ペダルを踏み込む足が重い。肩で息をしながら、必死に腿を上げる。併走する彼女は余裕なもので、涼しい顔をしながら定期的にこちらを振り返る。別に馬鹿にしているわけではないんだろうけど、「大丈夫?」と心配そうに聞いてくる様子を見ると、「大丈夫!!」と意地を張った返答を投げてしまう。「それならいいんだけど」と姿勢を直す彼女との距離は、坂を登りきる頃にはすっかり離れてしまっていた。
「はー、しんど……」
やっとの思いで追いつくと、彼女はのんびりスマホを眺めている。
「お、残り六割くらいかな。そろそろ折り返しだね、頑張ろ!」
「がんばろー!!!」
やけくそ気味に叫ぶ。幸い、山あれば谷あり、じゃないけど、長く長く登ったあとは長い長い下り坂だったので、しばらくは楽ができた。平地に入ったので、再びペダルを漕ぐ。深夜零時の山道は、車も一通りもてんでなくて、少し遠くに目を向ければ真っ暗な林、茂みしか見えない。時折狂ったように鳴く蝉の声を、すごく遠くで聞こえるBGMのように感じながら、下りだってのに差をつけられることを憂いて、体重を大きく前にかけた。
「……お前、こんなに速かったんだな」
「あはは、慣れだよ」
肩までかかる栗毛色の髪を揺らして、彼女は笑った。両親の影響で小学校の頃から
「下向いてちゃ駄目だよ。登る時は、上を見てなきゃ。気持ちまで沈んじゃうから」
余裕そうなその言葉に少しだけムカついちゃって、何か異議を唱えようと横顔を覗いたのだけれど、額に汗を滲ませながら、真っ直ぐ坂の上を見る彼女の横顔に、何も言えなくなった。倣って見る。三日月が、慎ましげに待ち構えていた。
「おっけー、これで半分くらいかな。ここからは坂減るから楽になるよ。コンビニでも寄って休憩する?」
「まだ、大丈、夫……!」
自分でもビックリするくらい大丈夫じゃなさそうな返事だった。でも、気持ちを汲んでくれたのか「水分はこまめに補給した方がいいよ」とだけ告げて、再び前を向いた。僕よりも一回り小さな背中が、やけに大きく見えた。ドロップハンドルを深く握り直す。
「でも、君とこうやって走れる日が来るとは思わなかったな」
風に乗って聞こえたそんな呟きは、聞こえない振りをした。彼女は十年来の幼なじみである。とはいえ、中学に入ってからはすっかり没交渉で、高校で道が別れてしまって、同じ大学に進学したから話す切欠が生まれたものの、そうでもなければ共に走ることなんてなかったに違いない。
「なんでロードバイク買おうと思ったのか聞いたっけ?」
「自分の足で遠出したかったから! 以上!」
25とか35とか、まあそこそこの速度で走ってる訳だから、風にかき消されて声が届かないことも多い。だから言いたいことはハッキリハキハキ、大声で言った。
「うん、いいと思う。やっぱり身一つで駆け回る感動は違うよ。世界って広いんだなーってなる! その記念すべき初ライドに同行できるなんて、なんか嬉しいね」
彼女はへへっと照れたように鼻をかく。昔から変わらない癖だった。年がら年中自転車で遠征してる女に影響されてしまったことは、言わないでおく。話すこともなくなって、そこからは黙々と漕いだ。山越え谷越え峠越え、まばらに車が通りだしたところでようやく目的地まで二割というところだった。ふっと潮の香りがした。
「ほらー、あとちょっとだよ! テンション上げてこ!」
「うおおおおおお!!!」
「それは上げすぎってか叫びすぎでしょ!」
汗を滲ませながら二人で笑った。足はとっくに疲れきって何なら吊りかけてるし、ハンドルを握る腕も、肩も、全身がボロボロだった。それでも、楽しい。ペダルを漕ぐのが。風を浴びるのが。口を開くのが。この夜が。
入り組んだ路地を抜けると、もう最寄り駅だった。観光地らしい外観を抜けて、コンビニに寄って、少し駄弁って、自転車を押して、ようやく浜辺に着いた。自転車を止めて、少し温くなったペットボトルを呷って、景色を眺める。海越しに、夜の街がキラキラと輝いている。疲れた体には眩しすぎて、思わず目を逸らした。その先には灯台があった。くるりくるりと暗い海を照らしている。律儀なその様子が、なんだか面白かった。
「ねえ、なんか聞こえない?」
「……たしかに」
耳を澄ますと聞こえてくるのは波の音。それに交じって、小さな歌声と、それから破裂音が響いていた。見れば、親子連れだろうか。大事そうに握り締めた、蛍光色の花束が映った。
「楽しそうだねえ、私たちも何か持ってくればよかったかな?」
「変に荷物増やすと道中が大変だろ、眺めるくらいが丁度いいよ」
「つまらないこと言うねえ。ね、覚えてる? 昔私たちも浜辺で花火したこと」
「ああ、家族みんなで旅行行った時にな。確かお前、ねずみ花火が足に飛んできてめちゃくちゃビビって泣いてたっけ」
「何でそんなとこだけ覚えてるんだよ、もう」
唇を尖らせて彼女は顔を歪めた。そうじゃなくて、と続ける。
「あの時さ。打ち上げ花火やったじゃん。あれ、めちゃくちゃ綺麗だったなーって」
「あー……言うほど綺麗だったか?」
「そりゃ花火大会とかで見るやつの方がずっと立派だけどさ、アレってみんなの花火じゃん。だから"私たちのだ!"って思ったら凄く嬉しかったっていうか──ハックション!」
「しまらねえなあ」
割といいこと言ってたのに、って言葉は喉の奥に飲み込んだ。つっかえちゃったみたいでしばらく気持ち悪かったけど、二人で笑ってるうちに気にならなくなってきた。そうこうしているうちに、空は白んできていた。水平線は黒と群青とのグラデーション。間は少し橙を帯びている。大きく欠伸をすると、彼女が笑った。
「あと少しで日の出だね」
言葉もなく、二人、水平線を眺める。少しづつ明るくなってくるにつれて、朝霧が浜辺を包んでいくのが見える。不安になってきたので、少しだけ浜辺を歩いた。早朝の潮風は涼しくて、汗で冷えた体には少し毒にも思えた。波に触れる。遠くで、ぱぁんと何かが弾ける音が聞こえた。
「あっ」
白く弾けた打ち上げ花火の向こう。小さな山の辺りから、ゆっくりとお日様が顔を出した。空の色は黄金。朝の光は優しくて、真っ赤な太陽は世界を包むように昇っていく。浜辺にまばらにいた人が皆、そちらを向いていた。赤とんぼが一匹、灯台の方へと飛び去っていく。海は日を受けて、燦然と煌めいていた。彼女が口を開く。
「あけましておめでとう」
「新年じゃなくて思いっきり真夏だよね?」
「硬いこと言わないの。夜が明けたんだからいいでしょ?」
はにかむ背後に、沈み逃した三日月が青く輝いている。あけましておめでとう、と繰り返す。蝉時雨が浜辺に降り注いでいた。