彼女が死んでも、物語は続いていく   作:HAL2001

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女子三日会わざれば刮目して見よ

 結局あの後に報道から出たのは、星アキラくんがあの場所に居たのは、新たに巌裕次郎の舞台へ出る為だったという話になっていた。これはけいちゃんも知らなくて、寝耳に水だったらしい。どういう理由かは分らないけれど、スターズの戦略ということなのだろう。まるで、取って付けたかのような配役だけれど、けいちゃんの主演の理由の方がよっぽど分らないのでなんとも言えない。

 

 それよりも、けいちゃんの感情表現の方が問題だ。どうすれば良いのか、ずっと悩んでいるけれど、あのヒゲはまるで相談に乗ってあげない。ただ、ある日に「考え事をするには、良い公園がある」と言って、井の頭公園を紹介していただけだ。

 

 それで、とある日に子供たちを連れて釣り堀に出かけた際にどうしてけいちゃんにそんな事を言ったのか聞いてみた。ちなみに子供たちは、いつ墨字さんが働いているか? という素朴かつ絶対的な質問をしてきた。その答えは私も知りたい……

 

 ただその答えは案外意外な物で、なんだかんだ言いながら教えてくれた「あそこは大道芸人みたいなの多いだろう、それだけ観客が多いから都合がいいんだよ。映画俳優は直接観客を前にすることがないからな……」私は一体何の話をしているのか分からなかったが、墨字さんは続けて「夜凪の芝居は多分、現実逃避の果てに生まれたもんだ。そこに現実を生きるための希望を見出したのは良いが、それじゃあまだ足りねぇ、そろそろ思い出してもらわないと俺が困るんだよ……」と続けた。

 

 結局良く分からない意図を教えてくれて、どうしようか悩んでしまう。ちなみに、どうやって仕事をサボっているのかも良く分からない。なんだかんだ、業界人として色々首を突っ込んでいるらしいから、ノートパソコンやスマホで連絡は結構対応してのは見かけるがただ、今は待っている状態なのだろうか? 私は「監督」黒山墨字の実質的なマネージメント業務をこなしていたり、過去の映像データの管理や運用、それらを用いた単館系・ミニシアターでの上映についてもあるので、なかなか大変だ。まあ、子供たちはそこまで手がかからないけれど……

 

 しかし、その言葉によってけいちゃんは一気に役者として成長して行くことになった。どうやら井の頭公園で本当に、パフォーマンスをしたらしい、単純な新聞紙で作った人形劇だったけれど、それで何か大きな物を得たようだ。自分の表言という物、その原体験にある演技というのは、何だったのか? というのを墨字さんなりに思い出させる手段として、このような方法を行ったみたいだ。

 

 実際に、その人形劇は目の前で、子供たちに実践して入るところを見たけれど、本当に上手だった。感情の抑揚や喋り方、そのキャラクターに成りきって、演じるという事においては子供向けの内容だったとしても、いや子供向けだからこそシッカリと感情を伝える技術としては、分かりやすさが求められるから、伝わりやすい。

 

 なるほど、理屈としては納得がいく。けいちゃんにこの件で話を聞いたら、誰かに喜んでもらうため、小さな時にお母さんとした『いないいないばあ』が演じる事の始まりだと言っていた。けいちゃんらしい素直で実直な答えだ。

 

 ただこれは彼女の感情表現という前提の話だ。表現そのものについて、まず潜っていた所から浮上する「方法を思い出した」という感じなのだろう。それではまだ始まりに過ぎないが、これでようやくスタートラインには立っただけ「カムパネルラ」への挑戦が始まった。

 

「カムパネルラ」という役を自分自身で、会得するのは簡単な訳がない。物語的にも難しい役割で、どこか謎めいていて、達観している。それでいて年相応の幼さを残した、その形容しがたい気品や美しさや儚さ、また死者であるという自己を受け入れている存在、そんな難しい役割を演じなければならない。

 

 その為に、作品に没頭するということ、役を理解する事、どういう考え方の人物なのかを知らなければならない。 ただ、その辺りから阿良也くんは本気を出してきたみたいで、一気にけいちゃんの事を興味を持ったみたいだ。どうやら阿良也くんはこの作品における答えを「ジョバンニ」という存在を理解するために、けいちゃんを利用しようとしたらしい。どうも「ジョバンニ」の境遇とけいちゃんの境遇をリンクさせて見ていたとのことだ。他人の感情を自分の物にする。そういった芸当を見せつけられたとけいちゃんは言っていた。

 

 そうしているうちに、本当に突然「百城千世子」ちゃんが現れて、ふらりと遊びに誘って、色々と出掛けたらしい。お芝居を見に行く約束をドタキャンしたお詫びだというが、真相は分らない。この事をいきなりYahooのトップニュースで流れて来て知った時は驚いた。

 

 ただこの辺りの出会いと衝突が、一気に話を大きく変えていった。正直に言うとこの辺りの事を私はよくは知らない。けいちゃんは学校と稽古でほとんど顔を出さなかったから、私が単純にほんの少し見ていないうちに、一気に成長してしまっていた。

 

 子供たちの学校の送り迎えの後、けいちゃんの稽古場に寄る時間があったから、少しお邪魔して、巌さんにけいちゃんの日頃のお礼と墨字さんが迷惑をかけたというお詫びをしようと顔を出した時だ。偶然、けいちゃんの練習風景を見てしまった。そこには確かに一人の「役者」がいた。

 

 何があったのかわからない。理解できない成長速度だった。人ってこんなにも早く変わるんだ、変化するんだ。そう実感させられた。ただそれでもけいちゃんは、役から元に戻るといつものけいちゃんなので、本当に役に没入するというのは、何かを変えることなのだと感じてしまう。 それがけいちゃんの芝居なのだ。そもそもデスアイランドの話だって見てはいないんだから、そうか、もう知っているけいちゃんではないんだ。

 

 墨字さんが最初連れて来た時は、確かに才能の塊だとは思ったけれど、ここまで凄いとは思っていなかった。何をして生きていればこんな風に、なれるのか分らない。ただ彼女がなぜあそこまで没入できたのかと言うと、自分自身にとって知らない誰かを演じることがただ楽しいからというのが、そこにあったからだと思う。ああ、これが墨字さんが見たかった風景なんだ。

 

 こんなにも恐ろしく成長するんだと、あっという間に素人だったはずのあの子が、本物の「役者」に変わっている。それもトップクラスに上手い「役者」だ。本当にあの「明神阿良也」と肩を並べる芝居というのをほんの少しだけ垣間見てしまった。これは「百城千世子」ちゃんと出かけたあの日辺りから、加速度的に変わっていったと巌さんが教えてくれた。強面で言葉遣いは少し怖いが、仕事には真摯そうな人柄だ。ちなみに、墨字さんの事をいうと、多少小言を言ったあとに「まあ、アイツの金の卵だ、大事に温めるよ」とボソッと言ったのが印象深い。

 

 そして稽古の日々は続き、ある日、役者の芝居人みんなと屋形船に乗って帰ってきた日だ。 楽しい宴会のはずだった。いや実際そうだと思う。その日からけいちゃんは完全に変わっていた。今まで身につけた空気が違う。張り詰めた糸のような、何かを知ってしまったような目をしている。 どこか気まずそうだ。

 

 後にして思えば、この時には、けいちゃんは巌さんの事を、病気を知っていたのだろう。故に、それを昇華させる為に、推し堪えていたのだと分かる。そしてそれは「カムパネルラ」を演じるために必要な物でもあった。

 

 




本作品を作るにあたって、宮沢賢治作品をいくつか読み返していますが、なかなか手ごわいです。心象スケッチ内の言語的感覚はなんとも独特で、現代語訳を片手に味わっています。
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