大正時代、1912年に始まり1926年に終わった、日本史において最も短いとされる時代区分。
それでありながら急速に近代化したことにより完全に列強の仲間入りを果たし、世界に軍事力と技術力を見せつけた日本にはしかし、『鬼』と呼ばれる怪物が蔓延っていた。
鬼──それは決して、狂人を比喩としてそう呼んでいる訳ではない。
人外の生命体、元々人でありながら、外道へと足を踏み外した異形の化け物。
陽の光に弱く影の元でしか活動できない、という西洋における吸血鬼にも似た特徴を持ちながらも、それを弱点として見いだせない程に強靭な怪物。
夜闇に紛れ、人の血を啜り肉を喰らう彼らはその昔──平安時代に生まれたたった一人の鬼から鼠算のように爆増した。
正しく夜の支配者、闇の帝王。
だがしかし、その蛮行を赦さず立ち上がった者たちがいた。
鬼殺隊──特殊な鍛錬を重ね、特異の戦技を学び、首さえ落とせば鬼を殺しきることのできる特別な鉱石から作られた武具を振るう、鬼狩りの戦士達。
鬼の始祖が生まれてしまった家の長を中心に、鬼に家族を、恋人を、友を殺された者が集まり出来上がった復讐者たちは、鬼を滅ぼすと誓い叫んだ。
鬼は基本的に相対した人間は殺し喰らう、ゆえに彼らの存在は明るみに出ることはなく、ほとんどの人間は鬼が実在するとは露ほども思わない。
だが鬼を知るものでなければ鬼狩りになる段階にすらたどり着けはしない。
ゆえに鬼殺隊はどの時代も少数だ、これから先も増えることはないだろう。
一人一人が強くとも、少なければ鬼を根絶やしにすることは不可能だ。
抵抗はできても押し切ることができず、被害は増え続ける。
只人たちはそれを知らない。
鬼殺隊の剣士たちは鬼狩りという修羅の道に多くの人を引きずり込もうとは思わない。
鬼は暗躍し、人を喰らい、高らかに笑う。
鬼狩りは、その身を削るように命を摩耗させる。内に秘めた燃え滾る復讐心、義務、責任に身を委ね。
人と鬼の殺し合いは暗闇の中、未だ続いていた。
齢九つの時に命を救われた彼は現在、齢十四にして階級は『甲』。
実力ごとに分けられた鬼殺隊の階級は上から『甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸』となっており、つまるところ伊佐那は一番上の階級である──と、言いたいところではあるが実は違う。
階級自体は確かに最上位ではあるのだが、甲の階級の者の中には『柱』と呼ばれる九人の剣士がいた。
柱──それは文字通り、鬼殺隊という組織を支える鬼殺隊内最強の戦士たち。
要するに甲の中でも最も優れた九人というわけだ。
伊佐那は甲であっても選ばれた九人ではなかった、とはいえその実力は折り紙付きであり非常に優秀とされており、鬼殺隊の長からも柱に負けず劣らずの信頼を受けている。
その信頼に応えるように伊佐那もまた、各地を飛び回るようにして鬼を狩り続けている。
伊佐那は茶屋の前にて、隣に座った女に説教をされていた。
一応、聞いてはいるのだがそれはそれとして二人の間に置かれた三食団子をパクパクと口に運んでいた。
喉が詰まらぬように一緒に頼んだ冷たい茶で喉をすすげば女の額に青筋が浮かんだ。
女の名は胡蝶しのぶ、伊佐那の同僚だ。
「もしもーし、伊佐那さん? 私の話聞いていますか?」
「え? あぁ……うん、聞いてる聞いてる、聞いてるよ」
バッチリだ、と付け加えれば席をトントントントンと叩いて『私怒ってますよ』アピールを過激化させるしのぶ。
それを見て、伊佐那は内心ため息を吐きながら「今日は厄日だな」と思った。
ただでさえ今日は朝から任務任務任務で大忙しだったのだ。
特に直近の任務なんか山まで出張らねばならず、また鬼の数が多かったため山中走り回る羽目になった。
しかもその中には傷を負った同僚から致命傷を受けた同僚、既に物言わぬ骸になった同僚までいた。
伊佐那とてこれまで戦ってきた身だ、血も死体も見慣れてはいる。
だが見慣れているからといって、何も思わない訳ではない。お陰で気分は最悪だ。
(こんな時は美味いものでも食べて切り替えなきゃだな、今日は昼から団子祭りだ!)
団子は伊佐那の大好物だ。
食べて忘れる、というわけではないが気分は晴れるだろう、好物なのだからそれもなおさらだ。
悪い手段ではない、少なくともうじうじと考え込んでしまうよりはマシだろう。
そういう訳で伊佐那は推しの茶屋に足を運んでいた。
山のように積み重ねてもらった三食団子と、いつもは頼まないちょっと高めの甘いお茶。
完璧な布陣である、とお昼特有の陽気に当たりながら舌鼓を打っていた。
そんな時なのである、胡蝶しのぶという女がやってきたのは。
「こんなところで会うなんて奇遇ですね、伊・佐・那・さ・ん」
やっと見つけた、と言わんばかりの顔──というか事実「やっと見つけたぞこのクソ野郎」という思い込めてしのぶはそう言った。
伊佐那は思わず「マジかよ」という顔をした。
言わずとも分かるだろうが、伊佐那としのぶはただの同僚という関係性に留まらない。
とはいえ別に恋仲という訳ではない、言うなれば彼らの関係は『医者と患者』だ。
しのぶには同じく鬼殺隊に所属する胡蝶かなえという姉がいる。
しのぶはその姉とともに蝶屋敷という屋敷で暮らしているのだが、彼女らはこの屋敷を傷つき弱った隊士の療養の場として開放しており、そこでしのぶは医者まがいのことをしていた。
まがい、とは言うがその腕は相当なもので、本職の医師と比べても遜色はない。
そして伊佐那はそこの常連だった──否、常連になるべき人間だった。
それは伊佐那が弱いからという訳ではない、戦闘時において無茶する人間だからではない。
伊佐那は病を患っていた、前触れもなく血反吐を吐き、頻繁に熱が上がり頭痛を起こす、時折心臓が止まったかと錯覚する程の痛みが胸を襲うこともあった。
しかも性質が悪いことにそれは未知の病であった。
しのぶや、本職の医師でも現状治すことは不可能であり、進行を遅らせたり症状を抑えたりするのが精いっぱいだった。
だが、それでも無いよりはマシなはずなのだ、けれども伊佐那が自発的に蝶屋敷に足を運ぶことは滅多にない。
何故かといえば
(俺、薬苦手なんだよね)
こういうことだった。
伊佐那は極度の甘党だった、苦いものが大嫌いだったのだ。
ついでに言えば彼は蝶屋敷が嫌いだった、誤解無きよう、分かりやすく言えば病院が嫌いなのである。
蝶屋敷は病院で、処方される薬は全て──少なくとも伊佐那が貰う薬は全て──激苦い、良薬口に苦しだ。
そして伊佐那は病院が嫌いで、苦味も嫌い。
寄り付かないわけである、しかも鬼殺隊であるだけあって彼は痛みに耐えるのが得意だった。
しかししのぶがそれを許さない。
それは生来持っていた優しさか、それとも医者としての矜持か、はたまた同僚でも数少ない同期であり、友人であるからか。
どれにせよしのぶは伊佐那を見つける度にひっとらえて蝶屋敷にぶち込み診断、処方、療養のトリプルコンボをぶちかましていた。
「前にお会いした時に私が言ったことを覚えてますか?」
「……さよちゃんがおにぎりと一緒に頑張ってくださいね! って言ってくれたな」
「わ・た・し・が、言ったことを、覚えてらっしゃいますか?」
ニコリと笑っていたしのぶの笑顔の圧が強まった。
伊佐那は思わず「ひぇ……」と声を漏らした。
「……薬がなくなったらまた来いって言ってた気がしないでもなくもない、な」
「えぇそうです、その通りですね。二週間分のお薬を持たせ、定期的な経過観察がしたいので絶対に来てくださいと言いました。さて問題です、あれから何日経ったでしょうか?」
「一か月くらい?」
「二か月と三週間です!」
「くぁっ」
ヒュッという風切り音と共に放たれたしのぶのデコピンが伊佐那のオデコにクリーンヒットした。
女性とは言え鬼殺隊、流石に痛くないと言ったら嘘になる。
放っておけばもう一発くらい放ってきそうなことを察して伊佐那は手を出した。
「ま、まぁ待て、落ち着いて聞け、しのぶ」
「言い訳ですか?」
「そうだ言い訳だ、でも制裁を下すのはそれを聞いてからでも遅くはないんじゃないか?」
ふむ、としのぶは思う。
このバカの話を聞く必要あるか? と。
しかし考える。
伊佐那はこれでも甲の剣士だ、多忙に次ぐ多忙だった可能性もある。
うぅん、としのぶは唸り、そして結局聞くことにした。
彼女はどこまでも慈悲にあふれた少女であった。
「わかりました、聞くだけ聞いてあげます」
「良し来た──しのぶは薬がなくなったら来いと言った、そうだろう?」
「えぇ、そうです」
しのぶの返答を聞くと同時に伊佐那はフッ、と勝ちを確信したように笑った。
しのぶが眉を顰める、だがお構いなしに伊佐那は懐から巾着を取り出した。
青と白で彩られているそれは伊佐那の薬入れだ。
長い間使っているのかややほつれていたが、それでも大切に使われているのが見て取れる。
それが分かってしのぶは若干表情を和らげた。詳細は省くがこの巾着はしのぶが伊佐那に贈ったものだからである。
自分の贈ったものが大切にされているという事実は誰だって嬉しいものだ。
ふふっ、内心ちょっとしのぶは気分が良くなった。
「何と薬の存在を今お前と出会うこの瞬間まで忘れていたんだ」
「────」
しのぶは絶句した。
半ば本能的に口元を片手で覆い、巾着の中から薬を出して、数える。
種類別に包みを分けられた錠剤が各十四袋! 粉薬の入った包みも十四袋!
うーん、一つも減っていない。こいつ渡したその日の内の分すら飲んでねぇ!
これはもう忘れていた、というよりは飲むのが嫌すぎて記憶の彼方にぶん投げていたとみて間違いないだろう。
(あれ?)
だがしのぶはここで、薬の種類が一つ足りていないことに気づいた。
毎日飲むようのものとは別に、ここぞという時にだけ使ってください、と念を押して渡した薬。
解熱鎮痛剤──いわゆる痛み止めだ。
どれだけ診療しても、薬を投与しても現状できるのは精々が健康管理と症状の緩和、遅延だけ。
だがそれだけでは流石に心もとない、それゆえにしのぶは伊佐那に特製の痛み止めを処方していた。
かなり強力、それゆえに副作用も大きい。
だからこそ一回分しか渡さなかったものだ、それだけが無くなっていた。
「伊佐那さん、痛み止めはいつお飲みなられましたか?」
「痛み止め? あっ、あのやたらデカい丸薬」
「そうでそうです、それです。いつ使いましたか?」
「蝶屋敷を出て、すぐに」
「はい?」
「いやだから、蝶屋敷を出てすぐに飲んだんだって。お陰でやってきた痛みはすぐ霧散したから助かった、でもそのあとやってきた眠気がやばかったな、気合でねじ伏せたけど一瞬意識持っていかれた」
「す、すぐ後ろに病院があったのに飲んだんですか!?」
「いやだって……やっと解放されたのにまたベッドに縛り付けられるのはちょっと…」
遠慮したかった、と伊佐那が言った。伊佐那としても少々申し訳なさは感じているようで、随分と控えめな声だった。
だがそんなことは関係ない。
直後、ブチっと音が鳴った。
しのぶはキレた、そりゃそうだ。
「ば、ば、馬鹿なんじゃないですか!?」
「うがぁっ!?」
瞬間放たれた右ストレートは過たず伊佐那の頬へと吸い込まれていった。
ドグォ! という通行人たちが足を止めてしまうほどの音がして伊佐那の体が宙を舞う。
今のしのぶはさながら噴火した火山だ。今なら鬼の頸すらぶった斬れるとしのぶは思った。
ドシャッと大の字に落ちた伊佐那の前に、しのぶが立つ。
「さて、伊佐那さん。私に何か言うことはありますか?」
「…………ごめんなさい」
「はい良くできました」
じゃあさっさと蝶屋敷に行きますよ、と言う。
──否、突如空からやってきたそれに言おうとした言葉は遮られた。
それの名は鴉──鎹鴉。
鬼殺隊の隊士一名一名に必ず付けられる、任務の伝令役だ。要するに彼らは人の言葉を話す。
人の目から見れば彼らの姿は普通の鴉と変わらず一緒に見えるがしかし、その鎹鴉の足首には青色のリボンが巻かれていた。
伊佐那が、パっと見た時にすぐに自分の鴉であると分かるために巻いたものだ。
つまりこの鎹鴉は伊佐那の鴉ということである。
剣呑というかなんというか、少なくとも和やかではない雰囲気の間でその両翼を大きく広げてからそっと伊佐那の頭に降り立った。
数秒の沈黙、伊佐那としのぶは目を合わせ──そして鴉はさっとまた飛び立っていった。
「悪いな、どうやら仕事が入ったようだ」
「そのようですね……はぁ、仕方ありません」
鴉は何も二人の仲裁をするために降りてきたわけではない。
当然、任務の伝令だ。だがこんな大勢の人がいる中で声を出すわけにはいかず、彼はこういう形をとったという訳だ。
後で人気のないところにでも行けば改めて任務の通知がなされるだろう。
よっこらせ、と立ち上がった伊佐那は手早く土埃を払って残った団子を手に取った。
「じゃ、俺は行くから、さいなら」
「えぇ、本当に……本当に仕方ないので私も着いていくことにします」
「は?」
「ふふっ、だって伊佐那さんそのまま逃げる気満々じゃないですか」
「ぐぬっ」
図星であった。
むしろこのタイミングで任務が来てラッキー! とすら思っていたほどである。
「ですから私が着いて行って、終わり次第そのまま蝶屋敷にお連れしますね?」
「い、いやでもしのぶだって忙しいだろうし──」
「なんと、私はさっき任務を終えてきたばかりで暇なんです! ね、問題ないでしょう?」
「それにこれは、俺の仕事──」
「一人でやるより二人でやった方が効率良いじゃないですかぁ」
「それそうだけど……」
頼むから見逃してくれ、と伊佐那は思った。
絶対逃がさねぇからな、としのぶは思った。
かくして折れたのは伊佐那の方だった。
「分かった、分かったよ。好きにしてくれ」
「はい、言われずともそうさせていただきます!」
そうと決まれば早く行きますよ、としのぶが言って伊佐那は苦笑う。
これじゃどっちの任務が分からないな、と思って団子を一つ口にした。
「あ、それ私にもいただけますか?」
「え? 嫌だけど……」
「くれるんですね? 流石伊佐那さんです!」
「いやあの、ちょっ……まぁいいか」
返答を無視して団子を一本持って行ったしのぶに嘆息を一つ。
だがまぁ、経緯はどうあれ仕事を手伝ってもらうの事実なのだ。
その前金と考えれば安い方だな、と思いもう一つ団子を口にした。
五話くらいで終わります。多分。