明くる日。
覚醒と睡眠のはざまを揺蕩う意識の中、仄かに香る薬の匂いに自分が起きた場所が四番隊舎の病室であることを思い出しながら、青年は珍しくも”あの日”の悪夢に苛まれない内に目を覚ました。
「う……ん」
それが果たして自隊の副隊長から投げ掛けられた昨晩の言葉よるものであったのか、
「〜〜を……、」
「…………に……。 ──ッ!」
——本来ならば病室という場所までは及ばない筈の、四番隊員らによる奇妙な喧騒の声によるものだろうか?
無用な心労を負傷者に与えぬ為、救護詰所は彼らの細心の注意によって静寂を保たれなければならない。昨晩の騒ぎは十一番隊の輔忌たちによる揉め事だったが、その対処へ早急に当たったのが”副隊長”と”三席”だということからも、患者に対する彼らの精神が特に表れていると云えるだろう。
「……?」
早朝ともなれば尚更に、このような病室にまで届くほどの喧騒は普通ではないと言える。
一抹の胡乱を感じ取った輔忌は身体を起こし、ふらふらと引き寄せられるように現場へと歩いていった。
◼️◼️◼️
「だからオメー、霊湯液の在庫は捌番薬棚のどっかだっつってんだろ!
「どう……したんです? 随分と騒がしいようですが」
ああ、何を眠てえ事を言ってやがる! この期に及んで呑気にほっつき歩いてんのはどこの馬鹿だ!?
声のした方向を見もせずに、麒麟寺天示郎は苛つきを抑えようともせずに怒鳴りを上げた。
「オォ!? 手が空いてンならうろうろしてねーで……何だ、て前ェかよ」
「え、ええ」
って、こいつは輔忌のボウズじゃねーか。こいつの声を四番隊のどいつかと間違えるなんざ、俺もいよいよ焦りが過ぎているのかもしれねえな。
しかし——こいつは一体どうしたもんか。
無意識に指の爪を噛みながら、ほんの僅かの間だけ考える。
「隊長! 器具と薬品の準備が完了致しました!」
くそ、悠長に構えてる時間はねぇな。
……仕方ねぇ。遅かれ早かれって奴だ。
「輔忌、今から発つぞ」
「え?」
「死覇装は向かいの部屋に何着かある。適当なのを着てこい。……さっさとしろ! 3秒以内に戻って来なかったら連れてってやんねーからな!」
呆けて動かない小僧を有無を言わせずに叩き出し、俺は部屋の戸を閉める。余計な荷物も増やしちまったもんだが、まあ支障にはならんだろうよ。
「…………ふぅ」
そして、——ずらりと目の前に並んだ医療道具の数々に思わず顔を顰める。小山ほどもあるこれらをそのまま担いで行けるだけの薬籠に詰め込む作業が残っているのだ。
くそったれ。俺に面倒事を持ち込んできやがるのはいつだってお前らだよ。
「こいつらが必要にならなきゃいいが。……頼むぜ、卯ノ花よ」
その都度首を突っ込んじまう俺も俺だがな。
「て前ェや
卯ノ花の奴、子供ができて少しは丸くなったかと思えば”これ”だからな。即座に考えを改めさせられる。今回もあいつのバカな思いつきか暇つぶしにしか見えなかったが……まあそりゃ置いといてだ。
輔忌の腕を引っ掴みながら超速の瞬歩で駆け抜ける。途切れ途切れにうつろう視界、景色がぶっ飛ぶように後方へと流れ過ぎていく。流魂街と瀞霊廷との境界はとっくに置き去りになっていた。
「よっと! ……こりゃついさっきの話だが、連中の一人が帰ってきたんだよ。それも
「……それっ、て!」
流石だな。
いや、見込んで連れてきたが見込み以上だ。輔忌は俺に引っ張られながらとはいえ、尸魂界でも随一の瞬歩の速さに体勢を崩さず、俺の荷物にはならんようにと自分の足で対応して付いてきている。そして滝のような汗を流しながらも何かに勘づいたように声を発した。
「“非常事態下”の緊急伝達!? 出向した隊が対応不可能な状況に陥った際のっ……」
「ああ……最低でも一人を寄越す。そういう決まりだ」
「でもっ……ただの隊士だけじゃない! 十一番隊の席官級だって大勢同行していましたし、
ああ、そうだよくそったれ。
卯ノ花の奴でも”対処”ができねぇ、しかもそれが
「各隊の隊長格には全員お呼びがかかっているだろうよ。一番最初に着くのは俺達だろうがな……輔忌?」
ふと、すぐ後ろを疾る輔忌を見遣る。
「まさか……」
流れる汗をそのままに、その俯きがちな顔を見るに俺の問いかけなんか耳を素通りしているようだった。
「おい、何を考えてやが……——ッ!」
る。というセリフの続きは見知った霊圧の感覚に途切れていった。輔忌も全く同じものを感じたようで、進行方向そのままへ安堵とも驚きともつかない反応を示す。
「あれは……」
「母さんの霊圧!? どうやら無事のようですが……っ」
尸魂界の最果てにまで離れていて碌に追えなかった霊圧をやっと捉えられた。だが普段のそれとは……想像も付かない程に弱々しい。立っているのもやっとという状態だろうって事は簡単に想像がつく。
更に奇妙な事には……卯ノ花の奴をそこまで追い込んだってえ餓鬼の霊圧までは感知できないってところだ。
つまり、勝ったのか……?
「……何れにせよ急ぐに越した事ァねえな。しっかり掴まれ、こっからはちいとキツいぜ!」
「っ、はい!」
近づけば近づくほど、だな。十一番隊員のものらしき霊圧も一緒に感じられるようになってきた。
弱り切ってさえ雑魚連中のそれを塗り潰すばかりの卯ノ花の霊圧の存在感には呆れちまうが、隊もろとも全滅って場合は考えなくっても良くなった。
さて、この辺りの筈だが。見るとほんのちょっぴりだけ木々の少ない開けた地形に、酷く小さなボロい小屋が数軒ばかり立ち並んでいるのが見えた。十数人ほどの死覇装を着た死神たちがその内の一軒を取り囲むようにして辺りを警戒しているのがわかる。
……五つ前後の死体が血塗れで転がってるのにはツッコまねえぞ。見たところ隊士のうちの誰かでもないようだが、小屋の持ち主をぶっ殺して乗っ取ったんじゃねえだろうな。
まあ、もともと『更木』はイカれた破落戸どもが羽虫みてーに湧いて出てくるクソみたいな土地だ。例え穏便に建物を借りようっつっても、住人の方から急に襲い掛かってくるってのもザラだろうしよ。
……ホントに連中が”穏便”な対応を試みたかってーと、かなり怪しいモンだがな。
「うわぁ、命の価値が軽い……」
輔忌も同じように考えたようで、ポツリと一言だけ言及するに止まった。まあ、ここはそういう場所だしな。
「おい野郎共! 四番隊隊長の麒麟寺だ! 被害はどの程度か言ってみろ!」
大声を出して呼び掛けてやると、まさに打てば響くって感じだな。こちらから見て先頭に立つ男が少しの動揺と安堵を挟みつつも返答を寄越した。
「麒麟寺隊長!? 良かった、
「
「……ええ、分かりました。貴方にはその理由もあるでしょう。麒麟寺隊長、卯ノ花隊長を宜しく頼みますッ」
霧崎ってのは確か伝令の為に瀞霊廷まで戻ってきた十一番隊員の名だったか。そして目の前のこいつも輔忌と知り合いらしいが、つくづく連れて来たのが隊の”身内”で良かったな。話が早くて助かるぜ。
「任せとけよ、死んでねぇ限りは助けてやるさ」
隊員の包囲を通り抜けて、ギシリと軋んだ小屋の引き戸を密かな決意と共に滑らせた。
そこには寄せ集めのものと思われる布団が一枚、その上に稚拙な手当らしきものを施された卯ノ花が横になっていた。
その辺の布を破って包帯代わりに巻いてあるんだろうって事がかろうじて見てとれるぐらいのモンだが、そもそも十一番隊の脳筋どもに期待なんざしてもなかったしな。そりゃまあ良いだろう。
入ってきたのに気づきもせずに虚空を見上げる卯ノ花を怪訝に思いつつも、俺は何時もと変わらない調子で声をかけた。
「こっ酷くやられたな」
「天、示郎?」
「輔忌もいるぞ。ああ、無理に体は起こすな。服はこっちで脱がせっからよ」
パッと見た限りでは……思った程の傷ではない、か? だが、それにしては霊圧の揺らぎが酷いもんだ。戦いの消耗が祟ったのか、或いは俺の預かり知らない何かがあったのか。こちらを見ているようで見ていなさそうでもある、どうにも焦点の合っているのかもハッキリしない
どのみち詳しく診る必要はあるな。背負っていたバカでかい薬籠を下ろして早速診察に取り掛かろうとすると——何だ、輔忌が俺の腕をがっしと掴んできやがった。邪魔だぞ。
「何だよ」
「分かってます。当然の流れですよね、勿論分かっています。……僕は外で待っていますので。ひと段落したら呼びに来て下さい」
「なに?」
どういう事だ。と言いかけたが、やめる。ガラガラと引き戸を開けて外に出て行く輔忌の背中を、わざわざ止める事はしなかった。
ああ、実の母親の裸をまじまじ見るのはきついだろ?
わからんでもない。
「こんなもんか」
全ての傷に処置を施した訳じゃないが、とりあえず服に隠れる範囲は済んだな。一番深刻だった
しかし卯ノ花もこういう時に輔忌ほど——色んな意味でだが——自分の身体に頓着するタイプじゃねーだろうとは分かっていたが、こっちもやり易くて助かるぜ。
「…………」
だがそれにしても、やはりどこかうわの空だな。訊かれた事に返事する以外にほとんど喋らねーし——それはいつも通りか。ともかく、まるで”されるがまま”といった様子で、こうなると
「……良いぞ! 入って来い」
この沈黙に耐え切れなかったって訳じゃあねえが、そうだな、外で気を揉ませているだろう輔忌をそろそろ中に入れてやらないとな。腰を上げて戸口に向かいながら声をかけると——
内側から開けた戸を挟んで目に入ってきたのは、思いもよらない男の姿だった。
「き……麒麟寺、隊長」
地に蹲るように荒く息を吐きながらこちらを見上げて来たのは——十一番隊副隊長、吼翔権十郎その人だった。
「て前ェは」
「一人で来たそうです。瀞霊廷から、この更木まで」
限界まで疲弊しきっているらしい、ともすれば今の卯ノ花よりよっぽど具合が悪そうな体を脇に屈んで慮っていた輔忌が補足を入れる。
「ここに着いたのは本当につい先程の事でした。卯ノ花隊長の事を聞いて飛んで来たそうですが……」
……大した野郎だ。俺たちに続いて二番目にここへ来るのが他のどの隊長でもなく、吼翔だとはな。
こっから瀞霊廷だぞ? 尸魂界の半分を横断するような距離だ。俺が言うのも何だが、これを日が中天に昇るまでに走って越えられるような奴が他にいるとは思わなかった。
そのせいか息を整えるのにも必死で碌に声も出ないようだが、その抉ぐるように俺を見上げる懸命の表情。いくら俺でも、それが一刻も早く自隊の隊長の安否を耳に入れたいと思っているからこそのモンだという事は直ぐに分かった。
幾らかの逡巡すら挟むまでもなく、俺ははっきりと答えを口にする。
「卯ノ花は深手を負いはしたが、報告にあった餓鬼は見当たらねえ。奴は……勝ったんだろォよ」
「!!」
「詳細はまだ何も聞いちゃいねえがな。話はこれから始まる。吼翔、て前ェも副官として此処に居るんなら——聞くべき事は聞いておけ」
上がった息も抑えつつある吼翔。
「っ、く……。分かり、ました。せやけど、麒麟寺隊長」
そう言ってよろよろと腰を上げた大男は、俺の視線を受けながら深々と体を前に傾けて、
「その前に——有難う御座いました。隊長の命を繋いでもらって、俺は感謝してもしきれんのです、本当に、恩に着ます」
頭を下げてこう言った。
……ったく。羨ましいとはケほども思いやしねーが、奴の周りにもいつの間にか人が増えたもんだな。あいつと初めて会った頃、元柳斎にしょっぴかれてやって来たあの当時とはどこか違う。
例えそれが小さくたって、一つの人の輪の中心にいる。そいつはやっぱり、孤独に剣を振るうだけだった昔から何かが変わり始めているって証拠なんだろう。
それでも、ああ。
やっぱり羨ましくはなんねーな。
卯ノ花剣八を“マトモな形”で慕ってる奴は、誰もいねぇんだから。
◼️◼️◼️
「…………」
小屋の裏口をくぐり、後ろ手に戸を閉める。
ガタン。古くなった木材のぶつかり合う音が聞こえると同時に、背後から注がれる視線がそこで途切れてくれたような気がして、そこで吼翔権十郎は大きく息をついた。
自隊の隊長から語られた事の顛末に、呆然としていた。
無理も無い。ここ更木で彼女が遭遇したという子供の話だけは前もって耳に入れていたが、それが卯ノ花剣八という死神に与えた影響は、一朝一夕に飲み込むにはあまりにも大きすぎた。
『あの子は、私よりも「剣八」に相応しい』
『この名を名乗る資格は、敗けた私には最早ありません』
それを聞いた吼翔は天地がひっくり返るような驚愕を受けた。正しく狼狽えていた。”剣八”が明け渡される。そんな事実が何より信じられなかった。
『ですが……』
けれど自ら”剣八”を棄てた、一人の女の悔恨を極めるといった様子で吐き出された次の言葉だった。先んじて生じた驚きは更に強いそれによって容易く塗り潰される事になる。
『私はあまりにも
『敗けた私は剣八として死んだ。ですが、私を越える”次の力”は他ならぬ私の剣によって喪われたのです』
『それこそが、私の罪』
言葉を、失っていた。
『……これからて前ェはどうすんだ。”剣八”を棄てた卯ノ花よ』
そこで麒麟寺の質疑が想起される。剣八の価値観に然程重きを置かない彼の考えはこの時も冷静だった。
『天示郎。貴方が私へ再三繰り返してきた言葉の意味が、今になって漸く分かった気がするのです』
『…………』
『目の前の
卯ノ花の発する台詞に誰よりも既視感を覚えた麒麟寺は目を見開き、まるで不愉快なものを見たとでも言わんばかりに睨み付ける。
『
『ええ、そうでしょう。周りの人々が幾ら傷付こうとも動かなかったこの心の初めてそれを欲するに至った切っ掛けが、他ならぬ自身の窮地に依るもの等と』
自らの醜悪な性情は重々理解しているといったふうに自嘲し、女は粛々と言を紡ぐ。
『天示郎……
無論、時間はかかるでしょうが。
そう締め括られた言葉を聞いた麒麟寺は、眉根に皺を寄せたままそれ以上を語ることはしなかった。
『剣八は……』
未だに動揺が抜け切れていない吼翔を差し置き、恐る恐るという調子で輔忌が呟く。
『母さんも、”更木の少年”も名乗る資格を逸した。それで失われた、宙吊りになった剣八の名は、どうなるのですか』
結論から言って、現在の吼翔が抱えている動揺の殆どはこの問いが齎したものである。この事実は……護廷最強と言われた戦闘部隊の副官にまで上りつめた男にとってさえ、とても受け止めきれるような事ではなかったからだ。
『私は、十一番隊長を辞します』
『次の隊長に相応しいのは、吼翔、貴方を置いて他に居ないでしょう』
『そしてこれは……無論、荷が重いと感じるならば断ってくれても構いませんが』
「……………………」
卯ノ花が倒れたと聞いた時点で、少しでも考えなかったかと言われると嘘になる。
十一番隊副隊長。剣八に最も近い男は他ならぬ自分であると、自他共に認める立場に彼は居た。
「俺は……」
自惚れている訳では無い。
埋めようもない実力の差が彼我の間に横たわっているという現実は良く理解している。だからこそ、果たしてこの提言を受けてもいいのだろうか、この身に余る”名”だろうか、と。自らに向けられた疑念は精神を揺さぶり、止め処無く噴き出し続ける。
「っ?」
と——背中を預けていた小屋の戸がガタと動き、体の重心がずらされた事で前方向へとよろめいた。
中の二人が出てきたのだろうか。そう思って後ろへと目を向けると、そこへ顔を出したのは輔忌一人であった。
「…………」
「……吼翔副隊長」
暫し向き合う両者。
果たして、先んじて口を開いたのは輔忌であった。
「お受けするつもりですか、あの話を」
そう来るだろうというのは薄々分かっていた。
態々一人で聞きに来た。それはつまり、母親の名を継ぐ男へとその心意を測りに来たのだろう。真っ直ぐにこちらを見据える瞳に応えるため、吼翔は静かに、しかし確固たるものを持って告白した。
「”剣八”は——先代を討ち取って初めて受け継がれる血塗られた名だと、卯ノ花隊長は常に言うとった」
「ええ」
「もし俺がその名を預かるとすりゃあ、それは卯ノ花隊長を越えた時だと……ずっと、そう。ずっと思っとった。だが、そうはならんみたいだなぁ……」
「それで困惑が勝っている、と?」
どこか遠いものを眺めるように視線を宙に投げながら、男は首を横に振る。
「いいや」
言葉が、一拍だけ空いた。
「受けるさ」
長い、長い息をつくようにポツリと吐き出された一言だった。
隣の青年は理由を問う事をしなかった。
それは男の中だけで完結していれば良い思いが結論を付けたものであり、横から口喧しく物を言うような事ではない。
「そう、ですか」
それを聞いた輔忌は俯くように目を伏せ、
「ならばあなたは僕の敵だ」
心胆を寒からしめる、絶対零度の声だった。
「な……?」
「妥協も、放棄も。僕には許されていないから」
底冷えするような冷たい霊圧を一身に浴び当惑する吼翔に向けて。剣八の血を引く
十一番隊の十一月をサボって申し訳ありませんでした(土下座)
いやあ、麒麟寺の出番がこうも多くなるとは思わんかったです。最初と最後の三人称以外、今回はオール麒麟寺視点です。だってこの人今作屈指の常識人なんだもん……役割的にも出しやすいんだもん……
今回は展開を大きく動かすための繋ぎ回といってもよく、次回から色々……色々あります。ガンバレ輔忌くん!ガンバレくーとび副隊長!