その日、見滝原は異様な雰囲気に包まれていた。
突如発生の兆しを見せたスーパーセル、その直撃が予測され、住民に一斉避難が呼びかけられていた。
空はどんよりと暗く、生温く強い風が吹き荒れ、窓ガラスはぎしぎしと悲鳴を上げていた。
いつもなら、学校や仕事場へ向かう人間でにぎわう歩道は、不安そうな顔をして避難所に向かう家族の列になった。
車道も閑散として、悲痛な声で避難を呼びかける街宣車と避難民を乗せたバスが走るくらいだ。
皆が不安だった。
自分達の住む町が、家族や友人や同僚がどうなってしまうのかと考えていた。
けれど、心の底から湧き上がるその不安は、果たして未曾有の自然災害を前にしてのものだけだっただろうか。
聞こえなかっただろうか、遠くから風に乗って響く甲高い女性の笑い声が。
見えなかっただろうか、道端のブロック塀や小さな社に謎の記号が書き殴られていたり、四つ角に釘が打ち込まれているのを。
嗅がなかっただろうか、鉄錆のような、枯れ草のような、血のような、そんな臭いを風の中に。
疑問に思わなかっただろうか、いつの間にか自分達の隣を歩いていた見覚えの無い人は、どこで一緒になったのか。
すでに、ごく自然に侵食は始まっていた。
それらの変化に気づいたものもわずかにいたが、何が起こっているかまで理解していたものは避難所には一人しかいなかったため、彼らはただ不安を高めるだけだった。
もし、それらの“侵食”の類に対処するような組織の人間がいたところで、天気が収まるまでに原因を特定するのは間に合わず、嵐が激しくなっている間はろくに行動もできないだろう。
そして、結果がどうであれ、全ては嵐の終結と共に終わるのだ。
風の吹き荒れる中、無人の街でほむらは一人立ち尽くしていた。
まどかは避難所におり、さやかと杏子は近くにある小山で待機している。
その小山は神堕としの儀式の成功後、集うであろう魔女を発見しやすい高台でもあり、ブロッケン山の代わりになりうる最有力ポイントだ。
風はビルの間を吹き荒れ怨嗟のごとき声を上げ、これから来るモノに怯えるかのように窓ガラスは震え、街路樹が悲鳴を上げていた。
「来る」
一瞬、風がやんだ。
それと同時に地面から霧が湧き出し、全てを覆いつくした。
その白の先から表れたのは、場違いとも思えるパレードだった。
色とりどりの旗をはためかせ、着飾った緑の象が行進する。
これから始まる魔女の宴を盛り上げんと、彼らの主の登場に華をそえる。
白く塗りつぶされ、今まであった建造物の消えた地面から、ずるずるとビルが生え、元々の街とは似て非なる街が現れる。
これは隠れるための結界ではない。
そもそもワルプルギスの夜には隠れて身を守る必要など無い。
ただ、他人の作った舞台における路上演劇ではなく、自ら作り上げた舞台で公演したいだけなのだろう。
そして、出来上がった舞台の上で、ワルプルギスの夜が炎によるスポットライトの元に起動する。
この公演は邪魔が入らなければ彼女の気の済むまで続き、その踊りは現実世界で烈風を巻き起こして街を破壊しつくすはずだった。
だが、今宵のプリマドンナはワルプルギスの夜ではない。
暁美ほむらは己の舞台を作るため、儀式の発動のため、すうっ、と眼を閉じ、その透き通った声で詩を紡ぐ。
―還ろう、
還ろう、
人でなきものの故郷へ。
人にあらざるものは、人でなきものの故郷へ。
人の心なきものは、人でなきものの故郷へ。
人を失いしものは、人でなきものの故郷へ。
現に心なきものは、人でなきものの故郷へ―
それはかつて神隠しの少女が歌った詩。
異界に飲まれてなお、人と隔てられた境界を越えたいと願い、
そして、自らを救った友のため、境界を開いた少女の詩。
―人は現
妖は夢
心は境界
血は縁故。
あるべきものは、あるべき場所へ。
赤い空は、赤い地へ。
月日は地平へ還るが約定。ならば還すを望みましょう。
子供は親へと還るが約定。ならば還すを望みましょう。
境界は分かたれ、夢は覚め、現は来り、
肉の絆は夢から現を引き上げ―
それと同時に、異界の空の下で神野陰之も詠うように言葉を紡ぐ。
―理不尽にも、あの青空は今は無く、
すっかり
ぷすっと七月を殺した秋の霜に泣く―
それはとある作家が紡いだ詩。
時の流れに押し流され、遠ざかってしまったものを思い、自らの本の中でのみ境界を越えることができた男の詩。
―類がない、不思議の国に どうぞおやすみ、
さまよい、夢見れば、日々は進み、
よろこびの夏は消えゆく、雲霞。
うかんで漂う川面は広し
夏、黄金の陽を浴び、心も軽し
らちもなし、人生は夢、まぼろし―
ほむらと神野の詩に合わせて、白い空はじわりと赤く塗りつぶされ、白亜の摩天楼は朽ちて崩れ、赤い荒野へと姿を変える。
赤い空に、月がまるで巨大な眼球のようにぬらりとした光沢で浮かんでいた。
ぽっかりと浮かぶグロテスクな月が、ほむらの影を赤く染め上げていた。
草も、葉も、白く色褪せ、瑞々しいままの形で枯れ草の色と化していた。
やけに乾燥した、その猛烈な枯れ草のにおいに微かに鉄錆を含ませたような奇妙な香りがほむらの鼻を付いた。
「本当の異界へ、人ならざるものの故郷へ、“戯曲の世界”へようこそ、暁美ほむら」
暁美ほむらと中空のワルプルギスの夜以外に何もいない荒野で、神野陰之が声を掛ける。
『やれやれ、これでお主も儂らと同じモノになってしまったぞ。
儂と神野が組んで行う魔術だ、失敗はすまいと思うていたが、実際うまくいったようだな』
それに続けたのは、ほむらの中にいる魔術師だ。
ほむらの耳には、二人の言葉と共に、異界のどこかで魚が、蟲が、草が、異形がざわめく音が入ってきていた。
新たな仲間を歓迎するように、迷子が帰ってきたのを喜ぶように、そして、新たな神の一柱を崇めるかのようなそのざわめきを。
それらを聞いてほむらも儀式の成功を実感していた。
現の魔法少女たる暁美ほむらと異界の魔術師たる小崎魔津方、魔人たる神野陰之、そして“ワルプルギスの夜”の名が持つ性質により境界は曖昧になり、魔女もろともに異界へと引きずりこまれたのだった。
「ええ、うまくいってよかったわ。
けど、ここがどこであれ、魔法少女が何者であれ、私は私としてここにいる。
まどかが待っていてくれるから、私はどこまでもいってもただの女の子、暁美ほむらでしかないわ」
ほむらは感慨深げに、だが確信を持った声で答える。
その中にいる魔術師がどこか満足げに含み笑いを浮かべたように感じられた。
「さあ、あとは君の戦い次第だ」
そう言うと神野は手に持っていたモノを地面に放り投げた。
それは赤が支配する大地に純白のアクセントを加えた。
「いきなり投げつけるなんてひどいじゃないか。
…それよりも、やってくれたね、暁美ほむら」
その白はインキュベーターだった。
宇宙生物たるそれすら物語に引き込むため、ほむらは一匹捕獲して神野に引き渡していたのだ。
「まさか魔法少女と魔女のシステムそのものを変質させてしまおうなんてね。
このままだと僕達は魔法少女の素質に加えて、霊感もある少女しか相手にできなくなってしまうよ。
対象がどれだけ狭まったのか分かるかい?
宇宙を存続させるためのエネルギーが一気に入手しづらくなるんだよ」
文句を言うインキュベーターに対してほむらはどこ吹く風だ。
そんなことは分かりきってやっている。
人類もインキュベーターも存続し続けるとは到底思えないほどの未来の話などほむらには関係なかったし、憎い相手を出し抜けた喜びもあった。
だから、これまでの意趣返しとばかりに言い放つ。
「絶望のエネルギーがほしいならここから好きなだけ持って行きなさい。
なにせここは感情のエネルギーが生み出した世界のようなもの。
貴方が生み出した魔女達が本来在るべき絶望の果てなのだから」
この地獄にいつまでもいつづけるがよいわ、そんな思いでほむらは言った。
ざまあみろ、そんな気持ちで言い放った言葉であったが、しかし、神野陰之はそれに乗ってきた。
感情が無いといってもこの状況を理解しきれていないのだろうか、未だ起き上がらないインキュベーターの前にかがみこむと手を差し伸べた。
「その通り、ここのエネルギーは君達を満足させることだろう。
君達の願望も叶えよう、この”尽きることない深遠の井戸“からいくらでも汲み上げていきたまえ」
そう言う神野陰之の手から黒いもやが立ち上りインキュベーターに吸い込まれる。
そのもやの一片一片が穢れを溜めきったグリーフシードと同様の気配を放っていた。
その闇に耐え切れないのだろう、インキュベーターの体はぐずぐずと崩れ始め、その耳のあった場所から死肉の色をした手が生え、尾は分かれて触手のようにのたうつ。
そんな“できそこない”の姿をした肉塊を見てほむらは胸がすくような気持ちになった。散々自分達魔法少女を魔女にしてきた相手が同じ異形に堕ちるのだ。
だが、そんな姿になりながらも彼の口調は変わらない。
むしろ、感情の無い彼らには珍しく、うれしそうな響きをすら帯びていた。
「これはすばらしいエネルギーだよ、暁美ほむら、神野陰之。
鹿目まどかを狙わなくてもこれほどとはね。
新しいエネルギー源としてこの世界を研究する価値はあるよ。
僕達が役目を果たせるのなら、別に何に変質しようともかまわない。
それは別として、暁美ほむら、君は勝てるのかい。
このエネルギーとともに記憶が僕にも流れ込んできたよ。
時間遡行の願いだったんだね、そこの魔人の存在にすっかり騙されたよ。
ただ、興味深いことも分かった。
君は、ワルプルギスの夜相手に一人で勝てたことはないね?
しかも勝てたと言っても完全に消滅させたことはないじゃないか」
肉塊と成り果てても変わらない艶消しの、だが決定的に位置のずれたその赤い瞳に見つめられ、ほむらは嫌悪とある種の賞賛を抱いた。
それにインキュベーターの言うことは実はそのとおりなのだ。
ほむらは以前のループでワルプルギスの夜に勝ったこと自体はあった。
ただしそれは他の魔法少女の協力と犠牲、街の壊滅とまどかの大切な人たちの死と引き換えだった。
しかもその勝利は見滝原からの撃退であって、完全に倒したことは未だないのだ。
異界の荒野に戦場を移すことでビルや飛礫による攻撃を封じ、街の被害を考える必要がなくなったとはいえ、勝算は高いとはいえなかった。
「それなのに、どうして戦うんだい。
勝てないのなら、始めから諦めてまどか達を連れて遠くに逃げていればよかったのに。
あれは受肉した絶望そのものだ。
ちっぽけな君一人では勝ち目はないよ。
君が負け、ワルプルギスの夜が『反転』すれば儀式は終わる。
そうすれば僕の一人勝ちにしかならないよ」
「こう言っているが…どうなのかね?」
神野もつなげる。
それに対して、ほむらはマントを翻してワルプルギスの夜を向き、ふっと笑みを浮かべた。
ちょうど同じ時、さやかと杏子も戦いに望もうとしていた。
「ほむらの読みどおり、この場所だったな」
「そうね」
眼前には無数の魔女と使い魔。
神堕としの儀式の影響で異界と混じりつつあるせいか、すべての魔女が同じ結界を共有していた。
全てが混じりあうその空間は混沌としかいいようがなかった。
球体がある、落書きがある、朽ちたバイクの車輪に絵画がはまっている、無数の多面体や人を模したマネキンが冒涜的なオブジェを形作っている。
「これほどの数ではね。
いくら君達でも勝てないなんじゃないのかい。
それにいくら君達がここで頑張って暁美ほむらの元に魔女を行かせなくても、どうせ彼女一人ではワルプルギスの夜には勝てないだろうしね」
そこにいたのは異界に引き込まれたのとは別のインキュベーターだ。
既に向こうの影響を受けてその形は崩れてきているが、二人にとっても彼ら自身にとってもその姿もそれが問いかけた疑問も瑣末なことだった。
「私はほむらを信じるって決めたんだ。
今更何を言うんだい」
「そうだよ、それにやってみなければわからないじゃない」
杏子とさやかが言い返す。
「どうしてそんなにこだわるんだい。
わけがわからないよ」
その言葉に二人はふっと笑みを浮かべた。
「そう、これまでは勝てなかった、今回も分からないけれど―」
ほむらが言う。
「可能性は低いかもしれないが―」
杏子が言う。
「私じゃまだ力不足かもしれないけど―」
さやかが言う。
「「「―それでも
3人の声が世界を超えて重なる。
魔法少女としてではなく、異形としてではなく、ただ人として願望のため戦う。
この物語、最後の戦いが幕を開けた。