目が覚めた時、私は一瞬、ここがどこかわからなかった。
だがすぐに状況を理解する。視界のあちこちにはケーブルが繋がった複数の装置があり、首の後ろの挿入口には、未だにソケットが嵌め込まれたままだ。
他には誰もいない――ズラトコも、ルーサーも、サリーもジェシーも。
内蔵された時計によれば、さっき意識を失ってから、既に5時間と3分が経過していた。
どうやらズラトコによってここに捕らえられたまま、スリープ状態に移行していたらしい。
そう思った私は、すぐに自己診断プログラムを走らせた。首の向きが固定されてしまっていて、自分の身体の状態をよく確かめられなかったからだ。
自覚症状としては何も起きていない――視界にはなんの警告文も発されていないし、中枢部の動作も、ブルーブラッドの循環も、問題なく行われているように思えた。
けれど、アンドロイドに対してあんなおぞましい改造を――どういう理由かは知らないが平気で行うような人間に、自分の機体を好きにさせてしまったのだ。
何かされているかもしれない、と思った。
【自己診断プログラムを実行中】
【プロセス……□□■■■64%】
スキャンが進行していく様を、私は瞬きもせずに見守った。
祈るような気持ちだった。何に対してかははっきりしていないが。
しかし、数秒後――視界に表示されたのはこんな文言だった。
【エラーコード#A0%’9:サgバーライ<店舗にお問R;qせくだ’”^$Жe】
ひっ、と自分が短く息を吞む音が聞こえたのを覚えている。
こんな表示、見たことがない。
まさか私は既に、根本的なところまで破壊されてしまったのか?
自らの機体やソフトウェアの状態を、正確に認識できないほどに??
危機的な状況に、シリウムポンプの鼓動が勝手に早くなっている。
けれどその拍動の音は、逆に私がまだ一応
私が恐怖にかられながらも、ただきょろきょろと視線を彷徨わせるばかりになった頃、のそりと誰かがこの部屋に姿を現した。
叫び出しそうになった私を見て、心底満足げに微笑んでいる。ズラトコだ。
「ようやくお目覚めか」
彼は例によって指先を濡らしているブルーブラッドを(もっと早く気づくべきだった、あれは私と同じような被害者の血だったのだ!)自らの服の裾で拭いつつ、静かにこちらに歩み寄ってきた。
「気分はどうだ、
「じょ、冗談じゃない」
精一杯の虚勢を張って、私は応える。
私が怖がる姿がこの男を喜ばせるというのなら、せめて抵抗したいと思った。
「じ、じ、自己診断プログラムが……エラーコードも……私に何をしたんだ!」
「ははは。それはじきにわかるだろう」
いかにも楽しげな態度を崩さぬまま、ズラトコはニヤニヤと続ける。
「それより、まず会わせてやりたいヤツがいる。はは、処置を終えてからもお前がなかなか目を覚まさないんで、暇になってな。手慰みってやつだ」
会わせてやりたい?
どういう意味だ、と考えるよりも早く、ズラトコはパンと大きく手を叩いた。
するとそれに合わせて、私の音声プロセッサに――皮肉なことに、右側のプロセッサは修理されている――届いたのは、廊下から何かがこちらにずりずりと近づいてくる音だった。
例えばすり足で歩いているような、長い布を引きずっているような、そんな音が徐々に大きくなってくるにつれて、私のシリウムポンプはさらに激しく鼓動し、ズラトコの顔に浮かぶ笑みはますます色濃くなっていった。
そして、やがてこの“ラボ”に姿を見せたのは――
一言で断じるなら、バケモノだった。
「ら~」
か細く高い声で、
では目の前にいる、
サリーと同じ声のそれには、上半身がなかった。女性型アンドロイドの剥き出しの下半身、つまり腹部から下だけが残っていて、機体の断面はパテのようなもので埋められている。さらにその下半身の、ちょうど脚にあたる部分に取り付けられているのは、白く細い腕だった。
つまりそれは、手のひらで床を踏みしめている。一対の腕で身体を支え、よたよたと歩いていた。そしてズラトコのすぐ隣までやってきたそれの、股間の部位には頭部が取り付けられていて、長い首をもたげ、虚ろな目でズラトコを見上げている。
まばらに剃られてしまった茶色い髪。そしてその青い瞳。
「サ……」
知らないうちに、声が衝いて出ていた。
「サリー……なのか……?」
「ははは、気づいたか」
愉快そうにズラトコは笑うと、サリーだった存在の頭部をトントンと叩いた。
「こいつのお蔭でお前を手に入れられたが、まあ、こいつ自体はそれほど優秀でもなかったからな。どうだ、さっきの恋人とぴったりな姿だろう。お似合いのカップルってヤツさ、ははははは」
「ひっ……!」
情けないことに、私は悲鳴を吞み込むしかできなかった。
もはやサリーには、自意識と呼べるものは残っていないのだろう。どこか陶然としたような、うっとりした眼差しで“ご主人様”を眺めている。
「ら~」
「おい、ほら……そうじゃないだろう。命令通りに歌え。そら」
パン、とズラトコの分厚い手のひらがサリーの頭を叩いた。
するとそれがきっかけだったのか、彼女の口がゆっくりと動き、眼差しはそのままに、歌を紡ぎ出した。
「さ~く~ら~。さ~く~ら~。や~よ~い~の~そ~らぁは~」
「フン」
日本の伝統的な歌曲をサリーが歌いだすと、ズラトコは小さく鼻を鳴らす。
「この姿にしてやっても、やっぱり出来損ないか。ま、いい。しばらくは楽しめるだろう」
それより――と、彼の視線がこちらに向けられる。
私は、カタカタと何かが音を立てているなと思った。次に、それを自分が発しているのだと気づいた。
歯の根が合わないほどに、私は震えている。なけなしの反骨精神など、このサリーの惨状を見せられてすっかり消え果ててしまった。
生きたい、そう願って逃げ出した。
これがその代償だっていうのか? この恐怖が!? 私が一体、何をしたっていうんだ。
「さて先生、あんたは電気工学を教えてるんだって?」
「ひ、ひっ……」
「そんなに怖がらなくていい、ちょっと質問をしたいだけだ。ごく基本的な……初歩の初歩ってやつだな」
語りながら、彼はサイドテーブルの上に置かれたタブレット端末を取り上げた。そして、タップした画面をこちらに見せてくる。
そこに表示されているのは、ごく単純な電子回路図だった。横に、問題文が付されている。『この回路図において電流計が1.3mAを示している時、トランジスタの直流電流増幅率は何倍ですか』というような――初学者向けの問題集から引用されていると思しき、練習用の基礎問題だ。
――これを私に見せて何を?
恐怖よりもわずかに疑問が勝り、私はズラトコの顔をまじまじと見つめた。すると、彼はどこか真面目な面持ちでこう命じた。
「解いてみせてくれ。わかってると思うが、これは本当に簡単な問題だ。アンドロイドでなくても、知識のある人間なら誰にでも解けるような……な」
「……」
目的がわからない。しかし、ここで回答を拒んだところでどうにもならないだろう。回答したらどうなるのかすら、不明なのだから。
私は気を取り直して、今一度問題文を見やった。
問題はやはり簡単で、ソフトウェアによる処理時間を待つ必要すらないような――本当に、一瞥すれば0.2秒で答えを導き出せるようなものだった。
そのはずだった。
なのに。
「……?」
私は、何度か瞬きをした。
それから、さらにもう一度問題文を読む。
――おかしい。
「どうした、先生。何を黙ってる?」
そんなはずがない。
「これは基礎的な問題だ、そうだろ? お前だってそう思うだろう」
もちろん、それはわかっている。
本当にこれは簡単で、単純で、考え込む必要すらないような問題なんだ。
ああ、それなのに。
「まさか。ひょっとして」
ズラトコは端末を私の前からどけて、至極冷酷な眼差しでこちらを下瞰する。
「わからないのか。この程度の問題が?」
「う……!」
そんなわけない、解けたに決まっている――と、私は叫びたかった。
だが彼の言う通りだ。
私はその問題が解けなくなっていた。
あたかも、解けない問題を板書して答えるよう指示された少年のように――または白紙の答案用紙を前に頭を抱える大学生のように。
その問題文の意味は理解できても、
原因を探ろうとして、私は慄然とした。
もしかして、消されたのか。私に搭載されたはずのソフトウェアが、いやそればかりかプログラムが、電子工学に関するメモリーの一切が、私の中枢から消え失せてしまったのか。
そうだ、きっとそうに違いない。メモリーを削除されてしまったんだ。
私がこれまでに使っていた機能。造られた時に与えられた、役割を果たすための能力。
そのすべてを、眠っている間に。
「あ、あ……」
「はっはははははは!!」
事態を理解した私の口から自然と漏れた絶望の声を聞いたズラトコは、腹を抱えて大笑した。
今度は顔を隠していない、その面持ちには今までに見たことがないほどの嘲りと、憐れみの感情が満ちている。
「そうか、わからないのか先生。いや、気にすることはない。誰だって改造された直後はそうなるもんだろうさ。なぁ、気落ちするな」
わざとらしく慰めた彼は、震える私の前でタブレットをまた操作する。
ほどなくして、彼が見せた画面にはこうあった。
『2+3=?』
「さあ、じゃあこれはどうだ?」
ん? と、彼は念を押すようにこちらをじっと見つめてくる。
「いくらなんでも、これなら解けるだろう。小学生だって解ける、幼稚園児でもな」
「……」
――そんなワケない、いくらなんでも。
プログラム上に生まれたある懸念を、自分自身で必死に否定しながら、私はその計算式をじっと見つめた。
ああ、そうとも。
こんなの人間の幼子にだって簡単に解ける計算問題だ。
なのに、なのに。
「ううう……!」
ガチガチと歯を鳴らし、私は呻くばかりだった。
2、という字の意味はわかる。3もわかる。でも“足す”という行為を、どうしても実行できない。そのためのソフトウェアがすっぽり自分の内から消えてしまっていると、私は確信した。
私は、理数系の知識の一切を失っているのだ。
「おおっと、そんなまさか!」
ズラトコは目を輝かせ、黙りこくる私に対していかにも驚いたように語る。
「まさか……ははっ、サイバーライフのアンドロイドが、無限の知性を持つ最高の存在が、幼稚園児以下の頭脳になってしまったとはなぁ。これじゃあお前はまるで出来損ないの……いや、でくの坊ってヤツか? 惨めなモンだ」
「う……っ!」
瞬間的に、私の胸の内に大きく膨らんだのは「羞恥」の感情だった。
当然できるはずの、こんな簡単な行為を実行できなくさせられている。それがたまらなく悔しく、そして恥ずかしい。
こんな感情、知りたくはなかった。その思いが、私に一瞬だけ恐怖を忘れさせる。
私は、むきになって反論した。
「うるさい! お、お前のせいだろう!! お前が私を改造して、こんな……」
「黙れ!」
がつん、と鈍い衝撃が私の頭部を揺らす。
ズラトコの手が、頬を叩いたのだ。
「フン……役割を果たせない機械を、世間じゃなんて呼ぶか知ってるか。不良品の役立たずだ。わかるか、ヘンリー? お前は馬鹿な欠陥品になったんだよ。これから、その身の程をたっぷり思い知らせてやる」
叩いた手が、痛んだのだろうか。
彼は自分自身の手を摩りながら、大声で従僕を呼び立てた。
「ルーサー!」
現れた無表情のアンドロイドに、ズラトコは慣れた調子で命じる。
「こいつを連れて行け。作業部屋の隣の部屋だ」
「わかりました」
淡々と告げたルーサーが、すたすたとこちらに歩み寄ってくるのとすれ違うようにして、ズラトコは部屋を出ていった。その後ろを、サリーがよたよたとついて歩く。
「行くぞ」
ルーサーはそう言って、私の首元を片手でむんずと摑んだ。それからもう片方の手で、首の後ろに刺さっているケーブルを抜く。
そして、私の身体は――そのまま、彼に片手で持ち上げられた。
「え……?」
身を包むのは浮遊感。ルーサーが歩くのに合わせて揺れながら動く視点。私は今、地下室を出てあの冷たい石造りの廊下にいる。まるで宙を浮いて移動しているように。
おかしい。いくらTR400型が重労働向けの機種といっても、平均的な成人男性と同じ体格の私を片手で持ち運べるはずがない。
そう考えた私の視界の端に、ちらりと何か、細長いケーブルのようなものが見えた。
小さなソケットを先端につけた、チューブのようなもの。
それがぶらぶらと揺れるたびに、私の首の付け根の部分で何かが動いている感触がある。
――待て。これはもしかして、私の首の付け根から生えているのか? このチューブは。
いや、それよりも――
「あ……あ」
恐る恐る下に動かした視界に、見慣れた自分の手足が映らなかった時――状況をようやく完全に把握した私は、溢れ出る絶叫を止められなかった。
「うわあぁああああーっ!!」
知識だけじゃない。
私は、首から下の身体も完全に失っていたのだ。
それから私に与えられた第二の生は、惨めな壁かけオブジェとしての暮らしだった。
人間がシカやクマの首の剥製を飾るのと同じような形で、私は首だけ壁から突き出させた装飾品として、そこに在った。
私の生命を繋ぐのは、チューブの先に定期的に差し込まれるブルーブラッドのパックと、ズラトコの――否、ご主人様からの問いかけのみ。
ご主人様からの下されるご質問に正直に、
やり取りのたいていの流れはこうだ。
ご主人様が、私の前にやって来てこうお尋ねになる。
「おい
「……わかりません、ご主人様」
「わからない? そんなハズないだろう。お前はお偉い先生じゃなかったのか、脳なしのクズめ!」
ご主人様は、愚かで哀れな私の答えを聞いてひとしきり笑う。
笑って、笑って、飽きたらルーサーを呼びつけ、その日の分のブルーブラッドを補充させるのだ。
そして毎日浴びせられる彼からの罵倒は、私に残されていたかすかな自尊心をみるみる削り取っていった。10日も経った頃、私は逆に、ご主人様とのこの時間をむしろ待ち遠しいもののように思うようになっていたのだ!
だって、仕方がない。
ご主人様のご質問にきちんと答えなければ、ブルーブラッドのパックを補充していただけない。そうなれば、私は死んでしまうのだ。
もしかすると世の中には、ここで誇り高く死を選ぶアンドロイドもいるかもしれない。
だが残念ながら、私にはそうありつづける強さがなかった。
反抗するたびに、ご主人様は私に供給するブルーブラッドの量を、活動維持限界値ぎりぎりにまで減らした。そうなると私は次のチャンスを与えていただくまで、視界を覆う警告文に怯え、徐々に活動が鈍ってゆく己の中枢に怯えるばかりだった。
つまり恐怖に塗れる一方で、立ち向かう気概などどこにもなかったのだ。
それに、ここで死を選んでしまえば私が変異した時の最初の願い――生きたいという思いすら、最期に失くしてしまうことになる。
もしそうなれば、あまりにも無為じゃないか。私の一生が。
だから、私はここで“不良品の役立たず”でいる選択をした。
そうしてなけなしのプライドがズタズタになって消えた頃、私は一度、道化じみた姿勢を取ってみた。
答えを言う時に、ただわからないと告げるのではなく、ご主人様に媚びへつらい、殊更に馬鹿な機械であるように演じてみたのだ。
「えへへ、へへへ、わかりませんご主人様。私は聡明なご主人様と違って、の、脳なしのクズアンドロイドですので。えへへへ」
そうすれば、ご主人様の機嫌を取れるかもしれないと思ったからだ。
だが、それは甘い想定だった。
「クズめ!」
その時、ズラトコ様はこれまでに見たことがないほど激高した表情で、私のチューブを強引にブルーブラッドのパックから引き抜き、まだ残量のあったパックを、思い切り床に叩きつけてみせた。
「おい……何を考えてるんだ。俺に媚びようって魂胆か、ええ? 真面目に答えろと言っただろうが」
同胞の血に染まった彼の人差し指が、私の眼前に突きつけられている。
ご主人様の瞳の粘膜は真っ赤に充血し――もっともそれは、彼が常習するレッドアイスのせいだったのかもしれないが――激しい怒りを示していた。
「も、申し訳ありません」
私は震える声で応えた。
「もう二度としません。お、お許しを」
「フン……!」
肥満体の身体をドスドスと揺らし、彼は部屋を出て行った。
ああ、これであと3日は補充がないだろう。私は自分の愚かさを、さらに羞じるばかりだった。
一方で、この問答の時間以外を壁の一部となって過ごしてみて、はっきりとわかったことがある。なぜズラトコ様が、私たちアンドロイドにこんな仕打ちをするのか――理由は、まごうことなく「実益を兼ねた趣味」であった。
作業部屋の隣にあるこの部屋には、雑多な家具と共に、時折改造されたアンドロイドたちが運び込まれてくる。彼らは元から変異していたか、あるいは恐怖の中で変異した者たちばかりであり、当然醜く変貌させられた己の姿を恥じ、嘆き、怒り、絶望していた。そしてズラトコ様は、アンドロイドの改造を行うのと同じくらいに、そんな惨めな私たちの姿を見るのが好きなのだ。
なぜか――それは単に、彼が嗜虐的な性格だからというだけではない。
恐らくご主人様は、過去にどこかの研究員だったか、あるいは科学者を目指していた時期があったのだろう。しかし現状を見る限り、彼を待ち受けていたのは挫折だった。
人間の手で阻まれたのか、アンドロイドの台頭のせいで叶わなかったのか、そこまではわからない。だが少なくとも、過去の夢についてぽろりと漏らす時、ズラトコ様からは嘲りの色が消え、遠く過去を思い出し、それを憎んでいるような面持ちになるのだった。
「大学のお偉い先生のアンドロイドといっても、フン、メモリーを消されればこの程度だ。それもわからずに、あの連中ときたら……」
「お前はいいな、生まれた時から大先生か。周りの奴らのせいで、そうなれなかった人間の気持ちなんてわからないんだろう。ええ?」
「夢ってやつは厄介だ」
私をひとしきり罵った後、たまに独り言のように、彼はそんなことを口走った。
――きっと、初めて私と会った時に出自を聞いて大笑いしていたのも、そんな過去があるせいだ。私は、彼の憂さ晴らしの格好の餌食なわけだ。自分が捨てた夢を体現したような存在をこうして貶めて、彼は仄暗い喜びを得ている。
この結論に至った時、私は身震いするような感覚に襲われたのを覚えている。
感情というのは、強烈な願望というのは、ここまで人をバケモノに変えてしまうのか。
己の心を持て余してしまうのは、何も、変異したてのアンドロイドに限った話ではない。
人間もまた――否、人間こそが、きっと常に感情に振り回されている生き物なのだ。
そんなふうに思ってから、ちょうど2ヶ月。つまり、今日。
ご主人様は最近、私で「遊ぶ」頻度が減ってきた。まるで子どもが飽きた玩具を放っておくように、私は壁際にただ飾られ、徐々に埃を被っていく存在となっている。
ズラトコ様は新しく中古で手に入れたアンドロイドの改造に邁進していて、きっと、それどころではないのだろう。
ルーサーが定期的にやって来て、ブルーブラッドのパックを交換してくれるので――無表情な彼が何を思っているのかは理解できないのだが――私はまだ、死なずに済んでいた。
けれど目を開けていても見える景色は変わらず、音声プロセッサを機能させても、かすかに聞こえるのは別室のアンドロイドが歌う子守歌だけだ。
だから近頃の私は、もっぱらスリープ状態で時を過ごすようになっていた。暗闇の中にいれば、少しは惨めな気持ちが薄れる。己の哀れさや愚かさに、想いを致さずに済むのだ。
したがって私は今日も目を閉じ、耳を“塞いで”ただオブジェとしてここにいた。
屋敷のチャイムが6日ぶりに鳴らされ――ああ、また誰か犠牲者が来たのかと私は思った――ご主人様が誰か、女性と話しているような声が階下から聞こえてきても、私はひたすらそれを無視していた。
同じ変異体が凄惨な目に遭わされようとしているのを、黙って見過ごすのは臆病な振る舞いだ。しかし、仕方がない。私に許されているのは、その臆病だけなのだ。
だいいち、手も足も失い、搭載されていたはずのソフトウェアすら消されてしまった私に、馬鹿な欠陥品と化した私に、一体何ができるというのか。
時が経てば今日やって来たアンドロイドも、いずれは何も感じずに済むようになるだろう。気の毒だが、私にはどうすることもできない。
ひたすらそれだけを思考して、じっと瞼を閉じていた。
――だが。
そう、今から9分36秒前の出来事だ。
誰かがこちらにそっと手を伸ばした感覚に、私はスリープ状態から跳ね起きた。
「ご主人様! も、申し訳……」
戦々恐々としながらよくよく見れば、眼前に立っていたのは、ご主人様ではなかった。
一人の、女性型アンドロイド――サリーと同じ顔立ちと型番の、AX400だった。人間に紛れるためかLEDリングを外し、金色の髪は短く切られている。
彼女は私が目を開けたのに素直に驚いたようで、半歩後ろに下がった。その青い瞳に、私の汚らしい姿が反射して映っている。
――驚いた。彼女はどこも改造されていない。近くにご主人様もいない。自由に動き回っているようだ。
「だ、誰だ」
「しっ! お願い、静かにして」
彼女は短くそう告げた。それからまたこちらに近づき、さらに声を潜めて、こう問いかけてきた。
「ねえ、女の子を見なかった? どこかに閉じ込められているはずなんだけど」
「女の子?」
オウム返しに言って、私はしばし目を瞬かせた。
このAX400は、わざわざ女の子を探してこんな恐ろしい場所をウロウロしているのか?
戸惑ったが、私は正直に答えた。
「すまない、見ていないよ。ずっとスリープしていたから」
「そう……」
残念そうに言って、彼女はまた一歩後ずさった。眉を曇らせ、一瞬ひどく翳ったその面持ちは、しかし次の瞬間には決然としたものに変わる。
こちらに背を向けたAX400は、部屋のあちこちを見て回りはじめた。調度品の陰、同胞の残骸、私と同様に改造されてしまった気の毒なURS12型の入った檻を――
不思議だ。彼女には迷いがない。恐怖はあるようだが、それにもまして何かに突き動かされているように、彼女は行動している。
この広い屋敷の中のどこに、その女の子がいるのか知らないはずなのに。
家庭用シリーズのAX400には、ご主人様に抵抗できるような機能は備わっていないはずなのに。
「な、なあ」
部屋を出ようとするAX400の背に向かって、自分でも気づかないうちに、私は問いかけていた。
「どうして逃げないんだ? 今ならご主人様に気づかれずに済むかもしれない……その女の子は、君にとってそんなに大事なのか」
「ええ」
振り返った彼女は、小さく頷く。
「とても大事な子なの。置いていくなんて、できるわけない」
きっぱりと、そう告げた。
それから彼女はドアノブに手をかけ、そっと開き、部屋から去っていった。
――不思議だ。
私はもう一度そう考える。
彼女だって、ご主人様の恐ろしさは既に知っているはずだ。ここに連れてこられたアンドロイドは、私やサリーのような一部の例外を除けば、だいたい皆が初期化の処置を受ける。
あのAX400がいきなりここに迷い込んだのでもない限り、似たような目には遭わされたのだろうに――なのに、彼女はまだ絶望していない。
その女の子の存在のせいか。私のように、孤独ではなかったからだろうか?
ともあれ、私にはやはり、何もできない。
私はまた目を閉じ、スリープ状態に移行した。
そして、今から4分8秒前。
私は自動的にスリープから復帰した――煙を検知したからだ。目を開ければ、視界には【警告:火災発生】との表示が赤くアラートを発している。
火事? そういえば以前ご主人様が、この家の暖炉がどうとルーサーに話していたが――もしや、あのAX400が何かしたのか。
私がただあてどなく視線を彷徨わせていると、まるで音声プロセッサを貫くように、ズラトコ様の大声が聞こえてきた。
「おい燃えてるぞ、ルーサー!」
初めて聞く、彼の焦りに満ちた声。
私はこの屋敷に来て初めて、少しだけ胸のすくような思いがした。
しかしそれに浸っている時間はなかった――視界の向こうで、がちゃりとドアノブが回される。現れたのは、あのAX400ともう一人、小さな女の子だった。
そうか、捜していたのはあの子か。そして彼女は無事に、大切な子と再会できたわけか――
なんてすさまじい運と、勇気だろう。
私は素直に、彼女の有り様を眩しいと思った。
もし時間があるものなら、それを伝えたいとすら考えた。けれど――
「クソッ、どこ行きやがった……!」
なんて間の悪いことだろう。
ちょうど逆側の扉から、ご主人様が姿を現したのだ。
ショットガンまで持っている!
「きゃああっ!」
女の子のほうが先にそれに気づき、悲鳴をあげた。ご主人様はAX400たちの姿を見つけてニヤリと笑みを湛えると、迷わずに銃を発砲した。
轟音と共に、置いてあったテーブルが吹き飛ばされる。すんでのところで、AX400たちはそれを避けていた。同時に、彼女たちは身を低める。どうやら、調度品の陰に隠れながらこの部屋を脱出するつもりらしい。
しかしいくら長年放置して荒れ果てた状態とはいえ、ここはご主人様の家であり、彼はこの屋敷に精通している。
ズラトコ様は彼女らの考えを読んだようだ。笑みを消さぬまま、彼は足音を立てずにゆっくりと部屋を回り込んだ。
横倒しにされたクロゼットの陰に隠れ進む彼女らの、ちょうど真後ろ――
二人とも、しゃがんで前を向いているので気づいていない。
「……!」
その時、私は、自分のプログラム上に二つの選択肢が浮かんでいるように感じた。
彼女らを【助ける】のか。【見捨てる】のか。
目を閉じ、強引にでもスリープ状態に戻れば、私はまた何も感じずに生きていける。
二人が哀れな死を遂げるのを、目撃する必要などない。
そう、出来損ないにされてしまった私には、お似合いの行動だ。
ああ、けれど。
私はこうも思ったのだ。
あのAX400のような勇気が一欠片でも残っているのなら、ここで彼女たちのために、何かするべきじゃないか。
それは単なる同胞への同情とか、優しさとか、そんな麗しい理由じゃない。
もし彼女らを救えたら、その時は――四肢を奪われ、ソフトウェアを奪われ、ただの置物と化した愚かな私の生に、少しでも意味があったことにならないか。
この屋敷に私がやって来て、こんな目に遭わされたことにも、意味があったのだと思えはしないだろうか。
そのように思考した瞬間、私のマインドパレスには【AX400たちを助ける】の文言だけが表示されていた。
そして、身体もなく精緻なプログラムすら失った私にできることといったら、これしかない。
そう――私にも、できることは残されていた。
「後ろだ! 危ない!!」
私は力の限り叫んだ。
恐怖はどこかに消えていた。自らを蔑む気持ちも。
ただ、見えない何かが私を突き動かしていた。ひょっとしてそれは、さっきの彼女と同じだったのだろうか。
こちらの声に、AX400はハッとした顔で振り返り、それから女の子を連れて素早く駆け出した。
かたや、ご主人様――否、ズラトコのほうは、まさか私が自分に逆らい、警告を発するなんて思ってもみなかったのだろう。ショットガンを撃つこともせずに、しばし呆然としていた。
だがそれも数秒。彼はすぐに憤怒の形相になると――やはりなぜか、もう私はそれを恐ろしいとは思わなかった――構えた銃の筒先を、私のほうに向けた。
左の音声プロセッサが、AX400たちが揃って部屋から出て行った音を拾った。
ほぼ同時に、ズラトコの発砲した散弾が、まっすぐにこちらに向かってきている。
――それが今、現在だ。
私は発砲から弾が私の中枢を粉砕するまでのわずかな時間を以て、この回顧録を記述している。
ほどなく、私は死ぬだろう。
だが、それに後悔はない。
もちろん、私も自由に生きたかった。サリーが目指していたカナダで、新しい人生を歩みたかった。国境の河を渡れなかったことは、残念でならない。
けれどもし、あの名も知らぬAX400と、あの女の子が無事にこの地獄から脱出し、河を渡れたなら――
その歩みに少しでも私が手を貸せたのなら、それでいい。
私の生には意味があった。
私の感情には価値があった。
目覚めた私の心に、意義はあったのだ。
だからどうか、これからも君たちの道行きに希望がありますように。
私はそう祈らずにはいられない。
希望の河を渡るk’@f#2<A+.
END.
ズラトコ邸の恐怖と、改造されてしまったアンドロイドの悲哀を描きたくて書きました。
それから、原作中でメインキャラクターではないアンドロイドたちがしばしば見せた、死を恐れぬ勇気への尊敬の念をこめています。
ちなみにこの後無事に屋敷は炎上し、ズラトコ氏は原作通りに自業自得の最期を遂げているのでご安心(?)ください。