目が覚めた。
としか言いようがないと思う、多分。
「……?」
今まで自分が何をしていたのか。これがどうも曖昧でよくわからない。ただそんなさっきまでの状態と違って、僕は自分というものをちゃんと認識している。それを目が覚めたというなら、そうなんだろうか。
ここはどこだろう。見たことのない場所だと思ったが、覚えがあると言われればあるかもしれない。
陽が差し込み、明るくて、緑がある。分かるのはそれだけだけど、どこか安心するような、ホッとするような場所のように思えた。
「……何やっとん?」
「うわっ」
その声を聞いて驚いた。何故って、それは吼翔副隊長のものだったからだ。
背後から耳を揺らした困惑するような口調に慌てつつ、僕は直属の上司に向かって弁明する。
「も、申し訳ありません! 気が付いたらこんな場所にいて、」
「オメー、人んちの庭に入っといてまず言うのが”こんな場所”か……?」
「えええ……?」
そ、そんな事言われても。って、まずい。吼翔副隊長、あれはかなり怒ってるぞ。血管がピキピキいってるのが見てわかる。
「……ハァ、まあええわ。話でもあるんやったら上がってけ。茶ぐれぇ出すぞ」
「はっ……はい?」
「なんでそこで疑問系やねん」
戦々恐々としていた僕をよそに、副隊長はさっさと家の奥に進んでいった。こんな所にさっきまで家なんてあったっけ? いや、そんな事はどうでもいい。
ここでやっぱり帰ります、なんて言っちゃまずいよなぁ……。
「まっ、待って下さいよ!」
いまいち腑に落ちない所もあるけど、考えていたってしょうがない。置いてきぼりを食らう前に、僕は急いでその後を追わなければならなかった。
なんだか、とても大事なことを忘れているような気がするけれど。
いつも通りの日常の空気に、何故だか酷く心が安らいだ。
◼️◼️◼️
最初の変化は顕著に表れた。
“飛掛”の最たる特徴は、鞭状にしなる刀身に付属する十八の刃だ。そして卍解の名を口にした次の瞬間、その全ての刃が、一斉に
ばら、ばらばら、と。見る見る内に”牙”が削がれていく己の武器の様相を一顧だにせず、吼翔はゆらりと歩みを進めるだけである。
更なる変化は——左手に握る刀身に出た。
それは非常に微妙な変化ではあったが、しかし明らかに”性質”そのものが組み変わっているという事が見て取れた。
ぐにゃり、という擬音すら聞こえるような屈曲。弾かれるように手を離れたそれは、平べったい帯状のような、いわは”金属製の包帯”とでも形容すべき形へと姿を変える。
独りでに宙を舞うそれは、変形を終えると同時に吼翔の腕へと巻き付いていく。
……いや、”腕に巻き付く”という表現はあまり適切ではないのかもしれない。
その帯は先程まで腕が”あった”場所——酌牽蜥蜴によって切り飛ばされた、虚空の右腕を依代とするように巻き付いていたのだから。
「……正直、ホッとしたったわ」
肉体反応を確認するかのように閉じる開くを繰り返す自らの腕を見つめながら、
「こんなになっても俺の”装腕”がちゃんと動いてくれるかどうかなんざ、当然試したことなんて無いんでな」
新たに形成された金属義手には、それぞれの指先の形が奇妙に歪んでいた。
本来爪があった部分にすっぽりと穴が空き、内部は空洞になっている。周辺には
そして——“刀身”は”腕”に変化した。
ならば、切り離された”刃”はどうか?
ぐつぐつぐつぐつ!! と。それは無数の金属片が互いを喰らい合うように寄り集まる音だった。
地に落ちたそれらは徐々に浮遊しながら、元の体積を明らかに無視した大きさにまで膨れ上がっていく。直径二丈*1にも及ぶ球体にまで成長した後——ばつん、ばつん、という音を立てながら、再び少しずつ分離していくのだ。
しかし、その数は元の三分の一にも満たない、五枚の板となっていた。
五枚の”刃”は始解のそれに限りなく近い、絵画的表現をとった水滴のような形状を取り戻した。
「成程」
そこで、輔忌の顔をした男——
「おまえの刃は水滴ではなく、いわば『爪』だったというわけか。そしてその装腕は差し詰め、浮いた刃を絡繰人形のごとく操る”操腕”であり”爪腕”」
その答えとでも言うように、吼翔が横薙ぎに右腕を振るうと同時、五枚の巨大な刃が爪の位置と連動しながら飛行する。
軽く振るっただけだというのに、その速度と力強さは相当のものに見える。局地的な暴風、そして土煙に目を細め、人の皮を被った怪物は実に愉しそうに嗤ったのだ。
時はほんの数秒だけ巻き戻り。
「烈!? 何だったんだよアイツは、どこに消えた! 状況は!!」
麒麟寺が泡を食ったように捲し立てるのを無視しつつ、長い距離を一瞬で飛び越え降り立った烈は唯一伝えるべき事を言う為に口を開く。
「——吼翔が卍解をするつもりです。私達はともかく……隊長格に満たない者がここにいるのは不味い!」
「ハァ!? 吼翔の卍解がどうした、解るように説明しやがれ!」
かの卍解、
その能力を知らない麒麟寺が、いっそ過剰なほどにこうして慌てふためく烈の様子に疑念を抱くことに無理はない。だが——次に放たれた彼女の言葉は、彼の想像を遥かに超えるものだった。
「”距離”を離せと言っているんです!! この場に何百もの死体の山が積み上がるような事になる前に、早く!!」
「ヒャア!!」
“装腕”の動きに連動して襲い来る巨大な刃の乱撃を、酌牽蜥蜴は高揚に叫びながら次々と受け流していた。
卍解によって莫大に膨れ上がった霊圧、そして手指を動かす速さをそのまま拡大して損なわぬ大質量の攻撃力。大地を揺るがす轟音と共に振り下ろされるそれを真面に受けていれば、矮小な二振りの斬魄刀などたちまちの内に肉体ごとすり潰されていただろう。
「くひははは!! さぁさぁどうする、さぁどうする! 一度受けが成った攻撃じゃあわたしを殺せんぞ! もっともっとぉ……目新しいものを見せてくれんとなぁ!?」
しかし怪人の防御はそれ以上のものだった。粗野な口調からは想像もつかない流麗な剣筋が織りなす受け流しの連続……見る者に舞踊を思わせる程の技量は、宙を自在に飛び翔ける爪牙の刃を全く寄せ付けずにいた。
今でこそ防戦に手一杯という様子だが、その技術を尋常ならざる速さで『記憶』しつつある彼が攻勢に移るだけの技量を身につけることにはそう時間はかからないだろう。
「…………ふん」
と——その時、吼翔の猛撃がはたと鳴りを潜めた。
金属義手を手前に折り曲げて『爪』を引き戻したかと思えば、彼は奇妙な事を口走り始める。
「そろそろ潮時。綺麗な締め括りとはちと違うがよ……さっさと終わらせたるか」
「あああ?」
あまりに唐突な勝利宣言。
当然訝る酌牽蜥蜴だが、ほどなくして得心行ったと一つ頷く。
「何だ、この期に及んで見せていない手札がまだ有るとでも? いいだろう、わたしを殺せるようならば——」
「既に」
と。
そこで漸く怪人は気が付いた。
「見せとるわ」
ぎりぎちギチぎりギリリ……! と。
何かが軋み、そして歪んでいくような酷く不気味な”音”が、吼翔の眼前で留まっている卍解の刃を中心に響いていることを。
「お前、空を掴んだことはあるか?」
「何ぃ……?」
何が軋む音なのかは分からない。分かりようがない。ただその音を聴いていて感じるものがどういった感情なのかは分かる。
自分でもとても信じられなかった。彼は彼自身とその感情は全く無縁であると思っていたからだったのだが——
「始解と関連せん能力の卍解なんてありゃしねぇ。そいつは斬魄刀のてめぇ自身が一番知っている事やろうが。俺の”飛掛”の能力は『刃を宙に引っ掛ける』こと。その全てが俺の指先に宿ったということ……」
それは”不安”と呼ばれるものだった。
理由など未だに分からない。だがだからこそ、いわば一生物としての、いや、この世界に存在する一存在としての本能に訴えかける異常な感覚だけがそこにあった。
喩えるならば、そう。堅牢な鉄芯に支えられた巨大な塔が、その芯を丸ごと砂の柱に置き換えられたような。
これ以上あの”音”を聴いてはいけない、と。
「もう一度言うぜ、
分からない。目の前の男が何を喋っているかなど分からない。分かりたくもない。カチカチという小さな雑音が新たに聴こえてきて驚いたが、それが自分の口から響いていることには終ぞ気がつく事はなかった。
やるべき事はただ一つ。この卍解を止めなくてはならない。
「よく見とけや、とんでもねぇ事が起こってるぜ……」
「何をする気だ、おまえッ————!!」
しかし、その動きはどうしようもなく遅かった。
彼は余裕を見せ、時間を与え過ぎたのだ。自分を殺せる手立てがあるものなら見せてみろと、そんなものが間に合う筈もなく——
「天の蓋が、引っこ抜けンだよ」
ばづンッ、と。
世界から、音と光が消え去った。
◼️◼️◼️
「ん……?」
「妙な顔しくさりおって。どうしたよ?」
「いえ、ちょっと揺れたような気がして」
足元がぐらついたような、とても大きな振動か何かが地面を通り抜けたような。吼翔副隊長の家でお茶を頂いていた僕は、そんな不安を煽る感覚を感じたのだった。
尸魂界にも地震があるとは知らなかった。過去や未来の出来事をある程度見渡す”記憶”を持って生まれた僕だったが、生憎とありとあらゆる知識を隙間無く持ち合わせている訳では決してない。
この世に生を享けてはや数十年経つが、始めての体験というものに事欠くことは意外と少ないものだ。——と、そんなふうに能天気に構えていたのがいけなかったのだろうか。
ぐらぁっっ!! と、先程とは比べ物にならない揺れが僕達を襲ったのだ。
「う、わッ!」
ちゃぶ台の上に置いていた僕の湯呑みが音を立てて砕ける。突然の事態にどうすればいいか分からなくて吼翔副隊長のほうに目を向けると……
「わぁちちちちち!!! あっ、あっづぁ!?」
「…………」
その湯呑みをなんとか両手にキャッチしていた。ただし、熱々のお茶をだばだばと辺りに溢しながら。
自宅のものが壊れるのを嫌ってどうにか手を出したのか。そうすると、彼って意外と貧乏性なのかもしれない。
「オイ! 口に出てんぞ誰が貧乏性やコラ!!」
「いえ、その……小さい頃から屋敷暮らしだったもので、そういうのはちょっと僕にはわかんないです」
「てめぇ!!」
あまり知りたくなかった上司の価値観を目の当たりにして唸っていると。
「ちくしょう……ともかく、怪我ぁ無かったか? 割れた破片は危ねぇから触んないで待ってろ」
思いも掛けず、返ってきたのは僕を心配する言葉だった。
ぶつくさ文句を言いながら台所に引っ込んでいった彼を見送って、僕はその認識を新たにした。
————やっぱり、優しいな。
ただ強いというだけではない。口調こそ乱暴だが、殺伐とした十一番隊の副隊長としてはやや似つかわしくないと言えるほどの姿勢は僕にとって心地良くもあった。
雑巾はどこにやったかと探している副隊長を横目に、まあ、ああは言われたけど手伝いはしないとな。せめて自分の湯呑みが割れたものぐらいは集めておこうと、何とは無しに一番大きい破片を手に取ると、
「あれ?」
手にあったのは、破片ではなく、剣の柄。
それも、これは、この刀は。間違えようもない——
どくんと、心臓が跳ねた。
◼️◼️◼️
「ブッ壊れた空間が元に戻ろうとしてんのか……神様が決めたルールってやつが乱されたからなのか」
荒廃。
赤熱した大地には何もかもが残らず、全てが死に絶えているだけだった。
死と無のみが支配するその場において、ただ一人言葉を喋る誰かが——吼翔権十郎が言った。
「どういう理屈かは俺自身よぉワカらんのだが、ともかく
端的な表現ながら、全くその通りだった。
その爆発は辺り一面を呑み込み、十三隊最大の敷地面積を誇る十一番修練場の実に七割を埋め尽くしていた。
その爆風の中心に立つ吼翔がどうして無事でいられるのかといえば、それは”飛掛の刃”が持つ『絶対防御』の特性によるものに他ならない。
グゴゴゴ……と、一列に並んだ傷一つ無い卍解の刃が『固定』を解かれると同時に動きだす。その陰から姿を表した吼翔は、掌を上に向けた右腕の金属義手をゆっくりと開いていた所だった。
誰もを消し飛ばす最大の暴力から、無敵の防御によって自分だけは逃れることができる。それこそが吼翔の卍解、”飛掛抜天爪操装腕”の理不尽さだった。
「しかしよぉ——まだ生きていられるんかよ、てめーは」
驚き呆れることも忘れているという様子で、吼翔は目の前の『かたまり』をただ見ながら呟いた。
吼翔を除き、爆心地から最も近しい場所にいた男。
輔忌の肉体を乗っ取った斬魄刀、酌牽蜥蜴は血反吐を吐きながらも尚嗤い続けた。
「くっ、ひひ。良いのを一発、貰ってしまったなぁ——本当に、良い刺激に、なった」
辺りに満ちるのは爆風がもたらした虚無だけではなかった。衝撃を食い止めるために展開された数十という数の鬼道の残骸がそこら中に散らばっている。
あの一瞬でよくもこれだけの事が出来たものだ。そう吼翔は思うが、完全にとはいかなかったらしい。万全の状態で同じ爆発をもう一度防ぐというなら分からないが、どうやらあの様子では無理がある。
「まだやるか? 先に言っとくが、今のを一度や二度しか使えねぇだろうなんて希望を抱いてんならやめとけよ。確かに『ねじ切る』までにもけっこー霊力を使うが、あの『爆発』はあくまで
何十回。
単純に巻き起こす事ができる破壊力の量で言えば、吼翔の卍解は『残火の太刀』にすら並ぶとすら言えるかもしれない。
しかし——それほどの圧倒的な脅威を目の当たりにしても尚、酌牽蜥蜴の下卑た嗤いを崩すには至らなかった。
「ぐ、ばっ……はぁ、はぁ……ひ、ひひひ。最強の死神……『剣八』の名を、流石狙うだけの事はある……」
「何が可笑しい? 諦めて死んでくれる覚悟でも出来たかよ」
「いいやァ……ほんとうに、羨ましいと思ったのさ。その霊圧、力量、何より……それだけの力を悠々と扱うだけの、精神力。おまえの”飛掛”といったらまったく果報者さ。わたしの持ち主がおまえ、吼翔であったならばどんなにか……」
「願い下げや、下衆が」
吐き捨てるような拒絶の言葉を突き付けた直後、再び卍解の装腕を握り込む。
「死ぬ時の最後の一瞬ぐれぇは——主人と添い遂げる覚悟を待って逝くもんや」
ギチギチぎりぎり!! と。
空間そのものを破壊する、膨大な力の奔流が五枚の刃に込められていく。解放の瞬間、起爆、来る——、
「くひッ——」
◼️◼️◼️
「はぁ、ハァ、うううっ——」
どうして? どうしてこうなった?
どうして、どうして……
目の前。血の海に沈む青褪めた顔。良く知った、あんなに優しい人の顔。
その人の胴に馬乗りになって、僕は何度も何度も何度も剣を振り下ろしていた。
後ろから襲い掛かられてすぐに手足を動かなくして、やめてくれと叫ぶ彼をいかに切り刻んでやったかを思い出す——
まずは左腕の付け根を抉り込むようにめちゃくちゃにした。右腕を半ばから切り落としてやった。その後は全身を見境なくズタズタに刺した。
むせ返るような血の臭いと手に残る感触。酸っぱいものが喉の奥まで込み上げてきたのを感じる。目の端に自然と涙が溜まる。口を手で押さえて、死体の上に跨ったまま、僕は子供のようにただ蹲った。
「どうして……」
ごうん、ごうん……! と。
再び世界が揺れ動く音が聞こえる。地震のような、どこか遠い所で何かが爆発するような……。
その胎動を体で感じる度に
目の前で呑気に雑巾なんかを探す吼翔副隊長がどうしようもないほど憎くなって、殺してやりたいと思うようになった。何故だかは全く分からない。だけど、確かに望んでいたんだ。
副隊長は、僕が望んだから死んだ。
この『揺れ』は何だ。どうして世界が揺れるほど……僕は、彼をどうしても殺したくなるほどに憎むんだ。
「おまえ、オマエが……」
また、まただ。世界が揺れて、動いて、また僕は彼を……
「オマエが悪いんだ……ッ」
ぐちゃぐちゃになった感情を誰に向けてでもなくただ吐き出す。死体に向かって剣を振り下ろす気にもなれず、喉が張り裂けるのにも構わず絶叫する。
訳も分からずぐつぐつと沸き立つ苛立ちと憎悪を少しでも抑えようと歯を食いしばって俯いていると——どこからともなく、酷く聞き慣れた声がした。
「っ……!?」
「酌牽、蜥蜴? 貴様か、僕の頭を操ったのは……」
「っあ、……うあぁ……」
一度 絶望に融かされた 怯弱たる心は。
あるべき形へと 変わっていく。
めき。
◼️◼️◼️
「何だよ、ありゃあ……」
空間を引き裂く爆風が過ぎ去った直後。
身を護らせていた『爪』の刃を退かし、視界を確保した上で目に入ったモノ。
「まだ死んでねぇ、だと? いや、違う。それどころじゃねぇ」
——何や、あの『樹』は?
吼翔の眼前に突如現れたのは、一本の枯れ果てた樹木であった。葉を付けず、灰色に朽ち、どこか希薄な存在感を漂わせる。——そして
「で、っけぇな……」
巨大。
自分達が今居る十一番修練場をそれこそ覆い尽くすような、吼翔の”飛掛抜天爪操装腕”が巻き起こす爆発に劣らぬ
今にも朽ち果てそうな、しかし十二分に太い枝の先端全てに繋がっているように見えるのは”鎖”だろうか。無数のそれが垂れ下がり、どこに繋がっているのかと見ようとすれば……
(なん、だ? こいつを見てると……妙な気分だ……)
決して悪い気分ではないのが不思議だった。頭が冴えるというか、周りの空気を鋭敏に把握できるというのだろうか……。まるで冷水を頭から被ったようなハッキリとした感覚がじわじわと強くなっていくようだった。
「ぐ、がっ」
だからこそ気が付いた、のかもしれない。
遥か遠く。爆風に吹き飛ばされ、血と肉がぐしゃぐしゃになるまで痛めつけられた輔忌の体が——その時確かに動いたのだった。
「……”具象化”と来てまさかとは思ったがよ。この短時間に”屈服”まで達成するか。こんな土壇場で卍解に目覚めるやと?」
天才。
陳腐ではあるがこの上なく的確、そんな言葉を連想した吼翔だが、それ故に無念でもあった。若き才能が芽吹いた瞬間に立ち会えたのは光栄ではあったが、その芽を潰さなければならないのも他ならぬ自分なのだと。
あるいは最初から卍解を身に付けていれば、胸中に巣食う”恐怖”を除いた上で戦いを挑まれていれば……結果は誰にも分からなかった。
だが今の輔忌はどうだ? 全身に隈無く傷を負い、自身の斬魄刀に刻み込まれた精神の傷は計り知れない。
終わらせる。この五指を軽く振るえば、吹けば倒れるという程に衰弱しきった肉体はもはや”爆発”の能力を使うまでもなく紙切れのように轢き潰せる。どんな技で受け流そうと、そもそも全身の筋肉がズタズタに断裂していればどうしようもない。
「本当に、お前は良うやったわ。ここ数年お前を一番近くで見ていた俺が認めたる。……これまで追い縋られるとは思わんかった。次に戦うような事がありゃ、俺はたぶん負けとった」
「…………。」
「……行くで」
肌を刺すような痛みを伴うばかりの沈黙が過ぎ去った後、先に動いたのは吼翔だった。絶死の爪腕を振りかぶりつつ一歩を踏み出し——、
天地が裏返った。
少なくとも吼翔にはそう感じられた。しかし
今の状態を一体どう形容すべきなのであろうか。
天と地が、裏返っている。
文字通り、
「なっ……!?」
上下がそっくり
たちまちバランスを崩し、
目を瞑ってでも問題無く歩けるほどに優れた運動神経と空間把握能力を持つ吼翔が
「? ……!?」
早い話——最初に起こった”分かり易い”異変が、更なる異変の感知を妨げていたからだ。
足に力が入らない。
息が詰まって苦しい。
体中に鈍い痛みが奔る。
なのに上手く呼吸ができない。
ギラギラと周りが眩しくてたまらない。
腕の痛みに噴き出していた汗がぴたりと止まった。
そして何より、ひどく眠い。
(何や、これは……! 奴の卍解の能力!? っつうか、)
——どういう能力だよッ!?
始解との繋がりが無い卍解の能力は存在しないと言うが、吼翔の身に降りかかった異変は余りにも多様だった。確認できただけでも十を越えるそれらが次々と増え、または減っていく。
(不味い……ッ、この隙はヤバい! だが力が……)
「グオぁあ◼゛️◼゛️◼゛️◼゛️◼゛️◼゛️◼゛️ァ オ ー ー ー ー ッ ッ ッ ッ ッ ッ !!!!!!!!!!!」
耳を疑った。
仕事柄、地獄の門が開く瞬間など数多く目にしてきた吼翔だったが——その絶叫は、その悍ましさは、この絶叫にも遥かに及びはしないだろう、と感じた。
「うっ、あ……」
上下が反転した視界から辛うじて目に入ったのは——二刀の頃の酌牽蜥蜴とは似ても似つかぬ片刃の直剣をたった一本ずらずらと引き摺り、ゆっくり、ゆっくりと此方へと歩み寄る輔忌の姿であった。
脇差より少し長い程度の短小な刀身は通常の長さと同程度に伸びていたが、握り拳二つばかりという刃の縦幅は特徴的だった。
尸魂界では目を引くタイプの刀剣ではあるが、例の巨木と同様の
(あいつッ、俺を殺す気でいやがる! どうにかして……立たなけりゃあ……)
これほど無様に地べたを這ったことなど今までの人生で一度もなかった。生きるのに必死だった。勝つのに必死だった。勝たなければならなかった。
少しずつ体に力が戻りはしていたのだ。平方感覚も正常に戻りつつあった。どうやらこの能力は強大かつ不明瞭だが、抗うこと自体は不可能ではないらしい。もう少し時間があれば立つことだってできると思った。
しかしそれも——『症状』の進行が、命に届くまでは。
「あえ……?」
気がつけば、意識が朦朧としていた。
全身の力が再び抜け落ちていく感覚。
(おれの、心臓 とまっ て ?)
どしゃっと音を立てて倒れ込み、なんとか目を向けた先に見たモノ。
胸のど真ん中に突き刺さった刃と溢れ出る血液を最後に、冷たい闇の底へと永遠に消え去った。
ここで6話『最後の夜』を読むと、意味不明すぎた酌牽蜥蜴の言ってることに理解と共感ができると同時に、ただの甘ちゃんだった輔忌が後戻りできなくなる所、つまりは剣八の名前までようやく行き着いてしまうまでの変容が見て取れるという仕組み。
黒崎一護みたいなヒーロー的主人公は世界に必要ではあるけれど、輔忌のやろうとしてる事はそんな人達には絶対ムリですから。
次回、最終回。