絶界行。漢字三つでラストダイブと読ませる、有名な漫画に出てくるフレーズをなぞってGBNで使われるそれは、本来の意味とほぼニュアンスを同じくする。
転じて、GBNにおいての絶界行とは初級者から中級者がハードコアディメンション・ヴァルガへ自らダイブすることを指して使われている。
元の漫画とは違って、撃墜されれば自動的にロビーへと帰還することは叶うのだが、自らの意思で取り敢えず三分生存できれば一人前とされる超危険地帯へ踏み込む行いはそれに等しいとされたか、語感優先で広まったのかこそ定かではないが、言いえて妙ではあった。
そして、何かを言いたげにしていたエリィが言葉を発した時、その唇から紡がれた内容はまさしくその決死行と、ほとんど内容を同じくするものだった。
「……え、えっと……チィ、さん……あの、わ、わたし……その……」
「エリィだっけ? だからただのチィでいいってば。基本無茶なことでもなきゃ手伝うのはなんでもいーよ」
流石にまたPKにどつき回されそうになんのは勘弁だからね、と、子供らしい外見に似合わない哀愁を滲ませながらチィは肩を竦めてみせる。
どれだけの修羅場に身を置いてきたのか。アイカは今にも懐から煙草でも取り出して蒸しかねないチィの慣れた仕草に、少しげっそりするような感覚を覚えつつも、エリィが言葉を続けるのを待つ、
「あ、いえ……ごめんなさい……あの……わたし……」
「まあどうしても無理だってんなら、せめてさん付けはやめてほしいかな、背中がムズムズすっからさ。んで、用件の方は何よ」
緩慢なエリィの言葉に苛立ちを見せる様子もなく、チィは自然に続きを促してみせる。
その話術は、どこかマギーのそれをアイカに思わせたが、どちらかといえばチィの言葉は事務的、というよりビジネスライクだ。
エリィ個人を見て話しているというよりは、取引相手が交渉条件を持ちかけるのを待っているのに近いと、アイカは直感する。
(ネトゲ上級者って感じだなあ)
アバターの向こうには生身の人間がいる。
それはリアルと仮想現実の境目が曖昧になりかけている世の中では殊更、基本的なマナーとして覚えておかなければいけない。
だが一方で、現実と、その頭に仮想が付く世界には「遊戯」という一点において決定的な境界が引かれていることは確かで、アイカとエリィのようにリアルでも何か繋がりを持っているのでなければ、どこかでチィのように割り切った上で打算的な立ち回りが要求されるのもまた事実なのだ。
アイカの場合はエリィのリアルを知ってしまった、というのもあるが、そういう点を抜きにしても、無駄に怒らず、焦らず、判断条件を提示する相手だと割り切って接するチィの態度は、"慣れた"ものだといえた。
まあ、慣れた相手でもなければわざわざ蜂の巣に手を突っ込んで蜜を盗み取るような、PKに目を付けられるのも無理はない行いで報酬をガメていたりはしないのだろうが──
エリィの口からまたも予想の斜め上を突き抜ける言葉が飛び出したのは、そんな他愛もないことを思いながら、チィと共に彼女を見つめていた時だった。
「……わ、わたし……その、お礼が……」
「うん?」
「……ハードディメンション……? っていう場所で、助けてもらった人がいて……その……お礼が、したいんです……名前も、わからないですけど、わたし……」
物質化した1ビルドコインを指先で弾いていたチィの手が止まる。
「エリィちゃ」
「……エリィ、わりいけどあんた正気?」
何かの聞き間違いだろうと確認を求めようとしたアイカの声を遮って、先ほどまでとは打って変わってどこか冷たく、鋭利な色を帯びた声音でチィはエリィを一瞥する。
無理もない。あのモヒカン共に襲われていた時に助けてもらった人物にお礼を言いたい、というのはまたハードコアディメンション・ヴァルガへとダイブすることと同義だからだ。
名前がわかっていれば、ロビーでNPDに問い合わせてフレンド検索からメッセージが送れただろう。
もしくは遭遇地点が違っていれば、そのディメンションを捜索した上でエンカウントする、というエリィが想定している行いは現実的な選択したり得ただろう。
だが、よりにもよって彼女と、あの赤いガンダム──シナンジュを改造した機体を駆るダイバーと遭遇した場所は、チィの実力のほどこそわからないものの初心者二人を抱えたまま悠長に人探しをすることを許してくれるようなものではない。
正気か、と問いかけるチィの声音に怯えてか、エリィは眦に涙をにじませてアイカの後ろに隠れてしまうが、それでも視線だけはチィから逸らさず、真っ直ぐに、自分は正気だとばかりにその目を見据えていた。
この目だ。横目で見るエリィを宥めるようにそっと銀髪を撫でながら、アイカは今にも撃発しかねない、剣呑な空気を漂わせているチィをよそに小さく苦笑する。
小さな、それこそ、ガンダムベースで会うだけでよかった約束なのにわざわざ学校にまで顔を出して、何かに怯えていても、自分が大事だと思うものまでは捨てたくないと願っている、そんな矛盾とも取れる繊細さと強情さが、エリィの瞳には同居している。
「アイカはどうなのさ、見たとこエリィの友達なんでしょ?」
チィの問いかけは明らかに、諦めさせることを前提にしていた。
確かに、またあのモヒカン共に追いかけ回されたり、耳をつんざくような弾幕砲火が飛び交う場所に戻りたいかと訊かれれば、その答えは間違いなくノーになる。
アイカ一人であればそんなことなんて考えもしなかったし、仮に思いついたとしても即座に棄却していただろう。それでも。
「んー……あたし、今日はエリィちゃんに付き合うって決めてるから。エリィちゃんがそうしたいなら、いいかなっ☆」
胸を張り、エリィを庇うように、そして自分を鼓舞するように背筋を伸ばして、アイカはあの日「アルス・ノヴァ」のセンターを務めていた少女──ノゾミが曲の合間にそうしたように右目の近くでピースサインを取ってみせた。
チィが期待したように、エリィを宥めて諦めさせることが正解の一手なのだろう。それは理性として、アイカ自身もよく理解している。
それでも、感情が、心がそれを許さない。
エリィがそこまで自分との他愛ない約束を真摯に捉えて、勇気を振り絞って学校まで来てくれたのなら、そんな彼女の願いに今、背を向けることはきっと誠実ではない。
そこにどれほどの後悔が伴っていたとしても、それがどれだけ無謀だとしても。
それを割り切ってしまうことは、アイカには出来なかった。その先に行き着くものが、例えモヒカン共に囲まれるか交通事故のように飛び交う弾幕砲火や闇討ちの格闘に焼かれる仮想の死だとしてもだ。
それに、地雷を踏むのもバカを見るのも慣れている。今日ログインしたのだって元々エリィにフレンド申請を送ること以外の目的だってなかったわけだし、何かを差し置いてでもやりたいことがあるというわけでもない。
格好こそアイドルを参考にしていても、アイカがやりたいことはこの仮想の海の中で歌って踊ることではない。じゃあ何がしたいのかと訊かれれば、それに答えこそ出せないが、今はエリィの願いを叶えたい。
それだけで、アイカにとっては十分だった。
「ぐぬぬ……いや確かになんでも手伝うって言ったのはチィだけどさぁ、物事には限度ってのがあると思うよ、ねーちゃんたちだって考えてみればわかるじゃん? 初心者狩り、リスキル、リンチ、なんでもありな場所だよ? それに助けてもらったってったって、また会えるとも限らないんだよ?」
確かに、あのディメンションで活動していたからといって赤いガンダムのダイバーが今日もそこにいる保証はない。
「でも、あの人『守ろう心の南極条約』って言ってたよねっ。それってキャプテン・ジオンと同じでしょ?」
キャプテン・ジオン。自分で口走っておきながら、懐かしい名前だとアイカはどこか感慨深さを覚える。
ツイスタで昼飯の画像でも上げてそうな、月末はそれが乳酸菌飲料一本になってそうな出で立ちの人物だが、アイカがコメットコアガンダムを製作するに当たってG-Tubeを漁っていた時、おすすめ欄には奇しくもあの赤いガンダムとよく似たガンダムに乗って、マナーの悪いダイバーに戦いを挑むという彼のアップロードした動画のサムネイルが貼り付けられていた。
制作講座とマナー啓発、GBNにおけるディメンション探訪など彼の活動はどうやら多岐に渡るらしいが、重要なのはその決め台詞だ。
守ろう心の南極条約。マナー違反を犯したダイバーに一方的にフリーバトルを仕掛けて制裁を行うという趣旨の是非は置いておくとしても、彼の決め台詞をあの女性が引用していたのなら、そのフォロワーである可能性は限りなく高い。
だからこそ、あの女性がハードコアディメンション・ヴァルガにいる確率も同様に確かなのではないかと、アイカはそう推察している。
「キャプテン・ジオンだ? ぐぬぬ……あれのフォロワーだったら確かに……いやなんつーはた迷惑な……」
「……あ、あの、っ……」
「あん?」
チィも同じ可能性に行き着いたのか、頭を抱えて呟いた言葉を遮って、エリィはぷるぷると全身を震わせながらも、おずおずとアイカの前に歩み出た。
相変わらずぽろぽろと両眼からは涙が溢れているし、左手はぎゅっと強くアイカのスカートを握りしめている。だが、エリィはきっと不退転の決意を掲げて、チィへとそれを差し伸べたのだろう。
「……こ、これ……その……わたしが、持ってる……ぜ、全部のお金です……少ない、ですけど……た、足りないの……わかってます……けど……っ……」
最後まで言い終えることなく、全財産である100BCが記された、譲渡を示すウィンドウと共に右手をチィに差し出したままながらロビーの床にへたり込んで、エリィは泣き出してしまう。
「よしよし、頑張ったね、エリィちゃん。ねぇチィ、あたしも持ち合わせこれしかないんだけど、お願いできないかな?」
アイカも、チィへと100BCの譲渡画面を開いて頭を下げる。
あの骨折り損のくたびれ儲け、そのついでに手に入った端金だ。それでも他にミッションなど受けていない、これがG-Tubeの閲覧を除けば二回目のダイブであるアイカの持っている全財産で、示せる限りの全ての誠意だ。
「……なるほど、しょーじき言やあ、割には合わねーな。でも」
「でも?」
「誠意は言葉じゃなくて金額……チィの大好きな格言だよ、それがねーちゃんたちにとって提示できる全財産なら、全部の誠意ってことだ。だったら涙を呑んで受けるしかねえ」
そもそも手伝うって言い出したのはチィだし、その分は割引ってことにしとくよ。
少しだけ渋い顔をしながらも、唇を半月の形に吊り上げて、チィは不敵に笑う。
「えぐっ……ぐすっ……」
「良かったね、エリィちゃん。チィもありがとね」
どこでそんな格言もとい迷言、いや、転じて名言になったから格言でも間違いじゃないのかもしれない──を覚えてきたのやらとチィに苦笑しつつも、アイカはエリィを宥めながら頭を下げるのだった。
一度目は騙されたことも、助けられたことも偶然だった。
ならば、二度目は自分たちが選び取った必然だ。
改めて自分たちが選んだ選択肢がトチ狂っていることに、正気に返りそうになりながらも、アイカは心でそれを蹴り付けて、震えるエリィの手を取って、ラスト・ダイブへと向けて立ち上がる。
天国なんてあるのかな、と、どこかで誰かが尋ねたけれど、アイカにそれはわからない。そして、そこに住んでいるはずの神様だって同じことだ。
それでも、運命だったら、ちょっとは信じられるかもしれない。
一度目の偶然。散々だって泣きそうになったことばかりだったかもしれないが、連れてきてくれたのはそれだけではない。
もしも偶然が、運命が、何か意図を持ってアイカとエリィを引き合わせたのなら。
あの女性との縁も、偶然から必然に変わるんじゃないだろうか。
バカバカしいと笑い飛ばせそうなセンチメンタルだ。きっとGBNに、あのストライクガンダムの掌の上で踊る、「アルス・ノヴァ」に、バーチャルアイドル・ノゾミに出会っていなければアイカは間違いなくそうしていただろう。
それでも、今はそんな運命を信じられる。
理由を説明しろと言われれば、アイカはきっと答えに困るだろう。答えることはできないだろう。
そうして、道行く大人が、過去に走るのを諦めた「愛香」が、吹奏楽を捨てた「愛香」が情けないと、どうせまた同じことだと笑い飛ばすのだとしても。
今、アイカの手にはエリィのそれを優しく包み込む感触が残っている。それを、アイカ自身がなんとも思わなくとも。
命を燃やす理由など、きっと──それだけで、十分なのだった。