赤く、夕日の色に染まった道を二つの影が走っている。
片方はまだ幼い少年で、もう片方はそれより少しばかり大人びているように見える少女。
先を行く少女は楽しそうに笑いながら、少年へ向かって声をかけていた。
「遅いよぉ、早く早く!」
「待ってよぉ!」
買い物の帰りだろうか、二人の手にはそれぞれ小さな袋がぶら下がっていて、走っている少年は忙しなくそれを揺らしながら走っている。
そんな少年を見ながら少女は嬉しそうにパンパンと手をたたいてた。
おーにさんこちら、とでもいうように軽やかな足取りで少年が必死に詰めた分の距離を離していく。
「ほらほら、遅いと置いてっちゃうわよ!」
「ぐ、ぐぅぅ、いじわる!」
「ふふふ、なんとでも言いなさーい!」
トントンっと少女は跳ねる。跳ねるように先へと進み少年は、ひたすら「待って」と駆けていく。
先ほどまでグーっと真っ黒に伸びていた影は少しばかり薄くなっていて、もうそろそろよるがやってくることを明確に示していた。
太陽の時間は終わり、一時の闇が訪れる。
少年は、夜が嫌いだった。夜は暗くて先が良く見えないからだった。
見えないということは、その先に何がいるのかが分からない。要するに少年は、分からないということが嫌いだった。
だから夜が来ない内に少年は、少女へと追いつきたい。
一度見えなくなってしまえばもう捕まえらる気がしなかった。
「早くしないと夜までに家につけないわよ? 夜は鬼が出て、怖いんだから!」
「お、鬼の話はやめてよぉ!」
おとぎ話でも、怖いものは怖いんだからと少年は言う。
大正の時代、身の回りに色んな科学が浸透していき幽霊や異形何てものの正体が詳らかにされ始めた頃だ。
いくら幼い少年と言えども信じはしない、だが怖くないわけではない。
ただでえさ夜は嫌いなのに、眠れなくなってしまう、と思う。
そんな思いを振り払うように少年は足を速めた。
「あうっ」
同時に石を踏みつけて、バランスを崩した。
受け身も取れずに少年は転がって、少女は「あちゃあ」といった顔をした。
仕方ないなぁ、と空けていた距離をなくす。
「もー、どんくさいなぁ、何やってるの」
「姉ちゃんが急かすのが悪いんじゃんかぁ」
「あらら、泣かないでよ、ごめんって。お姉ちゃんが悪かったから、ね?」
涙でにじんだ視界の中に、手が差し出される。
少年は不安気にそれを握って立ち上がった。
「もう置いてかない?」
「えぇ、約束するわ」
「本当に本当?」
「当り前じゃない、弟を守るのはお姉ちゃんの役目なんだから」
「……その、姉のせいで転んだんだけど」
「あーあー、聞こえない聞こえない! ほらもう夜が来ちゃう。その前に早く家に入りましょ」
少女が強引に話を切り上げた。
少年はしばらくじっとした目で見たが、やがて諦めて、手を引かれるままに歩き出す。
離れいていた距離が無くなって、二つの影が並んで歩きだす。
それは、いつの時代だろうとどこにでもあるようなありふれた日常の光景。
それは同時にどこまでもかけがえのない物だった、失われてはいけないものだった。
だが、失われてはいけないものほど真っ先に無くなってしまう。
世界はそういう風にできていた。
「すいません、道を尋ねたいのですが」
日はもうすっかり沈み夕暮れに染まっていた空が、黒く染まったころに男は現れた。
夜の闇に溶け込むような真っ黒な着物を来ていて、片手には洋風の鞄をぶら下げている。
少女は姉らしく、弟を後ろに隠して口を開く。
「道……ですか?」
「えぇ、隣の町からここまで歩いてきたのですが、どうも迷ってしまったらしくて。できれば今日中に宿を見つけたいのですが……」
男がやってきたのは、ちょうど姉弟が向かっていた方向だった。
二人の家より更に……数時間は歩けば小さな町がある。
きっとそこから来て、先ほど自分たちがいた町に行きたいのだろう、と少女は解釈した。
まっすぐの一本道なのだが、夜になれば不安になってしまうのも分かる、と少女はうなずく。
「大丈夫です、ここをまっすぐ行けばすぐにつきますよ」
「あぁ、そうなんですね。助かりました」
満足したのか男は少しだけ頭を下げてから二人の横を通り過ぎる。
同時に、少年が眉をしかめた。
「血の匂い?」
思わず声に出してしまったのは、未だ彼が幼いからだろう。
けれどもそれがいけなかった。ここで犯してはならない、痛恨のミスとでもいうべきことだった。
ギョロリと男が目を見開いて二人を見る。
「今、なんと?」
「血っていうか……何だろう、とっても生臭い匂いだね、お兄さん」
「ちょっと!」
失礼でしょ、と少女が少年の頭をたたく。
そんな様子を見ていた男の雰囲気が突然、変化した。
「あぁ、今度からは気を付けるよ……」
「がぁ!?」
言うと同時に、男の指が少女の肩を貫いた。
人差し指がまるで包丁みたいに容易く入り込み──そして、少女は破裂した。
ボコボコと風船みたいに膨らんで、あっけなく。
肉片を巻き散らかして亡くなった。
「──え?」
「鬼狩りどもに、少しでも足跡を辿られるのは面倒だ」
ヒュッと風を切るような音がした。
少年の頸に、浅い傷がついた。男にとってはそれだけで充分だった。
少量であろうが、血は血だ。
鬼の始祖たる男の血が入り、少年が倒れ伏したのを一瞥してから男は去っていった。
その様子を伊佐那は、まるでスクリーンでも見るようにして眺めていた。
鮮明に映し出されたかつての記憶を、見せつけられるみたいに。
この後、少年──当時の伊佐那は立ち上がる。
暫く姉を──姉だったものを見てから家へと帰り、そして親の死体と出会う。
そしてようやく、鬼殺隊と出会うのだ。
そこからはもう、流れ作業のように拾われて、育てられ、当たり前みたいに鬼殺隊へと入隊した。
不思議なことに、姉も、そしておそらく親を殺した鬼に恨みを抱くことはなかった。
けれども、許すべきではないんだろうな、と伊佐那は思う。
だから、鬼を斬ることにした。斬って斬って、斬り続ければいつかあの鬼と出会うかもしれない。
もしそうなったら、その時ようやく、復讐心というやつを抱けるのかもしれないな、と考えて。
幕は落ち、伊佐那の前には闇が広がった。
どこまでも広く、果てしない黒の世界。
先ほどまでは座っていた気がしていたが、今はもうそれすら分からなかった。
そんな中で、伊佐那はぼんやりと思う。
(夢なら早く覚めないかな)
伊佐那にとって、この記憶を夢で見ること自体は良くあることだった。
だから、早く終わらないかな、と彼は思う。
だけど、今回はいつもと状況が違っていた。
いつもであればこの辺で目が覚めるのだ、だがその予兆が全然なくて、代わりにボコボコと空間が歪み始めた。
なんだ、と伊佐那が思う前にそれは姿を現した。
「鬼……?」
鬼の大群が、伊佐那を取り囲んでいた。
見たことがあるような気のする鬼だ、と思えばその中には下弦の壱もいて、「あぁこれは俺が殺してきた鬼たちだ」と分かった。
こいつらをどうすればいいんだろう、と思う前に腰に刀が差さっていたことに気づいた。
鬼殺隊に入ってから、一度も折れることなくずっと自分を支え続けてくれていた愛刀だ。
真っ白な柄を握りしめて、抜き放てば現れるのは純黒の刀身。
闇の中でもはっきりと分かるくらい美しい黒の刀は、そこにあるだけで安心感を与えてくれた。
それを見て、伊佐那を息を吐く。
「夢の中でまで鬼狩りか……模範的な隊士だな」
自分で言った言葉にそうか? と疑問を持ちながら伊佐那を愛刀を構える。
呼吸を静かに整えて、集中力を限界までとがらせる。
ここが、夢の世界だからなのかは分からなかったが身体はひどく軽かった。
長い間付き合ってきた全身の怠さは完ぺきに消えていた。
少々頭がふわふわとして、思考が緩いような気はするが、でもそれだけだ。
ここ数か月の自分と比べるまでもないほどのコンディションの良さ。
伊佐那の口角が意図せず吊り上がっていた。
そこからは、ただ只管に刃を振るった。
夢の中であることも忘れて、刀を振り続け、鬼を殺し続けた。
どれだけ殺したかはわからない、数える気などそもそも存在しなかった。
戦場において、一瞬の気の弛みは即死とつながる。
それを伊佐那は身体で覚えていた、だから意識することなく余計な情報は考えることはない。
──ただ。ただ、そんな伊佐那でさえも、少しだけ、否が応にも気になることがあった。
それは鬼たちのことだった。
能力だとか、戦闘力だとか、そんなことは特に問題ではなかったが、しかしただ一点。
鬼たちがしきりに何かを言っていた。
こちらに問いかけるように、叫ぶように、泣くように、あるいは、願うように。
彼らはずっと何かを言っていた。聞き取ることができなかっただけに、それが少しだけ頭に引っ掛かって気になった。
だがそれも、少しだけだ。
頭が自分でも分かるくらい熱に浮かされているのが分かっていて、でもそれに抗うことはせずに流された。
そうしてやがて、その引っ掛かりも消えていく。
それでよかった。どうでもいいことは考えないに限ると切り捨てた。
夢の中であろうとも、己は鬼狩りなのだ。だから今は、鬼を狩り尽くす。
そう思って伊佐那は刀を握りしめて振るえば、血肉はあちこちに散らばった。
もう何十匹も倒した伊佐那の身体は返り血でびっしょりだ、だが、そのことにわずらわしさを感じながらも、ただ走る。ただ斬り捨てる。
鬼の数は徐々に徐々に減っていき、やがて皆消えた。
静寂だけが訪れて、そうしてやっと伊佐那は一息ついた。
「ちょっと、疲れたな。夢の中で疲れただなんて、少しおかしいけれど」
それでもやっぱり少し疲れた、とその場に座り込んだ。
こういうのを精神的疲労とでもいうのだろうか、と伊佐那は思う。
きっと起きても寝て休んだ気がしないんだろうなと思うと少しだけ笑えた。
「あぁ──そういえばこれ、夢なんだっけ。早く覚めればいいのに」
伊佐那はそう、ぼそりと呟くように願った。
刀を床に刺し、それにもたれかかるように大きく息を吸えば不意に、音がした。
緩みきっていた感覚を、鋭く尖らせる。
(速い──走っているのか、こちらに来ている!)
休んでいたとはいえ、警戒自体はそこまで緩めたつもりはなかった。
だが、それでも探知できなくて、ここまで近づかれなければ気付くこともできなかったそれに慄きながら弾けるように立ち上がった。
柄を握る、刀を引き抜く、姿勢を落とし、構える。
未だに真っ黒な空間の中で、ある一点だけを見つめ続けた。
そっと息を吐く、そして吸いなおす。それを繰り返し続けてコンディションを整え──そして、それは来た。
「────?」
それは、空間がそのまま開かれているような感覚だった。
夜よりもずっと暗い、真黒の空間がまるで扉を開くみたいに一部開いた。
瞬間、それを起点に真っ暗だった空間が一気に移り変わった。
作り変えられた、と言っても良いかもしれない。
パラパラと玩具みたいに空間は、木造であろう屋敷の一室のような風景に切り替わる。
夢にしたっておかしなものだ、と普通は思う。けれども伊佐那はもうそこまで頭が働いていなかった。
現れた鬼だけを、ただ見つめる。
今まで見たことの無い鬼だった、だけど、見たことがあるような気もする鬼だった。
真っ白な羽織を着た、女性の鬼。真っ白な羽織に、大きな髪飾り。
蝶を模した髪飾りだ、それを見ると同時に何故だか頭の裏がズキリとうずくように痛んだ。
何故だか見ていると、酷く気が緩んで柄を手離してしまいそうになる。
そんな感覚を伊佐那は、力づくでねじ伏せた。
「次は見知らぬ鬼か、何だってんだ今日の夢は」
だがそれでも、殺さないという選択肢はない。
現実だろうと夢だろうと、それだけは譲れなかった。
「伊佐那、さん?」
鬼は何か──言葉だと思う──を放ったが、しかし伊佐那には聞き取れない。
夢だからそうなのか、それとも自分が狂っているのか、と少しだけ考えた。考えたけれども、すぐにやめた。
いや、やめたというよりはもう何かを深く考えることが伊佐那にはできなかった。
何かに突き動かされるように、今の伊佐那は動いている。
「悪いな、何言ってるか全然分かんないんだ」
そう、吐き捨てるように言って。
伊佐那は一歩踏み込んだ。
ヒュルリという、鬼殺隊隊士特有の呼吸音。
それが二重に響き渡る。
水と炎は織り交ぜられて、頂へと手を伸ばす。
「馬鹿な人ですね……本当に」
水と炎をかきまぜて振るった一刀は、しかし何かを斬り裂くことはなかった。
なぜか軌道を見透かされていたようにその鬼は動いて、そっと、人を殺すには──────いや。
同時にぼんやりとし続けていた頭が、急に冴えわたるような感覚が全身に広がった。夢だと思っていた世界が、急に嘘みたいに現実に、染め上げられていく。
鬼が──いや、人が。見覚えのある女子が、けれども記憶よりはずっと大人になったしのぶが伊佐那をグッと、抱きしめていた。
「お久しぶりですね、伊佐那さん。随分と……本当に、随分とお変わりなられたようで」
「俺からすれば、しのぶと会ったのは、昨日のことなんだけどな──あぁ、でも、そっか。そうなんだ、あの日俺は負けて、でも殺されずに、鬼にされたのか」
もしくは鬼に勝手になったのかも、と伊佐那は思う。
ただどちらにせよ、四年間、自分の意識すら吹き飛ばして暴れまわったのだと伊佐那は思う。
鬼として、人々を殺し、喰らったのだ。
今なら聞き取れなかった言葉を、理解することができた。
皆、知り合いだった。さっきまで殺していた皆知り合いで、皆名前を呼んでくれていたのだ。
伊佐那、と。こんなところにいたのか、と。
だがそれも、もういない。全員伊佐那が、殺し尽くした。
「なぁ、あれから、何年経った?」
「もう四年です。みんな……みんな! 貴方を探し続けていたんですよ、隊士に中には、今だって貴方のことを探している人がたくさん、いました」
「そっか……そういえば、カナエさんは?」
「安心してください、姉さんはまだ生きていますよ。ただもう引退して、今は育手兼、医者をしています」
「あぁ、それは良かった、本当に、本当に良かった……」
意図せず涙が零れ落ちる、止めようと思ってもそれは止まらなかった。
今更泣く資格なんてないはずなのに、伊佐那は人間ですらないのに。
意識も飛ばし、記憶も飛ばして友を殺した伊佐那には、もう。
けれどもしのぶは優しく、優しく伊佐那を抱きしめた。
「私の──私の刀には、鬼を人に戻す薬がちょうど一人分入れてあります。だから──」
「いや、それはダメだよ、しのぶ」
「──どう、して」
「……だって俺、薬嫌いだから」
しのぶの小さな背中をポンポンと叩く。
それが、伊佐那に出来る精一杯の気遣いだった。
そしてそれを、しのぶは悟る。
「そう、でしたね。伊佐那さんは、本当に、本当に。いつもいつも私には、治させてはくれない」
「悪かったな、昔から、我儘なもんで」
「まったくです、ずぅっと振り回されてばかりでした」
「ごめんって、でもこれで、それも終わりだから」
──殺してくれ。
その言葉は思っていたよりもずっとすんなりと口から出た。
しのぶが泣きそうな顔をして、口を開く。
「伊佐那さんは、医者の私に殺せと言うんですね」
「まぁ、それこそ治療みたいなものだと思ってくれよ」
「本当に──伊佐那さんは、馬鹿な人ですね」
そう言って、しのぶはグッと柄を握り込む。
ガチンっという硬質な音と共に毒が刀身から放たれた。
ジワリジワリと、全身から力が抜けていくことに伊佐那は気付く。
しのぶの放った毒は相当強力で、伊佐那はもう耳が聞こえなかった。
視界も薄れていって、どんどん靄がかかっていく。
その中でもしのぶの顔だけは見えて、そのしのぶが口を動かした。
──また、いつか。
不思議とその声だけは、聞こえた気がして。
溶け落ちていく感覚を覚えながらも、言葉を返した。
──さようなら、と。
終わり!