万丈が余計なことをする話。
「邪魔するぞ」
「邪魔だ帰れ」
暗く閉じた部屋に踏み入った万丈を、硬く低い八一の声が切り捨てた。
「そういうな。散らかったゴミくらいなら掃除してってやるからよ」
「必要ないんだよ肉ダルマ」
不機嫌さを隠さない八一の悪態を、柳に風と受け流す万丈。それがまた八一の癇に障った。
タイトル防衛戦、竜王戦七番勝負。八一はすでに三連敗を喫していた。
相手は棋界最強とも謳われる“名人”。次元の違うその強さに八一は徹底的に打ちのめされ完全に己を見失っていた。
あと一度でも敗北すれば八一は竜王を失冠する。
対して名人はこの七番勝負に勝利すればタイトル保持通算百期と永世七冠を達成するという偉業を同時に達成するのだ。その名誉がかかった世紀の大一番に棋界から、いや日本中から注目が集まっていた。
世間は名人の勝利に期待し、八一は完全にただの敵役。当然の流れではあった。
聞こえない振りをしていても耳に突き刺さってくる記者たちの声。一局目の敗北で完全に破壊された将棋観と自信。あらゆる要素が八一を袋小路へと誘った。
八一は一人、少しでも勝つ確率を上げるために将棋ソフトを中心に研究を行う。エナジードリンクと即座に食べ終わる携帯食料やカップ麺で最低限の栄養補給をし、ほぼ部屋からも出なかった。
勝つために無駄な必要ないものをすべて排除して切り捨てて、自分が正しい方向に進んでいるかもわからないまま昼も夜もなく八一は名人との戦いに備えて将棋に没頭した。
「俺の状況わかってるだろ!? お前に構ってる暇ないんだよ!!」
「エゴサする余裕はあるのにか?」
「……!?」
知られているはずのない行動をピタリと言い当てられ、八一は息を呑む。すると、万丈がこれ見よがしに深くため息を吐いた。
「……やっぱりやってやがったな。竜王になった後といい、負けが混むとそれだ」
「っ……何なんだよ」
バツの悪さに顔を背けた。
別にナルシストになったつもりはない。だが魔が差して、今の自分が世間にどう見られているのか、それがどうしても気になって一度だけしてしまったのだ。
結果は、最悪だった。
名人の勝利を前祝いしながらついでに行われる若すぎる竜王への揶揄や、三連敗から失冠を確信したような嘲笑の数々。もっと最悪なのは、そこから姉弟子や弟子たちを非難する流れにまで発展するのを目にしたことだった。
まるで日本中が八一の惨敗を望んでいるようだった。
自分のせいで、大事な人たちまで悪く言われる現状が嫌で嫌で仕方なかった。
それも、今は気にしていられるほど余裕はない。
「一人にさせてくれ……一分一秒が惜しいんだよ」
名人に勝つためには一人で一局でも多く研究するしかない。それが八一の結論である。
食事をする時間も惜しい。寝る間も惜しい。他人と話すのに時間なんて割いてられない。
だから、あいを師匠の家へと遠ざけた。
だから、様子を見に来た銀子を追い返した。
「十分間だけ時間寄こせ。そうしたら出てってやるよ」
そんな事情もお構いなしに万丈はずけずけと煽るように踏み込んでくる。
「それとも、このまま押し問答するか? 俺は譲らねぇぞ」
「っ……いい加減にしろ!」
万丈に特別苛立ったわけではない。だが、八一はもう限界だった。
「どいつもこいつも何なんだ!? 入れ替わり立ち代わり俺の邪魔して!!」
堰を切ったように口汚い罵倒がとめどなく溢れてくる。万丈のみならず他のみんなも貶すそれが自分の喉から吐き出されていくのを八一は理解できなかった。できないまま、したくないまま激情に任せて吐き続けた。
「お前はいいよな、大した肩書もないから気楽で! こんなところにいないでヘラヘラ楽しく世界一周でもしてたらどうだ!? それか桂香さんの尻でも追って、いつも通りまるで成長しないロクでもない将棋指してとっととフラれちまえ!!」
最悪の気分だった。
部屋に響く怒鳴り声が数日前にある少女にしたことを否が応でも八一に想起させた。
あらゆる地雷を踏み抜いていった彼女が部屋に来た理由を八一は知らない。ただ自分を励まそうとしてくれていたことはなんとなく解っていた。
泣かせた。
幼い頃から一緒に育って。幼い頃から一緒に将棋を学んできて。
とても大事な女の子を、お前は弱いから研究の邪魔だと当たり散らした。
あいも同じだ。
彼女の母親に彼女を立派な棋士にすると啖呵を切って数ヶ月、大事な一局に備えて教えを乞う弟子に八つ当たりし、あの娘のため自分のためと言いながら家から追い出し師匠に押し付けた。
結果、あいは負けたらしい。もう一人の弟子はしっかり勝ったらしいが、天衣はいつもと違って慎重策での手堅い勝利。そうしなければならないほど、自分の指導は弟子たちの力になっていないのではと不安が募った。
「いらないんだよ、邪魔なんだよ、鬱陶しいんだよ! なんの役にも立たないから消えてくれ!!」
クズ。
銀子が言い捨てて行った言葉の通りだ。八一の名前をもじって散々言われてきたこと。
ここ最近その通りであると痛感している、己の醜悪な本性。
ドロドロと汚く濁ったそれを剥き出しのまま万丈へと投げつけた。言いたい放題に吐きつけて息が切れる。荒れた呼吸を整えながら、八一は濁った眼で万丈を睨みつけた。
「その通りだな」
「あ?」
気が抜けるほどいつも通りの声に、八一は肩透かしをされた。そんな八一を気にすることなく万丈は淡々と返答する。
「俺はお前の邪魔をしてるし将棋でも役に立てねぇ、いらないってのも当たってる。俺が悪い」
「だから……!」
「なのに、なんでお前は自分が全部悪い、なんて面してんだよ」
「え」
八一が思わず顔に触れると涙が流れていることに気づいた。
喚いていたのは自分なのにと、恥ずかしさに水を差され八一は返って冷静になってしまった。
「確かに? あいちゃんは見てられないほど落ち込んでるし、銀子ちゃんも泣かせた。そこだけ見りゃお前はクズさ」
何でもないように突き付けられる事実に八一は言葉に詰まり、万丈の攻勢は止まらない。
「でもな、それでちゃんと罪悪感あるなら、まだどうとでもなる」
「どうとでもって……適当なことを」
「なるんだよ。お前らはこの程度で切れるような仲じゃないし、お前も言うほど腐っちゃいない。お前より口も性格も悪い奴、世界にどんだけいると思ってんだ?」
知ってるの数えるだけで夜が明けちまうよ、と苦笑する万丈。
「それとも今ので俺が傷ついたとでも? んなこと気にするほどご丁寧じゃないだろ俺ら」
「それは……」
その通りだった。
八一からすれば万丈は、姉同然の存在にベタ惚れストーカー寸前の気の良いダサT筋肉。万丈からすれば八一は、愛する女性にとって大切な唐変木で将棋が強い放っておけない弟分。
お互いそれなりに尊重しあって来た自覚はあるが、それ以上に雑に扱いあった間柄でもある。風邪の看病をしてもらった後に八一と銀子の二人で万丈を将棋でボコボコにしたり、エロ本騒動の時に一人で逃げようとした万丈に物言いをして別のエロ本で懐柔されたりとか。
「……独りで抱えこんでたら腹の中で腐っちまうんだよ」
夢への道を遥か高みまで登りつめようと進む人間には、その途上で他の誰にも手助けができない大きな壁に阻まれることがある。質が悪いことに、そうなったときは耳障りな外野の声が足を引っ張って邪魔をしてくる。
そういうモノに人生を歪められた人間は世界に沢山いると万丈は語る。
例えば、一度は夢を掴んだが、事実無根の盗作疑惑と過激なバッシングによって親類も財産も夢も失いまともに歌うこともできなくなった路地裏のロックシンガー。
例えば、兄妹揃って名声と巨万の富を得たがそれに目が眩んで這い寄る周囲に疲れ果て、冬山で心中を図ろうとした小説家兄弟。
挙げだせばキリがない。万丈にできるのは彼らから教わった子供でもできる対処法を、たかが十七の少年が重圧に押しつぶされ同じ轍を踏まぬよう噛み砕いて伝えることだけだった。
「無視できるならそれでいい。腹立ったんならちゃんと怒って吐き出せ、言い返せ。不安になったなら意味なくても誰でもいいから愚痴れ。腐る前に処理しねぇと思考が鈍って凝り固まっちまう」
それは棋士にとって致命的だろ、と続く。
「ま、この筋肉様の言う通りに今からやれってのも酷だわな。だから後々助けになりそうなもん持って来た」
「……持って来た?」
「決まってんだろ?」
お土産だよ、と万丈が差し出す紙袋は、ここ数日いつも外のドアノブにかかっているタッパー入りのソレと同じだった。差し出されるまで、万丈が手に何かを携えていたことにも八一は気づいていなかった。
「方々行って集めて来た九頭竜 八一竜王の防衛成功を願う、棋界の外にいるの奴らの応援だ」
「は……?」
「だから今日は、俺がそれと一緒に渡しに来た」
押し付けられた紙袋を覗けば、何かが一杯に書き込まれた色紙が何枚も投入されていて、その下の底にいつものタッパーがあった。
「旅館ひな鶴の皆さんにお前らと初めて会った将棋道場の爺さん婆さん、湘南の奴らに……他にも色々な。お前の知り合いのところにちょっと行って一筆書いてくれって頼んだ」
八一が一枚抜き取ると部屋の暗さで読みづらかったが、太字で豪快な四字熟語や達筆で細く走った俳句らしきもの。大勢の人間が書いていることが一目でわかる文字の不揃いさだった。
「名人応援してるって奴もいたからみんながみんなってわけじゃない。でもここに書いた奴らはちゃんとお前に勝って欲しいって本気で思ってる」
そこに書かれた文字は長短さまざまであったが、皆一様に八一の勝利を願い世間の気運に負けるなと活を入れる文言だった。
普段の八一であれば、こういう品を貰えば素直に感謝して受け取り気分も晴れただろう。
だが。
「……こんなのが、なんだってんだよ」
色紙を紙袋に差し戻す。今の八一にはなんの慰めにもならなかった。
応援してるからなんだ、こんな色紙がなんだ。そんなもので強くなれるなら苦労はない。
棋士の戦いは、孤独だ。
どれだけ研究仲間が居ようと、応援するファンが山のように居ようと、対局になれば己の身一つで将棋盤と対面の棋士に向かい己の知識と経験と知恵で挑むのみ。
師匠も桂香も他の棋士も。全員ライバルであると同時にそれを理解しているから、八一に干渉しない。これを自力で乗り越えられないなら、例え名人に勝てたとしても竜王の名の重さに潰されて終わるだけだと。
追い詰められ強さを求め転げまわる棋士に、こんなものは無価値だ。
「なんにもならねぇな。有ったところでお前の将棋の腕が上がるなんてこともねぇ」
八一の拒絶に、万丈は毅然と彼を肯定する。
こう返されるだろうことは万丈にも解っていた。だから棋士たちに書くのを頼まなかった。
これで立ち直る程度なら、あいや銀子によって八一はとっくに持ち直している。自分程度がなにかしたところで、この少年の大部分を占める彼女たち以上に影響を与えられるはずもない。
八一は決して弱い男ではない。少しの切欠があれば自力で復活する。だが、その切欠はどう考えても将棋になるだろう。
万丈にはそんな将棋を指すことはできない。
将棋を指せても棋士ではないから。彼らのように人生を捧げるほどの情熱を持てないから。
だから万丈がこの部屋へやってきたのは、まったくの無意味でしかない。
「でも、頭の端に置いとけ」
それでも。
「ネットだのマスコミだのみたいに日本全国津々浦々がお前の敵じゃないってことを」
無意味であることを承知で、万丈は駆けずり回った。
金沢へ向かい神奈川へ向かい、海外移住した将棋道場の最強爺さんのためにカナダへ向かい。
「お前に頑張れ、お前は強い、元気になってくれって言いたい奴が沢山いるってな」
万丈は棋士ではない。だから八一と話に来た。罵倒されに来た。
何か一つに人生を賭けて情熱を燃やせる人間が羨ましくて、大好きだから。
ただ吐き出すことでほんの少し肩が軽くなるように、余計なお世話をしに来ただけなのだ。
「それはお前が竜王だから、なんて理由じゃない」
それを述べる気はない。九頭竜 八一なら必要ないからだ。
万丈が落ちていたビニール袋を拾い上げて、周りに転がっていたエナジードリンクの空瓶や携帯食料の空き箱を次々に放り込んでいく。
「強くなるために余計なものを退かして捨てる。それが必要なこともあるだろうよ」
八一の眼前に膨らんだビニールを掲げた。
「捨てるモンを間違えてる」
責めるでも呆れるでもなく、ただ淡白な眼がゴミ袋越しに八一を真っ直ぐ見つめていた。
「……明日、桂香さんの対局がある」
告げられ、八一は思い出した。
そうか、明日はマイナビ女子オープンの本戦、それも桂香さんが女流棋士になれるか否かが賭かる人生を左右する一局。だが相手は確か……。
「桂香さんが勝つところ見逃すんじゃねぇぞ」
「……相手はあの女流名跡だぞ?」
ゴミ袋片手に部屋を去ろうとする万丈の背中に否定を投げる。
人生がかかる彼女には悪いが、難しいと言わざるを得ない。
対局相手は女流タイトル“女流名跡”を二十年近く保持し続け、エターナルクイーンとも称されるあの釈迦堂 里奈。最近まで研修会で燻っていた人間が敵うほど甘い相手じゃない。
「だからなんだ」
「釈迦堂さんの強さを知らないのか?」
「昔、一度だけ指してもらったことあるよ。強ぇよな」
「なら!」
「でも勝つ。今の桂香さんなら」
振り向いた万丈の眼に宿るのは絶対的な自信と信頼。自分の根拠のない言動を、いや桂香が勝利することをまったく疑っていない揺るぎない眼差しが八一を射抜く。
「しっかり見てろ。元カレ一人投げない、誰も切り捨てない人間が積み重ねた強さをな」
万丈は思い出す。八一の部屋に来る前、桂香から「明日の私の対局を見て欲しいって八一くんに伝えてくれる?」と頼まれたときの彼女の穏やかな顔を。
その瞳の奥で、煌々と燃える心の火を。
「ああなった清滝 桂香が、負ける気がしねぇ」
そう言い捨てて万丈は扉をバタンと閉めて部屋を後にした。
「……なにが十分間だ。とっくに時間切れだよ」
万丈が闖入してきてから、時計の長針が半周していることに八一はずっと気づいていた。対局ならとっくに敗北だ。
暗い部屋に静寂が戻り、一人黙ってパソコンの前に座り直す。
少しでも強くなるため、万丈が来る前となんら変わることなく将棋ソフトと向き合い始めた。
そう何も変わらない。ただ侵入してきた筋肉ゴリラに時間を浪費させられただけ。
何か変わったとすれば、部屋に散らばっていたゴミと入れ替わりに万丈が持って来た紙袋が鎮座したことと、どうしてか少し肩が軽くなったこと。
そして明日のある対局の開始時間を確認したこと。それだけだった。
「……師匠は、どうでしたか?」
「……悪い。まだもう少しかかりそうだ」
「そう、ですか……」
「……外はもう暗いし、今日は帰ろうか」
部屋の外で待っていたあいに万丈は薄く笑んで謝罪した。
「袋、預けてもらったのにゴメンな」
「いえ……あいが行っても師匠のおジャマに、なるだけですから……」
この間、十歳になったばかりの少女の声が尻すぼみに小さくなっていく。
あいは八一によって家から遠ざけられてから、毎日のように料理を作りタッパーに詰めて八一の元へ届けに来ていた。彼の好物を詰めたお弁当を。
八一が元気になるように、彼の力になるようにと、願いを込めて作ったお弁当だった。
「大丈夫だよ、あいちゃん」
「え……」
沈む少女を家へ送りながらジャケットの下に「キードラゴン」Tシャツを着こむ筋骨隆々の偉丈夫がニッと微笑む。
「こういうのは地道に積み重ねてくとじわじわ効いてくるもんなんだよ。ほら、歩だって一歩しか動けねぇけど軽んじちゃいけないし、後々になって効いてきたりするしな」
「……」
「無駄にならねぇよ。あいちゃんの努力はちゃーんと八一に届いてあいつを元気にするからよ」
「そうです、よね……」
「おう、そうですよ」
弱々しいあいにも伝播するようにと、万丈が満面の笑みで信じろと言い切った。
日が暮れるのがすっかり早くなった冬の帰り道を、幼い子供が心細くならないように半歩だけ先導して進んでいく。
「……頼んだぜ、桂香さん」
次回「Perfect Triumph(完全勝利)」