彼女が死んでも、物語は続いていく   作:HAL2001

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黒い思惑

 天知の今回の企画「羅刹女」の誘いに乗った理由は、俺がある映画を撮りたかったからだ。正確に言えば、一度、俺が降りる事になったあの企画を真に「復活」させるためだ。それは俺が、無理して何とか初監督作を二十歳で撮り、その後、世界各国を飛び回りドキュメンタリー作家として映画を撮り、日本では評価されない作品を作っていた頃……二十代後半の頃だ。ある小説が「映像化」されるという話が持ち上がった。

 

 

 作品のタイトルは「マクガフィン」書いたのは「松野龍也」という小説家だ。

 

 

 その事実の何が伝えたかったって言うと、コイツが一応、作品作りにおいて「のみ」は、師匠のように慕っていた人物だったから、この「映像化」の顛末について解説がしたい。コイツの書かれた小説群は殆ど私小説というか自伝的と言ってもいいような自分自身の話について、自分が体験してきた内容を本当に赤裸々に書いて、自分がいかにして最低最悪な行為を繰り返したかということを表現した物だった。

 

 なのに、どの作品にもコイツの顔が見えない。そう、不可思議な存在として物語の中心にいるのにだ。しかも、どう読んでも自分の経歴、女癖の悪さや人格の悪さを描いているのに、まるで何を考えているのかが掴めない。

 

 そもそも文体として自伝的作品でありながら、自己の分身であるだろう存在はまともに喋らないし、独白もしない。ただ、周囲の人物からその人物像が炙り出される。

 

 唯一あるのは、淡白なあとがきだけで、しかもそれすら徹底的に、物語の客観視と作者の現状を適当に書いてあるだけ。そんな小説家のコイツの代表作がこの「マクガフィン」だ。

 

 

 その内容の奇抜さ・可笑しさ、その空虚な「中心人物」というのがまさに彼自身・作者本人で、この「マクガフィン」というとんでもない設定だった。

 

 

 この明らかにヤバそうな作品に、何故かは知らないが、俺は心奪われ、監督として参加した。そしてまだ、新米プロデューサーだった天知もこのプロジェクトに参加していた。

 

 

 この物語で描かれていたのは自殺願望を持ったある男がどうやって死ぬか、それともどう生きていくかという話だ。これを彼の事を知っているある女性達が、彼について語っていく。もう生きる希望がない男が、死ぬのか、それとも生きるかという問題について、笑えない冗談交じりに本気で取り組んでいる話だ。

 

 基本的には、ある女性達の視点から語られるが、ただそれさえも怪しい。そもそも、何故、彼女達がその情報を持っているのかというのすら、不可思議にボヤかされているからだ。

 

 そして一丁の拳銃を手に入れたらしいところから話が大きく変わる。その拳銃で「誰か」を殺そうとそうして、その後に「誰か」が死んだというラスト。そう「誰か」を撃って、物語が終わる。自分自身の命を懸け金にして、手に入れたい死というものを描いた物語だ。

 

 小説では、最後の描写は「誰か」の墓参りに行くシーンで終わっていて、ある男が死んだとされるようでもある。ただそれを知りえるためには、その前の段階で一度その撃ったという事実を知るために「誰か」が帰還していないと成り立たない。それ故に「誰か」が「信用できない語り手」であることが如実に表されている。

 

 

 だがこの「映像化」の話は途中で頓挫した。途中までなら俺が作成した脚本も構成もキャスティングも進んでいたし、むしろ順調だったとすら言える。それなのになぜうまくいかないか、それはどうしても俺が用意した「ラスト」にスポンサーが納得しなかったからだ。この描き方に拘ったせいで俺は、この作品から結局下りることになった。

 

 

 俺が用意した「ラスト」は簡単に言えばある男の代わりに女性達の一人が死に、その女性の文体を借りてある男が書いているから、そもそも本編では、死んでいないという「ミスリード」という「ラスト」に持っていくという物だった。

 

 この作品の発表からすでにこの考察はされており、完全に原作を無視した解釈という分けではない。ただ、あの開けた作品に一つのピリオドを打つという選択をしただけだ。

 

 

 ただ、この「ラスト」はスポンサーから嫌われた。難解であるという理由と映画として映える為に、この作品の「ラスト」として最後に「ある男の死」が観客の観たい物だという分りやすい答えを用意することになった。

 

 

 実際に俺はこの問題で、途中で監督・脚本から降ろされ、この作品は「映像化」してしまった。そう、実際に別の監督と脚本でこの作品は世に出され、ほどほどのヒットの映画になった。そして、この「ラスト」があまりにも説明しすぎていた。

 

 実際にこの男の死体を、語り部である女性達の前に登場し、本当に画面に「映して」しまったのだ。そこで、全て終わった。

 

 この「映像化」してしまった映画を、再度、撮るには違う「国と言語」でやるか、時間を「数十年単位」で置いてやるしかない。ただ、このほどほどのヒット作で、それをするのは映画という莫大な金のかかる事業上、資金面的に不可能だ。

 

 

 だから、俺は絶望した。もうこの作品を日本で撮る方法はないのだと……けれど、諦めてから話は可笑しな方向に転がった。作品が出来上がってから、数年後、原作者から「マクガフィン」の本当の中身、すなわち「ラスト」を俺と天知に伝えられた。それは、事実上、この映画を再度撮らないかという無茶な提案だった。その提案に、俺は引かれはしたが、あまりにも「映像化」に必要なピースは揃っていないために、天知は「無理だ」といって直ぐに手を引いた。

 

 だが俺はその計画を本当に水面下で、ひっそり進めていた。だが、それは当然のように困難を極め、何年も懐で温めているだけの企画になり、諦めていないだけの形骸化された夢となっていた。そんな時に、原作者の本名を本当に偶然知った。

 

 それは、ある新人女優オーディションで、とある逸材を見つけた時だ。その人物が偶然、原作者の娘だった。名前を「夜凪景」という、そのほんの少し後に原作者の本名は「夜凪龍也」というのだと知った。その時まで、松野という苗字がペンネームだとは知らなかった。

 

 

 そこからは、破竹の勢いだった。まるで、物語の中の出来事のように、トントン拍子で、彼女は女優の道を駆け上がっていき、有名になっていく。その為に俺は何だって行った。そしてその話が天知の耳にまで届いた。

 

 だからこの企画「羅刹女」の話が来ることになった。天知はとうに諦めていたと思っていたが、この座組からそれは違っていたのは良く分かった。当時、キャスティングはされていたが、途中で離脱した「王賀美陸」それにこの作品の中心に「山野上花子」という存在を連れてきていることから、本気だということが分る。

 

 この芝居での出来事そのものが、番外戦術が、座組が、再度「マクガフィン」を撮影する動機づけになっている。

 

 例えば、視聴者投票の為に「山野上花子」の行っただろう行為が、宣伝に変わる。そしてそれは「王賀美陸」の優しい暴走に繋がり、「夜凪景」の迫真の演技は意味が逆転する。

 

 そして、その対称に「黒山墨字」という存在が演出家としている事に、大きな意味が産まれる。

 

 

 全ては俺の映画に必要なピースだ。そのために不都合なものは俺が全部払い除ける、その為にまずは「羅刹女」の成功だ。ここでつまずいたら俺の映画が最低五年は遅れる。そのために、百城には勝ってもらう。

 

 夜凪にはまだまだ成長してもらわなければいけねえんだよ、百城、お前はそのための起爆剤だ。しばらく夜凪の一歩先を歩いてもらうぞ。

 

 




「マクガフィン」意味  物語において登場人物にとっては、重要であるが、作劇上においては重要でないものの総称。(重要ではあるが、別の何かをそれに当てても問題は出ないという意味)

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