予習復習。小学校から高校まで、概ねどんな教師も口を酸っぱくして「やっておけ」と生徒たちに伝える言葉だ。
だがそれは概ね彼らの魂に届かない。よしんばその言いつけを守ってこなすよくできた児童、生徒は確かに存在するのだろうが、愛香の周辺ではごく標準的な、「そんなことよりサッカーしようぜ!」と放課後の遊びを大事にする子供たちで溢れていた。
愛香の場合、本来そこに割かれるべき時間は小学校の頃は走り込みに、中学校の頃は吹奏楽の練習へと注ぎ込まれた。
──それだけの時間を費やした努力が、ついに何かを得ることはなかったのだが。
それは置いておくとしても、では何故予習と復習が必要になるのか、と問われればその模範解答は「将来、どのような形であれ学んだ内容を使うにしろ使わないにしろ、知識を得ようという姿勢とそれを実行する習慣は無駄になどならない」ということになるだろう。
だがそれは多くの場合、放課後にボールを蹴ったり打ったりしていた子供たちが大人になってから気付いて自らの子供たちへと伝えようとする、いわば「大人」の回答だ。
それが中々伝わらないのも世の無情というべきなのだろうが。
では、訪れた未来に苦しんで、後の未来に託すその言葉が大人の答えなら、自分たち子供の答えはなんなのか。
それはシンプルだ。
近い未来にテストが待っているからだ。
昨今の世の中で、試験の成績だけを見て子供を評価する向きは見直されつつあるもののそれはあくまで大人の話で、子供にとって赤点を回避するというのはテストという近い未来の先にあるちょっと遠くの未来、夏休みや冬休みを誰の横槍も入れられずに謳歌するために、或いは親の小言を回避するために必要不可欠な存在であることに変わりはない。
厳しいと評判の歴史教師が、「ここ来週の小テストに出るからな」とチョークで赤線を引いた板書をぼんやりと写し取りながらも、愛香の頭の中にあるのは来週の小テストではなく、二日後に待ち構えている無理ゲーの方だった。
DランクのダイバーがSランクのダイバーと戦って、勝てる可能性はありますか?
仮にそんな問いかけをGBNの掲示板に書き込んだとしよう。
返ってくる答えは含まれた感情に違いはあれど概ね同じものだ。
──可能である。そのDランクがGPデュエルで何千戦やった上で勝率六割以上を維持しているのなら。
要するに無理か、極々少数の例外に当たる存在でなければ見込みがない、つまりはそういうことだ。
終業の鐘を聞いて日直が終礼を済ませるなり、歴史教師がドアを潜るより先にロッカー側のドアから、我先にと生徒たちが購買の菓子パン争奪戦に赴くべく一挙に駆け出していく。
廊下は走るなと言ってるだろうが、と声をかける歴史教師の言葉も馬耳東風、油断していれば味のしないコッペパンを手にすることになってしまう生徒たちの耳にその言葉は届かない。
世の中にはコッペパンを求めるあまり発砲沙汰まで起こした高校生がいるらしいが、そんなものは都市伝説の類だろう──珍しく昨日の夜ご飯の余り物を詰めた弁当箱を持って、椅子を絵理の机に移動させながら、愛香は嘆息する。
「お弁当作るのもめんどくさいけどあれに巻き込まれるのも大概嫌だよね」
「……た、確かに……」
ちらりと、開けっぱなしになっているドアから購買目がけて全力疾走する生徒たちで溢れる廊下を見れば、その勢いに押しやられた窓際で微かに眉を潜めているクガ・ヒロトと、その右腕に両腕を絡めて苦笑しているムカイ・ヒナタの姿があった。
「あのクガって人もGBNやってるんだっけ……」
「……そ、そうなんですか……?」
「ああうん、あたしガンダムベースでバイトしてるから最近よく見るんだよね」
もっとも、彼がどんなガンプラを使っていて、どの辺りのランクで、などという細かい事情は把握していないしするつもりもないから、恐らく懇意にしているのであろうマツムラ店長にさえ訊くことはなかったのだが。
今日はメロンパンではなくメロンクリームパンをもそもそと齧っている絵理と、人の波に挫けているのかどうかは知らないが、とりあえずそれが去るのを待つことに決めたのか、ヒナタと何事か短い会話をしているヒロトを交互に見遣って、愛香は少し考え込む。
餅は餅屋、というのが良くも悪くも愛香の信条だ。
正直なところ、愛香は自分一人で考えてわからないことを延々と考え続けて答えが出せるほど、頭の回転が速いと思っていない。
もしもその答えが出せたのであれば、徒競走で自分は三位などという順位に甘んじることもなかったであろうし、吹奏楽では。
頭をよぎる苦い思い出に、少し顔をしかめながらも愛香は迷い続ける。
以前、放課後にヒロトをカラオケに誘っていた男子たちを見たことがあった。
中学校時代から一緒だったと思しきその同級生男子はヒロトを気にかけてかその誘いを持ちかけたのだが、彼の返事は素っ気なく、結果としてそれに応じることはなかった。
ぶっきらぼうだという訳ではない。
ヒナタと話している間は四六時中、どこか宙を見ているような彼の視線が落ち着きを取り戻したような印象を受けるのだが、そこに何かしらを問うのも詮索をするのも野暮というものだし、何よりそんな、他人の心に踏み入る資格を自分は持ち合わせていないと愛香は諦めている。
やがて人の波が落ち着いて、どこかでヒナタと昼食を共にするのだろう。何事もなかったかのように去っていくヒロトの背中を茫洋と見送りながらも、愛香はついに、それを呼び止めることはしなかった。
「……あ、あの……愛香さん……その……」
「ん、いいの……多分、あたしが訊いていい空気じゃないから」
「……?」
絵理は小首を傾げるが、俯いてパンを齧っていたし、何より顔を上げていたとしても距離が遠くてわからなかったはずだ。
しかし、もし間近でヒロトの目を見たのなら、彼女も察することができただろう。
そこにあるものの正体は、詳細はわからない。だが、きっと、拭い難い蹉跌と絶望を抱えていなければ、そしてまだ──ほんの僅かな希望を諦めていないのであれば、あんな哀しくも優しい光をその瞳に宿すことなど出来はしない。
何より中学校からの、直接の知り合いの誘いすら蹴っているのだ。知り合いでもなんでもない、この学校にもきっと掃いて捨てるほどいるGBNのプレイヤーというだけの繋がりで彼の瞳を繋ぎ止めることなど、それこそ今回突きつけられた無理難題のようなものだ。
愛香は全体的に茶色い感じの弁当を摘みながら静かに苦笑する。
人には、触れられたくないことがある。
考えてみればわかることだ。わかることだった。
すっかり冷えて硬くなってしまった焼売と共に、愛香は喉元まで出かかった、過去の古傷が開いた痛みを呑み下す。
「それより本当どうしよっかこれ……」
「……わ、わたしも……これは……」
直前まで条件を伏せておくのはアグニカ・カイエルの魂に反するという相変わらずよくわからない理由と共にフレンドメッセージ経由で送られてきたクリエイトミッションの内容はシンプルだった。
【クリエイトミッション:目覚めし魂の剣(現在承認申請中)】
【推奨ダイバーランク:A】
【報酬:400万BC、バエル・ソード×1】
【ステージ:ギャラルホルン本部「ヴィーンゴールヴ」】
【勝利条件:ヴィーンゴールヴ内バエル神殿の台座に突き立ったバエル・ソードの奪還】
【敗北条件:味方機の全滅】
【予想敵性戦力:MS 2機】
【製作者コメント:さあ、フォース・リビルドガールズ。GBNの平穏はもう楽しんだでしょう。幾星霜……「ビルドダイバーズのリク」を見て以来、わたくしの心を震わせたアグニカ・カイエルの魂を持つ者であるのならばそこに言葉は不要。見事にわたくしと、バエルという逆境を乗り越えて、黄金の剣を、栄光の証を、アグニカ・カイエルの魂を! その手に収めてみせなさい!】
コメントがやたらと長い上に相変わらず愛香にはよく理解できない言葉が羅列されているが、要するにあのアリアとミツルギという二人を突破した上でバエル宮殿と呼ばれる場所に侵入し、そこに安置されているのであろうバエル・ソードを手にすれば「リビルドガールズ」の勝利、それまでに全員が撃破されれば敗北、ということだ。
ミツルギというダイバーが何に乗っているかはわからないが、恐らくあのアリアというダイバーはガンダム・バエルを使用してくるのだろう。
わざわざ製作者コメントにそれを記してくれているのはありがたいのだが、わかったところでどうしようもないこともある。
一応アリアたちと別れたあと、予行演習という形でBランク推奨の人質救出作戦という、Dランクのアイカとエリィにとっては高難度に当たるミッションを受けたのだが、これがまあ難しかった、というか、チィとアキノがいなければ間違いなくクリアはできなかっただろう。
それに加えて、成功したのは相手がCPUである以上、思考ルーチンに隙が明確に設定されているからだ。
人間はミスをしない、などということはあり得ない。
例えば目の前に夢中で画面全体を見ていなかったから、置かれていた照射ビームに自ら突っ込んでしまうなどという凡ミスは割と普通に起こり得ることであり、置く側もそれを意識していやらしい場所やタイミングに攻撃をセットしているのだから仕方あるまい。
たまにわかってても手元が狂って、明らかに迂闊な照射ビームに突っ込むことを古来、滝行と呼んで、それがGBNでもあるあるとして語り継がれているのだが──まあそれは割愛しよう。
ただ、CPUが見せる隙と、人間が見せる隙は、どれだけGBNのAIが進化したとしても、直感的に「違う」とわからせるように設計されている。
神ゲーと称えられるフルダイブMMOにおいてはその高度なAIを完全に「そのエネミーが考えること」として生物的かつ有機的に活用していると聞いたが、それでもGBNがCPUにそれを適用するのは極めて限定的な高難度ミッションだけで、全体の九割近くに特有の「癖」を残しているのは、対人コンテンツこそが本領であるという宣言に他ならない。
一応、愛香たちはGBN内でその残り一割に当たる超絶高難度ミッションの攻略動画も見てみたのだが、はっきり言って参考にならなかった。
上手すぎて、何をやっているのかわからない。いや、何をやっているのかはわかるのだが、どうしてそのタイミングでその適切な判断が下せているのかがわからない。
つまりは、そういうことになる。
原作キャラに比肩する高難度AIの判断、その針の穴を通すようなごく僅かな隙をつく形で華麗にソロ攻略を遂げているいつぞやお世話になったのか一方的にお世話を押し付けたのかわからないFOEさん、彼が操る白亜のクアンタの姿を思い返して愛香は溜息をつく。
「あれ絶対人間じゃないよね、脳みそに機械かなんか入ってるよね」
「……う、うーん……でも、わたしには……できそうもないですし……」
なんであんな先読みをしてビットを置いた上でその先行攻撃さえ当てて、しかも生まれた隙を一秒足らずで見抜いてコックピットに剣を突き立てる一連の動作は、弾幕砲火飛び交う戦場で下せるとは愛香には到底思えないほどクレバーでクールだ。
「……で、でも……」
「お?」
もじもじと、六割近く体積を残したメロンクリームパンで顔を覆いながらも、絵理は蚊の鳴くような声で言葉を続ける。
こういう時、絵理の、そして「エリィ」の直感は信用できる。
何度か死線を共にした上で愛香は、絵理の強さでありその本質は類稀なる観察力にあると確信していた。
ただ絵理がめそめそと泣いているだけの女の子であれば、全塗装、改修まで加えている格上と素組みのガンプラでタイマンを張ったとしても五秒足らずで切り捨てられて終わっていただろう。
リプレイで見返した、その「不可能を可能にした」勇姿を、タイマンを持ち堪えさせてチィへとタスキを繋ぎ切った活躍を思い返しながら、愛香は絵理に続きを促す。
「……そ、その……怒らないで、くれますか……?」
「大丈夫、ほら。あたしの顔触ってみて?」
絵理は齧っていたメロンクリームパンを机に置くと、もじもじと人差し指を合わせて俯いてしまうが、愛香はそれを掬い上げるように絵理の手を取って、すっかりいつも通りに「確認」を促す。
愛香の声を頼りにして緩慢に上げられた、絵理の焦点を結ばない瞳が、時間をかけつつも愛香の視線と交錯し、恐る恐るといった調子で伸ばされた絵理の右手が、愛香の頬にそっと触れる。
「あ……っ……」
「あたしは、絵理の味方だよ」
自分にその資格があるかどうか、愛香にはわからない。
もしも絵理が抱えているその痛みを話してくれた時に、背負い切ることができなければ、自分はいつもと同じように逃げ出してしまうのではないかと怯えた夜もあった。
それでも。
それでも、愛香は、絵理の味方でありたいと思っていた。
四月、入学式を終えても埋まらなかったその席に、愛香は何か思いを馳せることはなかった。
入学式の時に、近くでなんだかびくびくと震えている女の子がいるな、と今にして思えばそれこそが絵理だったというのに、そこを省みることもなく欠伸を噛み殺しながら校長先生の死ぬほど長くてどうでもいい話を聞き流していた。
きっと。ずっと。
絵理は、その時だって「助けて」と、周りに言葉はなくても訴えかけていたのかもしれないのに。
(……多分、損な性分なんだろうな)
わかっている。絵理は救おうとしているのに、じゃああの悲しそうな目をしていたクガ・ヒロトに寄り添おうとは思わないのか、と、誰かに問いかけられたのなら、不本意ながら愛香は首を縦に振らざるを得ない。
中途半端。愛香の歩んできた人生を象徴するような言葉だ。
善にも悪にも馴染みきれず、中途半端にそのどちらにも足を突っ込んでは、その中途半端さ故に火傷をする。
それでも。
わかってしまった、そして、決めてしまったことに、目を背けようとは、思わなかった。
例えその理由が説明できなくても。わからなくても。絵理に向けたその言葉だけは、愛香にとって精一杯の「本当」だったのだ。
絵理の掌がぺたぺたと愛香の頬に触れる。少しくすぐったいその感触にむず痒さを覚えながらも笑って、愛香は言葉なき問いかけへの答えとする。
「……よ、よかった……よかった、です……ありがとう、ございます……」
ぽたぽたと眦を伝って、絵理の左眼から涙がこぼれ落ちていく。
それが、少しでも。少しでも、少なくなってくれるなら。
愛香は祈るように、大丈夫だよ、と、言葉を繰り返す。
「じゃあ、聞かせてもらっていいかな、絵理の思ったこと」
「……は、はい……あの……その、勝てなくても……」
「うん」
「……負けなければ、いいのかな、って……」
「勝てなくても、負けない……?」
「……あ、あの……バエル、って機体を……倒すことが……ミッションじゃ、ないので……その……」
「……そっか!」
やっぱり、絵理の閃きは頼りになる。
自身の頬に触れた絵理の右手に頬をすり寄せて、やっぱりこの子は天才だと愛香は確信する。
もちろん、相手が全力で妨害してくる以上交戦は避けられないのかもしれない。
だが、極端な話逃げるだけ逃げて、誰か一人でも生き残ってバエル・ソードを手に取ればミッション自体はコンプリートされる。
恐らく相手はそれを想定していて、易々とは許してくれないだろう。
それでも、四人であのSランク暴走お嬢様を撃墜しない限り勝利は認めない、と言われるよりは幾分か希望がある。
そして、お誂え向きとばかりにフォース「リビルドガールズ」には、スニークミッションを得意とするチィがいる。
例え相手がチィを全力で警戒してそこにリソースを注ぐのであれば、どうしても人間の性質上「隙」が生まれ得る。
加えてアキノは一歩及ばないとはいえ歴戦のダイバーだ。
そのアキノをフリーにしておく危険を、Sランクまで上がったダイバーが認識していないはずがない。
獅子は兎を狩るのにも全力を尽くす。
だが、二兎を追う者は一兎をも得ずという言葉もまた、同時に存在するのだ。
不確定要素になるのはミツルギのランクと機体だろう。
もしも同じSランクかそれに準ずるランクで、バエルと同じ高機動型であったなら、そこに愛香たちの勝利はあり得ないと断言してもいい。
だが、そうでなかった場合、最低でもCランクぐらいでかつ鈍重な、装甲に防御を頼っているパワー型であったのなら。
絵理が提示した勝利への方程式は、小数点以下の確率ではあるが、具体的には単発無料ガチャでピックアップ外のSSRを一点狙いする程度には存在するはずだ。
そう。チャートを組む時に百パーセントを実現できるのは、「します、させます、させません」を信条とするどこぞのロシア系金髪幼女と噂される──というかそういうミームで皆がわかった上で楽しんでいる、アルファベット三文字さんかそれに近い存在しかいないのだろう。
だからこそ、チャートの祈りは必修科目。
例えそれがどれほど忌み嫌われるとしても避けては通れない運ゲーだとしても、そこさえ突破すればなんとかなるケースがあるから人は日々コントローラを叩きつけながらも、たった一つの正解を引き寄せるべく乱数の神様に祈り続けるのだ。
「なんだ、そう考えたら定期テストと変わらないじゃん」
「……え、えっと……」
「最後に物を言うのはお祈りってことだよ……!」
ヤマが当たっていれば勝ち。そうじゃなければ負け。
聴覚と輪郭による判別によってほとんど失われた視力の代替として、真面目に授業を受けながら常に九割近くをいつもキープし続けている絵理に、愛香の言葉はわからなかった。
だが。
(良かった、愛香さん……きっと、楽しくて笑ってる……)
笑ってくれているのは、確かにありがたいと思っている。
右手へとすり寄せられる愛香の頬の感触に、今度は絵理が少しのくすぐったさを覚えながらも、愛香には気付かれないように、絵理は内心でほっと胸を撫で下ろす。
でも、やっぱり。
自分なんかが、愛香に気を遣わせていいのだろうかと思ってしまうから。
そして、その笑顔は掌に伝わるだけで、輪郭はぼやけてしまっているから。
絵理はそこに、静かに涙を零すのだ。
きっと愛香が持っている勇気を自分が持ち得ないことに。そして愛香の笑顔を、仮想の浜辺から打ち上げられたこの世界ではきっと永遠に見られないことに。
それでも──嬉しさと悲しさ、絶望と希望。背反するそれを濁った碧眼に宿しながら、奇しくも彼女が見ることのなかったクガ・ヒロトと同じ目をしながら──絵理は、すり寄せられる頬の、愛香の勇気の温かさに、小さく一つの決意を、まだ言葉にはできないそれを、静かに固めていくのだった。
交わるようで交わらない