アキノが斃れた。
それは取りもせず、アイカたちに勝利の女神が福音をもたらす可能性が閉ざされたことと直結していた。
アキノが稼いでくれた──本来はバエルを仕留めるつもりだった──時間で乱れた息を整えながら、アイカは空中で静止するバエルを睨みつける。
『ふ、ふふ……ふふふ……』
「な、なに?」
『ミツルギ、困った人ですわ……しかしッ!』
コックピットにポップする通信ウィンドウの中で、アリアはどこか呆然と放心していたように笑っていたが、それも束の間。
バエルの双眸が今までよりも一段と強く、鋭く輝きを放つ。そして瞳が尾を引く残光はまさしく、バエルではなく──ガンダム・バルバトスルプスレクスがその限界を超えた姿を想起させるものだった。
『バエルに追加する武器など無用! ただこのわたくしの……アリア・ファリドの魂をこそ吸い取って燃え上がりなさい、そしてわたくしに……もっと力を寄越すのですわ!!!』
彗星が走った。
そうでなければ、流星が駆け抜けたか。
一瞬、アイカには目の前に映る光景が、そうとしか見えなかった。
片翼を潰され、スパークしていた左腕はとうとうそのリミッター解除に耐え切れず炸裂し、堅牢であるはずの極めて完璧に作られたナノラミネートアーマーは溶け落ち、所々に覗くガンダム・フレームを露出させていながらも、相対するバエルの全盛期は今、この瞬間だった。
瞬く間に、右手に構えたバエル・ソードが繰り出した音越えの刺突は、辛うじて僅かに操縦桿を傾けることで頭部の全損という事態こそ避けられたものの、コメットコアガンダムの頭部、その右側は無残に砕け散り、首との接続部が見えるほどの損傷を負っていた。
──掠めただけで、これか。
アイカの中で、ぷつりと何かが切れるような音がした。
わかっていた。
自分に才能なんてものがないことぐらい、ただ言われた通りに目の前に出されたものをなぞるだけで、そこに何か「自分」があったことが、誰よりも一生懸命に練習したとしても、それは「要領のいい」練習だったことが、あっただろうか。
心の棺に押し込めて埋葬したはずの「愛香」が鎌首をもたげて、血の涙で濡れた冷たい手を「アイカ」の頬に触れ合わせる。
──ねえ、だからもう、わかってたんでしょう?
この「アイカ」という姿も、コメットコアガンダムも、ゼロベースで「愛香」が考えて生み出したものじゃない。
ただ弾かれるように、青春という一時の過ちが許容してくれる全能感や情動に酔って生み出した、あの値段もつけられずに出品期限を終えた手芸品たちと、譜面通りに演奏しているだけで何の面白味も思いも感じられないと評されたソロパートと、自分より遥かに走り込む時間が少なかった人間にかっさらわれた一位と、おんなじなんだよ。
棺を飛び出た「愛香」は血の涙を零しながら、「アイカ」の耳元へ優しく、どこまでも優しく──その心に寄り添って撫で回すような声音で囁きかける。
あのハマモリという人に偶然勝ったから勘違いをしてしまっただけで、自分なんてこんなものだ。
そうして、GBNも捨ててしまえばいい。
だって今まで、そうやって捨ててきたんだから。まだあと二年と大学に進むつもりならあと少し、そうやって意味もなく拾っては捨ててを繰り返すことを、時間は許してくれるんだから。
どこまでも甘く、優しく、「愛香」は「アイカ」に語りかける。
中学三年の卒業式、高校に進んでも連絡を取ると言って以来一度も更新されたことのないメッセージアプリが鳴動し、震える腕でそれを掴めば、タイムラインに「諦めたら?」という文字が浮かび上がる。
ああ、そうだ。
一秒がどこまでも、薄く、長く、刹那が永遠に引き延ばされていくような錯覚の中で、アイカはまた、果てしない海に溺れていくような感覚と共に、血の涙を流しながら自分を抱きしめる「愛香」の言葉に耳を傾けようとしていた。
──どうせ、無理なんだよ。
何時間もかけてアイドルみたいなアバターを作って、何時間もかけてアイドルみたいな衣装を、バイト代をBCに変換して作り上げて。それでやっていることは何?
あの「ノゾミ」みたいに歌って、踊って。それすらしないで流されてガンプラバトルをやっているだけなのに、最初から期待することが間違っていたのに、何を今更期待しようとしていたの?
段々と、アイカは「愛香」の声が自分のそれと重なっていくのを感じる。
ああ──そうなんだ。そうだよ。だって、「愛香」は。
愛香は、あたしだもん。あたしが言ってるんだから、きっと間違いないんだ。
そんなこと、理解したくなかった。
微かに残った「アイカ」が、必死に血塗れですがりつく「愛香」を引き剥がそうとするけれど、アイカの指は、操縦桿から離れかけていた。
──じゃあ、何のために?
ふと、心に囁きかける声が聞こえた。凪いだ湖面に雫が落ちるように、その、どこかで聞いたことがあるけれど思い出せない声が続ける。
何のために、捨ててきたの? 誰のために、捨ててきたの?
決まっている。全部自分だ。
もうこれ以上傷つきたくないから。もうこれ以上自分が何をするにも、何の資格だって持ち合わせていない人間だってわかりたくないから。
だって、痛いのはもう嫌なんだもん。誰もあたしにどうすればいいか、何をするのが正しかったのか、教えてくれないんだもん。
引き延ばされていく時間の中で、ゆっくりと涙の雫が、無色透明な血液が、アイカの眦に滲み、重力に引かれてこぼれ落ちていく擬似感覚がフィードバックされる。
──違うよ。
その「声」は、静かに首を横に振った気がした。
そして、その「声」が、段々にその輪郭を、形を、記憶を取り戻していくような錯覚が、血塗れになったアイカの心を洗い流すように、今も血の涙を流している「愛香」を引っ張り上げるように、そっと囁きかける。
──だって、GBNを始めたきっかけはあの「ノゾミ」かもしれないけど、その機体を作ったのは、あの昼飯の人がきっかけかもしれないけど、でも、今、ここにいるのは。でも今、自分で「可愛い」と思った機体で戦い続けているのは。
「……しだ……」
『何を?』
「あたしだ、あたしなんだ!!!」
引き延ばされた一秒がぷつりと切れ落ちて、アイカは涙に顔を歪めながらも、バエルへとカウンターの一撃を叩き込んだ。
速度が早ければ、何かにぶつかった時のダメージも大きくなる。
アイカが滅茶苦茶に振るったビルドボルグはバエル・ソードに貫かれて砕け散り、コメットコアガンダムの左手は破壊されたかもしれない。
だが、ビルドボルグが砕けた欠片もまた、決死の覚悟でアキノがダメージを刻んだバエルの装甲に細かく突き刺さって、傷を負った状態では決して無視することのできないダメージを追加していく。
「憧れることは間違ってない! 追いかけるのは間違ってない! あたしがここにいるのは、あたしのためかもしれないけど!あたしのためだけじゃない! 例え間違ってたって、本物と偽物なんて、誰が決めるって言うんだぁぁぁぁッ!」
『よくぞ……よくぞ言いました、アイカ! 幸せに本物と偽物などない! 憧れに、リスペクトに、貴女の抱く好きに! そしてわたくしの抱く敬愛は! 仮想の海でも本物なのですわぁぁぁッ!』
最早、アイカには目の前のバエルも見えていなければ、アリアの言葉も聞こえてはいない。裂けんばかりに唇を吊り上げて狂気の炎に身を焦がしながら、アリアは一旦着地を挟むと叫びを上げて、今度こそアイカを葬り去らんとバエル・ソードを突き出して、腰を深く落とすと。
それは偶然だった。
例えば、この惑星の裏側で一匹の蝶が羽ばたいたことが巡り巡ってこの世のどこかに大嵐を起こすような、些細な──因果と因果を繋ぎ合わせることが困難なほどに、小さな、宙を舞うひとひらの塵たちが戯れにその手を取り合ったような、神の気紛れがもたらしたものだった。
「……アイカさんは!」
『ッ!?』
「……ずっと、気持ち悪いって……ずっと、いじめられてた……わたしをッ……! ずっと、哀しくて、痛くて! 泣いてた、わたしを……っ! わたしに……っ!」
それは、バエルが、機体を操るアリアが、着地を挟んで膂力を加えた一撃での決着を試みなければ起きなかったことだった。そしてアリアがその狂気に身を焦がし、アイカだけを見据えていなければ起きなかったことだった。
それは、ミツルギが自身の持ち場を離れてアリアを庇おうとしなければ起きなかったことだった。そして、バエルが着地した先がーー脚を失いながらも右腕とスラスターを残していたエリィのヘイズルIIが全力でブーストを蒸せば推力だけで辿り着ける場所でなければ、起きないことだった。
連鎖していく。些細なこと、降り積もる塵のように、今も不安定に電子の海を泳ぎ続ける「リビルドガールズ」と、そこに宿るアグニカ・カイエルの魂を追い求めていたアリアの、そしてアリアが笑う姿に夢を見続けてきたミツルギの戦いが辿った軌跡が連なって、奇跡を引き寄せる一糸を織り成していく。
エリィは全力でブーストを噴かすと、ヘイズルIIの細い右腕だけでも尚抱き寄せられるほどに細い、装甲というものが存在していない、初めからフレームが剥き出しとなっているバエルの腰にしがみついた。
無駄な抵抗なのはわかっている。
何の意味もないことはわかっている。それでも、エリィは泣いているアイカの姿が通信ウィンドウに映し出された瞬間に、メインモニターに映る全てを見定めた上で、その選択をしたのだ。
確かにエリィの行動には何の意味もない。あれほどまでに完成されたバエルの推力と膂力であれば、いかに損傷しているとはいえ、同じく損傷している素組みのガンプラを振り切ることなど造作もないだろう。
エリィが何をしようとアイカが斃れることは確定事項で、それを数秒間延命しただけに過ぎないのかもしれない。
だが、その数秒こそが、最後に「リビルドガールズ」へと与えられた塵の一欠片、そして嵐を巻き起こすべく、蝶が起こした羽ばたきに他ならなかったのだ。
そうだ。それは、巡り巡って──GBNの仕様が噛み合わなければ、絶対に起こり得ない、裏を返せば、ここがGBNでなければ、そしてアイカが、エリィが、チィが、アキノが、この電子の海に飛び込むことを選ばなければ、決して起き得ないことだった。
通常、取り落とした武器をタイムラグなく利用できるのはパーティーやフォースといったアライアンスを組んでいるユーザー間でだけの話だ。
相手が取り落とした武器を拾って利用しようとしても、通常のレギュレーションの範囲であれば、バランス調整という名の仕様によって物によっては一秒ないし数秒、アトミック・バズーカやツイン・バスターライフルといった強力なものであれば十数秒という、短くとも戦場では致命的となる時間の待機を強いられる。
ユニコーンガンダムのサイコミュ・ジャックが恐れられるのは、その制約を例外的に逃れることができる特殊兵装であるからに他ならない。
だが、例外というのはどこにでも存在する。
そうーーアイカは短く見据えたモニターの片隅に、アキノが叩き折った、というよりは力任せに柄から引きちぎった、アリアの機体が左手に持っていたバエル・ソードの刃が突き立っているのを確認すると、迷いなく生まれた数秒をそれの確保に費やした。
──破壊された武装は、通常消失するまでの時間は武装ではなくオブジェクトとして扱われる。
その他諸々複雑怪奇な仕様は今日もGBN攻略班の頭を悩ませているのだが、少なくとも検証を重ねた結果、それはバグではなく紛れもない仕様であることは判明していた。
自身にしがみついていたエリィの機体を振り払い、そのコックピットにバエル・ソードを突き立てると、アリアは再び狂気に、そして恍惚が生み出す狂喜にその表情を歪めながら、今度こそコメットコアガンダムを屠ってやろうと、ガンダム・フレームが生み出す強靭な膂力で地面を蹴って、残されたスラスター・ウィングのスロットルを全開にしてアイカへと突撃していく。
『おおおおおおッ!!!!!』
「っ、ああああああッ!!!!!」
それは最早、獣の咆哮だった。プリミティブな本能が、闘争に身を置き続けたことで際限なく分泌されるアドレナリンが、或いはーーアリアとアイカの中に眠るアグニカ・カイエルの魂が、叫ばせたのかもしれない。
言葉などそこにいらなかった。アイカもまたスラスターを全開にして、右手に持ったバエル・ソードの刃を、コックピットに突き立てる形で相手に返却してやるべく、魂が叫ぶままに突撃する。
──果たして。
巻き起こる土煙が、そしてレッドアラートに埋め尽くされ、ノイズが走るメインモニターが、その結果を無情に告げる。
アイカのコメットコアガンダムは、確かにその小柄な体躯を生かしてバエルの懐に潜り込み、そのコックピットへと確かにバエル・ソードの刃を突き立てていた。
だが、それは直撃ではなかった。直撃判定を僅かに逸れて、レアアロイの刃を突き立てられながらも、アリアは決して止まることはなく、その狙い通りにコメットコアガンダムのコックピットへとバエル・ソードを突き立てていた。
レッドアラートの中心に黒帯が走り、【Signal losted】の文字が、コメットコアガンダムのコックピットに浮き上がるのを、アイカはどこか冷めていく瞳に涙を湛えて、茫洋と見つめていた。
「負け、た……?」
届かなかった。ほんの数ミリ、誤差の範囲で済まされるような僅かなズレが、アイカへと冷酷に敗北を突きつける。
──だが。
「……いいや。勝ちだぜ、アイカ」
その声が聞こえると共に、ノイズを放ち沈黙していたコンソールに光が灯って、ダイアログを立ち上げる。
【Mission Success!】
【Winner:リビルドガールズ】
声の主であるチィは、満身創痍の機体を引きずりながらも確かにバエル宮殿へと侵入し、そこに突き立てられていた剣を抜き放っていた。
このミッションの勝利条件は、アリア及びミツルギの撃破ではない。
あくまでもバエル宮殿に安置されたバエル・ソードを手に取れば、それで勝利は決定するのだ。
そして、チィはアキノが、アイカが、エリィが作り出してくれた時間と、アリアが「のめり込みすぎると前が見えなくなる」人種であることに賭けた上でリキャストの完了したミラージュ・コロイドを展開し、その勝利条件を密かに、そして強かに達成していたのだ。
「アイカ……お前たちが繋いでくれたおかげで、拾った勝ちだぜ」
勝ち誇り、右手の親指と人差し指で輪っかを作っていつものように悪戯っぽく笑うチィに、アイカは涙をこぼしながらも「ありがとう」と返すことしかできなかった。
いくら言葉を紡ごうとしても、嗚咽に遮られてそれは形にならない。
──ああ。
なんだ。あたしは──あたしだけじゃ、なかったんだ。
ねえ、そうでしょう?
あの時アイカに「何のために」と問いかけたその声、「アイカ」の声がその心に重なり合って、膿が溜まったままになっていた心を洗い流すように、透明で色のない血液をその瞳から押し出し続けるのだった。
「見事でしたわ、リビルドガールズ……貴女がたはまさしくアグニカ・カイエルの魂を持つ者。わたくしはそれを見られたことが何より喜ばしく、またその場に立ち会えたことを誇りに思いますわ」
ロビーに帰還したアイカたちへと惜しみのない称賛を贈りながら、約束通りに計400万BCという報酬を、アリアはフォース「リビルドガールズ」の共有財産ストレージへと振り込んだ。
あたしも、いい試合ができました。
普段であればなんなく紡げたであろうその言葉も、今は嗚咽に詰まって出てこない。
泣きじゃくりながらもなんとか頭を下げて、アイカはそのままロビーの床にへたり込んでしまう。
「あー……うちのリーダーがちょいとなんかあったみてーだからチィが代わりにお礼言っとくわ。ありがとさん、アリアお嬢様」
「ええ、グッドゲームでしたわ、チィ。貴女には少々アグニカみが足りなかったですが」
「へっ、そりゃすいませんね、チィは逃げも隠れもするからねぃ」
皮肉っぽく答えたが、チィは別にアリアを責めるつもりはなかったし、アリアもまたあのような形でミッションが決着したことに恨みを抱いているわけではない。
そして、アリアがアグニカ・カイエルの魂を求め続けるのもまた、変わらないのだ。
言葉は不要。勝者にはそれを誇る義務があるなら、敗者にはそれを語らず、黙してただ去っていくことこそをその義務とするのだ。
踵を返してかつかつと優雅にロビーから去っていくアリアの背中には、微かな悔しさが滲んでいた。
それもそうだろう。誰だって、どんな形だって、敗北を喫するというのは多かれ少なかれ悔しいことなのだから。
そしてそれは、アイカも同じで、きっとアイカもいくつもの敗北を、蹉跌をその足元に積み上げてこの場所に迷い込んできたのだろう。
チィは予め彼女に伝えた通り、そのことについて詮索するつもりなどない。それは別にチィの中で利益を生み出すわけではないし、きっと触れられたくないことなのだろうし、触れてほしければ自分から切り出すだろうと、そう考えているからだ。
エリィのように泣きじゃくるアイカをエリィが宥めている構図に物珍しさとなんだかむず痒いものを感じながらも、物質化した1BCを指先で弾き飛ばしながら、勝利の美酒という名の金勘定を味わうためにチィもまたロビーを後にする。
「……チィ」
「あん? なんだよアキノ」
「……貴女がどう思っているかはわかりません。ですが私は、貴女を、そしてアイカさんをエリィを、仲間だと思っています」
「……そうかい」
「ええ」
「話はそれだけ?」
「ええ、それ以上は貴女の気に障るでしょう」
こいつはどうしてこう、一言多いのか。
とはいえ根に持つような性格の人間に根に持たれるようなことを言ってしまったのは自分の方だ。いくら地雷を踏まれたからとはいえそれは軽率だったと、チィも少しは反省している。
「……チィもおんなじだよ、それじゃーね」
ありがと、アキノも。
その背中に表情は窺えなかったが、きっと苦笑しているのだろう。
アキノも同じように笑って、現実世界へと解けていく。
(……私も、ありがとうございます)
アイカが抱えている痛みについてはわからない。
そしてそこに触れる資格を自分は持ち合わせていない。だが、彼女がアキノを仲間だと呼んでくれたことは、身内として受け入れてくれたのは、アイカが思う以上に大きな意味を、持ち合わせているのだった。
「……なんか、カッコ悪いとこ見せちゃったね」
随分長い時間ダイブしていたように感じられるが、よくよく考えたらあの戦いは短期決戦だった。
長くなって来た陽が照らす埠頭は、黄昏に染まっている。
リアルとGBNは切り分けるつもりで、ロールプレイをしていた。そしてきっと、あの時「愛香」が自分に語りかけたように、きっとエリィに、絵理たちに出会わなければ、愛香は今までそうしていたようにきっと少しだけ電子の海を揺蕩って、諦めと共にこの陽が照らす岸辺へと打ち上げられていたことだろう。
いつものように、絵理は愛香の右腕に自身の左腕を絡めて、その右手で白杖を突いて道を歩いている。
知らなかった。と、いうよりも、今まではそもそも誰かのことについて考えられるほどに余裕がなかった。
それでも、考えてみれば当たり前のことだった。
自分以外の誰かも多かれ少なかれ、痛みを抱えて歩いている。
それでも、自身の痛みに苦しみ続けながらも、愛香は自分と向き合ってくれた。
──ならば。
「……絵理?」
絵理は足を止めて、白杖のストラップが手首にかかっていることを確かめると、愛香の腕に絡めていた自分のそれを離して、頭に巻いていた包帯をするすると解いていく。
「……決めてたんです」
包帯が解かれた絵理の右眼は、真っ白な眼帯に覆われていた。
だが、その額にも頭部にも本人が語った通り、何の傷もない。
「……わたし……今回のミッションに、勝ったら、その……ちょっと、ちょっとだけ、ですけど……愛香さんに、貰った……勇気、返そう、って……」
いつものようにくしゃりとすぐに歪んでしまうものではなく、あの仮想郷で二人の、そして他でもない愛香自身が紡ぎあげた剣が手繰り寄せたのと寸分違わない、穏やかな笑顔を浮かべてみせる。
「絵理……」
「まだ、全部は……全部は、無理かも、しれません……でも……愛香さんは、愛香さんが、いてくれたから、わたし……きっと、今日まで……生きて、これたんです……」
えへへ、と、不器用に、色付かずに透き通った血液ではなく、熱のこもった涙をこぼしながら絵理はその声を頼りに、何よりも愛しい、自分の名前を呼んでくれる声を頼りに、ぎこちなくも愛香の方をまっすぐに向いて微笑みかけた。
「……ねえ、絵理」
「……な、なんですか、愛香さん……?」
「……あたしも、きっと絵理がいなかったら、いつもみたいに……諦めて、逃げて、そんで……捨ててた」
だから、ありがとね。
絵理の涙を指先で掬って、何かの儀式のように自らの唇に運ぶ愛香もまた、その眦に涙を滲ませているのが、無意識に触れさせていた絵理の指先に伝わってくる。
愛香が何を諦めて、何を捨てたかについて、絵理はきっと問いかける資格などないと思っている。
それでも、愛香がずっと蹲って泣いているだけだった自分を掬い上げてくれたことには、返し切れないほどの恩を感じている。
だから。
愛香がしたように、絵理もその透き通る血液と痛みの味にそっと、唇を寄せる。
しょっぱくて、痛くて。でも、どことなく、名前のわからない温かさが胸の奥に湧いてくるようなその味に、二人は薄く瑞々しい唇を寄り合わせる。
人生は、朝に生まれて夜へと向かう旅路だと誰かが言った。
それは確かに正しいのだろう。
何もかもが曖昧で、正解以外が切り捨てられて、それでもなんとか漂い続けるしかないのがやるせないこの世界だ。
そしてその片隅で、それが大人になるまでの黄昏の時間であることを噛みしめながらも、愛香と絵理は、いつものように、そしていつもより少しだけ歩く速度を遅くして、黄昏へと留まるように、その家路を共にするのだった。
第二部完結です、わかります、百合ですね、わかります(キリン)