「ちょっと買いすぎちゃったかな?
パパのお弁当もあるのにね。」
お菓子や飲み物がたっぷり入った袋を持ってえへへ、と笑うのは私の親友、鹿目まどかだ。
天気は青空にぷかりぷかりと雲が泳ぐいい天気、気温もぽかぽか。
この町にあるちょっとした桜の名所である公園へとてくてくと歩いていくのは私たち二人。
「張り切りすぎよ、まどか。
まあ、まどかなら残さず食べれそうだけどね」
「ひどいよほむらちゃん」
からかうと頬を膨らませて抗議するまどかは、怒っているのに可愛らしい。
冗談よ、と言うとまどかも不満そうだが許してくれた。
そのまま学校のことなどとりとめのない話をしながら道を歩く。
公園までの道はあっという間に感じた。
「着いたよ、ほむらちゃん。
どうかな、この見滝原公園の桜は。
私はこれが大好きなんだ」
そう、振り向くまどかの背後には、一面の桜の木。
ちらほらと花見客がいるが、やかましくもなくのどかだった。
そこに二人でシートをしいて、お弁当やお菓子を並べていく。
後からさやか達も来るから場所は広めに取る。
彼女達といるのも楽しいが、まどかと二人きりの時間が欲しくて買い出しと準備の係に手を挙げたのは内緒だ。
幸せだ、本当に幸せだ。
一緒に桜を見に行こう、そう約束して今日こうしてまどかと一緒にお花見に行けるなんて。
1年前のこの時期、桜は病院の窓から見下ろすだけの色褪せたカレンダー替わりのものにすぎなかったのに、同じものがこんなに輝いて見えるなんて。
満開の桜と、それと同じ色の髪を持つまどかの満面の笑みを見て、胸がいっぱいになっている私に彼女は不思議そうにこう言った。
「どうしたの、ほむらちゃん?」
疲れちゃった?」
私は少し恥ずかしかったけど、そんなまどかの気遣いが嬉しかった。
「ううん、体が悪いとかじゃないの。
ただ、ずっと入院していたから、こんなこと初めてで…」
そう、言っている途中に恥ずかしくなってしまって、俯いた顔から出る声は尻すぼみになってしまう。
そんな私に、彼女は優しく言うのだ。
「うれしいな、ほむらちゃんの初めてを一緒にやれて。
これからもいっぱいいっぱい一緒に思い出を作ろうよ。
私ももっともっとほむらちゃんと一緒にいろんなことをしたいな」
そう言われて、その笑顔を見て答えようと顔を上げた。
すると、まどかの後ろに木から何かがぶら下がっているのが見えた。
つい、そちらに目を向けてしまう。
そこには、花見の場に場違いな老人の首吊り死体が揺れていた。
ぎい、ぎいと揺れる音が呆然とする頭に響く。
周りの人は気づかないのか、と見ると、人はすべて影に塗りつぶされたように黒いヒトガタになっていた。
その中でまどかだけが変わらず笑っている。
つい後ずさり、シートの外に広がる桜の絨毯へと足を載せてしまう。
すると、そこの見えない池に落ちたかのように、どぷん、と体が沈んだ。
どこまでもどこまでも、下へ下へ、黒い水底へ沈んでいく。
まどかの姿がどんどんと遠ざかり小さくなっていく。
「待って、まどか!」
手を伸ばしても届かない。
この手には、蜘蛛の糸の一本も掴めはしなかった。
ああ、そうか、そうだった。
あの光景に、私はまだたどり着けてはいないのだった。
私とまどかが二人で、桜の季節を迎えられたことなんてなかったのだ。
いつもまどかは、私を置いていなくなってしまうのに…
落ちていく、沈んでいく、どこまでも、どこまでも、始まりへと。
心の深淵へと、二人が出会ったあの日へと。
「あ、あの、暁美…ほむらです。
ど、どうかよろしくお願いします」
私は、心臓の病気による長い入院生活を終えて中学校へと戻った。
この見滝原の病院の最先端の医療で、私はようやく日常生活を送れるまでに回復していた。
ただその代償に、もともと住んでいた羽間の町を去ることになり、数少ない知り合いとも離れることになった。
親も転勤で一緒に住めるようになるのだが、その引き継ぎなどが忙しく1ヶ月は一人暮らしになる。
まだ体が弱く病院のそばからは離れられず、子供心にも両親が自分の入院費に苦しんでいるのが判っていたから文句は言えなかった。
いや、この頃の私はそもそも人に何か言う事などはできなかった。
入院で周りに迷惑ばかりかけているのが心苦しくて、弱い自分が嫌で、いつもおどおどしていた。
入院生活で伸びるに任せた髪は野暮ったい三つ編みで、嫌な世界からファンタジーの世界に逃避して気づいたら目も悪くしていた。
だから、話しかけてくる同級生に何も返せず、ただおどおどするだけだった。
そんな私を救ってくれたのは、一人の少女だった。
「暁美さん、保健室行かなきゃいけないんでしょ、場所分かる?
私、保健委員なんだ、案内してあげる」
それが、鹿目まどかとの出会いだった。
「私、鹿目まどか。
まどかって呼んで。
だから私も、ほむらちゃんって呼んでいいかな?」
彼女はこんな惨めな私にも優しく声をかけてくれた。
そして、初めて名前を読んでくれる友達になってくれた。
そして、名前負けしていると思っていた私の名前をかっこいいと言ってくれた。
「だったらさ、ほむらちゃんもかっこよくなっちゃえばいいんだよ!」
そう笑顔で言ってくれて、とても暖かい気持ちになれた。
でも、そうすぐになれるわけがなく、授業では当てられても答えられず、体育では準備運動で倒れて皆に迷惑をかけてしまった。
とぼとぼと一人帰路につく。
『だったらいっそ死んだほうがいいよね』
「死んだほうがいいかな」
『死んでしまえばいいんだよ』
どこからか聞こえる声に、本当に死んでしまおうかと思った時、気づけば見たこともない場所にいた。
空は赤く、白いクレヨンで乱雑に書いたような渦がまき、足元は教科書の写真で見たことのある歪な絵画、目の前には地獄の門のような物がそびえていた。
そこからゾンビのようなヒトガタが私に迫ってきた。
(死にたくない)
そう思った時、突如飛んできた銃弾と光る矢がそれを打ち払った。
「もう大丈夫だよ、ほむらちゃん」
そして、それを放ったのは黄色い巻き毛の少女と、鹿目まどかだった。
そして、私は黄色い巻き毛の少女、巴マミの家に招かれて話を聞いた。
鹿目まどかと巴マミが魔法少女だということ、キュウべえと契約したこと、あの怪物が魔女と呼ばれ、彼女たちがそれと戦っていること。
私は聞いた、怖くないのかと。
すると、まどかはこう答えたのだ。
「平気ってことはないし、怖かったりもするけど魔女をやっつければそれだけ大勢の人が助かるわけだし、やりがいはあるかな」
まどかは幸せそうで生き生きとしていた。
私もそれに憧れた。
ワルプルギスの夜という巨大魔女がもうすぐ来るらしく、私が魔法少女になることは認められなかったが、私達は秘密を共有する友人だった。
自分を認めてくれるまどかと、一緒にいられることが幸せだった。
3人で、魔女探しのついでにあちこちで遊んだことは私にとって初めての体験でとても楽しかった。
そして魔女との戦いは常に危なげない勝利で、このまま、ワルプルギスの夜相手にも、物語の魔法少女達のように勝利できると、何の疑いもなく信じていた。
けれども、一緒に見た夢は、あっけなく、そして儚く終わってしまった。
まどかと私は、横たわるマミの死体を呆然と見つめていた。
街を襲ったワルプルギスの夜に立ち向かったものの、敵の強さは想像以上だった。
火を吹き付け、烈風を巻き起こし、ビルを巻き上げて飛ばしてくる。
マミとまどかの攻撃は当たってはいた。
だが、その猛攻を経てなおワルプルギスの夜はまるで動じることなく宙に浮き続け、破壊の限りを尽くしていた。
そして、ビルを避けきれなかったまどかをリボンで救ったマミを、暴風に乗った飛礫が襲った。
かろうじて首をひねって頭への直撃を回避するも、その礫はマミのソウルジェムをかすめ、砕いてしまった。
脳も、心臓も無事で、出血もなかった。
だが、マミは死んでしまった。
ソウルジェムの真実の一旦を知ったのはこの時だ。
だが、それでもまどかは絶望しなかったのだ。
「…じゃあ、行ってくるね」
「そんな…巴さん、死んじゃったのに」
「だからだよ。
ワルプルギスの夜を止められるのはわたしだけしかいないから」
「無理よ…勝てっこない! 逃げよう?
誰も鹿目さんを恨んだりしないよ」
私は必死にまどかを止めようとした。
ワルプルギスの夜にダメージはあると信じたかったが、それは致命傷にはほど遠いことは明らかだった。
まどかの迎える結末は考えなくともわかった。
だが彼女は笑ったのだ。
「ほむらちゃん、あなたと友達になれて嬉しかった。
今でも自慢なの、あの時、あなたを救えたこと。
私、魔法少女になって本当によかったってそう思ってるんだ」
もうだめだと思った。
それでも引き止めた。
「嫌、行かないで」
涙でぐしゃぐしゃの私を彼女は置いていくのだ。
「さよなら、ほむらちゃん」
まどかが死んだときに、私は激しくとまどい、動揺し、現実を受け入れられなかった。
あの病院を出た私にとって、彼女だけが全てだった。
色褪せた世界に光を与えてくれたのは彼女だった。
他の誰が死んだとしても、私が死んだとしても彼女に生きていて欲しかった。
もう私には何も残ってはいなかった。
あまりにも混乱したから、自分が悲しいのか、それとも共に戦わなかった自分を憎んでいるのか分からなくなってしまった。
今でもどっちだったのかは分からないのかもしれない。
けれど、弱い自分を憎んでいたのは確かだったのだろう。
なぜなら、そこに現れたキュゥべえに、こう願ってしまったのだから。
『私、鹿目さんとの出会いをやり直したい。
彼女に守られる私じゃなく、彼女を守る私になりたい』
…彼女の蘇生を願わなかったのは、皆を守るという彼女の願望の崩壊を見たくなかったから、と綺麗事を言うことはできる。
けれど、この願いはどこまでも愚かな私だけの願望だったのだと、後になって思う。
気づいたときには、退院する前の時間まで戻っていた。
やり直せることに、まどかもマミも生きていることに、そして、自分も共に戦えることに気分は高揚していた。
「鹿目さん、私も魔法少女になったんだよ!」
転校のあいさつでこんな宣言をしてしまうほどに舞い上がっていた。
今でもそこまで大胆なことはできないだろう。
まどかを困らせてしまったが、それをきっかけにまた仲良くなることができたのは嬉しかった。
まどかと、マミと三人で一緒に遊び、戦い、語り合った。
未熟だった私は、マミに鍛えられ、まどかと一緒に訓練した。
気分が乗っていたせいか、マミに火力不足を指摘されたら自分で爆弾を作ることまでやった。
前回マミがソウルジェムを砕かれて死んだのを見て、ソウルジェムを誤爆の影響がないよう容器に入れて離していたとはいえ大胆なことをしたものだ。
軍事用の爆弾の入手が可能になった今ではあまり作ってはいないが、火力と殺傷能力の向上に研鑽を重ねた日々は忘れられない。
まどかもちょっと引いていたが、それで魔女を爆殺した際は自分のことのように喜んでくれた。
「やったね、ほむらちゃん」
そう、自分に抱きついて満面の笑みで言ってくれたのがとにかくうれしかった。
今になって思う。
この時が一番幸せだったのだと。
何も知らずただ希望に満ち溢れた日々があった。
一度戦い、手の内を知るワルプルギスの夜相手の演習を重ね、勝算も見えた。
魔法少女の三人は、まるで仲の良い三姉妹のようだった。
そんなことを言ってみたら、マミが、
「じゃあ魔法少女にしてくれたキュゥべえがお母さんね。
そして私がお姉さん、鹿目さんが真ん中、暁美さんが末っ子ね」
と言って三人で笑いあったこともあった。
今では笑えない冗談だった。
その言葉はある意味真実で、しかもそれは残酷で、そして、共に笑いあう相手もまた、失ってしまうのだった。
演習の成果はあった。
激闘の末にワルプルギスの夜は姿を消した。
消滅したかは分からないが、街からいなくなったのは確かだった。
街の被害はあるものの前に比べれば少なく、避難場所の近くは守りぬくことができた。
けれど、再びマミは死んでしまい、私たちも満身創痍だった。
それでもまどかは、守りたかった親友は生き残った。
そう感じた時異変は起こった。
まどかが急に苦しみだしたのだ。
目の前で、魔力の限界で黒く染まったソウルジェムに罅が入り、そしてグリーフシードへと変化してそこから魔女が生まれたのだった。
まどかを必死で揺すって起こそうとしたがもう何も反応はなかった。
冷えていく親友の体と、上空から見下ろす魔女の姿を見て、私は魔法少女の残酷な末路を知った。
再び全てを失った私は、無意識のうちに左手の盾に手をやっていた。
もう一度、今度こそ、その言葉が脳裏を駆け巡っていた。
そして気づくと、再び退院前の病室へと戻っていた。
次の回は始めから必死になって真実を訴えようとした。
けれどそれは失敗に終わる。
“始まり”や“二回目”、そこで絆を築いた後のマミなら話を聞いてくれただろう。
けれど、この時のマミにとってのほむらは転校してきた初対面の魔法少女にすぎないことを忘れていた。
いや、必死すぎてその考えが浮かばなかったというべきか。
キュゥべえを信頼しているマミの前で初対面のほむらがそれを言ったところで、時間遡行の願いについて打ち明けたとしても不信の目で見られるのは当然だったと、彼との言葉のやりとりで鍛えられた今なら分かる。
まどかと出会うまで碌に人と話すことも無かった私には人を説得するという力はなかった。
それでもまどかは私の必死さを見て味方になってくれた。
この時のことは本当に感謝している。
まどかのとりなしと、マミも知っていたワルプルギスの夜への戦力保持の為に排除されるということまではなかった。
最もこの時間軸において、その必死な訴えは理解されることにはなった。
しかしそれは、実証と言う最悪の形を取ることになってしまった。
美樹さやか、上条恭介の腕を治すため途中から魔法少女になったまどかの親友。
ほむらとマミの間の溝ゆえ、マミが他の仲間を誘ったのだ。
マミの正義の心に触れ、かつての私のようにマミに憧れたさやかはその心酔ゆえ私の忠告など聞かずあっさりと魔法少女になった。
そしてマミと同様に私に不信感を持ち、その直情的な性格ゆえそれを隠そうともしなかった。
今となれば根元は似ていると分かる私達だが、性格は真逆であった彼女のことは始めから苦手だった。
私に敵意をむき出しにし、訴えをことごとく切り捨てられた。
魔法少女が正義だとする彼女は倒すべき敵が自分達の成れの果てだと言う私を信じようとせず、それを言う私が何か企んでいると思い込んでいた。
そして突っ走って杏子と衝突、紆余曲折を経てマミのとりなしにより杏子も仲間に加わる。
ワルプルギスの夜対策の戦力集めという前提あっての加盟であったため、杏子とさやかのわだかまりは解消されておらずその後も何度も衝突した。
杏子が私の話を聞いてくれたのもその衝突を加速させた。
杏子のそれは私の立場への共感や、大切なものを失った者だけが持つ空気を感じ取っていたこともあったのだろうが、さやかにしてみれば気に食わない相手同士がつるんでいるようなものだったのだろう。
まどかが私の肩を持つのでそのことへの不満もあったようだ。
さやかを爆風に巻き込みそうになってしまってからは銃を使うようにするなど気を使ったのだったがその程度で関係が改善するようならそもそも問題など起こりようがない。
そのぎすぎすした関係に疲れたのか、私も皆も、まどかでさえもさやかの恋が上手くいっていないことに気づかなかった。
気づいたときには上条恭介は志筑仁美と付き合っており、さやかは家にも帰らず姿を消してしまっていた。
いなくなったさやかを探して見つけたときにはすでに遅く、さやかは少女達の目の前で魔女になってしまった。
絶望がどれだけソウルジェムを濁らせるかということについて知ったのもこの時のことだ。
だが、悲劇はここで終わることはなかった。
魔女になったさやかを倒したが、真実を知ってしまったマミは耐えられなかったのだ。
仕方の無いことだろう、ほむらの伝えた真実を無視したのも、さやかを魔法少女に誘ったのも、杏子を誘ったもののさやかとの衝突を止められなかったのも、さやかの苦悩に気づかなかったのも全てマミなのだ。
責任が彼女一人にあるわけではないが、彼女はそれを背負い、壊れた。
「魔法少女が魔女を産むなら、皆死ぬしかないじゃない!」
そう、顔を涙でぐしゃぐしゃにしつつ杏子を撃ち殺し、ほむらに銃を向けたマミの顔を忘れることはできないだろう。
ほむらが殺される寸前、横から飛んできた矢にマミは撃ち抜かれた。
それを放ったのはまどかだった。
5人の仲間がいて、それはたった1時間もしないで2人にまで減ってしまった。
よくそのとき二人とも魔女化しなかったものだと今でも不思議に思う。
皆が守ろうとした街を守る、それだけを支えに私達はワルプルギスの夜までの日々を過ごした。
ちょっとつつけば折れてしまいそうなそんな支え、それが分かっていたから、あの悲劇から逃れたかったからがむしゃらに戦った。
それが効を奏したのか、二人でもワルプルギスの夜を退けることに成功した。
だが、グリーフシードも使い切り二人とも限界だった。
「ねえ…このまま二人で怪物になってさ、何もかも滅茶苦茶にしちゃおうか。
嫌なことも悲しいも全部、なかったことにしちゃえるくらい壊して、壊して、壊しまくってさ。
それはそれでいいと思わない?」
もう、私は疲れていた。
何もかもうまくいかないこの世界が嫌だった。
ただ、魔女になるにしてもまどかと一緒ならそれでもよかった。
だが、そんな私のソウルジェムにまどかがグリーフシードを押し当てたのだ。
「えへ、一個だけ取っておいたんだ」
そんなまどかに驚く私に、まどかは泣きながら、私に頼んできた。
「私にはできなくて、ほむらちゃんにできること、お願いしたいから
ほむらちゃん、過去に戻れるんだよね。
こんな終わり方にならないように、歴史を変えられるって言ってたよね。
キュウべえに騙される前の馬鹿な私を、助けてあげてくれないかな」
その顔を見てしまっては、言えることはただ一つしかなかった。
「約束するわ。
絶対、あなたを救ってみせる
何度繰り返すことになっても、必ずあなたを守ってみせる」
そうまで言った時点でまどかは限界だった。
「もう一つ、頼んでいい?
私、魔女にはなりたくない。
嫌なことも、悲しいこともあったけど、守りたいものだってたくさん、この世界にはあったから」
まどかは泣きながらも笑っていた。
「まどかっ!」
初めて呼んだ名前は、彼女に聴かせる最後のそれになってしまった。
「ほむらちゃん、やっと名前で呼んでくれたね…嬉しいな」
そして私はまどかのソウルジェムに銃を向けて引き金を引いた。
あのときの引き金の重さを、生涯忘れることなどできないだろう。
それからだ、誰にも頼らないと決めたのは。
なんとしても約束を守るために戦い始めたのは。
弱い自分を捨てるべく、眼鏡も外した、三つ編みもやめた。
使う武器の種類も、兵器と呼べるものにまで手を出していった。
ただひたすらに、まどかを守るべく手をつくした。
けれど、ワルプルギスの夜には勝てなかった。
戦いで苦しむほむらを見て、まどかは契約してしまうのだ。
その祈りが何だったのかほむらは知らない。
一撃でワルプルギスの夜を消滅させたまどかは、全ての命を吸い上げる魔女へと変貌してしまったのだから。
ワルプルギスの夜による破壊で生き残った人々が命を吸われて死んでいく。
天にそびえるほどの巨大な魔女は、徐々に命を吸い上げる範囲を広げていき、生物のいない死んだ街だけが残るのだろう。
それでもほむらは生きていた。
それがまどかの願いの残滓なのか、あの魔女の能力が魔法少女に影響しないからかは分からない。
後者なら、これから世界を救うために世界中の魔法少女がまどかだった魔女に挑んでいくのだろう。
「戦わないのかい?」
インキュベーターの声とまどかだった魔女を背に、私は再び過去へと旅立った。
約束はまだ果たされてはいないのだ。
この世界を救うことは私のやるべき事ではない、私の戦場はここではないと言い残して。
幾度と無く繰り返した。
考えられる限りの手を尽くした。
インキュベーターをまどか達に接触させないよう延々と狩り続けてみたこともあった。
結局ワルプルギスの夜との戦いの間に接触され、その十数分の出会いでまどかは決断してしまった。
まどか一家がワルプルギスの夜襲来の時に旅行に行くよう工作したこともあった。
結局勝てず、まどかは旅先でインキュベーターと契約してしまった。
戦力を集めようとしたこともあった。
杏子はさやかに巻き込まれて幾度と無く死に、マミも運命というものか、最後まで生き残ることはなかった。
さやかを魔法少女にしないよう上条恭介の治療法を探したこともあった。
そんなものは現時点で存在しなかった。
他の魔法少女との接触もあった。
未来予知のできる魔法少女は、世界を滅ぼす魔女になるまどかを排除しようとし、まどかは殺されてしまった。
遠くの魔法少女の場合、ワルプルギスの夜とあえて戦おうとする者はいなかった。
まどかだけは最低限守りつつ、可能な限り戦力と火力を集めてワルプルギスの夜に挑む。
結局はその方法に落ち着いたのだが、未だ失敗し続けている。
試行錯誤もことごとくだめで、心も擦り切れた。
それでも、なんとしてもまどかだけは救ってみせる。
それはもはや妄執と言ってもいいものだった。
自身が始めに何を望んだのか、自分の中でも分からなくなっていた。
だが、まどかは、まどかだけは守らなければならない。
あの時の私に残っていたのは約束だけだった。
それ以外には何もなかった。
そんな時、声が聞こえた。
「…それだけではあるまい?
結局のところ、君はワルプルギスの夜を倒したときに鹿目まどかだけが生きていれば良いのかな。
君自身はどんな世界を望む?
信じられるものを持つことと、信じたいものを持つことは根本的に異なり、人はほとんどの場合自分の希望と心中することになる。
君はあのワルプルギスの夜を越えれば幸せになれると、そう信じたいだけなのではないかな?
いくつもの世界を縊り殺し、贄に捧げるだけの願いは何だね。
そんな世界など要らぬと捨ててきた先に何を見るというのかね」
いつしかほむらは、どこともつかない場所に立ち、黒い男と向き合っていた。
時の回廊の中、回想の迷路の中、神野陰之は問いかける。
これはあの日、ほむらが病室で神野陰之に会った日の記憶。
願望を問いかけられたその一瞬に、これまでの全てを追体験し、そして現実には存在しない時の回廊の中で神野に再度問いかけられる。
暗黒の回廊に、無数の映像が映し出されていく。
それはこれまで繰り返した世界のその後。
時間を戻したことで無しになることなどなく、ほむらがいなくなった後もその世界は続いていた。
いなくなったまどかを悲痛な顔で探し続けるその家族が写っていた。
ほむらが守れていればそんなことにはならなかった。
いなくなったさやかの影を追い続ける上条恭介が、死んださやかの影を背負う上条恭介が写っていた。
繰り返さなかった初めの世界の映像では彼女は魔法少女にならず、作曲の道を進んだ恭介を支えて結ばれていた。
ほむらの試行錯誤の結果、マミも杏子も死んだ世界では、ワルプルギスの夜の破壊と混乱と、その悲劇が呼び寄せた魔女によって市民の多くが犠牲になっていた。
ほむらが何もしなかった世界では、ワルプルギスの夜相手にマミは死ぬものの被害を減らし、その後やってきた杏子により魔女は狩られて市民の被害はほとんどなかった。
そしていくつもの窓には、一つの巨大な影以外に動くものはなかった。
幾多の平行世界を経た因果が、為してきた業が、その目的たるまどかの運命に絡みつき世界を滅ぼす魔女にまで成長させたのだ。
ほむらが殺したようなものなのだ、その窓の数に70億をかけた無数の人々を。
追体験から思い出を取り戻し、捨てた世界に囲まれて永い時間を過ごした。
だが、この時の回廊では時間の流れというのは無意味なものだ。
神野はただそこについさっき着いたかのように立ち続ける。
「…私は、間違っているのかしら…」
自分がしてきたことのその後を見て、彼らに批難されているようで押しつぶされそうになる。
判っていたはずなのに、直に見せられるとつらい。
「いや、この世に間違ったことなど存在しないよ」
「それなら、これをあなたはどう見るというの?」
窓を指差し、そう神野に問いかける。
自分で言うのもなんだがこの行いが人として間違っていないとはどういうことなのか。
「君の求めるものが、この世界にはなかったと見るだけだ。
世界に人が求めるものは異なり、ただその願望へ向かう強さと弱さがある。
だが間違ってはいけないのは、その強弱は勝者と敗者ですらない。
君のそれは強く、そして敗け続けた。
この窓は私にとってはそういう意味を表すに過ぎない」
人間ではない男の価値観は理解しがたいものだった。
だがそれは真実であることだけはなぜか理解できた。
「さて、先ほどの答えを聞こう。
君の『願望』は、なんだね?」
諦められなかった願いは、始めに欲しかった物は…私の本当の願望は…
あの約束を守れたなら、どうしたいのか。
それはもう思い出していた。
遥かな追憶の果てに、あの出会いと幸せだった日々にそれはあった。
それはごく普通のことで、ほむらの行動によって死を迎えた人々の大多数はすでに持っていたもので、それでもほむらにとってはずっとずっと欲しくて、やっと手に入れたものだった。
それは無数に浮かぶ窓のどこにも移ってはいないものだった。
冷徹な仮面も弱い自分も全ての失敗も絶望も批難も怨嗟も全て含んだ渦の中、唯一残った光がそれだった。
そして光景はあの病室へと戻り、ほむらは口を開く。
「…私は、私の本当の『願望』は―――――
まどかと一緒に過ごしたあの日々をもう一度、この手に」
その渇望と郷愁と憧憬を秘めた老人のような、希望を求めるただのか弱い少女のような、そんな表情が魔人の鏡のような瞳に写っていた。
そして、神野陰之は嗤いながら私を見つめて言った。
「君が望む限り、必ず叶うだろう。
そのためには、君が捧げてきた誰よりも、強く望み続けなければならないよ。
何があろうと、これより先さらに何を捧げようと、その気持ちだけは貫かなければならない。
死人に責められようと、君がこれからすることで苦しむ人が出ようと、彼女達の前では心から笑っていなければならない。
…できるかね?」
それは厳しい道なのだろう。
だが、それが私の歩いてきた道であり、行きたい場所なのだ。
だから表情から涙を消し、決意を込めて答えた。
「わかったわ。
私はどんなに罪を背負おうと、私の戦いを続ける。
いえ、今度こそ私の希望を叶える」
神野陰之はチェシャ猫のように笑いを浮かべると、こう告げたのだった。
「ならば―――“物語”を始めよう」
気がつくと、ほむらは見慣れた部屋の中にいた。
「夢を、見ていたのか」
その言葉は、ほむら自身の口から出ていた。
その体は椅子に腰掛け、その眼は、スタンドに照らされた古ぼけた羊皮紙の上を辿っていた。
「泣いていたようだな。
お主がかつて辿った道のりの夢かな」
静かな夜に、小さな明かりで照らされた書物を読む少女の口から、優しげな、それでいながらしわがれた老人を思わせる声がする。
『ええ、その夢よ。
何も知らず、魔法少女に希望を抱いてまどかと、皆と過ごしたあの日々を見ていたわ。
そして全てを知り、全てを失ったあの戦いの日々もね』
(そして、神野陰之に私の願望を伝えたときのことも)
ほむらの声は、外には広がらない。
誰にも聞かれることなく、魔術師の魂にのみ響く。
ただ最後の一節は、ほむらの魂の中だけで反響して終わった。
その声を聞いた魔術師は、ほむらの口を使って答える。
「だが、再びその幸せな日々を取り戻すのだろう。
もう少しなのよ、と嬉しそうな顔をしていたのはわかっておる」
友達と一緒に遊んだり、ご飯を食べたり、好きな男の子と付き合ったり。
それは、普通の女の子が、普通に夢見るささやかな願い。
魔法少女になったことで、享受できたはずのそれは無残にも打ち砕かれた。
けれど、だからといって求めてはいけないわけではない。
普通にやって手に入らないなら、死に物狂いで掴み取ればいい。
青空だけが広がり、春だけが続いていくような夢にまみれてバージンロードが歩けないのなら、血と肉と骨と硝煙にまみれてでもたどり着けばいい。
そうしてほむらはここにいる、美樹さやかだって足掻いている。
『そうよ、ようやくここまで来たのよ。
あの日々と同じとはいえないけど、あの日々に感じた安らぎを、この手に。
…けれど皮肉なものよね。
まどか達とは、また友達になれた。
でも、あの日々を語り合うことはできないのよ。
暦の上では、彼女に初めて会った日よりも、貴方に会った日の方が早くなってしまったわけだし』
ただ、昔を思い出させる夢のせいか、ほむらの言葉はどこか弱気になっていた。
そんなほむらに対して、魔津方はため息をついて羊皮紙をたたみ、告げる。
「小娘、お前も、彼女達も、その魂のカタチが変わらぬならば別によいであろう。
思い出など、これからそれ以上に作ればよい。
まだまだ若いのだからな」
『でも、あの時、まどかに出会った時から、そしてそれを失ってしまったときから、私はずいぶん変わってしまった』
それでも変わらず、いつになく弱気をみせるほむらに、魔津方は再びため息をつき、口調を強めた。
「だが、思い出せるのだろう。
彼女と出会う前の自分を、出会ってからの自分を、失ってからの道のりを。
そして思い出したのだろう。
始めに何を願い、何を求めていたのかを。
儂も同じだ、全て覚えておる。
初めの志を、失うことへの怖れも、己の為に何をし、奪ってきたのかも。
なればその身がどのような物になれ、儂は小崎魔津方であり、お前は暁美ほむらであることに変わりは無い」
それは魂の本質に関わる魔術師の本心にして、慰めの言葉。
その力強さにほむらも気を持ち直したのか、礼をのべた。
「ありがとう、夢を見て少し弱気になっていたみたい。
もう、大丈夫よ」
魔津方はほむらの体で鼻を鳴らすと、ぎしり、といすに深く腰掛けた。
そして口を開く。
「礼には及ばん。
お前に今倒れられては困るのでな。
それに儂が何を言おうが、あの小娘どもがお前に心を許しているのが何よりの証拠であろうに…
しかし、思い出か…儂らの出会いもまた、印象深いものではあったな」
ただ、それを言う中で、静かな夜の魔力に当てられたのか、魔津方も感慨深げに、ほむらとの出会いを思い出していた。
「そうね…」
ほむらも思い出す、小崎魔津方との出会いを。
あの、世界樹の下で交わした契約を。