「……見て、くれますか……」
絵理は意を決してその一言を愛香へと投げかけると共に、右眼を覆っていた眼帯をするりと解いた。
そこにあった右目は、有り体に言えば義眼、ということになるのだろう。
「……わたし、小さい頃……いじめられてたんです……目の……目の色が、違うからって……気持ち悪い、からって……それで……石、ぶつけられて……その、え、えへへ……う……ぐすっ、う、うええええ……っ……」
そしてまぶたの上から小さく、眼帯で隠し切れる範囲とはいえそこには傷跡が痛々しく刻まれていて、愛香は何より先に、左眼に涙を湛えながら傷痕を曝け出したその勇気を称えるよりも、味方だと宣言した通りに絵理を抱きしめるよりも、ただ、哀しみと怒りが堰を切って噴き出してくるのを感じていた。
──許せない。
どうして絵理にこんなことができるのか。絵理の目の色が他と違うことが一体石をぶつけていた連中の人生に何の影響を与えたというんだろうか。
とうとう堪えきれずに、絵理は滂沱の涙を流して両手で顔を覆ってしまう。醜い自分の傷痕を見せてしまった。義眼を曝け出してしまった。
きっと嫌われたに違いない。だってそうでもなければ、包帯を巻いていなければこんな傷ができても毎日同じように物を隠されたり、給食を捨てられたり、今度はきっと学習したのだろう。顔ではなく身体を狙って石をぶつけてきたりしないのだから。
人が人に対してこんなことをするのは、自分が嫌われ者だからだ。だって嫌いな人じゃないと、憎んでないと、視力を奪うまで石を投げても尚まだ自分から色んなものを奪い続けることなんてできないから。
石と共に投げつけられてきたいくつもの言葉が脳裏に蘇って、かさぶたで何とか塞がれていた絵理の心をずたずたに引き裂いて、そこから無色透明な血液を、残された左眼から流させる。
ただ生きていたいと願うのは、そんなに許されないことなのだろうか。
嗚咽を漏らし、噴き出す色のない血液を止める術も知らないままに、絵理はただ、叶わなかった願いについて思いを馳せる。
確かに自分は他の誰かと目の色が違ったかもしれない。でも、それは普通に生きていくのが許されない理由なのだろうか。視力を失ってもまだ、奪われ続けることを贖いとしなければいけないぐらいに重い罪なのだろうか。
皆と同じように、誰かと仲良くなって一緒に遊びたかった。
皆と同じように、色んなところを歩いて、色んな景色を見て、そして友達と一緒にお弁当を食べたり、他愛もないお話をしたり、少しの罪悪感に胸を痛めながらも流行りの飲み物を買い食いしたり。
その願いは、あまりにも傲慢なものだったのだろうか。
「……わ、わたし……なに、か……なにか、っ、わるい、こと……し、したんでしょうか……? だって……だって、わるい、こと……しないと、そんな……そんな……めが、みえなくなって……つらく、て……かなし、くっ……て、っ……! そ、それでもっ……! それでも、いし……ぶ、ぶつけられて……っ……」
絵理は懺悔をするように、天の上で自分たちを見下ろしている神様へと問いかけるように、声を涙で涸らしながら必死にそう叫んだ。
目の色が違うことは、そんなに悪いことなんだろうか。自分は石をぶつけてきた男子や女子に何か悪口を言ったわけでも、されてきたようにお気に入りの鉛筆を折ったり、スケッチブックを捨てたりしてきたわけじゃない。
ただ幼稚園の片隅で、静かに絵を描いていただけだった。
休み時間になると皆が外に出るから、園庭の隅っこでじっと座って、休み時間が終わるのを待っていただけだった。
なのに目の色が違うと、そうやっていつも一人で蹲っていることが気に入らないと、無抵抗に困惑していた顔にぶつけられた大きな石は絵理の右眼に深く食い込んで傷痕を残し、そして左眼からも殆どの視力を奪っていったのだ。
その話を聞いた時、愛香の心の中にあったのはそいつらをぶん殴りたいという思いだった。
なんで、こんなにも苦しみ続けて絵理は生きていかなきゃいけないんだろうか。そしてその原因を作った奴らがどうなったのかは知らないけれど、子供のやったことだからと罪を問われることもせずにきっと今もこの世界でのうのうと生きているのだろう。
それが哀しくて、悔しくて、どうしてもっと早くに絵理のことを助けられなかったのかと、許されないことだと、暴力の連鎖だとわかっていてもこの大人に近付いた身体で過去に戻って、絵理をいじめていた奴らを同じ目に遭わせてやりたいと、未熟な子供故の義侠心が、愛香の心にくべられて、怒りと哀しみの炎を吹き上げる。
「……つらかったね、絵理……痛かったね、絵理……っ……!」
左眼から絶え間なく涙を零し続けても尚、その右半分から涙が流れてくれないことのどれだけ辛いことか。顔という場所に消えない傷を刻まれただけでも許し難いのに、それからも奪われ続けてきたことのなんと理不尽なことか。
どうして絵理が、誰よりも優しくて、いっつも泣いてばかりいるかもしれないけど、いつだって周りをよく見ている、周りが見えなかったばかりに過ちを繰り返し続けてきたあたしのことを助けてくれた絵理が、こんな目に遭わなきゃ、こんな辛い傷を抱えなきゃいけないんだ。
愛香も言葉にならない嗚咽と共に涙を零しながら、震える絵理の身体を、そこにある蹉跌と傷を包み込むように、あるいは己の心と触れ合わせて同じ痛みの百万分の一でも転写するように、力強く彼女を抱きしめて、大丈夫だよ、と、何度も、何度も、祈りに赦しを与えるように囁き続けた。
「……っ、あいか、さ……ん、き、きらわないで……き、きもちわるい、って……っ……!」
「思うもんか! 絵理は……絵理はっ……! 誰よりも優しくて、誰よりも可愛くて……っ、だって、あたしの……大好きな、親友なんだもん! 顔の傷が何? 目が見えないから何!? 今度絵理におんなじことしようとする奴がいたら、あたしがぶっ殺してやる!」
愛香は本気だった。その結果として罪に問われようがなんだろうが、もしもまた絵理に石を投げる人間が現れたなら、愛香は躊躇いなく包丁を握ってそれを調理ではなく制裁の道具に、正当性を認められない私刑の糧にすることだろう。
そしてそれは、その危うく許されざる殺意だけではなく、彼女を肯定する言葉も同じだった。
右眼に深く刻まれた傷痕も、失った眼球の代わりにその眼窩に収まったプラスチックの義眼も、何一つ気持ち悪いとは思わない。
例え傷痕があったとして、それが悠陽絵理という個人の持っている優しく慈しみ深いという美点に、何の影響があるというのか。
いつもハムスターのようにメロンパンをもそもそと齧っている彼女の可愛さに、そしてさらさらで、真っ直ぐな長い黒髪の夜を纏っているかのような美しさに、焦点こそ結べないものの、残された左眼が湛える空よりも深い蒼に、その麗しさになんの傷をつけられようか。
絵理を抱きしめながら、愛香は言葉にならない声で何度も、何度も繰り返す。
絵理は悪くない。絵理は可愛い。あたしはいつだって絵理の味方で、世界が敵に回ったとしたら、世界中の人間を皆殺しにしてでも絵理と共に居続けることを選ぶと。
それはあまりにも危うい赦しだった。愛香もまた、言葉にこそ出していないが心に相応の傷を負っているが故に、過剰に防衛反応と共感が走ってしまったことに疑いの余地はない。
それでも、愛香は、絵理を。
そっと抱き寄せた身体を離すと、愛香はその赦しに祈りを与えるように、溢れ続ける絵理の、色を失った血を止めようとその頬に、そっと唇を寄せた。
理由や理屈などない情動が、身体を突き動かしている。その痛みに寄り添って、少しでも抱えている重荷を軽くしたいという願いが、愛香を突き動かしている。
そして絵理は、頬にそっと寄せられたその赦しに、愛香から託された祈りに、透明な血を流すことをやめて、その代わりに左眼から、温かく滲み出す涙を零す。
──ああ。
こんなにも、わたしを悪くないと言ってくれる人がいる。わたしなんかを、親友だと、大好きだと、そんな、ずっと、ずっと欲しがっていたけれど遂に貰えることなんて今になるまでなかったものを、本気でその手に握りしめて差し伸べてくれる人がいる。
そう思うのが傲慢なのだと、絵理の心に刻まれた傷は疑いたくなってしまう。
それでも、絵理は寄せられた唇に言葉を返すように、声だけを頼りに、ぼやけていつもよりも輪郭が滲んでいる愛香の顔を見据えてそっと、小さく息を吐いた。
何かの合図か、そうでなければ二人だけに許された原初の言葉であるかのように、愛香は涙を零しながら小さく頷いて、絵理の薄く柔らかな唇が自身の頬に添えられるのを、そして遠慮がちな舌先が小さく輪郭をなぞるのを受け入れる。
重ね続けた蹉跌が作り上げた塔を上るかのように、二人は過去という刃にその手足を切り裂かれながら電子の海で出会って、そして今、この現実で再び痛みの塔を上り切った。
曝け出した、そこに上るまでに流し続けてきた血の量を数えて、二人はそっと、互いの頬に触れ合わせた唇を重ね合わせる。
「……あはは……ちょっとしょっぱいけど」
「……は、はい……あ、甘い……ですね、え、えへへ……」
ファースト・キスがレモンの味だとか、そんなふざけたことを言っていたのは一体どこの誰だったのか愛香も絵理も覚えていない。
ただ、二人が初めて交わしたキスは痛みの味が舌先を刺す、そんな危うさを夕飯の砂糖菓子がその甘美な名残のオブラートに包み込んだものだった。
勢いだけでやってしまったことに二人は頬を染めて気まずそうに互いから目を逸らしてこそいたが、そこに抱えていた痛みは消えずとも、どこか少しだけ軽くなったような錯誤を覚える。
ならば、ファースト・キスは痛み止めの味だ。
モラトリアムが、黄昏の時間が許してくれる麻薬のような、そんな危うさと、それ故に全てを忘れさせてくれるような甘美な舌触りと、脊髄を伝って脳に響き渡る、ケミカルでプリミティブな刺激。
それらを全て括って、ファースト・キスの味とする。
だからこそ、今は痛みも忘れて、互いに顔を逸らしながらも愛香と絵理は同じように、耳まで茹で蛸のように真っ赤に染め上げながら。
そっと、指先でその名残が残る唇に触れるのだった。
わかってはいたが、GBNにおけるアバターを絵理はほとんどメイクしていなかった。
勝手が違うということで愛香と絵理は泣き止んだ後に予定通り、二人で一緒に入浴する運びとなったのだが、布に包まれていない絵理の身体はなんというか普段から制服の下にそんな凶悪なものを押し込めていたのかと問いたくなるぐらいにはグラマラスで、しかしながら細くくびれたウェストが、決して彼女は寸胴体型などではないと高らかに謳い上げている。
正直に言ってしまえば愛香はそれが羨ましかった。
やましい気持ちなど一切ないが、絵理の身体を洗い流すためにタオル越しに触れた柔肌にはなんというか敗北感というか、正直に言ってしまえばGBNにおける仮想の躯体である「アイカ」を作るときにちょっと盛ってしまったという現実を否応なく視認させられることとなって、乙女心的にそれは複雑極まりなかったのだ。
(いや、そういうとこも含めて絵理は可愛いんだけどさ、いや……あたしまだ成人してないから成長期だよね?)
狭い湯船に二人で浸かる都合上、何かあったときにすぐ絵理の手をとれるように向かい合う形で愛香は絵理と風呂を共にしていたのだが、やはり視界に映る絵理の身体は、完成された美とでもいうべきものを誇っているプロポーションに他ならず、比べたところで何か意味があるわけではないとわかっていても、自分のそれが悲しくなってくるのもまた事実だったのだ。
風呂から上がって、持ってきたパジャマに着替えた絵理の黒髪を丁寧にブローしながら、現実逃避のように、せめて「アイカ」と同じぐらいにはならないかなあなどということを愛香は考えるのだった。
「……そ、その……愛香さん……」
「ん、どしたの絵理?」
「……あ、あの……さっきは……」
「……ああうん、そうだね」
勢いとはいえ、とんでもないことをしてしまったんじゃないかと思い出すだけで顔を赤くしてしまいそうだが、それでもしてしまったものは仕方ない。
蘇る熱と砂糖菓子の残り香と、舌を刺す痛みの残滓に唇をむずむずと動かしながら、絵理の髪をブローする手を止めずに愛香は考える。
恵美がいうには、女子校とかそういうとこでは別にそういうことをするのは珍しくなくて、実際愛香たちが通っている学校でもふざけてポッキーゲームに興じてそのままの勢いでベーゼを交わす女子の先輩は珍しくないらしい。
まあ、それはそれとして、これはこれとして考えなければなるまい。
ドライヤーの熱を当て終わった髪を丁寧に櫛で梳き通しながら、愛香は溜息混じりに小さく苦笑を返す。
正直なところ、満更ではなかった。
別にこのご時世、何がニュートラルでノーマルだとか考えること自体がナンセンスだし、個人がしたいようにすればいいと愛香は思っているのだが、それはそれ、これはこれ。見切り発車で進んで暴走してしまったこの黄昏の中にありふれた過ちに頭を抱えたくなってしまうのもまた、ありふれた青春であるわけで。
ぐるぐると渦を巻いている感情の名前が見つけられないままに絵理の髪の毛を乾かし終えて、自身の癖っ毛にドライヤーを当てながら、頬を赤らめてもじもじと俯いている絵理に合わせる顔がない、と同じように頬を染めてため息をつくことを愛香は繰り返す。
これはもう一種の病気かなんかじゃないんだろうか。
櫛を通しても毛先が明後日の方向に跳ね回るから、ショートボブに仕方なくまとめている自身の髪質にも、透き通るシルクのような絵理のそれとの手触りを重ね合わせて、愛香はまた一つ溜息を増やしたくなってしまう。
「……愛香さん、その……綺麗……でした……」
「ほえ?」
もじもじと黙り込んでいた絵理が発した予想外の言葉に、愛香はドライヤーを動かす手を止めてしまった。
熱っ、と、小さく叫びを上げると共に頭皮を焦がす熱風を一旦切って、愛香は絵理に問いかける。
「……いや、えっとほら、あたし、絵理と比べたら寸胴だし……」
「あ、あの……い、いえ! そ、そういう話じゃなくて……」
「?」
「……今まで、誰かに触れたことなんて……家族以外、なかったんです。でも……愛香さんの顔は、優しくて……いっつも、背筋が伸びてて……だから、綺麗だなあ、って……お風呂で一緒になったとき、思ったんです……」
絵理は基本的に猫背なのもあってあまり姿勢が良くない。
だからこそ、凛と背筋を伸ばして世界という理不尽に争い続けている愛香の姿は美しいと思ったし、身体を密着させることで触れた無駄のないプロポーションだって、肩凝りとそこからくる頭痛の原因になる自分のそれと比べたらきっとバランスが取れたものなんじゃないかと、GBNにおける「アイカ」の姿と「愛香」に触れた感覚を重ね合わせながら絵理は小さくそう零す。
実際絵理のそれが並外れているだけで愛香は同年代の女子と比べれば遥かに整った、すらりとしたプロポーションをしているし、容姿だって童顔な絵理と傾向こそ違うものの美人顔で、勝るとも劣らないものなのだ。競うことに意味などないが。
視点が変われば見方が変わる。そして自分が持っていないものに気付くことがある。そして、自分が取り落としてしまったものに気付くこともある。
愛香と絵理は互いの蹉跌が作り上げた塔の頂上で、電子の海で出会って以来、互いが取り落としていたものをその掌に握りしめて、血塗れになりながらもそれを交換したということだ。
だからこそ、あのベーゼは、そういう祈りに、そういう赦しに他ならなかった。
「……そっか、ありがと。あたしあんまり褒められたことないから、その……ちょっとむず痒いけど。絵理も綺麗で、可愛いから」
「……あ、いえ、そんな……で、でも……」
「でも?」
「……わたしの右眼、見ても……嫌わないでいてくれたの、愛香さんが初めてなんです……そもそも、眼帯を……人前で取ろうと思ったのも……」
「……そっか、色んな意味で絵理の初めて、もらっちゃったね」
「……わたしも、愛香さんのはじめて……もらっちゃい、ました……えへへ……」
さっきまであれこれ悩んでいたのがバカらしくなるぐらいに、二人は顔を突き合わせて一頻り笑った。
なんだ。別に悩むことでも考えることでもないじゃないか。
愛香はやめようと思っていたはずなのにまた一人相撲をとっていた滑稽さに腹を抱えて笑いながらも、いつだってその「眼」で見通して、そこから自分を掬い上げてくれる絵理に感謝する。
そして絵理は、ずっと大嫌いで仕方がなかった自分を好きだと言ってくれる愛香に感謝をして、生きてきて良かったというその初めての喜びを噛み締める。
二人が夜の支度を終えたとき、同じベッドで眠ることを選んだのは半ば必然だったのかもしれない。
クーラーの温度を下げて、ぎゅっと互いをきつく抱きしめながら、絵理は右眼を失って以来初めて、そして久しぶりに訪れた安穏たる眠りの淵に落ちていく。
愛香もまた、あの時──中学三年生の冬に、音楽室の窓から飛び降りていればきっとこの温もりを知ることなどなかったという事実を、生きているが故に、傷付きながらもその手に収めた輝きを慈しむように、そして少しだけ甘えるように絵理の頬に自分のそれを擦り寄せて、静かに眠りへと落ちてゆくのだった。
それが、黄昏の見せる一時のときめきなのかどうかは、いつかは覚めてしまう夢であるのかどうかは、愛香にも絵理にもわからない。
だから眼を閉じて、眠りが訪れるまでにそっと願うのだ。時間を止めてと。時計の針を、今動かさないでと。明くる夜を告げる声を、目蓋を開いたその時に、聞かせないでと。
わたしを星に連れてって、そんな夢を見続ける