あの新宿での映像はそのバンドのMVとしてYouTube等の動画サイトに流れて、監督やクレジットに関しては墨字さんの名前は敢えて明記はしなかった。だけれど当然として、写っているのは「夜凪景」だというのは見ればわかる。
そんな有名人効果も多少あるだろうが、その映像自体が凄まじい再生回数を稼いで、日本のみならず、世界中で評価されることになった。やはり、あの映像のクオリティがとてつもないのは見れば簡単に分るんだろう。だからスタジオ「大黒天」は、またあの騒がしい電話が鳴り響くことになった。ただこんなにも大きな騒ぎになったのに、黒山墨字の名前を出さなかったの少し不思議だ。
ただまあ、元々あまり名声にこだわる人ではないし、あくまでもけいちゃんを撮りたかったというのが本音なのだからそれでもいいのかもしれない。あくまで、主役は「夜凪景」なら自分は重要視しないというスタンスを貫いたのだろう。
ただそうこうしてるうちに、とんでもなく大きな仕事が舞い込んだ。これに関してはちょっと何とも言えないことだ。あの「天知心一」プロデュースで、しかもキャストが「百城千世子」「明神阿良也」そしてあの「王賀美陸」が揃えるらしい。
「王賀美陸」についての説明は、簡単に言えば元スターズの俳優で、現在は拠点をハリウッドに移した、世界的な日本人俳優だ。もう、日本で活動する事はないだろうとされているような超大物がこの舞台の為に帰国しているとのことだ。
これをけいちゃんに受けさせるにしても断るにしても、とんでもない座組が整っている。ああ、墨字さんは多分、彼の事をハイエナと言っていたのだと思うけれど、ハイエナを舐めてはいけない。ここまで狡猾に、抜け目なく、計算高い存在が「味方」になりたいといってきた時の対処は本当に難しい。
墨字さんはこの件は、妙に達観した口調で、私に語ってくれた。このキャスティングは、完全に「夜凪景」という存在を中心に、最高の敵方二人と最強の味方を用意したあいつの一世一代の大博打との事だ。初めは敵という意味が分からなかったが、聞いていると恐ろしい内容だった。
「ダブルキャスト」一つの役に二人の役者をあて、一部又は全てを交代で出演させ、上演する手法。そして今回は一つの脚本で、完全に二つの舞台を作り上げて、役者は全て交代させて、その舞台のどちらが優れているか比べるというものだった。つまり、今まで共演してきたあの二人は敵で、あのスターが味方になるということだ。
後日、事務所にてけいちゃんが墨字さんからこの舞台の正式な説明が行われた「阿良也くん! 千世子ちゃんの共演相手って阿良也くんなの!」とけいちゃんは戸惑っている。どうやらダブルキャストそのものはもう知っていたらしいが、共演者までは知らなかったようだ。
墨字さんはすました顔で「そうだよ言ってなかったっけ?」と答えると「聞いてない! っていうか、黒山さんから今回何も聞いてない!」と怒っている。
墨字さんは「今回、阿良也も敵方だよ、千世子とそろってな、怖かったら辞退してもいいけど」といつもの煽る様な口調で言うと「なっ、そうやってすぐ私の挑発す……」と怒った口調から、急に少しけいちゃんは黙って、何かを思い出すように、自分の意思を確認するようにこう言った。
「怖いけど、それ以上に楽しみ」と覚悟を決めたように言ってのけた。
その様子に墨字さんは少し楽しそうに微笑みながらテレビを指さし「ちなみにこいつが、お前の共演相手な」とテレビの中の「王賀美陸」に視線を向けた。
ちなみにその時、王賀美は「桃尻だよ、桃尻千世子だよ」と明らかにけいちゃんが激怒しそうな事を言っていた。いや、しそうではない実際に激怒した。
結局、正式に文句の一つでも言わないと気が済まないとか言いながら、この舞台に立つことをけいちゃんは決めた。それは「天知心一」のこの意地悪な座組に挑むということだ。
その為に、一度顔見せに行くことなった。ここで、何が起こったのか、後でけいちゃんに聞いたら、王賀美さんはやはりスターというか、かなり可笑しな人だったらしい。いきなりお姫様抱っこしてくるし、バラの花束は渡されそうになったし、子ども扱いしてくるし、お肉もご馳走してくれたし、まあ総合して非常識な人だという。それが全て本当ならかなりの破天荒な人物だが、ある意味イメージ通りの大物だ。
また、プロデューサーの「天知心一」という人物について聞くと、なんだか少し歯切れが悪い答えが返ってきた。どうも初めは彼について嫌悪感をけいちゃんは隠そうとせずに、その思いを直接言っていたらしいが、その言動を受けて「天知心一」は無表情のまま涙を流したらしい。そしてけいちゃんが喜んでくれると思って、頑張った旨を伝えてきたとのことだ。
ある意味、凄く嘘っぽい感情表現だが、半分は本当なのだろう。涙を無表情のまま流せる人は一定数いるし、それを交渉の武器にする人間は信用できないが、実績として今の日本で考えられる最高クラスの座組を用意しているのも事実だ。
けいちゃんはその事実を含めて、きっちり泣かせた事を謝罪をして、自分が望む素晴らしい舞台で、こんな凄い人たちと芝居が出来るなんて、とても幸せだと、ありがとうと、必ず良い舞台にすると述べたらしい。実際に彼がしたことはけいちゃんにとってはとんでもないチャンスなんだから、そう答えるのも礼儀なのかもしれない。
まあ重要なのはその後だ。実はこの段階では、まだ台本が上がっていなくて、台本はただいま執筆中で、まだ両方の演出家も完全には決まっていない。ただ、基本はある新進気鋭の作家が中心になっているらしい。
ただこの舞台「羅刹女」ダブルキャスト公演は、この四人の人物を中心に作成することはすでに決まっていて、数十台のカメラで撮影し、全国のシネコンや動画配信サイトでも公開予定、演劇であり映像になる、国内過去最大規模の舞台になるとのことだった。
他のキャストはオーディションを終え、ただいま審査中で、来週には稽古に入るらしい。本当にとんでもない舞台になった。
ただ、今回は一つ明確にある策略に巻き込まれた。スターズの運営が「百城千世子」を使いたいなら、演出家に関しては「黒山墨字」をキャスティングしろというものだった。これで、本来ならけいちゃんと王賀美さんの陣営に入る筈だった、私たちスタジオ「大黒天」は分断してしまうことになった。
流石に横暴かと思ったが、この提案はあくまで、スターズ陣営が黒山墨字の才能を買っている証拠でもあり、スターズ主催の映画である「デスアイランド」のキャストに選ばれた時に「お願い」をした過去があり、そもそもけいちゃんの発見をスターズから引き抜いた以上、大きな借りはある。
ここで、この提案を受けなければ、この企画・計画は破綻してもしかたない。受けざるを得ないのが現実だ。それ故に、私たちはサイド「乙」に入り、サイド「甲」のけいちゃん達と事実上敵対関係になった。
サイド「乙」の最初の顔見せの時「演出の黒山だ、色々あって巻き込まれた……が仕方ねぇと思って、此処にいるよろしく」と墨字さんがそう言った。ここから、けいちゃん達との戦いが始まった。