最終回。これが彼らの最終フォーム。
――Are you ready?
私は将棋が好きだ。
父の影響はもちろんあるけど、それだけなんてことは絶対にない。
研鑽の末に得る勝利の喜びも。
自分以上の実力者に敗北する悔しさも。
強くなろうともがいて傷ついて苦しむ辛さも。
そこで得た数多くの繋がりも、何もかもがかけがえのない私のすべてを支える大切なもの。
人生を全部かけても構わない。
一度は離れてしまったけれど、もう嫌になることなんてあり得ない。
世界にどんな素敵なものが在ったって、これより好きになれるものなんて他にない。
私にとって将棋はそういうものだ。
「うん……うん、それじゃあね」
会話を終えて通話を切る。将棋会館の微妙に肌寒い廊下で深く息を吐く。
マイナビ女子オープン本戦。私はあのエターナルクイーンこと釈迦堂女流名跡に勝利した。
ついに私は女流棋士になる資格を勝ち取ったのだ。
実感はあるようなないような。釈迦堂さんから健闘を称えられ観戦記者からのインタビューも受けてさらには今まさに銀子ちゃんからお祝いの電話までもらったのに、まだどこかフワフワと夢見心地なのはなんでなんだろう?
理由は沢山思いつく。女流棋士と言っても三級で、まだ仮免許みたいなものだから。最大で二年の間に条件を満たせなければ規定によって資格を取り消されてしまう。あくまで私はまだ女流棋士を名乗ることを許されただけなのだ。
他には、時間だと思う。女流棋士になると決め本格的に打ち込み始めて早八年。長い長いトンネルを抜けたはずだけど、その暗いトンネルで長いこと生活していたせいで外の明るさにまだ目が眩んでいるのだろう。
女流棋士になる以外に負けられない理由が別にあった。
博打のような勝負手を指し続けた末の薄氷の勝利だった。
限界を超え続けて燃え尽きてる。
他にも。他にも……。
あとは、まぁ、もう一つ。
「……むぅ」
うんともすんとも言わない携帯を見て、唇を尖らせてしまった。
期待していた相手から連絡が来ない。
父から、ではない。師匠として面と向かって報告するのを家で待ってくれているだろうから、電話してくることは無い。私たちは親子だけど師弟だからこれぐらいで丁度いい。
別にそうして欲しいだなんてねだったことはないし、そうしてくれるなんて彼が明言したこともない。今すぐしなければならないことでもない。
でも、彼なら言わずとも、というか私がしなくていいと断ったって誰よりも早く電光石火でそうして来ると確信していたのに、肝心なときにコレである。べつにさみしくないもん。
「……ふぅ」
……本当は一番聞きたい声は他にある。でもそれを望むのは贅沢だ。
もし彼が狙い通りに立ち直れたとして、真っ先に私の元へ連絡を寄越して来たらダメだ。他にその声を聞かせなきゃいけない相手がいるでしょ、ってお姉さんとして叱りつけなきゃ。
だけどきっと嬉しいのを抑えられないと思う。
「……ヒドイなぁ私」
一番早く祝って欲しい相手が言わなくてもして欲しいことをわかってと勝手に拗ねているのに、実のところは他の男の子の声が聞きたいなんて思っている。改めて自覚するとなんて悪い女の考えだろう。
彼が知ったらどう思うだろう。流石に怒るだろうか。大袈裟に悲しむかも。仕方ねぇなって呆れて笑ってくれる、のを期待するのは都合が良すぎるかな。
でも今日ぐらいは、今ぐらいはそんなワガママも許されていいでしょう。
思考を巡らせていると、また携帯が鳴った。
「……ふふ」
液晶に映る彼の名前。頬が緩むのに気づかないフリで深呼吸して、電話を取った。
「もしもし、万――」
『桂香さん!』
その声に息が止まる。
電話から届いてきたのは待っていた相手じゃなく若い男の子の声だった。
でも本当は今一番聞きたかった声だった。
「八一、くん……?」
『俺……俺、対局っ見てたよ!!』
『桂香さん!』
「っ……!」
八一くんの涙ぐんだ声がつっかえながら聞こえてくる。声色は明るく、あいちゃんの声も小さいながら電話口に届いていた。
もうその声だけで十分だった。
私の対局をちゃんと見ていてくれたこと。
それで元気になってくれたこと。
あいちゃんと仲直りできたこと。
聞こえてくる一つ一つの言葉に目頭が熱くなっていく。
八一くんなら見ていてくれる。彼にならどんな言葉より将棋で語りかければ届くと信じていた。
それでもほんの少し不安だった。あの対局は私にとって会心の一局。それが何の意味も無かったらどうしよう。全部私の一人相撲だったらどうしよう。
そのほんの少しが涙になって流れ出ていく。さっき直したばかりのお化粧が落ちそうなくらい涙が出て止まらなかった。
届いていた。ちゃんと、届いてた……!
『……そうだ』
「っ……どうしたの?」
『桂香さん、おめでとう!!』
『ああぁ! テメェこら八一ぃ!!』
八一くんからのおめでとうが聞こえたと同時に、焦ったような怒号が電話の奥から口を挟んだ。
向こうでわちゃわちゃと騒いでる音に呆気に取られて涙も止まって息と笑みが漏れてしまった。
『こんの……あ、桂香さぁん! お電話代わってあなたの万丈ですよー!』
「こんばんわ。八一くんに代わって?」
『即座にチェンジ要求……!?』
まだ八一くんにありがとうって返事が出来てないの。後でいいからちゃんと代わってね?
『くそぅ八一の野郎……俺が最初におめでとう付き合って下さいって言う計画だったのに……!』
「残念だね。あ、ちゃんと両方の意味でだよ?」
『わかってるよチクショー!!』
心底悔しそうな万丈くんにクスクスと笑ってしまった。涙声なのを誤魔化せているだろうか。問題ない、彼は気づかないでいてくれるから。いつもより妙に明るい声音なのがその証拠だ。
「八一くんが言わなくっても、ちょーっと前に電話で銀子ちゃんから言ってもらったよ?」
『ぐっ……だが家族同然の銀子ちゃんなら……ん仕方ない……!』
「そもそも対局相手の釈迦堂さんが言ってくれたし」
『ぬがっ……いや強敵からの賛辞だったらまだセーフ……セーフ……!!』
「あ、観戦記者の人からも言われてた」
『ぐおぁああ、どうしようもなく他人ンン……!!』
万丈くんが崩れ落ちる姿が見なくてもわかった。そろそろ可哀想だからこれぐらいにしよう。
「そんなに悔しがるなら、すぐに電話してくれば良かったのに」
本当はそうして欲しくて期待してた、なんて絶対教えないけど。
『いや、それは無い』
「えー……どうしてー?」
『だって桂香さんが一番喜ぶのは元気な八一だろ? 俺の声よりそっちが先』
トクンと。
胸が強く高鳴る音がした。
『二人だけで話させてたから遅くなっちまったけど、サプライズは成功したか?』
「……」
くやしいなぁ。またこんなことで。
『桂香さん?』
「……うん……うん。大成功!」
携帯を当てる耳が熱い。発熱でもしてるのだろうか。ならあしたしゅうりにださなくちゃ。
「万丈くん、えと、あのね?」
『どーした?』
彼の名を呼ぶ喉が急に乾いていく。暖房が効きすぎてるんだ。かおがあつくてしかたない。
「ううん、なんでもない。そろそろ、切るね」
『え。おい、ちょっと待った!!』
なんだかわからなくなって変なことを口走る前に電話を切ろうとして、ストップがかかる。
むねのおくでぽかぽかがあふれだして、くるしいのにきもちいいほどあたたかい。
「な、なに?」
『なにって……俺まだ言ってねぇだろ』
いけない。聞いてはいけない。耳を離さなきゃ。
はやくいって。ずっとききたかった。みみをすまさなきゃ。
『桂香さん』
それを聞いたらこの熱いのが体中で駆け巡って冷めなくなってしまう。
それをきかせてわたしをもっとあたたかくして?
『おめでとう』
ズルい。そんなの二歩だ。それも打ち歩詰めの二歩だ。反則にもほどがある。
それに「付き合って」をなんで言わないの。それならいつも通りでいられるのに。
「……おめでとうって言ったってまだ仮免許みたいなものなんだよ?」
『おう』
そっか。私は、彼の声を最初に聞きたかったんじゃない。
「浮かれてるようじゃ、すぐに足をすくわれちゃうんだから」
『おう』
どうしても譲れなくて、でも逃げる理由にしてしまったあの雨の日からずっと。
「だから……だから……」
彼にこう言いたかったんだ。
「私、女流棋士に、なれたよ……!」
『ああ。おめでとう』
胸元で握りしめた手が、熱い。
ようやく溢れて来た実感を、もう手放すもんか。頬を伝う涙もそのまま静かにそれを噛み締めた。
「まだ負げだぁ……」
「今日はいつにも増してデレデレしてたもんね」
七寸盤を挟んで万丈くんが頭を垂れる。いつも通りに私の勝ちだ。
あれから少しだけ時間が経って、今日は現在も竜王であり九段の八一くんが中心になって企画したお花見。天気は気持ちのいい快晴で見上げれば青空と満開の桜に目を奪われた。
「だってよ、今日の桂香さんいつにも増して気合入っててよ……桜なんて見てる場合じゃねぇ」
「お花見だよ?」
お花見はみんな楽しみ抜いて、もうそろそろお開きになりそうな雰囲気があった。
用意したお弁当は食べきってしまったし、大人たちのためのお酒ももう空だ。父は酔って酒瓶抱えて寝てしまったし、八一くんはシャルちゃんを膝の上で眠らせ、目の据わったあいちゃん銀子ちゃんを始めとする女の子たちに包囲されてタジタジだ。他の人たちも遊び疲れてしまっていたり、桜もそろそろ見飽きて空気がダレてしまっていた。
だからというか、今はこの七寸盤の方へ特別注目している人もいないようで。
「今日はどうしてもらおうかな~」
「こうなりゃなんでも来い。桂香さんの頼みならなんでもござれだ~い……」
「そう? じゃあね……」
「結婚して?」
「おう、任せろ」
「じゃあこれに名前と印鑑お願い。今度出しに行くから」
「あ、はい……」
「あー良かった」
「…………えっと、んん?」
すかさず荷物に忍ばせておいた緑色の紙を手渡す。
数秒経って、彼の頭がウサギになる。いつものことなのに、いつかの焼き増しのようだった。
「待って桂香さん」
「対局は終わったの。いまさら待ったはなしだよ?」
「そうじゃなくて、俺たち付き合ってないよな。今」
「そうだけど……ほとんど付き合ってたようなものでしょ」
「そうだけどもそれ言っちゃおしまいだろ!?」
手に持った婚姻届を高級品を預けられたみたいに大事に保持しながら狼狽する万丈くん。
「私と結婚したくないの……?」
「一生添い遂げたいです」
少し潤んだ眼と上目遣いで返事を誘うと即答で望む言葉が返って来た。
ん、言質も取れた。練習した甲斐がある。
「プロポーズしてもらったし、もう十分でしょ」
「ハッ……!? 待った待った! こんな暴発みたいなプロポーズねぇよ!? せめてやり直しを」
「待ったなし。もう一生分聞いてるからいらなーい」
「いや、男女交際とプロポーズは似て非なるものだと……!」
「万丈くん」
ごちゃごちゃうるさい彼に最後の一手を打ち込む。
頬を撫でる風と桜の香りがいつかを思い出させる。あの日と違うのは校舎じゃないことと私たちが大人になったこと。そして何より七寸盤に並んだ盤面でわかる両者の実力だろう。
変わっていないのは彼の気持ちと、きっと本当は私の気持ちも。
ずいぶん遠回りして、彼に負担をかけて周りも困惑させて呆れさせてしまったけれど、ようやく終局へ進められそうだ。
彼がどんなに強くなっても、もう逃げることは無い。その覚悟も準備もできている。
そういう未来への筋を思い描ける自信が胸を満たしているから。
「詰み、だよ?」
将棋盤の上で成香と成桂によって動けなくなった彼の玉を、あの日のように桜が飾った。
あぁ、忘れてた。
あのね、万丈くん。
私ね。
将棋と同じぐらい、あなたが好き。