その二人の異質さは確実に強く舞台に働いていた。「姉御……久しぶりだな、牛魔王のオジキはいねえのか……あんたの旦那さ」明らかに気味の悪い演技、獣の動きというのか、人間の皮を被った猿のような、独特の存在感がそこにあった。
「帰りなさい、私は今、虫の居所が悪いのです」そう優しげな表情ではあるが、明らかな怒りが感じられる。
「そうはいかねえよ、俺はあんたの芭蕉扇に用があるんだ」一触即発の空気が流れた。美女と野獣、野生のリアリズムの芝居と人工的な天使の芝居、対照的な演技故にか、全体をより際立たせている。
そしてそれはより「羅刹女」が美しく見える。
「何が造花は生花に勝てねえだよくだらねえ、てめえがてめえで築いてきた努力を否定しちゃあ世話ねえな、お前の努力が誰に勝てねぇって?」 そう言って墨字さんは楽し気に千世子ちゃんの事を皮肉混じりに褒めていた。相変わらず、口が悪いが全くもってその通りだ。
確かにメソッド演技というモノにおいて己の感情は武器になる、だけれどこれだけじゃあ「夜凪景」に及ばないかもしれない、けれどそもそも「百城千世子」という存在であるというそのものが、武器なのだ。それに気づけば話は変わってくる。
「くれねえってんなら腕づくでいくぜ、牛魔王のオジキがいねえってのは好都合だ」まるで野生児そのもののような衝動的な芝居はなんと「羅刹女」にも伝播した。
「あんな男になくとも」そう言って四足歩行の猿のような構えをし、刀すら抜かず、獣のように交戦を始めた。
「そうだ百城、飼い慣らせ『天使の仮面』も『腹の中の悪魔』もどっちもお前だ」そう言って、墨字さんは楽しそうだ。この演技プランはファンは卒倒ものだろうけれど、彼らは幸い度し難い、だからすぐにまた思う 「もう一度見たい」と、天使のもう一つの顔をそう何度も何度も……
彼らの活劇は、爪と牙の攻防であった。まさに化けた姿、獣そのものと言っていいだろう。いつもの千世子ちゃんとは全く違うからこそ、強く惹かれる。
「そうだ百城、殺す気でやれ、人目なんて気にしてる暇ねぇぞ、ただし、見せ場は観客の観たいもん観せてやれ」そう言った直後、丁度攻撃を食らった、瞬間、表情が切り替わる。 先ほどまでの獣の姿から、美女の姿へ。悪魔から天使へと変貌する。
「ちと分が悪いだろ、姉御、牛魔王のオジキがいねぇとよ」煽る孫悟空にまたしても表情が変わる。「その名を口にするな」刀を抜きながら、怒りに満ち満ちた、恐怖の姿へと変貌を遂げる。
天使のように美しく、悪魔のように恐ろしく、この二つを永遠と繰り返す芝居、サイド 「甲」で行なった「夜凪景」と「王賀美陸」二人で行った、対局の芝居を一人やってのけている。見事に天使の仮面と悪魔の仮面を意識的に見せて、魅せている。
勿論、それだけじゃない、あっちとは画面映えが違う。後手番の有利性を存分に活かさせてもらう。千世子ちゃんは「計算通り」自分からフレームに収まっていく、舞台の上からでも冷静にカメラのアングルがどこを向いているか理解している。今日の朝までに画角まで、ほぼ全て把握している。
原作者が「甲」にそっちにいるなら、こっちの「乙」は映像作家だ。映像に関してはそっちの演技の後なら研究出来る、見せ場をどのカメラに担当させるか、なんて当然決めている。そのために徹夜で仕上げてきたんだ。
にしても千世子ちゃんはやっぱり恐ろしく画面映えするなあ、普通やれって言われて出来るものじゃないんだけど、カメラを意識しながらあんな芝居、流石スターズの天使……
「ああ……なんという屈辱、許せぬ、許せぬ、許せぬ、許せぬ、あの猿め、しかしあの芭蕉扇は偽物、それに気付いた奴は再びここへ戻って来るだろう、その時こそ奴の最期」場面的には怒りに苦しむその瞬間のはずなのに、両手を広げ、怒りを楽しむその様は、天使のような神々しさすら感じられた。
昨日の今日でよくもこんな完成度にまで持っていけるものだ、むしろ、天使の仮面の使い方こそ本領発揮だから、水を得た魚なのかもしれない。彼女からすれば十余年続けてきた事と新たに学んだ技術を繰り返してるという事なのだろう。
墨字さんは「山野上の馬鹿といい、どいつもこいつも本番で役者を変えようとしやがる、時間の取れない映画じゃねぇんだぞ、どんだけ稽古期間あったと思ってんだ、勿体ねぇ、稽古で変えろ、稽古で、せっかくの演劇だろうが」そう言って、また強い演技プランを見せ付ける。
それは共演者達、猪八戒や沙悟浄といった、羅刹女にヤラれる役どころ、その芝居が強ければ強いほど、千世子ちゃんに目が行く作りになっている。対等な芝居ではなく、主演を際立たせるために共演者を景色にした構成に仕上げている。
花園にいる天使、戦場にいる天使、景色が変わって際立つの景色そのものではない、天使そのものだ。ここはけいちゃんとは圧倒的に経験の差が出た場面だ。相手を使って、自分に注目を集める技術は段違いだ。
ただ、この作品の阿良也くんの牛魔王の演じ分けでみせてきた、二つの顔を使い分けていた「百城千世子」の芝居の意味、彼女はそう牛魔王の前ではずっと美しかった。
そう「夜凪景」のように、彼に怒りを見せことなどまるでなかった、つまり「乙」の羅刹女は牛魔王を本当に愛している、故にどれ程悲しかろうと辛かろうと、恨みたくとも恨みきれないでいる。
その思いを、感情を、なんとか忘れようとしている。それ故に殺し合いに身をゆだねることによって、何とか平静を保とうとしているという歪な構成。それ故に羅刹女の狂気の芝居が、活劇が、色鮮やかに写る。なぜなら、それは本質的には意味のない悲しみの戦いだから。
遂にクライマックスが来た、孫悟空が大見得を切る「散々暴れて殺しかけ、殺されかけやっと思い出した、生きてるうちが華だ、楽しかったよあんたとの喧嘩は俺はあんたみたいな女となら永遠に殺し合いたい、だから殺したくも殺されたくもねぇ、なぁ、羅刹女よ、火焔山の炎を鎮めてくれ、後生だ」殺し合いに溺れることに救いを覚えた、羅刹女は孫悟空の話に乗ることにする。
舞台では羅刹女が、芭蕉扇を持ったまま、舞台の中央へ進んでいく「分かったわ」とそう言い、物語はついに、終わりを迎えるようだ。
最後、火焔山の炎を沈めて、終幕が台本だ。同時に本来なら、決定的なものになる。サイド「甲」の敗北と王賀美陸への非難が、しかしそうはしなかった。
羅刹女が、芭蕉扇をゆっくりと大きく振りかざし、物語が終わろうとした、その時、孫悟空が羅刹女の手を強引に取り、その終わりという「行為」を止めた。そして羅刹女に向けて孫悟空はいや「牛魔王」は微笑んだ。それ故に芭蕉扇を床に落とし、崩れるように跪いた。感情の糸が切れ、目には涙を浮かべている。
そうこれは、この物語の新しい解釈、孫悟空という存在なら気付いてるはずなんだ、羅刹女の二つの顔と正面から向かい続けた、彼なら惚れた存在への思いが、殺し合いなんかで忘れられる訳がない。
つまり、ここのシーンをトラブルじゃない「演出」として魅せることに、捉えること解釈の余地が生まれる作りになっている。これは、墨字さんが頭を下げた結果だ
サイド乙の現場で皆を集めて、頭を下げ、最後の芝居を変えたいと正直に述べた。勿論反発もあった。こんな直前にだとか、自分たちにも台本を無視しろということかとか、サイド『甲』での帳尻を合わせるためにか等どれも、ある意味正論だ。
ただ墨字さんはそれらの意見を受け止めた上で「いや単にそうすると思ったんだよ、孫悟空なら」と言うと視線は一点に集まり、独特の空気が流れた。そういうことなら、決めるのは俺たちじゃない、と言わんばかりに阿良也くんに無言の圧力が圧し掛かっている。
「……『 孫悟空ならそうすると思う』か……なるほどそうくるか、じゃあ頭を下げるのはズルイな、黒山さん、あんた案外人たらしだね」はにかみながら、阿良也くんは了承した。
墨字さんは「この物語『羅刹女』は『怒り』の物語じゃねぇ。てめえの気持ちが認められない女が『孫悟空』に背中を押される、そういう『救い』の物語だ」そう定義してみせた。
百城千世子の演技で舞台には、また確実に、風が吹いた。ただの見せかけの芭蕉扇にそんな力はなくとも、ガラスの向こうに彼女が入ようと、確かに風は吹いのを感じた。
その鮮やかな終幕に舞台は殆どスタンディングオベーションに近い状態になっている。
この結果にため息交じりに「はぁ……一夜漬けにしては及第点か……明日で詰めれるとこ詰めねぇとなあ」そう墨字さんはボヤいている。この人にとってはこれが及第点なのか……とも思うが、とりあえずこの結果に安堵した自分がいた。これで、けいちゃんが矢面に立たされるようなことは無くなったから……