きっかけは決まって些細なことだった。靴下が左右揃って洗濯されていなかった、とか、大貧民で負けたのを見て笑ってたとか、いつもそんなこと。それだけのことで、彼はとてつもなく不機嫌になる。ご飯は食べてくれないし、話しかけても返事をしてくれない。かと思うと急に声を荒げてわたしを怒鳴りつける。ひどいときは殴る、蹴る。嵐が吹きはじめるとわたしはただ黙って耐えるしかない。そのうち彼は車の鍵を持ってマンションを出て行く。行き先は近所のパチンコ屋だ。
「家庭的な女がタイプ」って付き合う前に言っていたのは、「俺の気に入るように家事ができない女はゴミ」ってことだったんだ。
その日も嵐が荒れ狂った後のリビングで、わたしはソファに身体を投げ出し呆然としていた。床に飛び散ったパスタを片づける気力も湧かない。スマホをつけて、ラインのトーク履歴をひたすらさかのぼる。「友だち」の中にわたしを助けてくれる誰かがいるような気がしていた。誰か助けて。期待より祈りに近い絶望で、わたしはひたすら過去へとスワイプし続ける。
ずっと君の味方だから。
三年前の履歴が目に入り、指が止まった。
七森 鉢。ハチだからエイトと呼んでいた男の子。エイト。
忘れていた名前、忘れたままでいなきゃいけない名前。そう思いながらも、わたしの指はひとりでにメッセージを送信していた。
いつ空いてるの?
渋谷で会った君は、別れた日と同じ、泣き出しそうな微笑みでわたしを迎えてくれた。
どうしたの?
声を聞いた瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。君はその大きな手でわたしの手を包んで、涙が止まるまで側にいてくれたね。そんなところもあの頃のままで、わたしは安心したんだ。
「どうしたの?」
洗面台でタバコに火をつけたわたしに、エイトはベッドの上から声をかけた。「タバコなんか吸うようになったんだ」
「旦那のせい。あいつ景品のタバコばっか持って帰ってくるからさ」
「全然気付かなかった。ナナの香りは昔と何も変わらないから」
「これ今日一本目だし。それに香水もつけてるからさ、匂いじゃきっとわからないよ」
「香水ってこれのこと?」
中身が半分ほどに減った水色のびんをふるエイトの姿が鏡に映る。バッグの中にしまっていたはずなのに、いつの間に見つけたんだろう?
「そう、昔君がくれたのと同じ――」
「タバコは吸っても、香水は変えないんだ」エイトは立ち上がってこちらに近づいてくる。
「旦那はそういうの興味ないし、違いも分からないから」エイトの白い指がわたしの背中に触れる。
「許せないな――。そんな男、別れてしまえばいい」ゆっくりと背中のくぼみを指が這う。
「無理だよ、あいつからは逃げられなッ……!」突然、首に恐ろしい痛みが加えられた。何が起きたのかわからない。目の前の鏡には、わたしの首を両手で絞めるエイトの笑顔があった。
「許せないな、昔を思い出させておきながら、また同じことの繰り返しって、僕がフラれるのは」
親指に力をこめながら、エイトはつぶやいた。のどぼとけが圧されて息ができない。わたしは必死で腕をふり、エイトの太ももに思い切り爪を立てた。一瞬手が離れた隙に逃げ出そうとした。けど駄目だった。手首を掴まれ、首筋に剃刀の刃をあてられる。
そのまま両手足首をガムテープで拘束されて、わたしはベッドに転がされた。どうして? 声にならない声に、エイトは昔と同じ泣き出しそうな微笑みで応えた。
「君のドルチェ&ガッバーナの――その香水のせいだよ」
十本の指が、もう一度わたしの首に迫る。今度こそもう逃げられない。
助けて――
その時、爆音のレゲエが轟きわたった! 窓を震わせて下手くそな歌が鳴り響く。
「
Bomb!! たちまち窓ガラスが弾けて、音のビッグウェーブが部屋中で暴れまくる。
「なんなんだあいつは」「旦那が来た!」「どうしてここが?」「目を閉じればわかるの」「人間GPSかクソッ」
早く逃げないと、男とホテルにいるところがバレたら殺される。だけどもう遅かった。わたしたちが部屋を出て入口まで降りてくるのを旦那は待っていた。右手に拡声器、左手に景品の化粧品をぶら下げて、悠然と構える爆音男〈ボンバーマン〉。
「よお、お前がエイトか。……タバコあんのか?」
旦那の武器は「声」。爆音で人間の脳髄を揺動し破壊することができる。
エイトの武器は「鼻」。発汗量や呼気の変化に敵意を嗅ぎ分け、機先を制して殺害することができる。
二人はにらみ合ったまま、死んだように動かない。互いに相手の力量を悟り、一瞬の隙を伺う。颯颯と春の夜風が頬を打つ。
どちらが勝っても地獄と地獄、クズとクズ。夜空に響け、死出の旅路の手向け唄。満天の星空にD&Gの風が吹き、今、死闘の幕が上がろうとしていた。
≪完≫