腕を絡めて放さずに、その唇を塞いだ。
「……」
「……」
万丈くんの部屋で彼と一緒に朝を迎えた。
お互い下着一つ纏わず、狭いシングルベットの上で。
窓の外からチュンチュンと鳥が鳴き声を奏でる朝。あまりの事態に二人で放心した。彼なんて遠い目で虚空を仰いでいる。私も同じような顔をしてるんだろうなーと腕枕されながら現実逃避していた。
ふっと首をベッドの下に向けるとドレスやスーツや下着が脱ぎ散らかされていて、ナニをしたのかを視覚に突き付けられる。
その、違うのだ。
同窓会の二次会にも参加せず部屋へ直行してさっそく対局したけれど、酔った状態ではまともに指せないという至極当たり前の真実に私たちはたどり着いた。対局中盤のことだった。
なので一旦、酔いが醒めるのを待とうと合意してまどろんでしまったのが悪手だった。
昔贈った誕生日プレゼントが大事にされているのを発掘してしまったり、そこからじゃれてるうちに偶然ベッドに押し倒されたり、気の迷いでその背中に腕を回してしまったりと、不可抗力でどんどん袋小路に進んでしまったのだ。
そう。これはそう。
お酒のせいなのだ。
正常な判断ができなかったのもすごく気持ちよくなってしまったのもすべてお酒の魔力なのだ。
おさけってこわいな。
「……~っ!」
同窓会で酔って元カレと盛り上がっちゃった挙句、自分からノコノコお持ち帰りされて朝チュンしてお酒のせいにする自分。
己の痴態を直視できなくて羞恥心だけでそのまま消えてしまいそうだ。八一くんたちには死んでも知られたくない。お墓まで持って行こう。
なんて情けない、こんなのまるでダメな女の一例みたいじゃない。こんな大人になりたいと思ったことは一度だってないのに!
「きゃっ……」
「桂香さんん……!」
あんまりな現実に悶えたのが運の尽き。狭いベッドと壁の間にあった隙間へとシーツごと転げ落ちてしまった。
「生きてる、か?」
「………………しにたいぃ」
痛い。落下した痛みは大したことないけれど心の方は致命傷でズタボロだった。
「あー……桂香さん」
現実逃避から先に帰還した万丈くんが、シーツで体と顔を覆う私を隙間から抱え上げる。こちらはまだ帰り道で迷っている途中なので、シーツを押しつけたまま腕の中から返事をする。
「…………なに?」
「……将棋、どうする」
「…………また、今度でいい?」
「……そうだな」
お互いに将棋ができる精神状態に持ち直す余裕はなく、その日は対局日だけ決めて解散した。
……もっとたくさん飲んでおけば良かった。それなら同じ結果になっても夜の内容を忘れられたかも知れない。まえよりじょうたつしてた。
それから数日後。
「……最近、どうなの?」
「……一昨日、編集の姉ちゃんに褒められた。急に表現とか良くなったって……なぜか」
「そーなんだー」
「桂香さんは?」
「…………あれから、ちっちゃな壁を超えた感じがするの。なぜか」
「そ、ソーナンダー」
対局日。約束通り家へやって来たスーツの万丈くんに嘘はなさそうだった。
あの朝から、私は唖然とするほど上手く行きだした。
心は絶叫マシンのように乱降下しているのに、将棋は絶好調だった。あの夜に整体染みたこともされたせいか身体の方も絶好調。恥ずかしいくらいに快調だった。
この対局でもそれは同じだ。いつもより有効な手や筋が頭に浮かんで、七寸盤の上はずっと私の優勢。このまま行けばまず負けない。
ただ……。
「……ねえ、万丈くん」
「……はい」
「ちょっと弱くなり過ぎてない!?」
問題は彼の方だった。
私と別れてから将棋の駒にも触れてないという万丈くんは、ブランクがあるとかいうレベルじゃないほど弱くなっていた。初めて指したときの方が幾分か強かったかもしれない。ついでにまるで集中できてないらしく悪手が多くて負けようがない。
「面目ねぇ……!」
「どうしてこうなっちゃったの……?」
歳をとると発想が硬くなって弱くなる、なんていうのは棋士の間では常識。でも、それじゃ説明がつかないほどの落差だった。私もあれからちょっとは強くなったはずだけどこんな一方的になるわけない。彼が手加減している様子もなく、悪手の度に髪の毛が跳ねてもう針山みたいだった。
「どうしてと聞かれても」
「心あたりない?」
「心あたり、と言うか……」
「?」
歯切れ悪く濁して目を逸らす彼をジッと見つめると観念したように口を開いた。
「桂香さんが……」
「私?」
「綺麗になってるから」
「は?」
「集中できねぇ……!」
駒袋を投げた。
やたらに真剣に吐露する顔面へと力いっぱい投げつけてやった。
「ふ、ふざけてるの!?」
「大真面目だ。久しぶりの対面長時間でこっちはずーっとドッキンドッキンなんだ」
駒袋を顔に貼り付けたまま色ボケ筋肉が開き直る。というか。
「この間もっとスゴイこと長時間したでしょう!?」
「それもフラッシュバックしてんだよ!!」
駒袋を引っぺがして再び投げつける。今度は顔に貼り付かず膝へと落ちた。対局中にナニを考えてるんだこのバカ正直筋肉は。ああもうはずかしい。
「……」
ろくでもないカミングアウトのせいで場に沈黙がのしかかる。対面の巨漢は刑の執行を待つかのように静かに項垂れている。顔は耳まで赤かった。こっちは頭から火が出そうだ。
「……えっち」
「ぐうぉ……」
「へんたい、スケベ、底なし」
身をかき抱いて睨み、ようやく絞り出した言葉に万丈くんがのけ反る。ちょっと嬉しそうな顔するなバカ。
「あ、あと考えられるのは……」
「他にも有るの……?」
この話から無理にでも方向転換をしたいのか、他の原因を思い出そうと頭を巡らせる。今のだけで胸やけしそうなのに、まだなにかあるのだろうか。
「……別れた後の三年生の夏休み、あっただろ」
「う、うん」
「あのとき俺、休み全部使って世界で迷子になってたんだ」
「そんなことしてたんだ……」
「その途中とある国で頭に悪影響の変なガスを浴びちまったんだ」
「なにそれ、大丈夫なの?」
「専門家にガス抜いてもらったら、デトックスしたみたいに調子よくなったから心配ねぇ」
今もすっげぇ快調だし桂香さんは大好きだし、とアピールする彼にそっと胸を撫で下ろす。後半は別に言わなくてよろしい。
「ただ……」
「ただ……?」
「多分それから将棋がすっげぇ弱くなっちまったんだと思う」
「そんなバカみたいな話ある!?」
吸ったら将棋だけ弱くなるガスがあってたまるか。ふざけんな!
じゃあなに。時々夢に見て寝起きを最悪にするあの始業式のときには、もうこうなってたの!?
「でも他に解りやすい原因…………ねぇし」
「うぅ~……!」
私の涙は何だったのかとこの筋肉ダルマを小一時間問いつめてやりたい弱体化具合。あの頃コレだと知ってたら……ううん、逆に弱すぎてがっかりしてたかも。
「――――はぁ」
なんかもう、いいや。
「とりあえずそのガスが出る国の名前、教えて? 絶対に近づかないようにするから」
「信じてくれんのか? 言ってる俺もどうかと思う話を……」
「……万丈くんなら何があってもおかしくないから」
「桂香ざんん……!!」
諦めた目で見つめると万丈くんが感涙する。信頼してるんじゃなくて、ヨガで宙に浮くようなバカな人の話に呆れているのだ。
「万丈くん」
「お、おう」
「指すよ、早く」
「め、目が据わってらっしゃる……」
コレに拘っていた自分が果てしないほど馬鹿馬鹿しくなった。終局してお暇してもらおう。
なんか、冷めてしまった。どうしても勝ちたかったはずなのに、もう勝敗とかどうでもいい。
「これで終わり」
なんの感慨もなく詰めろをかける。でもこの筋肉は完全な詰みまで粘るから、面倒だけれど最後まで付き合おうとため息を吐いて――――。
「まだ行ける」
「え?」
彼の目の色が変わる。
「――――!」
一手指しただけで私には解った。私の心を折るほど強くなったあの頃の、多分それ以上の彼だ。
落ちぶれたはずの相手が、突然あの頃以上に輝きだした。
「……!」
即座に応じて戦況が変貌する。
別人が交代したかのような手が盤面をどんどんひっくり返していく。彼の打ってきたいくつかの悪手が私の攻めを阻む駒に変身し、終戦間近の盤上が一変した。
「この……!」
もう早く終わらせて、読み返さない棋譜にしてしまいたいのに。
「行かせない……!」
「こっちの台詞!」
熱い。
「まだ……!」
熱くてもっと指していたい。その強さに口の端が吊り上がっていくのを止められない。
「ぁ、はぁっ!」
本当にこの男は!
「はは……!」
冷めた直後に、火を付けるなんて本当に質が悪い――――!
「……負け、ました」
崩れるように万丈くんが頭を下げた。
あの頃以上の実力。それでもここに来るまでの損失を取り返し切れず、対局は私の勝ち。
「ありがとうございまし、た」
言い終えるより先に二人そろって背中から倒れた。
深く息を吐く。荒い呼吸をする喉が、必死で回転させた頭が熱い。冷たい水で冷ましたい。
「はぁ、はぁ……はあ、はははっ」
吐き出す息に笑い声が混ざる。圧倒的な優勢を覆されたのに相手のミスのおかげで勝てたようなものなのに、勝てたことが嬉しくて仕方ない。
「……ちゃんと、強く、なれてたっ!」
彼と付き合っていた頃のままなら、今の勝利は得られなかった。彼の猛攻を捌き切ることなどできなかったと断言できる。
ずっと独りで迷子になったような心細さに悩まされていた。進んだつもりになっているだけじゃないかって自信が持てなかった。
強くなった実感が、今確かに私を満たしていた。
「……やっぱ、好きだなぁ」
ついこぼれたような声音で彼が呟く。いつの間にか起き上がっていたようで、寝転ぶ私を七寸盤の向こうから穏やかな表情で見つめていた。
「えっち」
「またか。なにがだよ」
「視線がやらしー」
「変なとこ見ちゃいねぇよ……」
嘘。今さら逸らしたって目が胸とか脚にふらついてたのバレバレだからね? ジロジロ見てたわけじゃないし万丈くんだから別にいいけど。今日は体の線が出る服着てるしね。
「で、どうすんだよ」
「? どうするって?」
「賭け将棋だって言い出したの桂香さんじゃねぇか」
「あ」
そうだった、忘れてた。色々と一杯一杯で何を賭けるのかなんて話し合っていなかった。
「どうしよう……」
「俺も確かめなかったけどよ……なにか俺にさせたかったんじゃねぇのか?」
「えーと」
困った。その場の勢いで口に出したから、彼から何か貰おうとか何かしてもらおうとかはまったく考えてなかった。本気の将棋ができればなんでもよかったし。
シテもらいたいこと、と考えて同窓会の夜が過ぎって慌てて頭から追い払う。
「……保留でいい?」
絞り出した返答に彼が渋い顔で眉間を摘まんだ。わぁ、かれのこんなところ、はじめてみたぁ。
「……条件つけていいか?」
「……どうぞ」
「なら桂香さん」
勝ち負けのメリットデメリットがわからないまま賭けに応じてくれた彼には、多少の無理を言う権利があると思う。彼なら非常識なことを要求するわけないし。
「これからも、俺と賭け将棋をして欲しい」
え。
「これからもって」
「言葉通りだ。何度でも桂香さんと指したいんだ」
「は……は?」
「俺が負けたときは、桂香さんの言うことなんでも聞く。パシリでもなんでも便利に使ってくれ」
「待って待って!」
急な話についていけない。
私だって出来るならこんな駒落ちどころじゃないハンデからの辛勝じゃなくて、彼の実力が十分に発揮された状態で決着を着けたい。
本当は前のように一緒にいられたらと思うけど。その、私も調子が良くなるから。
賭けに勝って無理矢理にでも私にさせたいことがあるのだろうか。
それはない。万丈くんは自分が得をするために人を嫌々従わせて良しとする人じゃない。
あれ。今までちゃんと考えなかったけど、彼って賭けで本気になる人じゃない?
「どう、して」
「また諦めたくなくなったんだよ。初めて賭け将棋したときみたいに」
また? と首を傾げると、彼が恥ずかしそうに頬を掻いて話しだした。
「あのとき『俺が勝ったらこれからも告白すんの許してくれ』って言っただろ。覚えてるか?」
「うん。回りくどいなーって思ったの覚えてる」
あの対局のことはもちろんよく覚えてる。
彼からの猛アプローチにうんざりしてなんとか止めてもらおうと仕掛けた賭け将棋。あのときの惨敗が私の棋士としての心に再び火を付けたんだから。
「俺さ、実は勝っても告白すんの止めるつもりだったんだよ」
「え」
「あの直前に堀戸の奴から『桂香ホントに嫌がってるからいい加減にしな』って詰められてな」
千絵? そうだ。彼のことで困ってたから、彼女に相談して賭け将棋を提案されたんだっけ。そっか、知らないところで助けようとしてくれてたんだ。
「自分でもやり過ぎたーって反省してさ。本当はあのまま『明日からもう近寄りません今まですいませんでしたー!』って謝って終わるつもりだった」
賭けを持ちかけて来たとき本気で嫌そうな顔してたからなー、と苦笑いする万丈くん。
「じゃあなんで……」
「そう言おうとしたら、桂香さんがもう一回指すよ! ってすげぇ剣幕で迫ってきただろ」
「そうだったっけ……?」
言われて見れば、あのとき万丈くんがなにか言いたげだったような……。どうだったっけ。思わぬ敗北の悔しさでそんなこと気にする余裕がまるでなかったことだけは覚えている。
「さっきみたいに、絶対負けない! っておっかないけどすげぇ良い顔でよ」
忘れたりしない、と目を細めて彼があの日の感情を赤裸々に語る。
「あぁ、この娘は本気で将棋が好きなんだなぁって改めて解ってさ」
諦めてたまるかっていうその真剣さに。好きなことに全力で挑める熱意に。
「惚れ直して、こっちも諦めたくなくなっちまったんだよ」
そう言って照れ臭そうにクシャっと笑う。
「だから、桂香さん」
微笑む彼がいつかのような提案をする。
「俺が勝ったら、もう一度だけ告白するのを許してくれ」
確かに賭け将棋をしよう、なんてあの時のように言ったのは私だ。でもそっちまであの時と同じようなことを言うなんてズルい。
「……勝ったら付き合ってくれ、じゃないんだ」
「おう。それで嫌々付き合ってもらったってなんも意味ねぇよ」
上等だ。ならこっちだって同じようにしてあげる。
「いいよ。何度だってフッてあげるから」
今度は根負けだなんて言ってあげないからね。
「よぅし、そうと決まればちゃんとしねぇとな!」
「なにを?」
「清滝先生に土下座。付き合ってねぇのに娘さんに手ぇ出しちまったからな。会わせる顔が……」
「そんなとこをちゃんとしなくていいから!」
「安心してくれ。殺されても文句は言わねぇ」
「なにも安心できない!」
なんとしてでも父のところへ行こうとする万丈くんを、全身でしがみ付いて引き止める。
最初のお願いは、あの夜の口止めになった。