その日も私は雑務をこなしていた。また墨字さんが、土壇場で仕事をキャンセルしたという。いつもいつもあの人はこういう厄介事を私に後始末させるんだ。私がどれだけ頑張って仕事を持って来ているかまるで分かっていない。
あの恐い顔つきと体格も慣れてしまえば、流石に文句ぐらいは言えるようになる。スタジオで、ある映像を見ていた彼に、私は怒鳴り散らした。このままでは私の給料にだって影響が出るからだ。
ただその日は何時ものようなはぐらかすような口調ではなく、まるでとても大切な宝物を見つけた子供のような口調で、私に不思議な事を言った。
「いつか必ず歴史に名を残すだろう、役者の原石……そんな才能を見つけたらどうする?」
そんな夢みたいな話をはぐらかすためにいったのかと思うと、どうやらある映像を食い入るように見ながら真剣にいっているようだ。そうして今日、これから撮影なのにどこかに出掛ける準備をしている。止めようとすると、ニヤリと笑って
「原石を磨きに」
と言ってのけた。結局、撮影スタジオ前で、現地合流する事になって、その「原石」とやらを連れて来るらしい。突然すぎて、少しパニックになるが、ある意味、いつものことだ。
ただ、この時はいつもの範疇を優に超えた言動だった。初めて彼のいう「原石」と出会った時、墨字さんは勝手に持ってきたらしい。もちろん「原石」というのは比喩表現だから、実在の人物を強引に誘拐・拉致してきたということだ。
この印象的すぎる出会いが女優「夜凪景」との出会いだった。
この後、私はこのヒゲ野郎と共に、とにかく平謝りをした。ここでも墨字さんは強情で、なかなか謝らないから彼の頭を無理に押し付けて、とにかく誠意を見せようとしたが、当然のように彼女からは嫌がられた。彼女は流石に、場所がちゃんとした大きなセットが組み立てられ、カメラや照明や映像を撮影しようとする「スタジオ」だった事から、墨字さんが誘拐・拉致しようとしたのではなく、役者としてスカウトしたかったという事は理解してくれていた。
でも、明らかに墨字さんに嫌悪感を抱いていたし、怒ってもいた。ある意味、いや至極当然だ。どうやら、学校への登校中に強引に連れてこられたようで、本当に拉致で訴えられたら負けるかもしれない状況だった。墨字さんは彼女を「金の卵」だといって、私にフォローも求めたが、どう考えてもこんな状況で、演ってくれるはずがない、流石に無理だ。
そうして、流石に付き合いきれなくなったのか、夜凪さんは適当な理由を付けて帰ろうとする。それがごく自然なあたりまえの行動だ。ただ、それを墨字さんはこう言って引き留めた。
「あーあ、せっかく、お前を主演にCM撮る予定だったのにな」
そう墨字さんは、明らかに彼女に聞こえるように呟いた。その「CM」という言葉に彼女が反応を見せた瞬間。墨字さんは大人げなど全くない本気での「煽り」を披露した。
めったにないチャンスを前に、ビビったのか、要するに腰抜けなんだろ、帰れ帰れ自称役者(笑)だのとよくもまああんな事を言えるものだ。
そういった煽りに流石に乗せられて、彼女は「私は役者よ‼ 演ってやるわよ‼」と完全に口車に乗せられていた。私は根本的解決は全くしていないんだけどなぁ……と思ったが、取り合えず、目の前の仕事に集中することにした。
CMの内容は新発売のシチューのウェブCMだった。コンセプトは「父の日にシチューを」内容は主人公の少女は初めて一人でキッチンに立つ。仕事から帰ってくる父親のために、慣れない手つきで手料理を作っている。喜ぶ父親の笑顔を思い浮かべながら、味見をして終わり。
というまあ、ありふれた企画で、そんなに難しくない内容だ。そんな企画にいくらか暴言を吐く墨字さんと割と緊張していない受け答えをする夜凪さん。
とりあえずテストを撮ることになった。あの黒山墨字のいう「金の卵」が何を見せてくれるのか期待しながら、カチンコを鳴らした。カメラに映し出されたのは、とんでもなく手早く、野菜を刻み、的確に炒め、フランベさえする姿だった。
当然すぐにカットが掛かり、墨字さんが大声を荒げて真剣にやれよ‼ と言っているのに対して、夜凪さんは真剣よ‼ 味見してみる⁉ とこれまた頓珍漢な事を言っている。
まるで、ダメだ。この子は芝居というものを分かっていない。どうしよう、今この場にクライアントだっている。ウチがこの役者を配役したのは信用問題になる。そんな事を考えていると、墨字さんは一呼吸おいて、彼女にこう尋ねた。
「お前『芝居』を何だと思っている?」
夜凪さんは少し考えた後「思い出すこと?」そう言った。その瞬間から空気が変わった。
そこからの墨字さんの指示は彼女にとっては明瞭だったのだと思う。「分かっているなら、早く演れよ、初めて親父に料理を作った日を思い出せ、カチンコの合図と共に過去に戻り、カチンコの合図と共に現実に戻ってくる。それがお前の芝居だ」出会ってほんの少ししか、経っていない相手に力強い口調で断言した。
少し間を置いて、緊張した声で「私、父親に料理を作ったことないの、戻るべき過去がないわ……」そう言った彼女は不安そうな顔をしていた。
墨字さんは少し考え、諭すようにこう言った「この際相手は誰でもいい、初めて手料理を作った日を思い出せ、俺が撮りたいのはお前の愛情だ、誰かのために努力するお前が見たいんだ」
その返答は「カレーライスだったわ」という一言。この時の眼差しはとてもとても綺麗で、墨字さんは本番に移って大丈夫だからさっさと撮るぞと言った。この時、先ほどの失敗をした彼女が、完全に場の空気を支配していた。本番の撮影が始まった。
先ほどまでの卓越した技術はどこに行ったのか? そこには本当に初めてキッチンに立った少女がいて、誰かのために、拙い技術で、真剣に料理する姿があった。とても不器用で、包丁で指まで怪我をして、それを誰かを思って笑ってごまかした。少しずつ出来上がっていくシチューを見て私は、墨字さんが正しかった事を知った。
「一体どんな、半生を過ごせばこんな人間になれるのか、この子は『本物』だ」
ラストの味見をする横顔は、その場の全員を魅了した。当然これでOKが出た。ただ、シチューは本当に焦げていたから、別撮りになった。
結局その場で、ギャランティの話や契約内容の話もしなければならないから、夜凪さん、いやけいちゃんはウチの事務所に所属する俳優になった。その帰り、今朝、事実上拉致されたの車に揺られる最中に、けいちゃんはずっとそのCMに使われる素材を見て微笑んでいた。カメラの前で初めて演じたんだ。当然かもしれない。
そうして、けいちゃんはポツリと「……うん驚いたわ、私って思ったより、綺麗なのね」 そう心情を吐露した。それを相変わらず子供っぽい墨字さんはからかって、運転中の車の中で二人は大暴れした。
その日、墨字さんから、ある連絡があった。
「夜凪が今日、失敗した最初のテイクから、OKがでた最後まで映っている所『全て』とにかく集めておいてくれ。クラウドと物理媒体にもバックアップを多重にしておいてくれ。それと今後、夜凪が変だと思う行動や言動をした瞬間も撮影しておいてくれ、多分使うことになるから」
この命令は私はプロモーション映像の一つだと、私は勝手に思っていたけれど、全ては黒山墨字の映画作品の素材にするためだとは知らなかった。黒山墨字の作家性はある人間の「日常」を切り取って、一つの映画作品に仕上げてしまうことだというのにも拘らず……