの背後にいくつもそびえ立つ尖塔と、風に靡いている国旗。
だが目的地はそこではなく…城からもう2キロメートルほど離れたところに建つ、これまた巨大な建物。城と同じく旗が靡いているが、その意匠は城のそれとは大きく異なる。
剣、銃、杖が交わる物々しいデザインは、帝国軍基地の証──アリシア帝国最大戦力であり、レインの職場である帝国軍本部だ。
基地へ近づくにつれ、人の気配が増えていく。軍本部は軍に関する組織の全てが集結し、その数は50を優に超える。常に行動できるよう一定数兵が待機している。
軍基地の入り口の警備をしている顔馴染みの警備員に軽く挨拶をし、建物へ入る。
内部は正面に受付が構えられ、広い廊下が左右に広がっている。そこを書類を抱えた兵士たちや軍所属研究員が忙しく行き交っている。
レインは右の廊下を進み、階段を2階分上がると、倉庫区の方へ向かう。参謀や部隊室は別の棟に存在しているのだが、レインの目的地は例外的に、人があまり訪れない区域に隠されるように配置されている。
途中で廊下を曲がり、さらに
突き当たりには一つだけ、ポツンと漆黒の扉がある。部署名も何も書いてなく、ひと目ではここが一体何なのかさえ分からない。
レインはドアノブに握ると、そこへ魔力を流す。この扉には
ガチャン!と音がして鍵が開く。そのままゆっくりと扉を開ける。
中は、窓のカーテンが閉められているせいで薄暗くなっていた。ずっと窓を閉め切っていたのか、空気に新鮮さがない。
「
レインがやや大きめの声で言うが、反応はない。
「おっかしいな、
きょろきょろと室内を探すと、すぐにアイツ──マリー・オルティリアは見つかった。
マリーは作戦会議室の机の上に金色の髪を広げながら突っ伏してる。その周りには地図や報告書や書籍……あらゆる資料が散らばっている。どうやら夜通しで作業をして、そのまま寝落ちしてしまったらしい。
すやすや……と、静かな寝息を立てながら寝ている。その寝顔は端正で、人の目を否応なく引き付ける。もっとも、レインはもう見慣れてしまったが。
「おいマリー、帰ったぞー」
軽く肩を揺さぶりながら言うが、起きる気配はない。
「はぁ……」とため息を吐く。申し訳ないが、報告もあることだし、無理やり起こさせてもらおう。
レインは机の上にある紙を数枚重ねて、くるくると筒状にまとめると……
「起きろぉぉぉぉぉ!!!」
スパァァン!!と、思いっきりマリーの頭を引っ叩いた。
「いったぁぁぁい!!!」
絶叫と共に椅子から転がり落ちる金髪。ついでに机の上の資料も床にぶちまけながら。
「いきなり何するのっ!?人がすやすや休んでるってのに!」
涙目で抗議してくるマリーに思わずため息が出る。
「あのなぁ……。人が任務から帰って、さぁ早く報告だーって時に、目の前で気持ちよく寝られてたら叩き起こしたくもなるだろ」
「もっと優しく起こしてくれてもいいじゃない……こんなにか弱い女の子だよ?」
床に可愛らしく座り、上目遣いに見つめてくる。整った容姿でのその仕草は凄まじい破壊力を持つ……普通なら一目惚れも免れないが……。
「お前が──帝国魔導士第0番隊隊長《氷獄》マリー・オルティリアが『か弱い』なんて、冗談だろ?」
「むぅ、そう言うことじゃなくてさぁ⋯⋯」
差し出されたレインの手を借りて立ち上がると、スカートを叩いて整える。
ティーセットを用意して、紅茶と茶菓子を2人分並べると、レインは報告を始めた。
「とりあえず、今回のターゲットだ」
レインは鞄──あの古代都市で男から回収した──を渡す。マリーは簡単に中身を確認すると、満足そうにうなずいた。
「たしかに。ご苦労様。迅速な回収に感謝するわ」
「なぁ、そりゃ一体なんだ?いや、教えられないんならいいが⋯⋯」
「これはねぇ、ある大臣の不正の証よ。そのうちクビが飛ぶからわかるわ……」
大臣の不正⋯⋯簡単に思いつくのは経費の横領くらいだが⋯⋯。おおかたこの任務も対立派閥からのものだったのだろう。
「回収時に対象からの攻撃魔術での攻撃を確認。説得、投降は不可と判断し、反撃。殺害した」
「ん、問題なさそうね。他に報告は?」
「いや、特に気になった点はない。あとはそっちに託すが、大丈夫か?」
「りょうかい、《伏龍》に頼んでおくわ」
紅茶を一口飲んで、クッキーを口に放りこむ。サクサクとした食感と上品なバター風味が口いっぱいに広がり、携帯食料しか食べてなかったレインの脳が甘美で満たされる。
「さて⋯⋯以上で報告は終わりだ。俺は帰るぜ〜、寝てないんだ」
「あ、そうそうレイン。新しい任務よ」
ぽいっ、と筒状の紙がレインに投げ渡される。赤い紐で止められたそれは、命令書だ。
紐を解いて内容を眺める。⋯⋯そこには、思いもよらない事が書いてあった。
「あぁ?教師⋯⋯?」
「そう、レイン。あなたは教師になってもらうわ!」
おそらく続くだろう⋯⋯