胡蝶の夢   作:泥人形

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氷蝶

 

 深夜二時を回った頃、伊佐那は不意に目を覚ました。

 視界に入ったのは変わらない蝶屋敷の見慣れた木造天井。

 全身から滲み出ている多量の汗に不快感を感じながら、深くため息を吐いた。

 

(なーんにも思い出せねぇ)

 

 記憶を必死に探ってみたが、どうにも朝方起きてからの記憶が飛んでいた。

 とはいえ伊佐那にとってそれは特に珍しいことではない──既に珍しいことではなくなっていた。

 大方突然ぶっ倒れでもしたか、それとも寝そべったまま気絶でもしたのだろう。

 適当に当たりを付けてから上半身を起こす、そこで腰に回されていたはずの紐がないことに気づいた。

 良く思い出せないとはいえ自分で外すような真似はしないはずだ、となれば誰かが外したのだろうか。

 珍しいことでもあるものだとグルリと首を回してから何となく室内を見回した。

 

「──っ、び、びっくりしたぁ、何やってんだこいつ」

 

 伊佐那から見て右側、ちょうど窓がある方向に彼女──しのぶは佇んでいた。

 いや、佇んでいたというよりは眠っていたと言った方が正しいだろう。

 胡蝶しのぶは、寝ている割には随分と姿勢を正したまま眠りに落ちていた。

 どうやら寝落ちするまで自分を見ていてくれたらしい、少しは休めばいいのに随分と働き者なことだ、と思ったところでようやく伊佐那は昼間の出来事を思い出す。

 

「あー、これはもう、カナエさんが話しちゃったのかもな……」

 

 伊佐那にとって不意の吐血や金縛りはもう慣れたものだ、けれどもあそこまで酷いのは初めてのことだった。

 身体中の血を吐き出したような気すらして、何なら何回か死んだなとすら思ったほどだ。

 良く死ななかったな、なんて思ってから己の手のひらを見た。

 浅くすぐ消えそうな傷から、二度と消えそうにない深い傷が刻まれ、何度も剣を握った跡のある己の手。

 それを何度もグーパーと開いたり閉じたりを繰り返してみた。その行為自体に特に意味はない。

 ただ、ほんの少しだけの刺激を感じてみたかっただけだ。痛みには及ばずとも、爪が食い込む感触は何となく自分がまだ生きていると感じさせてくれるような気がして、そうしてみた。

 だがそれすらもう、感じないことに気付いた。

 意識して力を込めて握りしめれば、やっと握りしめているのだと分かる程度の鈍さ。

 

(また触感が薄くなっている)

 

 そう、『また』だ。

 段階的に、伊佐那の五感は削られるように無くなっていた。

 だがそれも呼吸を行い全身を活性化させれば大きな問題では無かったし、事実、伊佐那もそのように思ってきた。

 

(それは分かってるんだけど、何なんだろうな)

 

 薬の匂いがうっすらと漂っていて、如何にも病院といったイメージを擦りつけてくるような場所だからだろうか、今まで気にしていなかったことも何となく気になってしまう。

 このまま弱って弱って、弱り続けた後に死に果てるのか、それとも鬼に成り果てるのか。

 どちらにせよそれは死んでるも同然だな、と薄く笑ってから「あぁそうだ」と思う。

 

「カナエさんに一言謝っておかないと、泣かせてしまったから」

 

 明日の朝にはしのぶにも感謝と謝罪をしないとだな、と心中で付け加えて伊佐那は立ち上がる。

 昼間に酷く吐いたせいだろうか、グラリと眩暈がしたがそれを気力で強引に立て直した。

 ふー、と静かに長く息を吐いて、呼吸を整える。

 一定以上の実力を持った隊士であれば、寝てる間でさえ特殊な呼吸をするよう心掛けている。

 当然伊佐那もこれまでそうしていたが、体の不調のせいで途切れてしまっていた。

 腑抜けてるな、と自嘲してから意識を切り替える。

 傍にあった自分の羽織を肩にかけ、刀を握って部屋を出た。

 どこに行くにも刀を連れていくのはもう癖のようなものだ、物騒だからせめて室内では手ぶらでいろと良く言われるがこればっかりは治せないだろうなぁと伊佐那は思う。

 いつでも、どんな時でも戦えるようにしておきたいというこの年頃の少年にしては数少なく、また血なまぐさい我儘だ。

 そんな訳で伊佐那は部屋を出た訳だが、しかしここで一つの問題に直面していた。

 

(当然っちゃあ当然なんだけど、この時間だと多分──ていうか絶対、もう寝てるんだよな……)

 

 思い付きで出てきたものの、ここで伊佐那はようやくその事実に気付いていた。

 正確な時間は分からずとも、窓から入ってくる月の光に屋敷内のこの静かさだ、流石に夜遅い時間であることくらいは理解できていた。

 であれば今は身体を休めるべきだろう、さっさと寝床に戻り眠るのが最善だ。

 ──だが。

 

「妙に目ぇ覚めちゃったし、ちょっと外出るか」

 

 妙な時間に起きてしまい、寝るにはちょっと目が覚めすぎている。そんな現象に襲われていた伊佐那は少しだけ考えてから散歩することにした。

 夜中の散歩は少々不気味だが、しかしいつもはしないことと言うのは総じて人の好奇心を刺激する。

 特に伊佐那はまだ十四歳の少年だ、それにこの時間に活動するなんてことは鬼を殺す時くらい。

 何も考えることなく夜出歩くという行為自体が彼の好奇心を酷く刺激していた。

 そうと決まれば早速行こう、と彼は足早に玄関へと向かい、自分の靴を引っ張り出す。

 

「あれ?」

 

 そこで伊佐那は、一つ気付いた。

 ──カナエの靴が無い。まぁ靴というよりは彼女の場合草履なのだが、兎にも角にもカナエのそれが無かった。

 いつもある場所にない、さっと視線を流してみるがそれに該当するものは無かった。

 

「カナエさん、外出てるのか?」

 

 そうであるならばちょうど良い、屋敷の中よりはずっと話しやすいだろうしちょっと探してみるか、と伊佐那は足早に屋敷を出た。

 静かに、足音や物音を立てることなく外に出て、同時に呼吸を深く、長くする。

 弱った五感を鋭く尖らせて、カナエの足跡をたどる。

 

「んー、こっちかな」

 

 辿る、といっても正確な足取りまで掴むことは伊佐那にはできない、というよりは嗅覚だったり聴覚だったりと生まれながらにして鋭敏な感覚を持つ者くらいでないと正確につかむのは無理だろう。

 ただでさえ伊佐那は素の感覚が落ちている、それでも何となくは分かるというのは偏に彼の生まれ持った才能と、重ねてきた鍛錬の成果であろう。

 明確ではないがしかし、信頼できる程度に掴んだ彼女の足取りを追うようにフラフラと歩き出す。

 季節は夏から秋へと移り変わっている真っ最中で、夜だと少しばかり肌寒い。

 羽織は持ってきて正解だったな、と伊佐那は羽織が肩から落ちないように抑えながら月夜の下を進んでいた。

 視界の悪い中でもその足取りは淀みなく、定期的に探りなおしながら伊佐那は歩いていたが、不意にその歩みを止めた。

 

「何だこれ……この感じ、鬼か?」

 

 カナエがそうであるように、一定以上の実力を持った者というのは無意識的に己の気配を隠す。

 だがここに来てカナエの足跡が容易に掴めるようになった、それと同時に強い鬼の気配を感じ取る。

 それはつまり、ここでカナエは鬼と遭遇し戦闘を始めたということに他ならない。

 ゾワリと嫌な予感が肌の上を駆け抜ける、腑抜けていた意識を鋭く入れなおして力強くを地へと足を叩きつけた。

 

「カナエさん……!」

 

 戦闘がいつ始まったのかは分からない、つい先ほどかもしれないし、もっと前かもしれない。

 けれども伊佐那は、少なくとも数十分は前だと確信していた。

 残っている足取りや気配、それから今戦っているのが近場ではないということがその確信させていた。

 カナエさんと鬼は恐らくかなりの距離を移動している、その事実が不安を嫌に煽る。

 胡蝶カナエ──花柱にさえ選ばれた彼女は鬼殺隊内でも有数の実力者だ、それこそ彼女と並ぶのは同じ柱でも片手で数えられるくらいだろう。

 そんな人が、これだけの時間をかけて未だ倒すことができず戦闘を継続させている。

 それはつまるところ、その鬼がそれだけの戦闘力を保持しているということに他ならなかった。

 柱に近い、もしくは柱とは同等の実力を持っているとされる伊佐那は、万全の状態であれば下弦の鬼でも苦戦することなく殺すことができる。

 となれば同じ柱のカナエもそうであるはずなのだ。

 それが示すところは──

 

(上弦の鬼!?)

 

 そう思いいたるのと同時に伊佐那は脂汗を流す。同じ十二鬼月とは言え、上弦と下弦の実力は言葉通り桁違いだ。

 下弦の鬼を殺したという報告は珍しくはあるが、無いことではない。

 だが上弦の鬼を殺したという報告はもう、百年以上も聞いていないということを伊佐那はお館様から聞いていた。

 つまり上弦の鬼はそれほど前からずっとこの世に存在していて、柱でさえも殺してしまうということに他ならない。

 カナエは実力者だ、それは間違いない。だがもし、もしも、上弦の鬼が相手なのであれば、それは非常にまずい状況だ。

 少なくとも一対一で勝てる相手ではない、それはきっと、カナエも分かっていただろう。

 それでもこうして戦闘に応じたのはきっと、蝶屋敷には近づけないためだ。

 あそこを襲撃されれば鬼殺隊は一気にパフォーマンスを落としてしまう、そのことを危惧した可能性が高い。

 最も、純粋に逃げることすら叶わなかった、という可能性もあるのだが。

 伊佐那は意図して後者の可能性を振り落とす、もしそれほどまでの力量差があるのであれば、恐らくカナエはもう、死んでいるだろうから。

 そう考えるのは、予想だとしても良い気はしなかった、だからなるべくその可能性は隅に寄せて、ただ伊佐那は地を駆けた。

 鬼特有の濃く、異常な気配を感じ取る。同時に金属音が耳朶を叩き、頬を撫でる空気が冷気を帯びた。

 それだけで、伊佐那は多くのことを悟った。

 それはカナエが未だ存命であることへの安堵。

 それは未だ戦っているという事実への恐怖。

 意識すればするほど分かる、カナエの消耗具合、呼吸のリズムが狂い始めているという事実。

 それらをひっくるめて、飲み込んだ。

 呼吸を、練り合わせるように、紡ぐように、重ねる。

 

炎の呼吸──
 
 水の呼吸──

 

 それは町中での出来事だった。

 中心からは外れ、空き家が多く並ぶ町の寂れた一角。

 見通しの良い広い道の中で華々しく蝶は舞っていた。

 局所的に起こった氷雪の嵐の中で、美しく華麗に、しかし、血に塗れ。

 鬼の顔は影になって見れなかった、けれども背丈や見て取れる筋力量から男性だと一旦仮定した。

 踏み込みは鋭く、早く、力強く。

 柄を握り込み、呼吸は深く、重く、沈み込ませるように、天へと至るように。

 されど日には届かず、しかしその縁に指は引っかかる。

 炎とも、水とも言えない半端な呼吸、頂点へと登り詰めている最中の、進化の途中の呼吸。

 故にその呼吸に名前は無く、また型にも名前は無い。

 

零の型・無銘
 
 零の型・無銘

 

 氷雪を晴らすように熱い、炎のような大切断。

 けれどもそれは水流のように美しく。

 蝶をすり抜け、鬼を断つ。

 

「あれ? 誰、君」

 

 それは、間違いなく伊佐那にとって最速かつ最強の一刀だった。

 他の鬼殺隊──柱たちの目から見てもそれを止めるのは至難の業であると理解できるだろう、下弦の鬼であれば気付く前に断ち切られるだろう。

 そういったレベルの抜刀、切断。

 だが、だが──その鬼は、黄金によって作られた扇でそれを()()()()()()

 

「なぁ──」

「今日は随分と餌がやって来る日だなぁ、あ、でも君は男かな? だったらあんまり興味はないなぁ」

 

 まぁでも、と鬼は言う。

 栄養には変わりないし、残さずは食べるよ、と余裕そうに鬼は言う。

 その左目に刻まれた字は『上弦』、右目に刻まれた字は『弐』。

 一瞬呆けてしまった伊佐那が地を蹴りつけ──同時に氷が花開いた。

 

「が、あぁぁぁ!?」

「伊佐那くん!」

 

 二人の間には蓮を模したかのような氷の華が咲き開いた。

 それにほんの少しだけ触れた指先から一気に手首まで凍りついてから、やっとのことで伊佐那は転がるように離れ切った。

 伊佐那の凍った左腕が、だらりとぶら下がり、その横にカナエが駆け寄ってきた。

 

「っ、はぁ、い、伊佐那くん──げほっ、どうしてここに?」

「いやまぁ、色々あったんですけど後でにしましょう。今は目の前のこいつです、と言いたいところですけど──」

 

 そこで言葉を区切って、伊佐那はカナエを視界に収めた。

 その姿は今まで見ることすらなかったような有様だ。

 身体のあちこちは凍りついていて、それより多くの箇所から出血がしている。そして何より──

 

「カナエさん、呼吸が……」

「────っ」

 

 そう、カナエは今、まともな呼吸ができていなかった。

 ただ会話をするだけでも苦しそうに顔を歪め、今にも崩れ落ちそうな勢いだ。

 伊佐那は少しだけ考える、考えて、考えて、すぐさま結論をはじきだした。

 

「カナエさん、逃げてください」

「──え?」

「だから、逃げてくださいって言ってるんです。呼吸もまともにできないんじゃ、戦えないでしょう」

「で、でも!」

「でもじゃない! 貴女を死なせでもしたら、俺は俺を許せませんし……それにしのぶにも怒られてしまう、だから」

 

 逃げてください、という伊佐那にカナエは言葉を返せなかった。

 伊佐那の言っていることは正論だ、いかに柱と言えども呼吸が上手く使えなければ只人同然である。

 ここで残って戦えば足手まといになるのは想像に難くない。

 だが、だがしかし。

 伊佐那はあの鬼には敵わない、そのことがカナエには今の一瞬の攻防だけで理解できていた。

 想像を絶するほどの、隔絶した力量差が二人の間には広がっている。

 だから、ここで置いていくというのは見殺しにするということに他ならない。

 されどもそれは、伊佐那自身も分かっていることで、その上で言っていることも、カナエは分かっていた。

 今、彼らが鬼狩りとしてするべきことは、ここで二人とも死ぬことではなく、どちらか片方だけでも生き残ることだろう。

 いつの日か必ず、あの鬼を殺すべくやつの手の内をより多くの隊士と共有することだ。

 数瞬──一秒にも満たない程の思考の末、カナエは苦々しく言葉を漏らした。

 

「あの鬼は、上弦の弐。血鬼術は冷気を使用、先ほどのように突然多量の氷を発生させることもあれば、蔓みたいに伸ばしくるし、粉のように散布して肺を潰してもきます。近づけば近づくほど呼吸をするのは致命傷……私に分かるのは、これだけ。伊佐那くん、伊佐那くん──ごめんね、ありがとう」

「いやいや、何となく惨めに死んでいくのかなー考えていたくらいなので、死に場所をくれて光栄なくらいですよ。こちらこそ、ありがとうございました。貴女に出会えて……貴女達姉妹に出会えて、俺はきっと幸福でした」

 

 ──さようなら。

 別れの言葉が重なり合って、カナエは地を蹴った。

 直後、パチパチと拍手が闇夜に響き渡る。

 

「いやぁ、感動的だったねぇ! 本当に感動な別れだった、俺もちょっとばかり涙が出たよ。格好いい覚悟だねぇ!」

「──うるせぇな」

「おいおい、そんな邪険にするなよ、これでも君たちの為に待ってやってたんだぜ? 俺は優しいからさぁ」

「何が狙いだ」

「狙いも何もないさ──だってほら、俺は今から君を直ぐに殺して、あの子を追って殺して喰うからさ、変わらないんだよ。あぁでも君たちは俺の中で再会できるね! 良かった良かった!」

「は、上弦の鬼ってのは随分と頭が空っぽで、うっすい言葉ばかり吐くんだな」

「……?」

「人を真似たような気色の悪ぃ作り笑いをしてんじゃねぇよ化け物。優しさも喜びも感動も、何もわかってねぇのに表面上だけ取り繕っている。上弦の鬼ってのは、お前みたいに感情も知らねぇ気持ちの悪ぃやつしかなれねぇのか?」

「──驚いちゃったなぁ、君みたいな意地悪を言う子は、初めてだ」

「そうか、言ってくれるようなやつも、周りにはいなかったのか。可哀想な奴だな、お前」

「何でそんな、酷いことを言うのかな」

 

 氷雪が吹き荒ぶ。水と炎が、揺れ動く。

 一人の少年が地を蹴って、作り上げた仮面を捨てた鬼が、腕を振るった。

 

 

 

 

 

 

 




またプロットちゃんが壊れてるな……後二話で終わります、多分(発生する前話あとがきとの矛盾)。
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