飽食のけもの   作:乃響じゅん。

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#1 異臭問題、屋敷のお嬢とまじない師-2-

 青年は化物と対峙していた。既に、ボディーガードだったものの姿はなく、巨躯の前に靴が落ちているだけだった。男を引き止めようと思ったが、恐怖のあまり声が出ない。彼は振り返って、にっと笑う。

「安心して下さい。私たちが来たからには、もう大丈夫です」

 私たち、という言葉にひっかかりを覚えると同時に、一匹の狐が現れ、黒服の男のそばに座った。それは普通の狐とは随分違っていた。毛並みは茶色と言うより明るい金色で、目は赤い。そして数え切れない尻尾が、扇のように広がっている。

 男は巨大な化物に向かって言い放つ。その声は、人間を遥かに凌駕する化物への言葉とは思えないほど力強いものだった。

「随分と沢山の人間を食ってきたようじゃないか、ウインディ」

「何故私の名を知っている」

 地の底から響くような低い声が響いた。これは、あのウインディという人食いが喋ったのか。人食いの毛が逆立つ。どうやら、この男がただ者ではないことを悟ったようだ。

「こいつが教えてくれたのさ」

 黒服の青年が金色の狐の方を指差した。金色の狐は口元を歪ませた。得意げな様子で、笑っているように見えた。人食いも牙を見せたが、その表情は明らかに敵意を含んでいた。

 間を置かず、人食いが行動に出る。ウオオ! という唸り声を上げると、ウインディの口から赤く光る玉が吐き出された。真っすぐに黒服の男目がけて飛んでいく。肌に感じる熱から、炎の塊なのだと直感した。危ないっ。ロコは身を固くする。だが、男は動じる様子がまるでない。

「キュウ」

「はいよっ」

 金色の狐が、飛んでくる炎に向かって飛び込んだ。燃えてしまうかと思ったが、狐は全く苦しむ素振りを見せず、逆に炎の塊が狐の中にみるみる吸いこまれていく。炎が完全に消え去ると、狐は全く無傷で、むしろ毛並みが輝いているように見えた。

「人間の熱も美味いけど、あんたの炎もなかなか美味いねぇ」

 男のものでも、ウインディのものでもない男の声。これはあの狐が喋ったのか。

「お前の炎は効かないぜ。キュウは火を食えば食うほど強くなる」

 黒服の男が言う。人食いの獣は少し後ずさりをし、グルル、と低いうなり声を上げる。どう出るか、考えを練っているようだ。青年はウインディの次の行動を待つ。出来る事なら、逃げて欲しいとロコは願った。獣との物理的な距離が、そのまま身の危険を示すものだからだ。だが、ウインディの選択はロコの願い通りにはならなかった。ウインディの巨体が、青年の方に飛びかかる。火が効かなければ直接手を下すしかない、と踏んだのだろう。ロコは頭をぎゅっと抱えた。

「キュウ、とどめだ」

「はいよっ」

 狐が、口から炎を吐き出す。その火は、先ほどウインディが放ったものよりもずっと、ずっと強い炎だった。苦しむ声を上げる間もないほど一瞬のうちに、ウインディは骨まで黒い炭と化した。ぼろぼろと、その場に黒こげの物体が崩れ落ちていく。

「……ふう。よくやったぞ、キュウ」

「お前は何もしてないけどな」

 狐の言葉に対して答えに窮したのか、青年はため息をついた。おもむろにロコの方を振り返り、その目がロコの瞳を捉える。

「大丈夫ですか」

「え、ええ」

「それは良かった。最近人食いが暴れ回っていると聞いて、張っていた甲斐がありました」

「あの、あなたは」

 さっきから、途切れ途切れにしか言葉が出てこない。今無事であるということが、夢のようだった。黒服の男は右手を胸に当て、軽くお辞儀をする。

「私はディドル・タルト。この周辺の街で、まじない屋を営んでいる者です。皆からはドドと呼ばれているので、差し支えなければお嬢様もそうお呼び下さい。この狐はキュウコン。先ほどの奴と同じ人食いですが、私のしもべとしてしっかりしつけてありますので、害はありません」

「よろしく」

 キュウは言って、目を細めてけたけたと笑った。本当に無害なのだろうか。つい先ほど、主人に向かって口答えをしていたような気がするのだが。はあ、とロコは気の抜けた返事をした。

「あの、人食いと言うのは一体なんなのでしょう。あんな生き物を、生まれて初めて見ました」

 ドドは少し眉をひそめた。どこから説明すべきか、検討しているようだった。

「人食いというのは言葉通り、人間を食らう者達のことです。ただ、滅多に人前に現れなかったり、巧妙に姿を隠しているため、その存在を知っているのはまじない師か実際に食われかけた人間くらいです。多くの人は、おとぎ話などに出てくるだけで、実際にいるとは思っていないようですね」

 心当たりがある。今日の昼、レベッカからうわさを聞いているとき、自分がまずどう思ったか。まさしく、おとぎ話の中の存在だと跳ね付けようとしていたではないか。

「彼らは人間に存在を悟られないようにするのが非常に上手い。少なくとも、姿をそれと見せることは滅多にないんです。だけれども、最近はどうも違うようだ」

「違う、って?」

 ロコは彼の話に聞き入っていた。

「ここ数カ月、奴らの動きが妙に荒っぽいのです。他にも一件、あからさまに人食いのそれと分かる痕跡を残した行方不明事件がありました。人食いは妖しい世界に属する生き物です。まじない師は、それに対抗する知識と技を持っているため、人食い退治も請け負うことがあるのですが……どうもキナ臭い」

 そうだ、と言って、彼は黒服の内ポケットから一枚の紙を取りだした。

「お近づきのしるしに、便箋を差し上げましょう。この紙には特別なまじないをかけてありまして、折って投げると真っすぐ私の元へ飛んでくるようになっています。もしお嬢様の身に何かあれば、こちらに要件を書いて送ってください。すぐに駆けつけますから」

 ロコは、渡された便箋をまじまじと見た。正方形をしており、便箋と言うにはぴんと来ない。だが罫線はちゃんと書かれてある。裏面には、投げる際の折り方が図解してあった。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 ドドはにっこりと頷いた。

 それから、彼は御者と二人で馬車を起こしてくれた。そして、ボディーガードの靴を持って来てくれた。御者はしょげた顔をした。持って帰り、せめて靴だけでも家族の元へ帰してやろう、という話になった。

「今日あったことは、誰にも話さない方が良いでしょう。下手に広めると、混乱を招くかもしれませんからね。それでは、私はここで」

 ドドに見送られて、馬車は再び走りだした。別れ際にもう一度お礼を言い、見えなくなるまで手を振った。クラウディア夫人は相変わらず気を失ったままで、目を覚ましたのはそれから暫く後のことだった。

 

 さっきの騒動は何だったのだろうと考える。

 人食いという、想像もつかないような化物に襲われたと思ったら、それを助けてくれる見ず知らずの男が現れた。何だか夢のようで、劇の舞台に立っているような出来事だった。だが、現実としてはそこにドラマチックさもなく、ただただ混乱のうちに終わったという印象を抱く。ボディーガード一人の命が失われたことも悲しくて、それ以上は思考出来そうになかった。唯一同じ経験をしている御者に相談すれば、幾分か気が晴れるだろうか。

 そう考えた矢先、クラウディア夫人が目覚めてしまったので、ロコは口をつぐんだ。人食いのことは他の誰にも話さない方がいい、とドドの忠告を思い出したからだ。

「あら、やだわ私ったら。眠っていたのかしら」

「ぐっすり眠っておられましたよ。馬車の揺れが気持ち良いですからね」

 ロコは努めて笑顔を崩さないようにした。夫人は腑に落ちない様子だったが、深く聞きはしなかった。

 だが、それとは全く別のところに、ロコを襲うものは現れた。

「ところで……何か臭いませんか、お母様」

 どこからか、いやな臭いがうっすらと漂ってきた。不快感を覚えたロコは無意識のうちに、眉間にしわを寄せていた。夫人は少し大げさに嗅いでみたが、良く分からない、という顔をしていた。

 最初は、肥溜めか何かにでも近づいたのだろうと思った。だがそれなら今まで同じ道を通ったときにも感じていたはずである。それではないのだろうと結論付けた。その臭いは、馬車が街に近づくにつれ、強烈なものとなってゆく。それは徐々に、かつ確実にロコを苦しめた。臭いの大本が近くにあるのか、遠くにあるのか分からないのが、ロコの神経を苛立たせた。臭いを感じまいと、呼吸の仕方を変えてみる。そのうち、吸える息が減っていくような錯覚を覚えた。何かが胸の中でぐるぐると回っている感じがした。目の奥に、重いものがのしかかっているような感覚も。意識から振り払おうとしても、最早不可能だった。

「ロコ? ねえ、大丈夫?」

 酸味、甘味、苦味、渋味、辛味、全ての味が負に転じたような臭い。この世のあらゆる食材が腐り、ごちゃまぜにしたスープを飲まされている。そんな想像が頭の中を駆け巡った。吐き気を催して、必死にこらえた。

 ロコの身体が倒れそうになる。すんでのところで、夫人はそれを支えた。その動きは平常時と変わらぬ様子だった。どうやら、母は本当にこの臭いを感じていないらしい。自分だけが、この異臭をはっきりと感じている。

「はぁ、はぁ、げほっ」

 屋敷に到着し、馬車を降りたロコは、えづき、胃の中のものをひっくり返した。水で口をゆすぐと、むせて咳が出る。涙も出た。

 下女が大丈夫かと心配する言葉をかける。彼女もどうやら平気のようだ。

「部屋まで、連れていって」

 肩を借りて、何とか自分の部屋を目指す。階段を上るために上げる足が、鉛のように重い。この時ほど、自室が二階にあることを憎らしく思ったことはなかった。

 部屋に入って、お香を焚くよう下女に頼んだ。ロコはふらふらになりながら机にしがみつく。ベッドで横になりたい気持ちを抑えて、なんとか椅子に座る。下女がお香を焚き、白い煙を上げたのを確認して出て行く。お大事に、と心配する声が、ロコの耳に届いた。

 胸ポケットから、一枚の便箋を取り出す。正方形の便箋。ドドと言うまじない師に贈られた不思議な紙。正体は判然としないが、この尋常じゃない臭いに頼れる人間は彼しかいない。震える手で、紙にインクを乗せていく。要件を書き、インクを乾かし、裏に書かれている通りにロコは紙を折り始めた。そうして完成した姿は、どこか滑空する鳥の嘴に似ていた。

――もう一度、助けて。

 ロコは窓を開き、願いを込めて便箋を飛ばした。不思議なことに、それは投げた力以上に力強く滑空し、遠くに消えた。

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