ある日、墨字さんが「巌裕次郎演出:明神阿良也主演」のチケットを持って、それでけいちゃんに演劇を観てくるように言っている。
「チケットを貰ってな、2枚ある、行ってこいよ」と言うが、けいちゃんは「それより、次のオーディションを受けたのだけれど」と次への仕事への意気込みを言っているが、「まあ観劇も勉強だよ、これ持って行って来いって『千世子』あたりと」と言った瞬間、目が輝きだした。私としては何処で、そんなレアなチケットを誰から貰ったのかが、気になるのだが、まあ墨字さんもこの業界の人間だから、そういう事もあるのだろうと考えていた。
ただそれからしばらくして、スマホのLINEを画面ずっと見つめて「よかったら、明日一緒に演劇に行きませんか?」と書いてある文章の前で、けいちゃんは固まっていた。私は「送らないの?」と聞くと「もし、断られたら、悲しくなってしまうことに、今気づいたの……」との事らしい。珍しく乙女チックな事を言っているが「アホか、早く送れ!」と墨字さんが横から割り込んできて、サッサと送信ボタンを推してしまった。
それに、唸り声をあげて「何するのよ、断られる時の私の気持ちを考えてよ、変態!」と言って「思春期か! 半端に繊細になって、帰ってきやがって」とけいちゃんと墨字さんがじゃれ合っている。
それに子供たちが「お姉ちゃんって、携帯持ってたっけ?」と言っているが、私が「デスアイランドの制作にスマホ会社が携わっていて、貰ったんだって」と答えた。流石に現代に固定電話しかないのは辛い……ウチで支給することになったかもしれないから、ありがたい。それにウチで支給すると完全に仕事用としてしか、使わないようなプライドがけいちゃんにはあるから、丁度よかった。
その直ぐ後に「何か、届いてるよ!」と子供たちが言う。LINEの画面にはOKの可愛いスタンプが貼られている。ああ、本当に「千世子」ちゃんと友達になっているんだ、良かったと思うのとけいちゃんが喋ったあの話の信憑性が増した。本当に凄かったんだなぁ……
今日、けいちゃん達が観に行ったのは劇団「天球」での演劇、舞台役者「明神阿良也」主演の作品。演劇界の重鎮の一人、舞台演出家「巌裕次郎」その人本人が、見出したのが「明神 阿良也」だ。今はまだ若手だけど巌さんのお気に入りで、いろんな賞を総なめにしてて、テレビではいうほど知名度はないかもしれないけど、とんでもない実力者だ。
そんな、舞台を見て返ってきた筈のけいちゃんが、全く生気のない状態で、子供達に遊ばれている。私は先ほど述べたような来歴を適当に喋った後「舞台も凄かったでしょ?」とそう聞くと「……うん」と小さな肯定が返ってきた。
そのなんだか気落ちした返事に「なんで、そんなにテンション低いのかなぁ! 私だって『阿良也の舞台』見たかったのに、我慢してチケット、けいちゃんのデートに譲ったのに!」とワザと子供っぽく駄々をこねてみた。すると子供達は「デート」という単語に飛ぶついて、面白い反応をしている。「デート!? お姉ちゃんデートしてきたの!」と騒いでいる。
そんな「デート」という言葉には反応を見せずに、けいちゃんは悔しそうにしながら「……本当に凄かったわ、そう『千世子』ちゃんのお芝居は画面の向こう側でキラキラ輝いてるって感じでしょう? 綺麗すぎて手が届かない感じ「阿良也」くんは正反対だった……彼が泣くと悲しくて、彼が笑うと嬉しかった。観客と自分と役の境目がなくなる感じ、鳥肌が立った」と本当に打ちのめされたように語っている。
しかし、一気に口調が変わって「それなのに、実際会ってみたら、失礼なセクハラ男だったのよ、舞台の上では、あんなに素敵だったのに、騙された気分だわ」と手足をバタバタさせて怒っている。
私は、ああ、それで不機嫌だったのかぁ……という感想を抱くが、本人に直接挨拶してきたんだ。それはそれですごいなあ……とも思うが、子供達は「お姉ちゃん反抗期? あー反抗期かー」などと言って、けいちゃん「で」遊んでいる。
けいちゃんはそれでも辛かったようで「……悔しい、私にはあんな芝居できない……」と言っているが、そこに墨字さんが現れて「できねえじゃねーよ、するんだよ、お前にに欠けてる物は『観客への意識』だ。映画はカメラが、役者に寄り添ってくれるからな、自分の内面だけに集中していても返って、それは武器になる。だが演劇はそうはいかない、阿良也のあれは全て役者に必要な能力だ」と墨字さんが大見得を切って登場した。
そんな偉そうなことを言っているが「……黒山さん、久しぶり?」とけいちゃんにあしらわれている。そんな言葉に墨字さんが「昨日も、一昨日も会ってるよね!?」と割りとマジ切れしている。多分、割と真面目に語ったから相手にされなかったのが悔しいのだろう。まあ確かに『観客への意識』の言い分に対しては私も、その通りだと思う。ただ、夜凪家の面々は口々に、そうだっけ? クロちゃんいつ働いてるの? と本当に素っ気ない。
それにちょっと切れ気味に墨字さんは「お前に、新しい仕事紹介、してやんねーぞ!」と脅すような事を言うが、けいちゃんはそんな事お構いなしに「仕事、お芝居の! 私、オーディションを受けてないのに!」と目を輝かせている。
一枚の紙をけいちゃんに差し出して「良い鼻を持った演出家は、時にオーディションなんて必要としないもんだ、阿良也の芝居に近づきたいなら此処へ行け、お膳立ては進んである」そう墨字さんが言い終えると、けいちゃんは口元を少し緩ませ、「うん、行ってくる」と楽し気に言った。
ちなみに、墨字さんに何処に行かせたのか、何となく聞いてみると「巌のオッサンの所」とアッサリ言ってのけた。それって「あの『巌裕次郎』さんの所に行かせたってことですか?」と言うと「そりゃあそうだろ、何のために観劇させたと思っているんだ?」とあっさり言ってのけた。どうようしながら「いやいや、そんな大御所にコネクションがあったなんて初めて聞きましたよ!」というと「そりゃあ、初めて言ったからな」と返してくる。ああ、この人もけいちゃんと根本的には変わらない。変人の分類に入る事を思い出した。
いやはや、いつも仕事をせずに外をブラブラしているから、パチンコにでも行っているのか? と本気で問い詰めようかと思っていたが、恐ろしい所から仕事を取ってくる。この人は本当に謎が多い。未だに、自分の監督論や映画論何かについても殆ど教えてもらった記憶がない。
非常勤時代に、ごく一般的な映画論を教えてくれた事はあるけれど、あくまで主観の入っていない物だった。 そういえばただ、一回だけ酔っぱらってる時の与太話として、先生とか師匠みたいな人物は入るんですか? と聞いたときに、アイツは「そういうんじゃねえ」と本気目のトーンで言われたので、きっと「そういう人物」がいたのは知っている。
後に知ることになるが、この「人物」がいたから、巌裕次郎の最後の演劇に、黒山墨字は夜凪景を出すことが出来た。ある意味、皮肉な話だ。
まず、誤字脱字報告ありがとうございます!
まさか、桃城と百城を打ち間違えるとは思いませんでした。
それと、二週間連続投稿をして、気づいたのですが、毎日投稿って本当に大変なんですね……なので、2~3日に一回のペースでの投稿に切り替えます。とにかく、120話以降のオリジナルの話が書きたいので、それまではなんとか頑張ります!