彼女の口端は吊り上がっていて、いかにも愉快そうなのに比べしのぶの眉は細められていた。
だがしのぶは目の前の女性を切り捨てることができないでいた。
ほとんどお荷物と化した伊佐那がいるせい……ではない。
(彼女は人間だ……!)
そう、二人と相対する女性は間違いなく人間だった。
決して鬼ではなく、全てが常人のそれ。けれども狂人の片鱗が見え隠れしている。
「これは少し想定外ですね、二人ともアラナギ様にいただいてもらう予定だったのに」
「アラナギ様……?」
「この町の守護神様です、アラナギ様は人の肉を好むんですよ」
だから私たちは、お客人をみーんな捧げてるんです、と当たり前のように言った女性にしのぶは冷や汗を流す。
アラナギ様というのは鬼なのだろう、それは間違いない。だが人を喰うと分かっておきながらそれに……信仰にも近い何かを持っている人間と出会うのはしのぶは初めてのことだった。
人間は未知を恐れるものだ、そして一度恐れてしまえば乗り越えることはそう容易いことではない。
只人よりも力は強く、また戦う技術もあり、精神も鍛えられている。
そんなしのぶが半歩後退した、後退して、どうするべきか思考を回す。
──瞬間、しのぶの身体は宙に浮いた。
否、浮いたどころではない。浮遊感を与えられて、そのまま高速で景色が流れ去った。
「──────!?」
「きゃああ!?」
声にならないしのぶの悲鳴と、女性の悲鳴が同時に鳴り響く。
女性は弾かれ倒れこみ、しのぶは片腕に抱えられていた。
「──あぁ、フラフラする。頼むぞしのぶ、悪いけどお前にかかってるっぽい」
「えぇ、分かっています……というより伊佐那さん、動けるのですか?」
「気合で動かしてる、でもいつ落ちるか分かんねぇ」
そう、伊佐那は己の身体を気合で動かしていた。
かつてしのぶお手製の薬の副作用による眠気にすら抗い切った伊佐那だ。これくらいは余裕である──という訳ではないが、何とか意識を繋ぎとめることには成功していた。
身体もある程度は動く、だがある程度にすぎない。
思考も靄がかかっているようだった。
「つーか何でしのぶは平気なんだよ……」
「私は毒使いですから」
そう言ったしのぶに、伊佐那はなるほどな、と頷いた。
しのぶは鬼殺隊内でも珍しい──というよりは恐らく、ほぼ唯一の毒を使って鬼を殺す剣士だ。
もっと正確に言うのであれば、
そしてその毒は常に彼女の手によって更新され続けており、その過程で彼女は少量の毒を身体に取り込み続けていた。
当然死ぬためではない。彼女はどれほどの効き目があるのか、どれくらい強い毒であるのかを、自身の身体を以て確かめていた。
また、誤って服毒してしまっても大事にならないよう毒に対する抗体を作っておくのも目的の一つであった。
盛られた睡眠薬が効かなかったのもその為だろう。
「良いな、俺も抗体欲しい」
「ふふっ、どの毒もにがーいですよ?」
「げぇっ」
伊佐那は嫌そうに舌を出して、それからしのぶを下ろす。
「とにかく、今は逃げるのが先決ですね」
「だな、まさか町の人に薬盛られるとは思わなかった」
短いやり取りを交わしてから扉を開ける、そうすれば目の前には閑散とした町の光景は──広がって
人、人、人、人人人人人人人人人人人人。
老若男女関わらず、どこにいたのかというほどの人間が宿屋の前にいた。
全員がその手に鍬だったり刃物だったりを手にして伊佐那たちを、酷く不快になる目で見ていた。
「っ!」
ドン、と後ろ手でしのぶを押して、そのまま自分も屋内へと戻る。
素早く扉を閉めてから、しのぶと顔を合わせ、少しだけ考えた。
「上です、上から逃げましょう!」
「それだ!」
階段を何段も飛ばして駆け上がるしのぶの背中を追って、伊佐那は身体を引きずるように床を蹴る。
しのぶは一瞬伊佐那を気にかけて、まだ大丈夫そうだということを確認してから一〇二号室の扉を蹴破った。
素早く入り込み、窓を開け放つ。
「伊佐那さんは先に行ってください、私はちょっと荷物を回収していきます」
「了解、さっさと来いよ」
言うや否や伊佐那は静かに踏み込み窓の縁へと乗っかった。
ここは二階建ての宿屋だ、つまり窓から少し上を見上げれば屋根である、
伊佐那やしのぶにとっては、少し跳ねれば届くくらいの距離だ。
そのことを一瞬確認してから伊佐那は宙を舞う。
曲芸師もかくやというように、彼は月夜の空の下で跳ねた。
ザリッと音を鳴らして屋根に着地する、二、三歩だけ横にずれてから伊佐那は下を眺めた。
「こんなにいたのか……ていうかこれ、この町の人が全員集まってるのか?」
気を抜けば飛びそうな意識を握りしめながら伊佐那は、コンコンと頭を叩いてそう呟く。
そうしなければ頭は上手く回りそうになかった。
「具合はどうですか?」
「結構やばめ、もう落ちそう」
「それはちょっと困りましたねぇ、私の手持ちでもそれに対するような薬がなくて」
伊佐那と同じように跳んできたしのぶが「申し訳ありません」と目を伏せて言う。
「気にすんな、こうなったのは十割俺の落ち度だし、いてくれただけで助かってる。俺一人だったら今頃死んでたかもだしな」
「もう、縁起の悪いこと言わないでください……これからどうしましょうか」
「一先ずは逃げの一手……と言いたいところなんだけどな」
苦笑いを浮かべながら伊佐那は下を見れば、先ほどからどんどんと増していく人の群れがそこにはあった。
その内の一人と目が合って、誰かが叫べば全員が俺たちを見た。
「状況が悪いですね……」
「あぁ、まさか町ごとこんなんだとは思わなかった」
あの様子だと下手に逃げても追ってくることだろう。彼らとて彼らの町がこのような状態であるとは他の人たちにも知られたくないはずだろうし、そもそも二人は町人達にとって供物である。
ここ周辺に限れば彼らにとって庭場だ、追いつかれることは無くとも追いすがれるだろうし、加えて鬼まで出てきたら鬼だけを斬るというのはかなり困難だ。
また、ここで日を置いたことで新たな被害者が出る可能性は見過ごせない──見過ごしたくない。
そして何より伊佐那には、長時間の活動ができるか、という疑問があった。
先程からずっと激しい眠気に取りつかれている。すぐ落ちるということは無いだろうが、遠くない内に落ちるだろう。
逃げている最中にそんなことになったら最悪だ、しのぶは恐らく伊佐那を見捨てない。
しのぶに伊佐那を抱えて逃げ回るだなんて芸当は純粋な筋力の問題で不可能だ。
つまり見捨てないためには鬼ではないただの人をその手で殺めるしかないし、それができなかったら二人もろとも捕まるだけということになる。
だから、伊佐那は考える。鈍りに鈍った気合で回転させた。
「仕方ない、鬼を狩ろう」
「正気ですか?」
「俺はいつだって正気だっての……多分、ここの鬼はあの寺にいるんだと思う。だから今から一気に襲撃して蹴りをつける」
「……悪くない手だとは思います。ですが、大丈夫なんですか?」
「俺なら問題ない、むしろ戦ってる方が集中できる。それに鬼を殺したと証明すればあの信仰具合だ、町の人たちもそっちに気を取られるだろ。その間に逃げよう」
「そうですねぇ……」
そう呟いて、しのぶは伊佐那を横目で見た。
傍目から見ても分かる消耗具合だ、時間がないというもの本当のことだろう。
彼にとって今、こうして作戦を立てている時間すら惜しいものだということが存分に分かる。
かと言って伊佐那が提案した作戦も悪いものではない、だからこそしのぶは冷静に考えて、十数秒の後に頷いた。
「分かりました、そうしましょう。ただし時間はかけずに、迅速に」
「元よりそのつもりだ──行くぞ!」
言うや否や、伊佐那は屋根を蹴り上げた。
瞬間、彼の身体は掻き消える。否、そう見えるほどの速さで移動をし始めた。
世が世なら忍者と思われてもおかしくないような速さ、軽業で二人は屋根の上を駆けだした。
家と家の間を飛翔にも近い跳躍で超えていく、町人達が二人が移動したことに気付いて大声と共に走り始めた。
とは言え二人の移動速度には敵わない、がそれを差し引いても伊佐那は冷や汗を垂らした。
「随分熱狂的だな」
「何を以てここまでのものに成長させられたのかは、少々気になるところではありますね」
基本的に鬼が人をこのように支配するという図はあまり見る光景ではない。
なぜなら鬼は人を喰うからだ。支配下に置こうがなんだろうが、鬼は人を喰らうという衝動に打ち勝つことがほとんどの場合において不可能とされている。
知性もなく、理性も捨て、人を喰らい力を付ける。鬼とはそういうものだ。
だが、そうではない鬼がいたとするのであれば、その鬼は恐らく──いや、ほぼ確実に長生きをしている鬼だということに他ならない。
長生きをする鬼は、強い鬼であるとイコールで結ぶことができる。
それだけの間、人を喰らっているということなのだから。
「伊佐那さん、遅いですよぉ」
「こなくそっ」
若干、しのぶの背中を追う形で伊佐那は夜闇の中を駆けていた。
薬を盛られたせいで動きが鈍い、というのもあったが万全の状態であっても彼女の速さに追いつくのは難しそうだな、と伊佐那は思う。
それほどまでにしのぶは速い。
だからこそ伊佐那は安堵にも近い感情を得ていた、これであれば相手の鬼に敵わなかった時、彼女であれば逃げ切ることはできるだろう、と。
戦いにおいて弱気さは好ましくないが、最悪のことを考えておかない訳にはいかない。
自分一人ならまだしも今回はもう一人いるのだから、と伊佐那は思う。
「どう攻め込みましょうか」
数分の後にようやく辿り着いた寺を見下ろしながらしのぶがそう問いかける。
本来であれば詳細に調べた後に入るルートと、退避するルートを決めてから攻め込むのが定石だ。
だが今はそれが出来ない、となればやれることは一つだけ。
「正面突破、それしかないだろ」
「ですよねぇ」
正面突破というのは力あるものだからこそできる芸当だ。
ゆえにしのぶはあまり正面突破を好んでいなかった、ましてや屋内だなんて完全に相手のテリトリーだ。
だが今回はそうもいかない、覚悟を決めるようにしのぶが息を吸って吐き出した。
「行きましょう」
「あぁ」
タンッ、という軽やかな音と共に二人が屋根を蹴る。
着地するのは寺の前、木造の扉を伊佐那は渾身の蹴りで破壊した。
「らぁ!」
その先に広がるのは奥行きのある長大な一室。
その中は人工的に灯された篝火たちによって明るく彩られていて、中央に人影が、一つ。
それは随分と長い黒髪を、顔を隠すように床に垂らしていた。
赤の着物を身に纏い、そこから覗かせる肌は病的なまでに白い。
恐らく女性の鬼である彼女は、血の水たまりの上で二人を見て、嗤う。
「最近は随分と騒がしいですね……おや、その刀、見覚えがございます」
しのぶは口を開かない、ただ己の刀を抜き放ち一瞬の隙を伺い続ける。
そして伊佐那もまた口をつぐみ、姿勢を低くした。左手は鞘に、右手は柄に。
「あぁ、そうです、鬼殺隊と申しましたか。色付き刀を携え、只人よりは少々戦いの技術を備えた、弱き人。数日前も、三人ほどいらっしゃいました」
「──彼らは、どうなった」
「もちろん、いただきましたとも。
そう言って女の鬼はそっと部屋の隅を指さした。
誘導されるように伊佐那が見れば、そこにあるのは砕かれた三本の刀──日輪刀。
見覚えのある色だ、三本とも、かつて三人が持っていた刀の色と一致している。
「私を殺すと仰られていたのですが、とてもとても、冗談かと思うほどに弱うございまして、拍子抜けでございました……とはいえもう何年も、私より強い方とはお会いできていないのですが」
「そうか」
何の感情も籠っていない返答が、室内で響く。
瞬間鬼は恐ろしい速さで数歩下がった、彼女の前には抜刀をした、一人の剣士──伊佐那。
ハラリ、と黒髪の欠片が舞って床に落ちる。
「じゃあもう良い、死んでいいぞ」
「おやおや、随分と血の気が多いようで──しかし、そう上手くはいかないかと思いますよ」
そう言って彼女は己の左目を露にするように髪を払った。
人であるときならば、さぞ麗人だと噂されたであろう容姿に、真っ赤な瞳。
その目の中には「下壱」という二文字が刻み込まれていた。
それが示すところは即ち──下弦の壱。
十二鬼月は上弦の六人、下弦の六人に分けられ、その数字が小さければ小さいほどの強いとされている。
つまり目の前の鬼は、ただでさえ凶悪とされる下弦の鬼の中でも最も強いということに他ならなかった。
鬼がいやらしく笑う、それを前にして二人の鬼狩りは静かに冷静に、息を吸い込んだ。
鬼狩りと鬼の殺し合いが、幕を開ける。
プロットが毎日悲鳴上げてぶっ壊れてる、助けてくれ。