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それは僕の不注意だった。
僕が五歳の時だ。父親と二人で公園に遊びに行って、はしゃいでしまった僕が不注意にも車道に飛び出てしまい、悪魔的なタイミングで突っ込んで来た自動車から僕を庇った父親が亡くなったという、今だから言えるけど、ありふれた交通事故の結果だったと思う。
ただ、ありふれていなかった事は母親の態度だった。
僕の母親は、少しいいところのお嬢様みたいだが、家の反対を押し切って父親と結婚したらしく、幼心にも恥ずかしくなるくらい父親にべったりだった。
それは単に夫を愛している、というだけでなく、一歩引いて客観的に見れば、依存といってもいいレベルだったのかもしれない。だからこそ、元々精神的に強くはなかった母親は、最愛にして心の支柱たる夫の死に耐えられなかった。
そんな母親が憎んだのは父親を殺した要因を作った僕だった。外ではそんな態度は取らなかったけど、二人きりになるとその憎悪を何のオブラートに包むこともなく僕へと向けた。
恵里の母親にとって、娘と夫を天秤にかければ後者に傾き、娘を愛していたのも、
僕も抵抗はしなかった。当時の僕は、毎日のように行われる暴力と、吐き出される罵詈雑言にひたすら耐えた。母親の「お前のせいで」という言葉を、僕は納得してしまったからだ。
・・・まあ、今思えばよく分からない考えをしたものだと自分の事ながら思うけどね。確かに父親が死んだ原因ではあるけど、そこまで耐えなくてもいいだろうにね?
まあそんな日々が続いていたら友達も出来ないから学校でも孤立したよ。僕は虐待のことは言わなかったしね。
でも九歳の、小学三年生の時、母親が家に知らない男性を連れて来たのだ。ガラが悪く、横柄な態度の大人の男。母親は、その男に甘ったるい猫なで声を発しながらべったりとしなだれかかっていた。今思い出しても気持ち悪いよ。僕も人のことは言えないけど。
当時の僕は信じられなかったよ。父親を愛していたから僕に虐待をしていると思っていたからね。なんで違う男に・・・なんて思っていたよ。それでも母親を信じてたんだから当時の僕は健気だよね?
その日からその男が家に住み始めた。
男は典型的なクズで、当時の僕に向ける視線は、幼い少女に向けていい類のものじゃなかったよ。
体を這い回るような気持ち悪さに、僕は今まで以上に、家の中でも息を殺すようにして過ごした。それでも、男の言動は徐々にエスカレートして、当時の僕は自分を〝私〟から〝僕〟に変えて、髪を乱暴なショートカットにするようになった。それは、〝少女と見られなければ〟というささやかな自衛手段だったんだ。
当然学校では更に孤立したよ。まあ、今まで暗くて口数も少なかった奴が、急に一人称を変えて髪型も男の子みたいに短くしてきたんだから。いままで日常会話ぐらいならしてた子も離れて行ったから、余計孤立したよ。
それでも、たとえ母が父を裏切ったように感じても、僕は信じてたんだ。母が、いつか必ず昔の優しい母に戻ってくれることを。それが現実から目を逸らした、一種の逃避的な思考であることには気がつかない振りをして。
そんな幼い僕の、縋り付いた藁のような希望は、本当にただの藁だったと気付かされる事件が起きた。遂に、男が僕に欲望の牙を剥いたのだ。母が夜の仕事に出ていない時のことだった。
幸い、と言っていいのか、僕の悲鳴を聞きつけたご近所の人が警察に通報したおかげで、僕の貞操が散らされることはなかった。恵理自身、いつかこんな日が来るのではないかと思っていたので、窓を開けて悲鳴が届きやすいように備えていたことも助かった理由だろう。
なので、襲われたこと自体は、僕にとってショックなことではなかった。むしろ、チャンスだとさえ思っていた。これで、母もようやく、目を覚ましてくれるはずだと。自分の娘を襲うような男とは縁を切って、父を思い出してくれるはずだと。いずれにしろ、男は警察に捕まったのだから、縁は切れる。これで僕らの生活は、少しでも改善するのだと思っていた。
そう、思っていたのだ。
母が、今まで以上の憎悪を向けてくるまでは。
警察で事情聴取を終えて、保護されていた僕と共に帰宅した後、真っ先に飛んできたのは、母親の張り手だった。そして、母親は僕に言ったのだ。「あの人を誑かすなんて」と。
どうやら、母親にとって、恵理が男に襲われたという事件は、男のクズさを理解するきっかけではなく、恵里が自分の男をまた奪ったという認識だったらしい。娘が暴行を受けたことよりも、男と引き離されたこと、男が恵里に欲望を向けたこと、その全てが気に食わなかったのだ。
父を裏切った母、自分を痛めつける母、自分が襲われたことよりも男といられないことに悲しむ母……この時、僕はようやく察した。否、本当は分かっていて目を逸らしていたことを直視したというべきだろう。
すなわち、母は自分を愛さない。昔の母になど戻らない。昔の穏やかな姿ではなく、眼前の醜さに溢れた姿こそが、母の本性だったのだ、と。
そう理解した。
だから――僕は壊れた。
信じていたものは全て幻想だった。耐えてきたことに意味はなかった。そして、この先の未来にも希望はない。幼い僕が壊れるには十分過ぎる要因だった。
眠りというより気絶から目覚めた翌日のまだ日も登りきらない早朝、恵里は家を抜け出した。母が心配して探しに来てくれるかも知れない等という子供にありがちな愛情試しの為ではない。自分を終わらせるため――つまり、自殺するためだ。
何となく母の近くで死にたくはないと思っていた。宛もなくフラフラと歩いている時、ふと
「悪魔って本当にいるのかな?」
そう思ったんだ。
それが僕の人生の転機だった。