春になった。
木々は緑を取り戻し、世界は生命の息吹に満ちていた。
多くのものが失われたその街もまた、多くの季節を経て活気に満ちていた。
春の暖かさに冬の寒さを忘れてしまうように、その街もまた過去の惨劇をおぼろげにしていた。
そんな街を、一人の少女が歩いていた。
肩口まで伸ばした茶色がかった髪をして、春を喜ぶように、透き通った穏やかで純粋な笑みを浮かべていた。
彼女はごきげんに道行く人に挨拶をする。
それは微笑ましい光景だったが、誰も少女に応えることはなかった。
それは彼女にとってはいつもの事だった。
「こんにちは、虎のお姉さん」
私は前から一人で歩いて来た女の人に挨拶する。
けれどその人は私には挨拶を返してはくれない。
私の後ろを走ってきた自転車が私をすり抜けて、先生こんちわーと挨拶をするとそれには朗らかに応えるのになあ。
前に負けちゃったから仕方のないことと諦めてはいるけど、やっぱりお話できないのは寂しいな。
この人とならお友達になれたと思うんだけど、全然視る力はなさそうだしなあ。
こんな、強くて優しい虎のお姉さんにこそ、皆を紹介したかったんだけど。
まあ、できないことはしょうがないか。
今はできることを、今のお友達を大切にしないと。
だから、そこにいたもう一人に声をかける。
「こんにちは、蟲のおじいさん」
虎柄の服を着た女の人の口から顔を覗かせている顔見知りに挨拶する。
蟲のおじいさんはしわくちゃの顔をした一匹の羽虫だ。
この姿になる前は500年も生きていたらしく、とても物知りだ。
窮屈なところにずっといたから、今はあちこちを飛び回っているらしい。
けれど時々昔のように人の体に入ってはいたずらをしているらしい。
「こんにちは、“魔女”よ。
随分と久しぶりだな。
こんな遠くまで散歩の足を伸ばしたのか?」
蟲のおじいさんはちゃんと応えてくれたから嬉しい。
前に会った時には蟲のおじいさんは肉体を持っていたから、本当に久しぶりだった。
最もその時も蟲ではあったのだけれど。
“蟲”談義で意気投合したのも懐かしい。
今回は用事があってきたから、質問には首を振る。
「ううん、今日は散歩じゃなくて、お迎えに行くの」
そう伝えたら、蟲のおじいさんはその前に時間があったら付いてこないか? と言ってきた。
彼のことはもう十分すぎるくらい待たせちゃったから早く行きたいのだけど、蟲のおじいさんが優しげな顔をしていたから付き合ってあげることにする。
虎のお姉さんと一緒に歩きながら蟲のおじいさんと話す。
おじいさんが肉体を失う時の話とか、私がこれまで見てきたものの話とか。
私の用事と、おじいさんの話が同じ物に由来するのには驚いたけど。
お互いに負けちゃった身だから、最後にはちょっとした反省会みたいになっちゃった。
虎の人には私たちは見えないし、会話もできないから残念だ。
私達は幽霊みたいなものとはいえ、いつか一緒にお話できるようになりたいな、と思う。
虎のお姉さんの行くほうについていくと、和風のお屋敷が並んでいる一角に出た。
そして、
「うわあ!」
一面に広がる桜に圧倒された。
しばらくそうして桜を見ていると、ふとその色にふさわしくない、黒があることに気づいた。
「お久しぶり、神野さん」
その声に神野陰之は、その手に蝶を留めながら振り向いた。
「久しいね“魔女”、それに我が師よ。
ちょうど、時間に間に合ったようだね」
蟲のおじいさんに聞いた物語だ。
聖杯戦争、この街を舞台にして行われた魔術師同士が万能の願望機たる聖杯をめぐって争う殺し合い。
英霊をサーヴァントとしてこの世界に召喚し、7人のマスターとサーヴァントの最後の一人が聖杯を得るという。
前回の、つまりは最後の聖杯戦争に、蟲のおじいさんは自分の子孫と、養子に迎えて後継とした少女を引き連れて参戦した。
聖杯は霊体で、専用に作った器が必要らしく、彼は少女をその器の実験台にしたのだという。
最も正式な器が別にあったし一回目で成功するとは思ってもいなかったから、様子見程度であわよくばといった気持ちだったらしい。
けれど、異変が起きた。
本来無色なはずの聖杯が汚染されていたのだ。
かつて召喚されたモノによって、その中に“この世全ての悪”という願望を持つ存在が育まれ、産まれようとしていた。
そしてそれは少女によく馴染んでしまい、彼女は正式な器を差し置いて聖杯の器となってしまった。
そして産まれようとしていたモノは、その為の栄養を求めて食事を行った。
道行く人間の魂を、そして人間何千人分もの力を持つサーヴァントを喰らっていった。
その大きさに耐え切れず、少女は壊れていった。
けれど、その少女を支え、助けようとした人間がいた。
それは少女の想い人の少年と、少女の姉だった。
二人とも魔術師で、聖杯戦争のマスターだったが、他の全てよりも少女を救う事を選んだ。
特に少年は、自分の信念よりも、それまで持っていた願望よりも、少女のことを想った。
自らの分を超えた魔術の行使で、肉体も魂も壊しながら戦い続けた。
壊れつつある二人は結ばれ、少女の願望は叶った。
壊れる心に、壊れぬ愛を持ち続けた。
だが、勝機を見出した蟲のおじいさんによって少女は産まれようとしていたモノに飲み込まれてしまった。
だが、少年は儀式場での最終決戦で少女をその呪縛から解き放ち、聖杯戦争の大元ごと“この世全ての悪”を破壊したのだという。
どうやったのか、までは蟲のおじいさんが少女の反逆で殺されていたから見れてはいないらしい。
ただ、聖杯戦争と、少年の肉体と魂が完全に破壊されたのは確からしい。
少女は救われ、少年の願いは叶った。
少年は失われ、二人が夢見た本当の願望は永遠に叶わなくなった。
少女は住む人のいなくなった少年の家に住み、少年を待ち続けた。
少年に自分がいることを知らせるかのように、桜の木を家に植え続けたのだという。
悲しい話だった。
私も大切な人と離れ離れになっちゃう人のことは何度も見てきたし、再開する為の方法が分かれば教えてきたのだ。
けれど、今回は私にできることはなさそうだったから、神野さんに確認してみる。
「でも、ここで終わりじゃないんでしょう。
神野さんがいるって事は誰かの強い願望があるってこと。
それにその“蝶々”に、暖かい火を感じるもの。
それが、お話にあった魔術で武器を作り続けた“鍛冶屋”さんでしょう?」
私の言葉に、神野さんも、蟲のおじいさんも頷いた。
「そう、少年の砕けた魂の欠片を集め、育て増やしたのがこの“蝶”なのだよ。
二人の想いは私を呼び、わずか2羽ではあるが少年の魂を“蝶”として残したのだ。
“蝶”は桜の蜜を吸い、少女の願望に包まれて次第に増え、そして今ようやく欠けた魂を補う数になった」
神野さんが言う。
「元々は儂のせいとはいえ、もはやこだわるものもなくなったのだ。
ならば、孫の幸せを祈ってみてもいいだろう」
蟲のおじいさんが言う。
“蝶”達は私達が話している間にも待ちきれないかのように激しく羽ばたいていた。
これ以上待たせちゃうのも悪いかな。
「はじめまして、“鍛冶屋”さん。
貴方ともお話してみたいけど、それはまた今度にするね。
今は彼女のところに早く行ってあげてね」
そう伝えると“蝶”達は勢いよくお屋敷の中へと飛び込んでいった。
「ちゃんと二人は出会えるかな?」
家の中へと飛んでいく“蝶”を見ながらそれを祈る。
ここから先は私が見るべきではないと思う。
それに神野さんは答えた。
「叶うとも。
人の為に剣を打ち続けた鍛冶屋が、ようやく見つけた自分の願望。
最後に一つだけ残ったそれが、叶わないはずがあるまい。
そしてそれを共に願い続けた蟲の姫が、見つけられないはずがないだろう」
きっとそうだろうと思う。
「ありがとう、桜さん」
だから私は、“鍛冶屋”さんの魂を育んだ桜にお礼を言ってお屋敷に背を向ける。
蟲のおじいさんは虎の人から離れて外から見守るらしいからここでお別れ。
元々の目的地である山の上のお寺を目指す。
遠くから、虎の声が聞こえた。
桜の花びらが私の隣を優しく通り過ぎていった。
鼻歌を歌いながら坂を上る。
何度見ても、別れ別れになった二人が出会うというのは喜ばしいことだ。
ごきげんのままお寺の階段を登り、途中で横にそれ、山に開いた横穴に滑り込み、地下へと潜っていく。
半ば崩れ落ちた洞窟を進んでいく。
そして、あの聖杯戦争の最後の場所へとたどり着く。
普通の人にとってのここは薄気味悪い洞窟。
魔術師にとっては、ここは魔力の残滓がある廃墟なのだという。
私はそのどちらでもなかった。
私には魔力はない、けれど私は“魔女”なのだ。
だから、私にしかできないことをやらなくちゃいけない。
取り残された可哀想な子供を助けてあげないといけない。
「それが君の願望なのだね」
そう、ついてきていた神野さんが訪ねてくる。
「もちろん、生まれることもできなくて一人ぼっちで死んじゃうなんて寂しいよ。
皆と仲良くなりたいから、助けられる人は助けてあげないと」
そう言いながら崖を登る。
「彼は、産まれようとしたけど失敗しちゃってこっちに取り残されちゃった。
お母さんに見捨てられて、へその緒の先から栄養もこなくなって、胎盤もなくなっちゃった。
お父さんとも別物になっちゃったから、お父さんの所にも戻れなくなっちゃった。
異界にも混じれず、このままだと死んじゃうよ。
だから私が何とかしてあげないと」
登りきった先、崩れた柱の物陰にそれはいた。
黒く、弱弱しい赤ん坊。
お話に出てきたものとは比べ物にならないくらいに小さくなってしまっていた。
「それこそが、かつて、“この世全ての悪”と呼ばれ、そうなるように望まれ、そうあらんとしたものだよ。
大聖杯の破壊と、それに伴う産まれかけの肉体の破壊、そして魔力供給の消失で今ではそのような姿だけどね」
神野さんが言う。
けれど私にはそれは大事なことじゃない。
彼が何者であれ、私にとっては大切なお友達なんだから。
結果としてさっきの二人を苦しめてしまったとはいえ、赤ん坊に罪はないのだから。
「でも、神野さんがいるってことは、誰かが望んでいるんでしょう?
私みたいにこっちの住人じゃない、ちゃんと生きている人が」
神野さんは相変わらずの嗤みを浮かべて答えてくれた。
「もちろん、古い時代と変わらず、その存在を願う人々がいるのだよ。
そして、それ自体、生きたいと望んでいるのだ。
生きようとすること自体が、善も悪もない強い願望なのだから」
それを聞いて私はうれしくなって笑う。
「じゃあ、私が神様の前で祝福してあげなきゃね」
そして、その子を抱きしめてあげる。
一緒にこの世界を回ろう。
この異界は人の心の底を写した世界ともいうし。
私はそんなこと思わないけど、悪意の塊みたいな世界だと言う人もいるから彼も周りに影響を与えずに生きられると思うし。
いつか皆が仲良くなれたなら、仲直りができたのなら、虎のお姉さんも、蟲のおじいさんも、鍛冶屋さんも、蟲のお姫様も、この子も含めていっぱいいっぱい遊びたいな。
それとも、この子が皆に望まれて、世界に出て行くのが先になっちゃうかな。
まあ、それはその時考えればいいや。
まずは、この子を祝福してあげよう。
「産まれてきてありがとう、アンリ=マユ君。
これからよろしくね」
異界の空に、産声が響いた。
鍛冶屋の火はいずれ消え、宝石は失われ、桜も枯れる日が来る。
世界は繋がり、その広さは幻想となり、その単位は一つの村のようなものになるかもしれない。
誰かが思うことだろう、誰もが思うことだろう。
私は悪くない、悪いのはあいつだ、周りが悪いんだと。
そして押し付けるべき悪を望むのだろう。
無数に情報の行きかう回線の中、その願いもまた無数に行きかうのだろう。
そんな中、一人の少年が疲れはて、絶望して書き込むことがあるかもしれない。
【この世の全ての悪を肩代わりしてくれる存在が、僕はそれじゃないと教えてくれる存在はいますか?】
と。
それに答えるものがいるかもしれない。
【ああ、貴方の考えている通りだ】
と。
いつの日か、鍛冶屋の火が消え、宝石は失われ、桜が枯れる日が来る。
けれど、鍛冶屋の技が受け継がれるように、宝石の輝きが損なわれないように、桜が子孫を為すように続いていくものもある。
争いを何度繰り返しても人は望み続け、そして大切な物を見つけ、失い、あるいは守り通すのだろう。
その先に産声を上げるのは何者になるのか。
それはまた、別の物語である。
短編三篇、これにて完結となります。