鬼という存在は元より人だったものが、とある鬼の血を入れられることで変生し人外へとなり果てたものの通称だ。
鬼となった者は一般的には理性をなくし、知性を落としただ人を喰らう化け物へと変わる。
植物でもなければ、獣の肉でもない。人の血を、肉を求めるのだ。
何故かと言えば鬼は人を喰らうことで"強く"なるからである。
只の人間が毎日走り込みをすれば体力がつくように、毎日筋トレをすれば筋肉がつくように、鬼は人を喰らうことで身体的ステータスを飛躍的に向上させ、緩まった知性を取り戻す。
そして一定以上の血肉を食めば、やがて異能に目覚めるのだ。
この異能のことを人々は『鬼の血によって手に入れた力』──即ち、血鬼術と呼んでいた。
血鬼術の内容は、鬼によって千差万別である。
つまり鬼の数だけ存在するユニーク的なスキルであり、その鬼自身もどのような力を得るかはわからない。
現代風に言うのであればガチャである。コツコツと石を貯め(人を喰らい)、その末にようやく引ける一度きりのガチャ。
とは言え、ここで手に入れる能力というのは何も完全なランダムではない。
その鬼の戦闘スタイルや思想、好む環境になるべく沿ったものが発現するようになっている。
徒手空拳を使う鬼であればそれを強化するような力が手に入るだろうし、森の中に生息するのであればそこでの戦いを有利に運べるようになる力を手に入れるだろう。
ゆえにこそ、力を得た鬼は狡猾になる。
その力を万全に発揮できるような場所で生活するようになるだろうし、工夫だってする。
人を喰らえば喰らうほど自身のステータスも上がるのと同時に、血鬼術の力も増幅するからより人を喰らうようになる。
力を得た鬼を殺すのは、只人には不可能で、鬼狩りにも困難だ。
だからこそ、伊佐那は最初の一撃で全てを決めるつもりだった。
踏み込みは軽やかに、しかし力強く。体捌きは敵の警戒をすり抜けるように、抜刀は目にも止まらぬほどの速さで、狙いは急所である首を。
洗練された一撃だった、それこそそこらの鬼であれば首を断たれたことにすら気付かなかったであろう程の一刀。
だがこの鬼は躱した、間違いなく油断していたその意識の隙間に挟み込まれた一撃を、見て、気付いてから躱したのである。
いくら伊佐那の身体が薬に侵されているとは言え、その反応速度は伊佐那達の想像以上のものであることを示していた。
ダンッ! と鬼が床を叩く、同時に彼女の影からは一本の薙刀が姿を現した。
まるで影から取り出したみたいに──否、事実影から取り出したのだ。
「下弦の壱・アラナギと申します──冥府の底で、誰に殺されたかをしっかりとお伝えなさい」
「随分とでかい口を叩くんだな」
「えぇ……大口ではないので、ご勘弁を。あぁ、それと、町の人はここには入って来ないようにしてありますので、存分に力を振るってくださって結構ですよ?」
「そいつは重畳──じゃあ」
「はい、お死になさい」
「──ッ!」
室内に、金属音が高らかに響き渡る。
金属と金属がぶつかり合って火花を散らし、伊佐那とアラナギは超至近距離で顔を合わせた。
「思いのほか遅いですね」
「言ってろ」
首を狙われた一閃を後ろに受け流す、同時に伊佐那は刀から左手を外してアラナギの着物を襟を掴んだ。
(剣技だけで生き残れるほど甘くねーんだよ、お前らの相手は!)
ヒュゥゥ、と言った異質な呼吸音が鳴り響き、伊佐那の年相応に細い腕がグッと筋肉で盛り上がる。
瞬間、アラナギの視界は反転した。普通に見えていた世界が突如として真っ逆さまになりながら、横へと投げ飛ばされる。
「なっ──」
「蟲の呼吸──蜂牙ノ舞・真靡き」
放たれたのはたった一撃の突き。されども何よりも速く、何よりも鋭く、そして何をも伏せる、毒の刃。
アラナギは咄嗟に薙刀でガードしようとして、されども何かに阻まれた。
否、何かではない。伊佐那が先ほどまでアラナギを掴んでいた左腕で、薙刀を抑えている。
(まずい──)
そう思うには遅すぎて、『下壱』と刻まれた眼を蝶の一撃が貫いた。
基本的に鬼は、鬼殺隊の持つ特殊な刀で首を斬られる、もしくは太陽の光を浴びることが無ければ死ぬことがない生物だ。
どの部位を焼かれようが斬られようがいずれは再生する、けれども痛みを感じないわけではなかった。
それをしのぶは知っている、だからこそ目玉を狙って貫いた。
より毒を注ぎやすく作られた特性の刀を以て、しのぶは的確に左目から頭蓋を駆け抜けるように穿ち、毒を放つ。
蜂牙ノ舞・真靡きはただひたすらにスピードに物を言わせた超高速の一閃だ。何せ彼女の毒は鬼を殺す毒。一度その身に入れることが出来れば勝ちである彼女にとってそれは最も使い慣れ、尚且つ信用している剣技。
(まだっ!)
だが、彼女はそれだけでは止まらない。
しのぶはこれまで十二鬼月の鬼とは一度も遭遇したことが無い、だからこそだった。
十二鬼月は、他の鬼とは格が違うとされた鬼だ、鬼殺隊で言う柱に値する。
それに選ばれるほどに力を付けた鬼に、たった一度入れただけの毒で倒せるとは限らない。
「蟲の呼吸──蝶ノ舞・戯れ」
念には念を、けれどもそこに焦りはなく。それこそ蝶のように軽やかにしのぶは舞った。
まるで演武のように、されども苛烈な鬼殺の意思を込められた高速の連撃が自由落下するアラナギの全身へと叩きこまれた。
──否、叩きこまれたように、そう見えた。だが、違う。彼女の切っ先は後数ミリメートルと言ったところで真っ黒な何か──影に阻まれていた。
「しのぶ!」
「分かっています!」
それを目視すると同時に二人は弾けるようにアラナギから飛び去った。
だが、遅い。
極至近距離まで迫っていたしのぶの足を手の形をした影がギュッと握りしめていた。
アラナギの怪しく甘美な声が、囁き声のように聞こえる。
「うふふ……まずは一人」
「水の呼吸──捌ノ型・滝壷」
瞬間、溢れんばかりの水流が影を断ち切った──否、実際には水流なんてものはほんの一滴も発生していない、けれどもアラナギの目には確かに見えた。
濁流のような水が伊佐那の漆黒の刀を包み纏い、垂直に断ち切る。
軽く跳ねてからの一閃、伊佐那は左足で着地すると同時に無理矢理アラナギを見る形で前を向き、しのぶを抱え右足でバックステップ。
「助かりました、ありがとうございます」
「問題ない……それよりアイツ毒、喰らったんだよな?」
「毒は確かに注入しました、効くかどうかの確認はこれからですね」
「なるほどな」
じゃあ一気に攻め立てるか、伊佐那は一歩踏み込んだ。
全身の気怠さを追い出すように、忘れるように、呼吸を深くする。酸素を循環させて、血流を速くする。
「水の呼吸──壱ノ型・水面切り」
「それはもう、見たことがございます!」
水流と真黒の影がぶつかり合って、刃が軋む。
そこから更に大型の影を引き出そうとしたアラナギの腕が、止まった。
「ガッ、アァァァ!?」
アラナギが左手で、再生しつつあった左目を抑えた。
ダラダラと涙の如く流れ始めた真っ赤な血は、彼女の再生が進んでいない証拠だ。
力が弱り、取り出されようとした影は沈み込む。
けれども伊佐那と拮抗している影は弱まることは無かった。アラナギは絶叫を轟かせ、顔の左半分を破り取らんほどの力で掴みながらも影を手繰った。
──だが、伊佐那だけを止めようとも意味はない。
この場に鬼狩りは、二人いる。
「蟲の呼吸──蜻蛉ノ舞・複眼六角」
無慈悲にも放たれたそれは、猛毒の六連撃。
突き刺す、というよりはより多くの毒を注入することを目的とされたそれの連撃速度は今までの二つと比べればあまりにも遅い。
だが毒に苦しみ、片目を潰され遠近感も潰されている今のアラナギにそれを阻む方法はない。
「うふふ、これでも昔は役者を目指していたことがありまして」
「がぁっ……?」
「しのぶ!」
──その、はずだった。
超接近したしのぶの胴を、薄く薄く研がれた影が貫いていた。
更には蛸足のように分かれた影の手足がギュルリと伊佐那に巻き付いて動きを阻害する。
声と共に、彼女の口から鮮血がゴボリと吐き出され、アラナギは嬉しそうにそれを左手で受け止めた。
露になった左目は既に再生しきっていて、手にためられた血液をアラナギは如何にも美味しそうに、伊佐那に見せつけるように飲み干した。
その血に濡れた手で、伊佐那の頬を撫でる。
「そう吠えないでくださいまし、貴方方が弱いのがいけないのですよ?」
水の呼吸は臨機応変、変幻自在。
それこそ水流のように、いかな状況にも対応出来るように作られた型で、数ある呼吸の中でも万能型と言っても良い呼吸。
だがそれゆえに突出した"力"のある単体の型が存在しない、どれもが見るものを惑わすような歩法を基に作り上げられたいわば丁寧な型だ。
つまり今の伊佐那のように、動きを止められてしまうと途端に力が減衰してしまう型だ。
最も、このような状態に陥ってしまえば炎か雷、もしくは岩の呼吸の剣士でもなければ絶体絶命ではあるだろうが。
「炎の呼吸──壱ノ型・不知火」
炎の呼吸は水の呼吸とは真逆の呼吸、歩法を無視しただその場で、一刀の元に断ち切るべく編み出された"力"の呼吸。
複数の歩みではなくただ一歩、しかし何十歩もの重みを持つかの如き一つの踏み込み。
水よりは苛烈に、一度により多くの酸素を取り込み、水のように長期的に回すのではなく爆発的な勢いで血流を回す。
『次』をほとんど視野に入れぬほどの呼吸、型。
それはほんの一瞬だけ伊佐那を筋力の限界まで引き上げた。
万力の如く身体にへばりついていた影がぶちぶちと千切れ落ち──爆炎を纏った一刀が袈裟懸けにアラナギを引き裂いた。
「ア、アァァアァァアァァアア!?」
「今度は演技じゃねぇっぽいなっと!」
半回転して身体を捻り、左足の蹴りを放つ。
首元を狙ったそれは差し込まれた腕を蹴り折り跳ばす。
それから半透明の影を斬り裂いて、それに持ち上がられていたしのぶを抱き留める。
「しのぶ、平気か、返事しろ、おい!」
「あまり、大きな声で叫ばないでください……大丈夫です、傷は深いですがまだ戦えます」
「無理はしなくていい、後ろで隙伺ってろ。前には俺が出る」
「ですが、それは──」
あまりに危険だ、と言おうとしてしのぶはやめる。
負傷したしのぶと、薬を盛られた伊佐那。
どちらが前に出るべきかは考えるまでもない。
先ほどまでの戦闘を見て、しのぶはそう思う。
睡眠薬、それも相当強烈なのを盛られてここまで動ける伊佐那は正直に言って尋常ではない。
もし薬を盛られておらず、万全の状態であれば伊佐那は目の前の鬼ですら難なく狩れたであろう、そのことをしのぶは直感的に理解していた。
だからこそ、しのぶは口を噤み一歩下がった。呼吸を以て血の流れを操り、持ってきた痛み止めと薬で応急処置をする。
それと同時に伊佐那は前に出る、呼吸音は水の呼吸のそれに戻っていた。
「はっ、はぁ……驚きました、二つの呼吸を扱う剣士を見るのは初めてです」
「まぁ、自分で言うのもなんだが珍しい方だと思う。あんたも、そんな俺に殺されるんだから少しは誇らしいだろ?」
「嫌ですね、死ぬのはあなた方の方では? ほぅら、後ろの女の子も苦しそうですよ?」
「知ってる、けど俺に治す手立ても知識も無い、だからもしそうなったらお前の首を手向けにするよ」
短い言葉の応酬、会話が途切れるのと同時に金属音は響いた。
幾つにも枝分かれした影を、伊佐那は斬り裂き躱し、前に進む。
「具合でも悪いのでしょうか! 顔色が悪いですよ!」
「あんたの顔色よかマシだろうよ!」
伊佐那は、己の口の中を噛み潰して強制的に己の目を覚ます。
戦場の空気、生き死にの狭間、そして痛み。
それらを以て落ちゆく意識を握りしめていた、全身は既に酷い倦怠感に襲われていたが、それも関係ないと伊佐那は潰しきる。
理想とは程遠い剣舞、けれどもそれは追いすがるように影を斬り裂いていき、まるで沼の中に突っ込んだかのような重さの足はそれでも前へと進む。
未だ胴の回復を済まし切れていないアラナギが一瞬、ほんの瞬きにも劣る数瞬だけ恐怖の色を映した。
振り払うように戻りはしたがしかし、伊佐那はそれを見過ごさない。
呼吸を、整える。
炎と水が、織り交ぜられる。
彼ら──鬼殺隊が使う呼吸には基本となる『炎・水・雷・岩・風』の五つの呼吸が存在する。
鬼殺隊隊員はその内の一つを習得し、もしくはそこから更に派生された呼吸を使う。
──だが、そもそもこの五つの基本の呼吸はとある一つの呼吸から派生したものに過ぎない。
それはかつて、鬼殺隊という存在が誕生したばかりの頃に生まれた一人の天才剣士が使っていた『日の呼吸』。
そのたった一人の天才剣士にしか扱うことができず、他の者にはその片鱗しか扱えなかったため、呼吸は派生した。
数百年もの間、呼吸は派生し続けた。だが、伊佐那はそれを統合させる。かつての天才には届かずとも、確かな才と積み上げた力を以て。
水のように流麗で、しかしどこまでも燃える力強い型。
その型は未完であるがゆえに、未だ
名を得ることすらおこがましく、されども練り上げられ、頂へと手を伸ばすその一撃は影を裂き、その先の首へと刃を差し込んだ。
「──!?」
瞬間、伊佐那の膝が崩れ落ちた。
姿勢が崩れ、力が抜ける。ほとんど切断まで持っていた首はしかし、皮一枚で繋がっていた。
伊佐那の絶望の目と、アラナギの歓喜の目がかち合って、鬼は嗤う。
「ハッ──ははっ、ははははは! あともう少しでしたね──え?」
血飛沫を上げた首が繋がろうと元に戻る。
否、戻ろうとして、もう一本の刀がその薄い肉と皮を断ち切った。
着物を靡かせた少女が、静かに告げる。
「残念残念、おしまいです」
伊佐那一人であれば、今ここで死んでいただろう。
しのぶ一人であっても、やはり力及ばず死んでいただろう。
だが彼らは二人であった、いかな偶然とはいえ、伊佐那としのぶは二人でここに来たのだ。
それが彼らの勝因で、アラナギの敗因だった。
長く伸ばされた髪ごと斬り落とされ、首が宙を跳ねる。
同時に首の断面から身体と頭はボロボロと灰のように崩れ始めた。
これが鬼の死だ、死体は残らず霞と消える。
「しのぶ! 身体は!?」
「問題ありません、まだ動けます……ただ、私も伊佐那さんも長時間の活動は無理でしょう。だから──」
「あぁ、さっさと退散するに限るな。町人達は来ないつってたし、裏口からこっそり出りゃバレないだろ」
「そう、ですね……ゴホッ」
「おいおい……」
相槌と共にしのぶが血を吐き出す。
医療の心得があるしのぶが大丈夫だと言っているのだから、今すぐヤバいという訳でもないのだろうが、それでも重傷は重傷だ。
仕方ないか、と伊佐那は独り言ちてしのぶを抱き上げた。
「い、伊佐那さん!? 私は──」
「うるせぇ、幾ら俺だって見るからに重傷なやつに走れとは言えねぇよ。黙って捕まってろ……あぁ嘘、蝶屋敷までの案内を頼む、ついでに意識飛びそうだったら叩き起こしてくれ」
「ですが……」
「良いから、時間もない、行くぞ」
「ぐっ……はぁ、どうやらそれが最善のようですね。分かりました、ただ出来るだけ揺らさないでくださいね?」
「厚かましいやつだな、お前……」
そう言って、二人は寺の裏からそっと出て、そのまま地を蹴った。
人とは思えぬ速さで駆ける彼らの姿は直ぐに闇夜へと解け消えた。
企画期間内に終わらない、死。