英雄とは何か。
古来、様々な戦場において武勲を挙げた存在を人々はその呼び名で称え、憧れ、時にはその本質から目を背かせる存在だと忌み嫌ってきた。
その問いに対する答えは明確には存在していない。ならば、英雄の存在とその条件を問い続けることは無意味なのか? 無価値なのか?
否、断じて否だ。人が人であり続ける限り存在する多様性が答えを一つに収斂させようとするのを阻害したとしても、人はそこに、戦いがあったことも含めて向き合い続けなければならない。
しかしそんな人類における永遠の課題は横に置いておくとしても、この仮想の海に浮かんだテクスチャの世界、最早現実にさえその影響力は滲み出してきた第四世界──GBNにおいて、英雄というのは概ね二千万人という膨大なアクティブユーザーの中で、その実力を番付として張り出したランキングの上位に位置する存在を意味することに違いはない。
例えばあの不動のチャンプ、決して相手に勝ち筋を与えず、負け筋を全て潰して勝利を手にするという、あらゆるダイバーが理想としながらも決して実現することのできないそれを八割から九割の割合で実践して、サービス開始以来その頂点を維持し続けているクジョウ・キョウヤは、ダイバーたちが満場一致で認める英雄だろう。
だが、英雄であることは、決してアグニカであることとイコールではない。
ディメンション・シュバルツバルト──四季のない電子世界に現実の暦をプログラムとして組み込むことである程度その恵みを再現するディメンションも数多い中で、永遠の夜と、その葉を豊かに湛えて鬱蒼と茂ってこそいるものの、色は夜のそれと同じくする木々が形成する樹海に閉ざされた、中二病御用達区域の二つ名で呼ばれるディメンションの一つだ。
そんな場所にひっそりと自身のフォースネストを構えた女性ダイバー、「アリア」は、自身の金髪ツインテールを指先で弄び、コンソールから呼び出したG-Tubeの画面に表示される動画を眺めながら、エナジードリンクが注がれたティーカップを優雅にその口元へと運んで物憂げに目を伏せる。
ダイバーとして、チャンピオンへのリスペクトをする心はある。
当たり前だろう。二千万人の頂点に君臨し続けるというのが、一体どれほどの実力を必要とするのかなど、このゲームを長くやっていれば嫌でも思い知らされる。
その上、必要なのはファイターとしての戦闘スキルだけでなく、ビルダーとしても狂ったレベルで自らのガンプラを、1/144というスケールに縮小こそするものの「本物」として作り込まなければいけないというハードルの高さは、クソデカ羅生門もかくやという勢いで天へと聳え立つものなのだ。
はっきり言ってしまえば、ビルダーとファイター、双方の実力を兼ね備えた上でランキングの二桁以上に載っている面々は少なからず狂っている。
だが、狂気の沙汰こそ愉悦と紙一重。それは、アリアも認めるところだし、なんなら彼女もカテゴライズとしては狂人の二文字に分類されるような人種であることに違いはない。
それはさておくとしても、チャンピオンは英雄でこそあっても、「アグニカではない」というのが、アリアから彼へ向ける所感であった。
戯れに右手の指先をG-Tubeの新着おすすめ欄にスワイプさせながら、己の求める「アグニカ」を探すために、アリアは高速でスクロールするサムネイルの文字を判読する。
では、アグニカとは何か?
その答えは決まっている。
「セバスチャン」
「はい、お嬢様。それと僕はセバスチャンという名前ではありません」
セバスチャンと呼んだ少年、ダイバーネーム「ミツルギ」へエナジードリンクのおかわりを要求しつつ、目星をつけた動画を再生しながらアリアは懸想に耽る。
アグニカとは、アグニカ・カイエルの魂とは、逆境においてこそ輝く不屈の闘志と信念、そして純粋な力のみが見せつける真実の世界へと誘う輝きであることに他ならない。
原型機が何なのかわからないほどに改造を施された、辛うじてパーツの輪郭からディビニダドやMGEXユニコーンガンダムを使っているのだとわかる「怪物」に、画面の中ではかつて自身が喧嘩を売ったらアグニカ的にはまずあじ極まりない塩試合で完封された仇敵ーーハードディメンション・ヴァルガに関する雑談スレの中でFOEさんのあだ名で呼ばれている個人ランク39位のダイバーが戦いを挑んでいる光景が、動画の中には映し出されている。
「あら……わたくし相手には随分と塩な試合をしてくれやがりましたのにこのFOE、中々アグニカみを感じる戦いを魅せてくれますわね」
「なんですかアグニカみのある戦いって、日本語喋ってくださいお嬢様」
「やかましいですわセバスチャン!!! アグニカはアグニカ、わたくしの敬愛するマクギリス・ファリド准将が示したように、逆境にその身を置いてこそ尚希望を失わず、己の荒れ狂う力で世界に対して真実を示す約千六百万八十色の輝きであることに他なりませんことよゲッホゲホッゲホッ!!!!!」
「お嬢様ああああっ!!!」
思わず興奮して長広舌をぶちまけたことでむせ返ってしまったが、要するにアグニカみのある戦い、アリアが求めてやまないその戦いは、近接格闘機相手なら遠距離兵装を駆使して近付かせないことで完封する、というセオリーを完遂するような教科書通り、百点満点の戦いではなく、その例を取るのであれば、敢えて相手の得意な間合いで戦いを挑んだ上で「格闘に特化した機体を格闘で破壊する」という、セオリーを重視して戦う人間が正気を疑うような戦いをこそ指していうのだ。
かのメイジン・カワグチがその信条としているように、ベストの状態の相手と、そのベストな状態を発揮できる戦いで圧倒できてこそ真の勝利。
ただ単に遠距離から無線兵器を使って格闘機を完封したところでそれは確かに褒められるべき戦いかもしれないが、「アグニカ的」な戦いでは断じてない。
では、ただ一見無謀にも見えるセオリーへの逆張りこそがアグニカ・カイエルの魂なのかと訊かれれば、その答えはノーだ。
仮にそう答えるやつがいたならアリアはすぐに飛んでいって白手袋をその眼前でためらいなく叩きつけることだろう。
画面の中では「怪物」が誇る圧倒的な手数に押されながらも、FOEさんの操るクアンタの改造機が、自身の背後から接近するフェザー・ファンネルを、槍として使っていた武装を二本の剣に分割することで振り向くことなく叩き落とし、更に「置かれた」攻撃であるメガ粒子砲の照射を読んで、敢えて正面に展開された第二のフェザー・ファンネルの中へと飛び込んでいく姿がある。
そう。これはアグニカ・カイエルの魂に溢れた行為だ。
アリアは思わず胸の奥が温かく、柔らかな綿で甘く締め付けられるような恍惚を覚える。
「死中に活を見出だし、白亜の龍を叩き落とさんとする二刀流の白きクアンタ……ああ……憎い、憎いですわ、アラームがiPh○neの着信音になる呪いをかけたいくらいに恨めしいド畜生だというのに、どうしてわたくしの胸を恋に焦がらせるような、アグニカみのある行いをされるのでして……?」
「恋するのか呪いかけるのかどっちなんですかお嬢様」
「お黙りなさいセバスチャン、恋とは呪い、愛もまた憎しみ、裏を返せば呪いと憎しみは恋と愛、わたくしの焦がれてやまないアグニカへ、そして愛してやまないマクギリス・ファリド准将がわかっていて尚己の信念と憎しみに身を投じた心へと近づくものなのでゲッホゲホッッ!!!!!」
「すみませんでしたお嬢様、僕が悪かったので頼むからそれ以上喋らないでください」
まったく、何度も語っているのにセバスチャンはわかっていない。
アグニカ・カイエルの魂……そしてその魂を手にしたマクギリス・ファリド准将がいかに気高く、孤高で、アグニカの遺志を継ぐにふさわしい、魂を手にした男であると、アリアは何度も、それこそ寝る間も惜しんで力説してきたというのに、暖簾に腕押し、糠に釘なのだから。
むせ返った気管の調子を整えるために仮想のエナジードリンクを舌に乗せて転がしつつ、アリアはいよいよクライマックスに近付いた戦いの様子を刮目して見んと、ミツルギに指摘されたようにきつく唇を引き結んで画面を注視する。
逆境。個人ランク39位という間違いなくこの世界の頂点に近い存在だというのに、あの白亜の巨龍、ジャバウォックの怪物の前ではかのFOEさんが振るう剣ですら、ヴォーパル・ブレードにはなり得ない。
アリアにまだその世界は程遠いのかもしれない。
だがきっと、FOEさんもまた、徒にあの猿山で災厄をばら撒き続けているのではなく、その逆境を打ち破って自らをアグニカ・カイエルの魂、その座へと導くために聳え立つために、己という剣を鍛え上げるためにこそ四方八方からの弾幕砲火が出迎える空を飛翔しているのだろう。
あれほどの頂に達しても、まだ壁がある。
その事実の、どれほど素晴らしいことか?
そして、その壁を撃ち破らんと、野に解き放たれた牙を持つ獣の如く闘争本能を剥き出しにして叫ぶダイバーの姿が、どれほど美しいことか?
更に、更に、更に。
「このわたくしには、打ち破るべき壁がまだ存在している……それは即ちそれを乗り越えた先にある輝かしい未来を保証してくれているも同然ゲッホゲホッッッ!!!」
「お嬢様ああああっ!!!」
だから喋るなって言ったじゃないですかとばかりに、むせ返りながら盛大にエナジードリンクを噴き出したアリアの背中を、ミツルギが優しくさする。
動画に記録された戦いの決着といえばだが、残念なことにクアンタが携えていた剣は巨龍の翼をもぎ取って、その腕を切り裂きながらも、とうとうその喉元に、拍動する爆心に突き立てられることはなかった。
新たにバインダーへと増設されたブレイドファンネルと、バインダーを接続している自律支援機兼大型コンデンサーが形成するパワーゲートを通った全力の突撃を、あの巨体で見切っていたのは巨龍を操る主が、ランキングの中でFOEさんよりも上位に位置する実力と経験が故だろう。
生きている限り負けではない。要するに、死ななきゃ安い。
巨龍は確かにヴォーパル・ブレードならぬ「クアンタムストライク」なる必殺技で致命の傷をその身に受けた。
だが、HPが例え一メモリでも残っていれば、逆転の可能性などどこからでも導き出せるのがGBNだ。
多くの剣と無数のソードビットを自在に操るのも全ては相手に致命の一撃を叩き込むためとばかりに、逆境に置かれながらも決して心を乱すことなく千変万化の戦いを見せたFOEさんのアグニカ・カイエルの魂に溢れた健闘は、大いに讃えられるべきだろう。
だがーーそれでも尚、敗れたのは「最上位の壁」たる所以。
全てのエネルギーを使い果たした勇者へと、巨龍は無情にその大爪を振り下ろす。
しかし、勇者は決して膝をつかなかった。堂々と仁王立ちの姿勢を維持したまま、恋人と抱擁するが如く仮想の死を受け入れてーー電子の海に、その機体を散らすのだった。
ああ、なんと。
なんと無情なことか。しかしそのなんと、アグニカ・カイエルの魂に溢れていることか!
瞑目し、呪いたいほど憎く愛しい仇敵……一方的に付けた因縁だがーーの無念を想って、アリアは涙をこぼしながら動画を閉じる。
「ああ、セバスチャン……世界はかくも遠く、そして無情に溢れていましてよ、そのなんと残酷なこと」
「ええ、そうですね……わかりましたから興奮しないでくださいよお嬢様」
「何を言っていらして、セバスチャン? 素晴らしきアグニカ・カイエルの魂を見届けた今のわたくしの心は、湖面のように凪いでーーん?」
アリアが動画を閉じたことで、G-Tubeの画面がデフォルトのトップ画面に切り替わった、その瞬間だった。
『まだだ、ウッキィィィィス!』
ユニコーンガンダムの改造機と思しき機体がそのコックピットに大剣を突き立てられながらも、爆散するまでの僅かな間に、なんだかオーバーヒートになるまで格闘を延々と振っていそうな名前を呼ぶ。
それに応えて、彼方から飛来する閃光が、改造機……ユニコーンガンダム・フルバーニアンの胸に剣を突き立てていた小柄な機体と、それぞれに力を使い果たし、その周囲を漂う仲間たちを飲み込まんと押し寄せてくる。
新着リプレイをランダムで再生する機能が映し出した戦闘記録だった。
ただそれを一瞥しただけのアリアとしてはそこに何の感慨が湧くわけでもない。試合は恐らくあの閃光にまとめて飲み込まれる形で、小さなガンダムが撃破されて決するのだろう。
遠距離砲撃による一方的な蹂躙など、全くアグニカ的な行いではない──降り注ぐ鉄杭、ダインスレイヴの雨を思い返しながら、アリアはG-Tubeを閉じようとした。
ーーだが。
『……アイカさんっ!』
『……っ、エリィちゃん!』
ユニコーンガンダム・フルバーニアンのコックピットに大剣を突き立てていた機体はその先端を破却すると、爆発寸前のユニコーンを両足で真下に押し除けて、押し寄せる波濤に対して先端を失ったその剣を真っ直ぐに構えた。
──今、なんと言った?
ウィンドウを閉じようとしたアリアの手が止まる。
そして見間違いでなければ、突き刺さった先端をそのままパージできる武装は限られているし、押し寄せる光の波に向けられた切っ先の形状は、間違いなくいくつか浮かんだ候補の中で一つしか該当しない。
カレトヴルッフ。そして、微かに聞こえた「アイカ」という名前。
それはきっと、何かの偶然だったのだろう。
接点を結ぶことのない二つの言葉だが、アリアの記憶の引き出しに眠るその言葉たちは奇妙な繋がりのようなものを確かに保持している。
そして。
小さなガンダムは、果たしてその頭部と両足を失いながらも、照射ビームからコックピットと推進器を無事に守り通していた。
無謀な賭けだ。大多数のプレイヤーであれば、対ビームコーティングが施されているとはいえ剣でビームを受け止める、という無謀な発想にはまず至らないだろう。
細かな改良が加えられてこそいるものの、カレトヴルッフの面影を色濃く残したその武装に装備されたビルドナイフの切っ先は、光の奔流を受け止めきったことで、溶け落ちてしまっている。
普通のダイバーならば諦めている。
両手と推進器だけが残った機体で何ができるのか。せいぜい数秒、己の命を生きながらえさせるぐらいだろう。
だが、アイカと呼ばれた少女は、この絶望的な状況下においても諦めてなどいなかった。
『エリィちゃんのために……死ねええええっ!』
ウッキースなるダイバーがどんな装備をしているかなど、恐らくアイカは把握していなかっただろう。
だが、逆境の中で己の中に生まれた純粋なる力こそが生み出す衝動は、絶望の中にこそ確かに勝利を見出していた。
──これだ。
ぞくり、と、アリアの背筋が粟立って、押し寄せる興奮に身体が震える。
チャンピオンは英雄でこそあるが、アグニカではない。
ならば、その対極──完璧なる頂点という逆境に対して決して諦めることなく抗って、己の牙をその喉元に突きつけて食い破ったのは誰か。
答えは、「ビルドダイバーズのリク」だ。
あの日、病室の中で茫洋と、自身のスマートフォンで有料の公式チャンネルから配信される「鉄血のオルフェンズ」二期を見返しながら、マクギリスが決してなし得ることのなかった願いに涙をこぼし、自分も決して運命に争うことはできずに滅んでいく存在なのだと、アグニカ・カイエルの魂などこの世界に存在しないのだと絶望していた時に、病院の壁にかかったディスプレイに映し出されたのは、第二次有志連合戦の映像だった。
完璧な攻撃で決して得意距離であるクロスレンジにリクが操る【ダブルオースカイ】を、オーガが操る【GP-羅刹】を寄せ付けず、クロスレンジに飛び込んだとしてもスカイブレイザーによる攻撃を読み切ってFファンネルで潰す、という選択肢を冷静に突きつけたチャンピオンに対して、それでもリクは諦めなかった。
そしてとうとうオーガと共同で放った必殺技は、不敗のチャンプがカウンターとして放った必殺の剣の矛先を逸らして、喉笛を噛みちぎったのだ。
──アグニカ・カイエルの魂はここにあった。
その時、アリアは──桜宮凛音は確信した。確かにこの世界で、自分は宙を舞うひとひらの塵にすぎないのかもしれない。
父親は病弱な自分をとうに見捨てて、事業の後継者には自身の腹心たる部下を据えることを決めていた。
そんな父が株を持っているゲームなど断じてやりたくはないと、大好きな「鉄血のオルフェンズ」の世界にこもりながら、凛音はそこに描かれた絶望に祈りの涙を流す日々ばかりを送っていた。
だが、それはもう終わりだ。
マクギリス・ファリドが叶えられなかった夢は、万人がガンプラを組み立てればそのスタートラインに立つことができる電子の海で、この桜宮凛音が──いや、その弱い名前などもういらない。
アルミリア。恐れ多いかもしれないが、マクギリスが最期まで敬愛していた、そしてその死後も戦犯となった夫を決して見捨てることはなく、罪を背負うとわかっていてもその伴侶であり続ける道を選んだ幼き妻から名前を頂こう。
そして、桜宮凛音は、ダイバー「アリア」として、仮想にして理想の世界へと飛翔するためのG線上に立ったのだ。
奇しくも、「アイカ」が見せつけた敢闘は、逆境の中でもぎ取った勝利はアリアに己の思い出と、その原点をオーバーラップさせていた。
「……お嬢様?」
「……ミツルギ、確かあのフォースは……リビルドガールズと、そう言っておりましたわね」
「はい、確かに聞きました」
リビルドガールズ。アリアは口には出さず、脳裏で何度もその単語を、刻み付けるように繰り返す。
カレトヴルッフを改造した剣を振るうその「アイカ」というダイバーが、以前戯れにガンダムベースを訪れた時、叶う見込みもない曖昧な再会を約束した人物が、電子の海を泳ぐ姿なのかどうかはわからない。
だが、そんなことは関係ない。彼女があの、カレトヴルッフを託した少女であるか否かをこの世界で問うことは無粋。
彼女は、アグニカだ。
それだけで、アリアにとっては十分だった。
「ふふ……生きていて良かったと思うことが、こうも……こうも、己の生に絶望しきったその後に待ち受けていようとは……」
しかもそのどちらも、GBNという仮想の世界がもたらしてくれたものだ。
ああ。なればこそ仮想郷。なればこそ理想の世界。この海で、自身が感じるその全てはテクスチャが見せる幻想なのかもしれないが、幻想の中に真実がないと世界の誰が決めたというのか。
「ミツルギ、彼女たちの動向を見守りなさい」
「はっ、お嬢様!」
「楽しみですわね、リビルドガールズ……そして、アイカ」
まだ、彼女たちの力は完全に研ぎ澄まされきってはいない。
だが、近いうちに四つの矢は束ねられ、自身を貫くに至るだろうと、アリアはこの、己にとっての真実の世界で確信し、そこにある未来を懸想する。
「魂が叫びますわ……ふふふ……あはは……あーっはっはゲホッガホッゴホッゴホッッッッ!!!!!」
「お嬢様あああああっ!!!!!」
むせ返るアリアの背中を慌てて摩るミツルギはどこかで呆れてこそいたものの、いつになく楽しそうな主人の瞳に、そっと小さな笑みを浮かべるのだった。
「へっくし」
「……だ、大丈夫ですか、愛香、さん……?」
爽やかな春風が吹き抜ける校庭近くの花壇に腰掛けて、購買の争奪戦で勝ち取ったジャムパンを齧っていた愛香が突然くしゃみをしたのに驚きながらも、おずおずと絵理はその声の聞こえた方へゆっくりと右手を伸ばしかけて、止めてしまう。
「あーうん大丈夫、なんか変な人に噂でもされてるのかな」
「……それって、わたしが……」
「違うってば」
眦に涙を浮かべ、今にも泣き出しそうな絵理が引っ込めかけていた手を取ると、愛香はそれを自身の右頬にそっと触れさせる。
「ね、絵理。あたしは気にしないからさ。確かめたくなったらいくらでも触っていいよ」
絵理は極端な弱視で、包帯と、そして誰にも見せていないがその下にある眼帯に覆われた右眼は完全に失明し、左眼も板書がギリギリ見えるか見えないか、見えていたとしてもほとんど文字の輪郭だけという状態であるため、聴覚でそれを補っているものの、触覚に頼っている部分も非常に大きい。
「……ご、ごめんなさい……わたし、わた、し……」
「ごめんじゃなくていいよ。絵理は悪くないんだからさ」
まるで罪深い行いをしているように、その懺悔をするように左眼から涙をこぼしながら、絵理は愛香の許しを得て触れられたその輪郭を、ゆっくりと、ゆっくりと指先でなぞっていく。
優しい、優しい顔だった。
今も、こんなに近くにいるのに目が映し出してくれるのはぼやけた輪郭ばかりで、それがどうにも寂しくて仕方なかったけれど。
絵理は、GBNという仮想の海で見た「アイカ」のそれではなく、初めて触れる「愛香」の温かさに、痛みに溢れる無色透明な血液ではなく、ずっと忘れていた、涙を溢し続ける。
きっとこれも、今も前は前へと押し流されていく時間の中で、何かがどこかで進んだのか、それとも、自分から前に進んだのか。
まだその答えは愛香には見えない。だが、「ごめんなさい」ではなく、「ありがとう」を繰り返しながらぺたぺたと、自身の顔に触れている絵理の姿に、どこか胸の奥に熱が込み上げてくるのを感じる。
そうして愛香はまた午後の授業をサボって、絵理が満足するまで、そして今浮き出てきた心の膿を洗い流し終えるまで、されるがままに触れられているのだった。
アグニカ魂は惹かれ合う