幽霊の正体見たり枯れ尾花。
こんな狂歌が詠まれた通り、伝説や伝承に現れる「怪物」というのはその恐怖の根源を「未知」においている。
故にかつての人々は理解を超えた出来事に、妖怪変化の仕業であると名前をつけて、その名前によって「理解」をしようと、そして恐れ敬うことで、何とか超常と日常を共存させようとした。
しかして科学が発達し、未知のほとんどを既知に塗り替えたこの世界において、全てが枯れ尾花、かつて恐れられた奇病はヒトの手で根絶されて、そしてかつて妖怪だとされていたものはあまりに悲しい歴史の断片であったと暴き出されたのがこの世界なのだろうか。
十分に発達した科学は魔法と区別がつかない。
どこかの誰かが残したそんな格言と同じように、GBNの存在はもはやある種の魔法であるといっても過言ではないのだろうかと、山道を登りながら山南京介──その仮想郷の無法地帯にてFOEさんのあだ名で恐れられる、ダイバーネーム「キョウスケ」その人である──は考える。
彼が山を登っているのは、山頂で行われている撮影現場にいるアイドルを迎えに行くためで、駐車場からだいぶ離れた場所でかつ獣道を通らなければならないためでもあった。
人が山を登るのはそこに山があるからだ、なんて答えた人は訊いてきたことそれ自体にほとほと困り果ててそう答えたとか、そんな逸話をどこかで聞いたことがある。
国語の文章題に父親の書いた小説が出されたから「作者の気持ち」を聞くために問いかけたら締め切りに追われていたからわからんと回答を経て、そのまま書いたらバツにされたという娘がいるだとか、「枯れ尾花」の累計は枚挙にいとまがない。
しかして、本当に人類は科学の、文明の灯で全てを照らした気になってこそいるものの、その実生存圏として整備されたのは都市の一部であり、こうして手付かずの自然、というより手をつけられない自然はこの国の首都たる東京にも確実に存在しているのだ。
京介は黒いジャケットを脱ぎながら額の汗を拭い、大昔の飛脚はこんな整備されていない道を走っていたのだろうかと嘆息する。
「僕も文明に毒されているな」
そうは呟いたものの、文明社会を否定するような行い自体は京介自身も愚昧だと思っている。
精神的な豊かさと物質的な豊かさは必ずしも直結するものではない。
だがたまに、文明から切り離された場所にこそ本当の豊かさがあると他人にもその持論を押し付けてやまない輩がいるのが問題なだけだ。
個人で思う分には何も構わない。ただ、他人に押し付けた時、そこに物質的な痛みを伴わなくとも思想もまた暴力となりうるのだ。
京介は文明によって無事に生まれてこられたことを自認している。
生まれることと死ぬことが鏡合わせだった時代から、死は随分遠いものとなった。
それはひとえに文明の灯が照らした結果であり、人類が自然に対して勝ち取ったものだといってもいい。
しかし、どこか目の前に広がる山道は無限に続いているような雄大さを湛えている気がして、そこにどことなく畏敬であるとか感謝であるとか、そういうものを抱きたくなる気持ちもわかるのだ。
額に浮かぶ汗を拭い、時折制汗剤を噴霧しながら、京介は無限に続いているような山道を無心で登る。
聞こえてくるのは蝉時雨と、吹き抜ける風に木々がざわめく音ばかりで、そこに人の気配はどこにもない。
だが、そんな場所にその社は静かに佇んでいた。
「山頂への中間点か……? こんなところに神社があるとは聞いていないが……まあ、何かの縁だ」
幸いなことに自身が担当しているアイドルに関する悩みはない。
つい最近ちょっとした軋轢があったものの、対話によって乗り越えることはできたし、その頂点にある栄冠は祈りによって得るものではなく、彼女が自らの手で掴み取るべきものだ。
故に、仕事については「決着は人間の手でつけます、だからどうか手をお貸しにならないで」というトビア・アロナクスが漆黒の宇宙へ旅立つ時に抱いたものが祈りとなるだろう。
そうなれば、残っているのはGBNだ。
39位を定位置として、つい最近まで28位を行ったり来たりしていた京介が漠然と感じていたものは、己の限界だった。
元々、ディバインダブルオークアンタを組み上げたのは現実における芸能事務所が合同で主催する、アイドルによるアイドルのためのアイドルのガンプラバトル大会──「Worldwide Idol Network Gunpla-battle-tournament」において、フォースとして参加することになった担当アイドルたちの指南役をやるためだ。
あの「ELダイバー奪還戦」において、個人ランク10位たる「テンコ」との勝負ではそれが噛み合ってくれたから何とかその機体に手傷を負わせることができたものの、それだって複数の制約があっての話だ。
「僕も大概ナーバスになっているな」
こういうことを考えてしまえば、それだけドツボにハマるから本来ならば考えない方がいいとはどこの誰が言っていたのだったか。
賽銭箱に500円玉を投げ入れて、からんからん、と鈴を鳴らしながらも京介はどこか漠然と、「己の限界がそこにありませんように」と、無意識に祈っていた。
だからなのかもしれない。
不意に風のささやきが、京介の耳朶を打った。
それは本当に木々がざわめいただけなのかもしれない。
或いは暑さにやられていて、蝉時雨の中に幻聴を見出してしまっただけなのかもしれない。
鞄からスポーツドリンクを取り出して喉に流し込みながら、京介が気のせいか、と呟こうとしたその時だった。
「なんじゃお主、惑うておるのか」
賽銭箱の上に腰掛けた、銀髪に巫女服という少女が飴玉で出来た鈴を鳴らしたかのような声音で、老獪な言葉を紡ぐ。
「さっきから話しかけておったのに気づかんとは、お主、筋金入りの鈍感じゃな? そうなると──ふふ、あの童も大変じゃろうて」
「……君は? 失礼だが、賽銭箱に乗るのは良くないよ。神様が怒ってバチを当てかねない」
「……お主本当に堅物じゃの、妾がどうしようと妾の勝手じゃがまあ良い──久しぶりに五百円も祈りに使こうてくれたさーびすじゃ、立つとしよう」
くぁ、と小さく欠伸をしながら少女は緩慢に立ち上がって、困惑する京介を覗き込むように小さく背伸びをする。
大人であろうと冷静に振る舞ってこそいるが、そこにある京介の迷いを感じ取って、少女は小さくししし、と悪戯な笑みを浮かべた。
ここに迷い込んでくる人間は二種類に分けられる。
足元の小石を草履で小さくつつくようにゆっくりと京介に歩み寄りながら、少女は長い間、あまりにも永い間見つめていた世界からの結論を頭の中に思い描く。
一つは知りたがりの愚か者だ。
自然を踏み荒らし、自らが松明を掲げて神秘の全てを暴こうとしている探究者なのかそれともただのバカなのかは知らないが、えてしてそうした輩には、少女はお帰り願っている。
もう一つはちょうど、今の京介のように何か強い祈りや迷いを抱えている人間だ。
彼らは恐れている。
それが意識的であれ無意識であれ、目の前に広がる雄大な自然の中で、人間というのはちっぽけな、それこそ宙を舞うひとひらの塵にすぎないということを理解しているからこそ、自らの矮小さをどこかで恥じ、或いは悔やみ、或いはそれに抗わんともがいている。
だがその根源は全て恐れへと接続される。
京介の瞳を覗き込みながら、少女はそこにある、子供が闇の中で膝を抱えて座り込んでいるような恐れに向けて、囁きかける。
「お主、役割に囚われておらんか?」
「……役割? 一体君は……」
「妾がなんであるかなど関係なかろう、そうじゃなあ……例えば今のお主はあいどるなるものの、まあ巫女じゃな、巫女のぷろでゅーさー……? ええいややこしい、仕掛け人をやっておるのじゃろう」
「……何故、それが」
「くふふ、目を見ればわかる。お主のそれは誰か一人を映すものじゃ、そのためになら命だって懸けられる、バカと紙一重の真剣な証拠じゃよ」
指先に蜻蛉を止まらせながら、少女は朗々と、まるで歌劇を演じるかのように言葉を紡ぐ。
京介は、言葉にこそ出さないが確かに彼女を恐れていた。
不気味すぎる。
人の目を見ただけでわかる、とは業界人の間では通じることだが、まさかこの、担当アイドルよりも遥かに年下に見える少女もアイドルで、偶然ロケ地近くの神社に来ていました、なんて確率は今から頭の上に隕石が降ってくるそれに等しいものだ。
しかし同時に京介は少女を畏れてもいた。
理屈で説明できない不気味さこそあるものの、その観察眼は「目を見ればわかる」。長く人間を見てきたものでなければ、殺伐とした芸能界を生き抜いてきた京介の瞳の奥底など、覗けはしない。
それに、どうしてか思い出すことができないが、どこかで会ったような──容姿に見覚えは確かにないのだが、その甘ったるくも老獪な言葉遣いはよく慣れ親しんだどこかで聞いたことがあるという確信が、胸の中に息衝いているのだ。
「お主、相当決意が固いの。妾のことをこの場で微かでも覚えていられる……これは相当なものじゃぞ、誇っても良い」
「……決意、とは」
「何、そなたを縛る鎖と同じものじゃよ。陰と陽、光と影は同じ絵札の裏と表。決意とは頑迷であり、頑迷は岩をも通す一念ともなる」
己の細い指先から飛び立った蜻蛉を見送りながら、少女は静かに、まるで泣いている子供に言い聞かせるような口調でそう語った。
長所と短所はえてして、裏返しになった同じものだ。
就活の時の自己分析セミナーとやらで耳にタコができるほど聞かされた言葉だが、それは間違いなく一種の真理、宇宙に定められたルールだといっていい。
例えば規則正しい人間がその規則を破る者を許さないように、礼儀正しさは礼儀に縛られていると言い換えられる。
例えば無計画に旅をしては放浪する人間は、計画するだけ計画して何もしない人間よりは行動力があるといえる。
要するに何事もいいことばかりではないし悪いことがあって、悪いことばかり続くのではなくどこかにいいことが転がっている。
そんな風に考えられること自体がある種の幸福であることは否定しない。
必死に日々を送れば送るだけ、ただその世知辛さに縛られることの方が多いのだから。
だから少し立ち止まれと、この子は言っているのだろうか。
京介は微かに訝しむ。
「己の手札が沢山あっても、そこで使う役を固定してしまっていては……勿体無いじゃろう?」
あえてハズレを引くのもまた楽しみ。しかして、常に博打を打っては愚か者。
その均衡こそが大事で、京介にはその均衡が欠けていると少女はじっとその目を見つめながら、指をさして断言する。
「……君が、GBNについて知っているかどうかはわからない」
「うむ」
「……確かに僕の悩みは、ディバインダブルオークアンタを……いや、違う。大好きだと思って作ったガンプラの可能性を、自分が信じてやれないということだったのかもしれない」
会ったばかりの少女にこんなことを零すのも情けないと思いながらも、京介の唇はどうしてかその言葉を、己の中にあった焦りを、恐れを紡ぎ出していた。
「壁に当たった時、真っ先に疑いたくなるのは己の限界だ。伸び代がどれほど残っているかなんて、それこそ神様しかわからない。だからこそ、人は、いや、違うな……僕は焦って、才能を言い訳にしようとしていた」
「うむ、よくぞ……その答えに辿り着いたの」
恐れを認めて、敬うことが、立ち向かいながらも背中合わせのそれを拒絶するのではなく、手を繋いでいくことこそが寛容なのじゃ。
少女は満面の笑みを浮かべて、腰に手を当てながらそう言って胸を張った。
自分以上のものを目指すあまり、足元が見えなくなるなどよくあることだ。そしてそれは、何度も京介が陥ってきたことだった。
ならばその度に自分はどうやって立ち直ってきたのか。
答えは簡単だ、まだ至らないことを認めて、まずは一歩を踏み出す。
壁に恐れるのではなく、その届かない未来を畏れて、夢を見ながらも現実を踏み締めて歩いていく。
それは何もGBNに限ったことではない。
現実でだって、京介は担当アイドルと共にそうやって歩んできたのだから。
「……ありがとう、会ったばかりの僕の悩みなんかを聞いてくれて」
「なぁに、賽銭の礼じゃと言っておるじゃろう、キョウスケの坊よ──強い祈りというのはな、強い恐れと敬いはな、妾たちにとってはそれだけで嬉しいものなのじゃよ」
いつか人々は、この星を離れて遥か遠くまで旅立っていくのかもしれない。
太陽を掴むように手を伸ばしながら、少女は小さく、己の「恐れ」を誤魔化すかのように笑ってみせた。
数字にすれば数億年。星にとっての一秒は人間にとっては長すぎるが、永劫の中では短すぎる。
あの果てしない流れ、何処かに向かって進んでいく時の大河。
その景色を思えば今の地球など、泡沫の夢に過ぎないのかもしれない。
「キョウスケ? 僕は──」
「待っておるぞ、高みでな」
だからこそ、夢を見よ。
故にこそ、夢に挑め。
ならば妾は敢えてその壁となろう。敢えてその未来を示すことで、瞬く星の一刻を生きる人々にとって、より実りある太陽の光となろう。
少女はそんな、己が抱く決意にもよく似た夏の日差しのような微笑みで、迷い込んできた京介を送り帰す。
きっと彼なら、そして彼の愛機たる聖騎士、ディバインダブルオークアンタならすぐに10位代まで来てくれることだろう。
だからこそそんな近い未来に、少女は、一人の戦士とあいまみえることを夢見るのだった。
「あのー、大丈夫ですか?」
「ん……? すまない、君は……?」
「あ、私この神社に用があってきたヒナタ、っていうんですけど……えっと、暑い中ずっとぼーっとしてたから大丈夫かなって」
「……ぼーっとしていた?」
確かに長時間、どこかで何かをしていたような感覚が自分の中に残っているのは把握している。
乾いた喉に改めて鞄の中から取り出したスポーツドリンクを流し込んでいくが、その量が、どこかで飲んだはずなのに減っていないことに困惑しつつも、京介は茹だった頭の中で考える。
目の前では、確かに旅行雑誌に載る予定の担当アイドルの写真撮影が行われていて、自分は山道の駐車場に車を停めて、それから彼女を迎えにきていて。
それから、どうしたのだったか。
どうしても思い出せない記憶の欠落に、どこか不気味さを抱きつつも、不思議と自分の胸の支えが取れているような感覚に、京介は小さくふっ、と笑った。
「ヒナタさんだったかな、ありがとう。僕は心配ないよ」
「そうですか、ならよかった……ごめーん、ヒロト、待たせちゃった!」
「ん、大丈夫。ヒナタ」
心から安堵したように胸を撫で下ろすと、ヒナタと名乗った少女はきっと同級生であろう、ヒロトと呼ばれる参道近くで待っていた少年と合流して、GBNがどうのこうのと他愛もない言葉を交わしながら去っていく。
「……幽霊の正体見たり枯れ尾花、か」
それは、本当に枯れたススキが見せた幻影だったのだろうか。
微かに頭の中に残る、飴玉の鈴を鳴らしたような声音を思い返して、京介は静かに、彼方へと飛び去っていく秋茜を見送った。
文明の灯は、未だ全てを照らし切れていない。
光の届かない海の底、そしてまだ見ぬ星の彼方。
そんな大それた場所でなくともそれは、案外近くにあるのかもしれない。
改めて神社の賽銭箱に五百円玉を入れて、からからと鈴を鳴らしながら京介はありがとう、と、そのどこかで聞いたような声に、感謝を──恐れと畏れを、同時に捧げるのだった。
FOEさんのちょっと奇妙なお話、尚その後ヴァルガに新たな手管を探るべく蒼い極光が吹き荒れたことは言うまでもない