ELダイバー、「チィ」のことについて。
凛音が呟いていたその言葉は、愛香が今最も欲するものであることに違いはない。
コーイチとアンシュは運営から何かしらの口止めでもされていたのか、ELダイバーの発生についても結局語ることをしなかったのだが、愛香が何より知りたいのは「チィが失踪していた」という部分であり、それを紐解くための手がかりがELダイバーの成り立ちにあるのではないかと考えて、あの電脳海洋のカテドラルを訪れていたのだ。
「凛音さん……知ってるんですか?」
「ええ……知ったのは、こほっ……ごく最近ですけれど」
「最近?」
「ええ……その前に、こほっ、けほっ……ごめんあそばせ、愛香さん。一つだけ……わたくしから問いかけさせていただいても……けほっ、よろしいでしょうか……?」
咳き込みつつも、車椅子の肘掛けを開いてそこから薬の入った小さなケースを取り出して、凛音は愛香へとそう持ちかけた。
彼女がゆっくりと、震える手で一錠ずつ薬を取り出して、ティーカップの隣に置いてあるグラスに注がれた水でそれらを飲み下すのをゆっくりと待ちながら、愛香は無言でその問いかけを首肯する。
「……ありがとうございます……ああ、このような身体でなければもっと、愛香さんと……こほっ、楽しくお話できるのですけれど、ままなりませんわね……それで、本題ですが、愛香さん……」
「はい」
「……貴女は、ELダイバーという生命体に死が訪れると、そうお考えですか?」
ELダイバー。電子の海から生まれた、ガンプラをスキャンするときに発生する何百万分の一という感情の余剰データが集積した生命体であると、GBNのまとめwikiにはそう書かれていたし、バイトのヘルプで入ったとき、それとなくサラに訊いてみた返答も、似たような趣旨のものであった。
ならば、と、愛香は思い返す。
彼女たちの本質がデータであるのなら、人間がそうであるような病気だとか老化だとか、そういった外的、内的要因での死は訪れないのだから、ある意味では不老不死を体現しているといってもいいのだろう。
一応、「サラ」の姿はGBN内において発見された当初と比べて明らかに成長したものとなっているため、自己定義の更新という形での老化はありうるのではないか、というのが運営スタッフの見解ではあるのだが、愛香がそれを知るはずなどないために、それは横に置いておく。
だが、彼女たちの本質がデータであるのなら、プログラムにこそ詳しくはないが母親が仕事でそうしているところを覗き見した程度の知識でも分かるように、物理削除コマンドを、平たくいえばゴミ箱行きの論理削除ではなく、そのまま跡形もなく消し去るコマンドを実行したのならばそのデータは消え失せて、白紙化された空白だけが残ることになる。
「……死ぬ、と思います、データを消されれば」
「……正解、ですわ。こほっ……では、愛香さん。ELダイバーが現実にダイブするときに用いられている技術と仕組みもご存知ですわね……?」
「ええ、一応……なんかよくわかんないですけど、モビルドールとか、プラネットコーティングとか、そういう関係があるから、チィちゃんが一年間失踪し続けるなんてできないはずだって、GMは悩んでるんだと思います」
誤解を恐れずにいえば、ELダイバーはその死を必然的に約束された存在だ。
生まれた時点でGBNは彼女たちのデータを異物とみなして排除しようとしたり、或いは彼女たちというイレギュラーが処理に干渉する形で様々なバグが発生したりと、そういった経緯で実際に起こったのがかの第二次有志連合戦──ELダイバー「サラ」の因子が各サーバーに拡散してしまったことを原因とした、彼女を消してGBNを助けるか、或いは助けた上でGBNも助けるか、その代わりに成功確率は12パーセントという極めて無謀な賭けであり奇跡だった。
そして基本的に、第二次有志連合戦における「賭け」が成功した後も、生まれたばかりのELダイバーは初めから修正パッチによる死が決定づけられている。
だからこそ、かの「ビルドダイバーズ」がそうしたように、生まれたばかりのELダイバーはあのELバースセンターで保護を受け、「ビルドデカール」というプログラムに自らを圧縮した上で現実世界での躯体となる「モビルドール」というガンプラにその魂を吹き込むという過程を経なければ、彼女たちはGBNに長期間ログインすることはできない。
土塊ではなくプラスチックに命を吹き込むという違いこそあれど、大昔に錬金術なる秘術が流行ったときに作られたゴーレムと、奇しくもそれは良く似ている。
そしてゴーレムは定式化されたEmethからEをとればmethとなって崩壊することが決定づけられているが、まさかそういう自壊コマンドがモビルドールにも組み込まれているのだろうか。
愛香は最悪の可能性を脳内で想定しながら、凛音の問いにそう答えた。
「そこまで知ってらっしゃるなら話は早い……わたくしが今からお話しすることは三つありますわ、こほっ……一つ目は、チィさんの消息と無事について、二つ目は、ELダイバーの死、それも現実世界に、おけるもの……こほっ、こほっ……っ、はー……三つ目は、チィさんが失踪したことと関係するお話ですわ」
薬を飲んでも興奮すると息が詰まるのか、真剣に語ってくれているのにも関わらずその熱量に凛音の身体は追いついていない。
執事たちがそんな彼女を気遣って止めに入ろうとしたが、凛音は左手でそれを制して、水を静かに飲みながら、詰まった呼吸が戻っていくのを静かに待つ。
例えここで死んだとしても、この話だけは愛香に伝えなければならない。
彼女の薄く、指先で触れただけで折れてしまいそうなその背中からは対照的に、屈強で芯の通った、生半可なことでは折れはしないとばかりに固めた覚悟が伺える。
だからこそ凛音は病院ではなく自宅に愛香を呼んだのだ。
いつ、どこで誰が聞いているか分かったものではないから。
今から凛音が話そうとしている真実はそういう類の危険なものであったし、だからこそ彼女はリアルもGBNも問わずに、内々的に愛香の行動を監視していたし、登下校時やガンダムベースに通うときにも密かに石動たちを筆頭とした凄腕の護衛をつけていたのだ。
勿論、愛香当人はそんなことなど知る由もないのだが。
「まず……チィさんの消息と無事でしたわね……結論から申し上げますと、GBNにおける消息は不明……申し訳ありませんが、そう断言せざるを得ませんわ、こほっ……ですが、この現実において彼女の消息と無事は確認されていますわ……」
「……えっと、無理しなくていいですけど、どういうことですか?」
「簡単ですわ。チィさんは現実において、特定の人物による保護とプラネットコーティングの供給を受けた上で、こほっ……アクセス情報を欺瞞し、ログインを続けていた……それこそが、その絡繰」
奇しくも愛香の問いに答えた凛音の薄い唇から紡ぎ出されたのは、GMであるカツラギが真っ先にあり得ないとしながらも今はその線で調査を続けている案件が正解であるというものだった。
GPDの筐体は生産中止となったが、流通していないわけではない。
凛音の家に匹敵するほど大きな商家が経営するホビーショップでは未だに数台のGPD筐体が現役で稼働しているし、のめり込んで戻れなくなったマニアは家に二台GPD筐体を確保しているのが常識、といわれるほど中古市場は極めて活発なものだ。
だが、GPDに精通しているものでなければ流通ルートも扱いもわからないため、だからこそGBN運営チームはELダイバーの後見人となった存在にGPD筐体ではなく、その機能を極めて簡略化してスタンドアロン化させた、プラネットコーティング装置の購入を義務付けているのだ。
春の国会で通過した、「特定電子生命体に関する特別法案」にはそのプラネットコーティング装置の購入は特定電子生命体の後見人のみに限定する、という文言が書かれている。
それは不当に誰かが家出したELダイバーを保護することがないようにと、言ってしまえば「家出」対策の条文として盛り込まれていたのだが、蛇の道は蛇というやつだ。
もしくは獅子身中の虫、心臓に向かう折れた針とでもいうべきなのだろうか。
落ち着いてきた呼吸を整えるように優雅に紅茶に唇をつけながら、凛音は全てを暴いた上で尚ニヒルに笑っていた、チィの「家主」たる男にして「庵主」であり「按手」のことを思い返す。
今思えば、彼女の人格形成には彼の影響も少なからず盛り込まれていたのかもしれない。
そんなことを考えて苦笑する凛音に、愛香は小首を傾げながら問いかける。
「ごめんなさい、わからないんですけど……そのGPD筐体を持っててGBNにログインする情報を偽装するだけのハッカーが、チィちゃんを拐ってるってことなんですか?」
「……誘拐、ではありませんわね……彼は……シバ・ツカサは、逃げてきたチィさんを保護する形で彼女の『家出』に協力していたわけなのですけれど……それについては二つ目のお話をしなければなりませんわ、そして、愛香さん」
「な、なんですか……?」
自身の名を呼ぶ凛音の声が、まるで研ぎ澄まされた刃のような鋭さを帯びるのを愛香は感じて、思わずその威圧感と恐怖に背筋を震わせた。
恐らく、こっちが「令嬢」としての凛音の顔なのであろうし、そういう政治的なシビアな一面を持っているからこそ、シバ・ツカサなる人物がチィの保護と家出に協力している、という運営すらも欺いていた真実にたどり着くことができたのだろう。
改めて、愛香は桜宮凛音という人物の執念に戦慄する。
あの世界では「アリア」としてバエルやマクギリスに向けられていた狂気的なまでの情熱を現実で行使したのなら、恐らく白日の元に曝け出されない事件などそうないのではないかとさえ思えてならない。
「……桜宮は……この家は、その名にかけて貴女をお護りいたします。ですがこの話は他言無用……知られれば、わたくしとて……その手管を全て尽くしても……手遅れになりかねない、お話ですわ……」
「……それって、どういう……」
「……ELダイバーの死でしたわね、実際に死んだELダイバーは、今のところは確認されておりませんわ。ですが……『心が死んだ』ELダイバーがいるのは、事実なのです」
そしてそれはさる大物政治家とその地盤となる商会に関わる一大スキャンダルであったと、凛音は静かにそう語った。
元々桜宮グループ──凛音の実家が経営するコングロマリットがGBNの大株主として、そしてリアル企業の方の「GHC」と手を結んだのには、その商会の失墜が大きく絡んでいる。
GHCと組んだのは保険のようなものだ。
桜宮グループが大株主となる前にその株式を保有していた「タチバナ商会」はGHCと競合する事業が多く、仲が悪かったのもあって、桜宮グループが主に製薬などを中心とする都合上、競合する部分が少なかったのも彼らと手を組み、株主として連携を取る体制の構築に一役買った要因でもあり、そして凛音がGBNの暗部へと入り込むための布石となった要因でもある。
要するに、敵の敵は味方というやつだ。「タチバナ商会」はGHCにとっても目の敵であったし、桜宮グループにとっても邪魔だったからこそ、身から出た錆であるそのスキャンダルで彼らがGBNの経営における発言権をなくしたことは桜宮家にとっては幸運だったのだが、そこには大いなる不幸が伴っていた。
「……一時期……政治家や大物芸能人の間で、ELダイバーを保護することが美徳だという風潮が起きましたわ……」
異世界からの友人を保護することこそこの国の美徳とする大いなる和の精神であると吹聴して、双子のELダイバーを保護した政治家がいた。
橘大十郎。彼こそが「タチバナ商会」及びそのコングロマリットの中心となる持株会社の名誉会長にして、大臣のポストを約束されていた大物国会議員だった。
彼の発言はツイスタというSNSを中心に拡散され、ELダイバーが広く受け入れられる土壌を培った大人物、というのが世間というより政治に詳しいとされる人間の見解であったし、今もメディアは彼についてそう報じることが多い。
だが、彼の言葉はただのビジネストークで、実態としては自らの政治基盤を固めるためにGBNという多くの若者が利用するゲームのユーザーを囲い込もうとする意図しかなく、保護された双子のELダイバーに対しては「異世界の友人」どころか「喋るペットか置物」程度の扱いしかしていなかったことは知られていない。
「……橘大十郎は、ELダイバー……『イリハ』に対して日常的な虐待を行なっていたとされています、そして『イリハ』は『チハヤ』の双子の姉……つまり、同じ時間に誕生したELダイバー、こう言えば、繋がってくるのではないでしょうか……?」
「っ……!」
愛香は明かされた真実と、その胸糞悪さに耐えかねて、思わず机に拳を叩きつけていた。
橘大十郎は、「チハヤ」を最初は虐待の対象としていたのだが、それを「イリハ」が庇ったために何かと「チハヤ」を引き合いに出してはビルドデカールを貼り付けたモビルドールが躯体であり、例え素体が破損してもデカールを張り替えれば元に戻ることをいいことに、手足関節の切断や両眼パーツの破壊など、そうした行為で日頃のストレスを発散していたというのが、GBN運営法務部の調査によってわかっている。
凛音によって付け加えられた事実に愛香は憤慨し、橘はなぜ逮捕されなかったのか、事件が表沙汰にならなかったのかと激昂して凛音へと詰め寄ったが、実のところ刑法、民法として彼を立件するのは困難である、というのがGBN法務部や警察の見解であったのだ。
と、いうのも、現行法においてもELダイバーの人権は極めて曖昧なところに着地点を見出せないままぶら下がっているからだ。
ELダイバーは確かに新たなる生命体で、「サラ」のように定職について収入を得る個体も増えてきているが、彼らの扱いについてはまさしく法律上においてはペットどころか「モノ」であるといわざるをえなく、橘大十郎の行為も、ただ自分の所有していたものを壊して遊んでいただけ、ということにしかならないのだ。
確かにELダイバーを生み出したのはGBNだ。だが、一度後見人に引き取られてしまえばその「所有権」は後見人に移行する。
だからこそ、「ELダイバーの積極的保護を謳い、特定電子生命体に関する特別法案を提案した男が日常的にそのELダイバーを虐待していた」というのは橘大十郎をポスト大臣の座から引き摺り下ろし、GBNの経営において発言権をなくす程度には深刻なものであったのだが、逆にいえば「表沙汰にせず揉み消せる」程度のものだったのだ。
「……それで、そのイリハさんって子は……」
「……彼女は、人々の『この世界の空が好き』という気持ちから生まれたELダイバーで、チィさんとは異なって極めて大人しく、口数の少ない性格だったようです」
だからこそ、チハヤを姉として庇うことしかできないという責任感と、虐待されているときには泣き叫んでいたという記録が残されていた以上、それを理由にして橘大十郎に狙われたのでしょう。
凛音は橘大十郎に対する不快感も露わに眉根に深いしわを刻みながら、愛香へとそう告げた。
それは奇しくも絵理が狙われた理由と似たようなものだった。
大人しく、真面目で、いい子ほど悪い奴らからの標的になる。
「……ふざけんなッ!!!!!」
だからこそ愛香は、その理不尽に憤激し、思わず立ち上がって椅子を蹴り飛ばしてしまっていたのだ。
「朝村様、困ります」
「よいのです石動……わたくしもこの身体が自由に動いたなら……彼女と同じぐらい、思いのままに暴れたいと……そう思った、けほっ……事件でしたわ……」
チィの失踪が、このELダイバー虐待事件と絡んでいることは愛香にも想像がついた。
どこでイリハに対する虐待が発覚したのかはわからないが、恐らくそれを掴んだGBN運営が橘大十郎に接触を図ったとき、人間を信じられなくなっていたチィは自分と姉を大十郎へと引き渡した運営ではなく、シバ・ツカサの元に身を寄せることを選んだのだろう。
「……だから……だからチィちゃんは、あの姿を見せたくなかったの……?」
「……あの姿、というのがモビルドールのことでしたら、恐らくそうですわね……ですが、愛香さん」
「……なんですか?」
「もしも……それほどまでに自らの事情を押し隠すほど……深刻な秘密を抱えていたチィさんが、それでもモビルドールの姿を、こほっ……曝け出したというのなら……希望は、あるのではないですか?」
「っ……!」
穏やかに微笑む凛音と、チィが最後に残した言葉とそのどこか物悲しげな背中がオーバーラップする。
──潮時ってことだよ。
チィは確かに、潮時だとは言ったし、エリィに対してフォースメンバーでこそあれ、フレンドではないとも言っていたが、誰にも「嫌いだ」とか「あいつと同じだ」というような憎しみの言葉はぶつけていない。
だったら、真意を聞く余地ぐらいは残されているんじゃないだろうか。
光を失い、熱の冷めた心火の炉心に、その核に何かが焚べられていくのを拍動する心臓に感じながら、合点が入ったかのように愛香は再び立ち上がった。
そうだ、希望はまだあるんだ。絶望にひしがれていた心をつなぎとめたフェアライズガンダムの瞳と、慈しみに満ちた凛音の瞳、そして今もまた元の日々に戻ることを願う絵理の祈りと、悲しげなチィの背中。
一つ一つが星座を描くように線を結んで繋がって、愛香の心に灯る希望は明かりを超して一つの炎となるまでに噴き上がる。
「ありがとうございます、凛音さん……」
「……いえ、お礼を言わせていただくのは、こちらの方……チィさんのGBNにおける消息についても、全力でわたくしたちは探し続けますわ……」
「どうして、凛音さんがお礼を……」
「だって……ふふ、本当はこっちを先に言いたかったのですが……わたくしにとって、GBNこそが、こほっ……真実の世界だと、そう思っていましたわ、ですが……わたくしは、この世界で……現実で、貴女に会えた……その奇跡が、とても嬉しいのです」
立ち上がった愛香に向けて車椅子を進めると、凛音は殆ど骨しかないように細い指を、最大限の感謝と共に愛香に差し出す。
凛音は元々、GBNの事情に深入りするつもりなど全くなかった。
実家の事業に関しては腹心の部下に任せて自分は座敷牢で飼い殺しにされるだけだとわかっていたからこそ、凛音は「アリア」としてGBNにのめり込んでいたのだし、執事であり教育係、そして事実上の監視役である石動もそれに付き合っていたのだ。
だが、もしも凛音を変えてくれるきっかけがあったとしたのなら、それはあの時ガンダムベースでカレトヴルッフを譲り渡した愛香が、クリエイトミッションとはいえ自身を下すほどに成長し、そして彼女の仲間たちと共に日々アグニカ・カイエルの魂に至らんと研鑽している。
愛香が、そしてアイカが自身という理不尽にして強大な壁を打ち破ったのであれば、自身もその心意気に応えなければ桜宮の家に生まれた者としては申し訳が立たないだろう。
だからこそ、愛香の持つアグニカ・カイエルの魂に、マクギリス・ファリドの志に打たれた凛音は、現実から「大好き」なGBNに関わるべく、父親を殆ど喧嘩のようなやり取りで説得して、GBNの経営方針や株の所有権については自身に譲渡させるよう頼み込んだのだ。
まだ病室を完全に出ることはできないし、薬も手放せない。
それでも──ただ嘆いていた頃より、無謀な挑戦ばかりを繰り返す緩慢な自傷を続けていた頃より凛音の身体は遥かに持ち直して、医者すら目を疑うほど快方に向かっている。
つまり、凛音もまた、愛香との縁によって助けられた存在に他ならないのだ。
「愛香さん……願わくば、わたくしは……貴女を、友と呼んでもよろしいでしょうか……?」
「凛音さん……ううん、凛音ちゃん、あたしも……ありがとう……」
「ああ……石動……わたくしは、こんなにも……生きていて良かったと、そう思う日が来るとは……己の人生に、牙を突き立てて革命を起こせるとはっ……」
「……御嬢様……」
『桜宮凛音様! 我々の魂……この命かけて忠を尽くすべきお方! そして朝村愛香様! 凛音様をお救いいただいた御友人!』
──我ら一同、心の底より感謝いたします。
一番最初に涙を零していたのが誰なのかはわからない。だが、執事四人組である阿久理、二階堂、多摩、椎名が声を揃えてそう宣言するなり男泣きするのにつられて、石動もまた敬愛する凛音の成長に、その眦に何か熱いものが込み上げてくるのを感じずにはいられなかった。
この世界とGBNは、現実と仮想という長い国境線で断絶されているのかもしれない。
だが、それでもこの身体があの世界とこの世界を行き来できるのであれば、現実の空も架空のソラも繋がっている。
弱さを抱えながらも凛音は高く飛び立つことを決めてくれた。
ならば自分がもう一度翔ぶ番だ。
凛音を折れてしまわないように、だけど力強く抱きしめながら、愛香は丁重に預かってもらったフェアライズガンダムに想いを馳せる。
そうだ、ここからもう一度始まらせる。折れてしまって終わりなら、あの日々の繰り返しだから。
笑われないために、また心臓の棺で眠る「愛香」が血の涙を流さないために。
弱気になったって何度でも立ち上がると、愛香は強く、その決意を固めるのだった。
もう一度翔べ、フェアライズガンダム。踏み締め、行け、愛香。
【朝村愛奈】……愛香の母親。噂では某神ゲーのグラフィック班やらプログラム班として働いているらしいが基本的にはフリーランスであり、夫とは違う意味で色んなところを渡り歩いている仕事人間。しかし愛香に対する愛情は確かであり、仕事を引き受けているのも「少しでも愛香に残す遺産を作りたいし愛香にいい服や食べ物を買ってあげたい」という、夫の収入だけに頼らず娘を育てようとする善人なのだが、それでも娘としては家にいてくれないのが寂しい模様。
【橘大十郎】……複合コングロマリット「タチバナ商会」の名誉会長にして、次期IT担当大臣として有力視されていたが、表沙汰にこそならなかったがELダイバー虐待事件によってその権威と党内及びGBN経営陣の中での発言権を失って失墜こそしたものの未だに政治の世界にへばりついている、桜宮家としては不倶戴天の敵。ちなみに幕間のレポートを書いた二人のスタッフを消そうとしていたのもタチバナ商会の息がかかった裏社会の住人だが、GHCと業務提携した桜宮家によって保護されているため無事である。それでも尚裏社会には顔が通じる人物であるため、凛音は警戒を怠っていない。