ハードコアディメンション・ヴァルガから帰還したロビーにアイカたちを出迎える者はいない。
普段であればフレンドの様子をくまなく探しているであろうマギー辺りが初心者、それも初めて二日目のダイバーが自発的にあのディメンションに潜って生還を果たしたとあらば祝福してくれそうなものだが、生憎彼女は今、別件で多忙の身だ。
それ故にアイカとエリィはあの悪質クリエイトミッションに引っかかることになってしまったのだが──そんな事情は露知らず、帰還した二人がまず最初に行ったのは生還を喜ぶことではなく、ぐったりとロビーにへたり込んで、大きな溜息を吐き出すことだった。
疲れた。死ぬかと思った。
自分で決めたこととはいえ、情報が洪水を起こして脳裏で氾濫しているような感覚にはとにかくげっそりする。
エリィに至ってはどこか上の空で、焦点の合わない目でロビーの天井を茫洋と見つめている始末だ。
「だから言ったじゃん? 割に合わないってさ」
修羅場慣れしているチィは大して思うところもないのか、ロビーの壁に背を預けて、いつものように物質化した1BCを親指で弾きながらニヒルに唇を歪めて笑っている。
200BCでヴァルガ行きとか、チィじゃなかったら絶対引き受けてなかったかんね。
釘を刺すような言葉の意味も、今となっては心で理解できる。とはいえ、事前にさっきの出来事を一部始終見せつけられたとして、それでやめるかと訊かれればアイカは首を横に振るだろう。
まあそれは、エリィの願いだったからであってアイカ一人だけでもう一度あの場所に行きたいかと問われればやっぱり首を横に振るのだろうが。
脳裏を荒れ狂う情報の波が去って、落ち着きを取り戻した思考回路が変わらない答えを導き出すことに、アイカは小さく笑った。
──なんだ、エリィちゃんも大概意地っ張りだけど、あたしも大して変わんないじゃん。
そんな、遅れてやってきた達成感じみたものに身を委ねている時だった。
「以前……お会いしましたね」
どこか剣呑な空気を漂わせて、あの紅いガンダムを駆っていた金髪碧眼の女性ダイバー……ダイバーネーム、「アキノ」が沈黙を破って口火を切る。
その目付きは険しい。恐らく、無理をしたことを咎めているのだろう。
有無を言わさない圧を持ったその眼光に少しだけ怯みはしたものの、臆することなく真っ直ぐにアキノの視線と自らのそれを重ね合わせて、アイカは続く言葉が紡がれるのを待つ。
「申し上げにくいことですが……また、騙されたのですか?」
「へ?」
しかし、その口から飛び出てきたのはアイカが予想もしていなかった言葉だった。
微かな怒りが窺えたその瞳は憐憫や同情に色を変えていて、ああこの人は本気なのだ、と、本気で二度も自分たちが騙されてあの場所に行かされたと思っているのだと理解する。
(……なんていうか、失礼だけど……)
「アキノだっけ? 堅物だね」
アイカが頭の片隅に浮かべたものの胸の内側にしまい込もうとした言葉を継いで、チィがコイントスをする手を止めて戯けたように首を傾げ、肩を竦めてみせる。
「堅物……? 失礼ですが貴女は? 初対面の人間に対してそのような」
「あーうん、ごめん。気に障ったなら謝るけどさ、アイカとエリィはあんたに会いにいくためにわざわざあそこに潜ったんであって、誰かに騙されたわけじゃないし、チィを疑ってんなら申し訳ないけどシロだよ」
あの視線が向いていた先はチィだったのだろう。どこまでその評判や手口を知っているかはともかくとして、マナーを重視しているアキノであればいくらハードコアディメンションとはいえMPKを誘発したり、作る方も作る方とはいえ開発者用の裏口突破で報酬をせしめるといった彼女を問題視していてもおかしくはない。
だが、もしチィの手管を知っているなら疑いよりも先に嫌悪を向けていただろうから、知らないと見る方が妥当だろう。
ふむ、と、右手の指、その甲を唇に、親指を細い顎に当てる仕草を見せてアキノは数秒間沈黙した。
「……そうですね、貴女が仮に彼女たちを陥れたなら彼女たちは嫌悪を示していたでしょう、疑って申し訳ありません」
「あー、別にいいよ、そういうの。てか敬語やめて、マジで背中痒くなっからさ……おいエリィ、あんたの探し人だぜ、いつまで惚けてんだ」
何故そこで突っかかる必要が、と、反目するアキノの言葉を遮り、チィは未だ心ここにあらずといった風情で天井を見つめていたエリィの両肩を揺さぶって意識を無理やり引き戻す。
「……あ、あぅ……わたし、何を……」
「生き残って帰ってきたんだよ、それより早くあいつに礼なりなんなり伝えることがあるんじゃねーのか」
荒療治ではあったがエリィの再起動も完了したようで、当惑する彼女にアキノの存在を指し示してチィは小さく溜息をつく。
まあ、考えてみれば無理もないことではある。レクチャーしたとはいえ初心者が三分の壁を突破して、その後に相手も手負いだったからとはいえリソースの全てを使い果たすような戦いの果てになんとか勝利を収めたのだ、それだけ一気に情報を詰め込まれて、パンクするなというのも難しい。
「エリィさん、でよろしいですか?」
「は、はい……」
「不躾ながら貴女たちの行動は危険なものです。今後は謹んだ方がよろしいかと。ですが、そうまでして私に伝えたいことがある、というのは……何か見過ごせない違反行為か何かに巻き込まれているのでしょうか? 私に力になれることであれば、ザ・シルバリィの名に懸けて力をお貸しいたしますが」
頭の中に石でも詰まってるか脳みそが利用規約で出来てんのか、こいつは。
何から何までGBNの秩序に関することしか考えていないようなアキノの態度にチィは気付かれないように呆れて、それを俯瞰するアイカは、どこか剣呑で正反対な二人の様子にただ愛想笑いを浮かべることしかできなかった。
「い、いえ……その……巻き込まれている、わけでは……」
「では、何か人には言えないような事情を知ってしまったと?」
「あ、あぅ……その……あの……」
「えっと、エリィちゃんはお礼が言いたいんです」
どこまでも融通の効かない二人をこのまま放置していれば平行線を辿るであろうことは火を見るよりも明らかだ。
アイカはずい、と詰め寄られて少し引き気味になっているエリィを庇うように前に出て、端的に事情を説明する。
「お礼、ですか……?」
「はい。あたしも、最初にあのヴァルガってディメンションに行った時は騙されて飛ばされちゃったんですけど、アキノさんが助けてくれたじゃないですか」
忘れはしない。深紅のガンダムが炎を携えて小悪党共を薙ぎ払ったあの光景と、凛と響き渡る言葉を。
ありがとうございます、と、頭を下げるアイカに続いて、エリィもまた、相変わらず蚊の鳴くような、今にも消え入りそうな儚い声音で同じ言葉を唇から紡ぎ出した。
たった、それだけのことだ。それだけのことかもしれないけれど、きっと死力を尽くして気力を削って、手繰り寄せる価値のあった運命だと、アイカはそう確信している。
チィはあの災害みたいな砲撃を放ったクアンタのカスタムモデルに遭遇することを乱数の神に祈っていたのなら、きっとエリィが同じ神様に祈っていたのはこの再会で、それが果たされた。
なら、それで十分だ。死ぬような思いをしたとしても、苦労に見合うだけの対価はある。
じっと、唇を真一文字に引き結んだアキノの瞳を見つめるエリィが同じことを考えているのかどうかはアイカにはわからない。
それでもその目には、消え入りそうな声とは対照的に、アイカが垣間見てきた強く真の通った想いが宿っている。
沈黙。そんなつまらないことのために危険を犯すなとアキノが怒り出すのであっても無理はないと思うし、それでも構わないと思う。
それは正当なものだ。自分たちが褒められたことをしたのではないことぐらいアイカにもわかっているし、何よりもGBNの秩序や安寧、マナーを優先しているであろうアキノの信念がエリィの瞳に勝るとも劣らないぐらいに堅いものであることだって想像がつく。
だが、それはそれとしてこの空気は気まずい。どこか刑の執行を待つ罪人のような面持ちでアイカはアキノを見つめ、チィが指で弾くコインの音を数えながら、ただ答えが返ってくるのを待つ。
そして。
「……ええ、と、その……」
「はい」
「ああ?」
「……あぅ……」
「正直、その……困惑しています……」
長い沈黙の末にアイカが見たものは、鋼鉄の意志で武装して、凛とした表情を保っていたアキノのそれがふにゃふにゃと崩れて、頬を真っ赤に染めながら三人へと向けていた視線を外すという、またも予想の斜め上を行くような光景だった。
ダイバールックにアクセントとして銀色が各所に配された黒いロングコートを纏う軍人然とした姿の女性が、同じ装飾が施された軍帽のようなものを目深に被り、生娘のように頬を染めている。
なんというか凄絶だ。ギャップとか、そういうあれが。
急にもじもじと自信をなくしたアキノに、アイカは驚愕を、エリィは困惑を、チィはいつも通りに感情の読めないニヒルな笑いをと、三者三様、しかしその根底には同じく好奇を宿した視線が突き刺さる。
「……私は、煙たがられこそしても、誰かに感謝されたことなどありませんでした。なので……その、困惑していて……尊敬するキャプテン・ジオンのようにウィットに富んだセンスがあったなら、少しは違ったのかもしれませんが……ええ、そうです。チハヤさん。貴女が指摘する通り、私は堅物なのです……」
はらり、と、アキノの碧眼から一筋の滴が溢れて落ちる。
それはきっと、あの日ガンダムベースで見た「絵理」の涙と根を同じくするようなものだと、アイカは思った。
自治厨、という言葉がある。
古くはインターネットの匿名掲示板において利用者が立てたスレッド、特定の話題について話し合うトピックの中でもパート化して長く続いてきたものに見られる、ローカルルールを守らない人間を過剰に咎める人間を指して使われてきたように、それは決してプラスのイメージを持った言葉などではなく、厄介者に押される烙印に等しい。
そしてアキノの行いは、その是非を問うことを置いておけば、間違いなくその烙印を押されるに値するものなのだろう。
煙たがられてきた、の一言に包み込まれた重みに、アイカは、かける言葉が見つからなかった。エリィも、同じだった。
「アキノでいいんだよね? とりあえずそのチハヤってのやめてよ、チィはチィでいいからさ」
見りゃあわかるよ、と、皮肉を飛ばさなかったのはチィの優しさなのか、それ以上に自分が嫌っているダイバーネームで呼ばれたことへの反駁なのかはわからない。
だが、きっと前者なのだろうと、アイカは思う。
誠意は言葉ではなく金額。チィが好んでいるその言葉が示す本来の意味は、言葉や感情ではなく金額、その数字の大きさこそが他人に示せる誠意の証明であり、裏を返せばそこにある想いなど、何の役にも立たない、ということでもある。
その言葉を残した人物は後に何も言わずに大金だけを寄付するという形で自らの誠意を体現させたのだが、それは置いておくとしても、チィがもし本当に、厳格な意味でその言葉を好んでいるというのなら、200BCというアイカとエリィにとっての全財産であったとしても端金で無謀なミッションを引き受けたりはしなかっただろう。
ならば、そこにあったものは優しさとか、そういうものではないかと思う。
無論、チィが自分から何でも手伝うと言い出した負い目はあるだろう。それでも、彼女が慣れたプレイヤーであるなら、ネトゲについて回るトラブルの一つとしてアイカとエリィを切り捨てることだってできたはずだ。
だが、チィはそうしなかった。
「チィもさ、感謝してんだよ。堅物っつったのはマジでごめん、それはチィが悪かった。あの時アキノが助けてくれなきゃ死んでたからね」
「チハヤさん……いえ、チィ……」
「だからさ、まあなんつーか……何があったか知らねーし訊かねーけど、とりあえずありがとよ、アキノ」
踵を返して、ばつが悪そうに髪をかき上げながらチィは言った。
恐らく、照れ隠しなのだろう。だが、そんなチィの子供っぽさを笑う者はこの場に一人としていなかった。
「……あ、あの……アキノ、さん……」
「なんでしょうか、エリィさん」
「……その、わたしも……改めて、ありがとう、ございます……そ、それと……差し支えなければ、わたしも、エリィで……構いません、ので……」
きっと精一杯の勇気を振り絞って、そこまで語ると、エリィは先ほどまでのアキノのように顔を真っ赤に染めて、アイカの後ろに隠れてしまった。
それでもよく頑張った。その勇気を認めるように銀髪をそっと撫でながら、アイカはちらりと横目に見たエリィにそっと微笑みかける。
「……てかアキノ、今フォースとか所属してんの?」
「チィちゃん、何言って……」
「チィの記憶が正しけりゃ、ザ・シルバリィってもう解散したフォースっしょ? ならさ、アキノ……ってかアイカもエリィもだけど、良けりゃフォースとか組んでみない?」
袖付きがどうのこうのって言うしさ、といつもの誤用を披露しつつ、チィは三人にそう提案した。
そこにある意図は半分ぐらいは善意からくるものだ。だが、打算がないかと問われれば嘘になる。
チィとしては一度目をつけられてしまった以上、また悪質クリエイトミッションの穴をついて荒稼ぎに回るのもリスクが高いし、野良で所属フォースを探すにも、自分のやり口はGBN内にコンテンツとして設置された掲示板で共有され、ブラックリストに突っ込まれている可能性が高い以上、それも厳しい。
(アキノは見たとこクソ強いし、アイカもエリィも素質は悪くねえ、すぐに……って訳にゃいかねーだろうけど、足掛かりとしちゃ十分だろ)
ならば、ゼロからフォースを作るにもチィの素性を知らず、知っていても関心を持たず尚且つ伸びる素養のある人間を探すという手間を省ける今は、面子に多少人格的な問題を抱えていようが最大の好機だ。
あくまでも金を稼ぐこと。何よりそれがチィにとってこのGBNに潜り続ける理由で、そのためならリスクも厭わない覚悟もあるが、ギブアンドテイク、WIN-WINの関係が成り立つのであれば、そしてそれが自分にとって利益を最大化する手段であるのなら、多少の不利益に目を瞑るのだってやぶさかではない。
──それに。
もう一つ、内心で呟きかけた言葉を形にする前に押し潰して、何事もなかったかのようにチィは提案への返答を待つ。
「私を……受け入れてくれるのですか?」
「もちろん! って、なんかあたしが代表者みたいになっちゃって申し訳ないんですけど、あたしとしてはエリィちゃんとチィちゃんとアキノさんがいいなら、フォース? っていうの、組んでもいいかなって思ってます☆」
ビシッと右目の脇でピースサインを掲げて、アイカはチィの提案を承諾する。
フォースについて詳しくはわからないが、要するにチームみたいなものだろう。
あまりバトル系の動画は漁ってこなかったからよくわからないが、バイト先のライブモニターに結構な頻度で映るチャンピオンの動画には「AVALON」というフォースでミッションを攻略するといった趣旨のものが多かったように記憶している。
「……わ、わたしも……お三方の、ご迷惑で、ないのなら……」
「チィはさっき言った通りだよ、そんじゃとりあえずアキノ、あんたは?」
「……不束者ですが、よろしくお願いします」
「そんじゃ決まりって訳だ、んじゃアイカ、びしっとよろしく」
「了解っ☆、それじゃ、申請を……って、あ」
アイカが開いたコンソールからフォース結成申請を送ろうとしたが。
【ERROR:フォースの結成にはダイバーランクD以上が条件となります】
吐き出されたものは、無情なエラーメッセージだった。
『それでは……不躾かもしれませんが、とりあえずフレンドから始めましょう。ランクが上がったら教えてくださいね』
『フレンドだけど、チィは悪いけどパスするね。三人が嫌いとかじゃなくて……まあ訳ありみてーなもんだからその辺は聞かないでくれると助かるわ、一応毎日ロビーにはいるから手間かと思うけど探して教えて』
なんともしまらない結果に終わってしまったが、アキノとフレンド交換を、チィとは約束を交わす形で、愛香はGBNからログアウトする形になった。
顔から火が出そう、というのはきっとこういうことなのだろう。
「ネトゲやってる人がWiki読まない人に怒る気持ちがわかったよ……」
「……あ、あの、落ち込まないで、ください……その、わたしも……ランク……足りて、なくて……」
「ありがとね、絵理……あーもう恥っずいなあ……」
絵理に左手を掴まれる形で、寄り添いながら二人はすっかり夜の帳が降りたシーサイドを歩いていた。
かつん、かつんと、絵理の白杖がコンクリートの地面をなぞる音が夏の気配を宿した海風に乗って、彼方へと吹き抜けていくような、少し気怠くも心地よい感覚に、現実逃避をするように身を委ねながら愛香はがくりと肩を落とす。
チィが言っていた訳あり、というのも引っかかるといえば引っかかるが、それ以上に自分の失敗がただただ恥ずかしい。穴があったら全力で飛び込みそうな勢いだ。
「……その、愛香、さん……」
「んー……なに、絵理?」
消沈していた愛香の耳朶に、囁きかけるような絵理の声がそっと触れる。
生返事で済ませてしまうのもなんだか悪い気もするが、もう今日の愛香は店じまいだ。あの情報量の洪水みたいな出来事だけで神経が焼き切れそうだったのに、最後の最後に特大のミスを犯してしまえばこうもなろう。
これも乱数の神様が望んだ運命を引き当ててくれた反動か。だとしたら乱数の神様とやらはとんだ性悪だ。お祈りゲーは悪い文明。鉄パイプがミサイルポッドに化けるのを祈りながらリセゲーさせられるのも全てあの神様のせいだ。
誰かが聞いているわけでもないが、自己弁護じみた言葉を疲れた脳内で繰り返しながら愛香は続く言葉を待つ。
「……ありがとう、ございます……」
「ん、何が?」
「……わ、わたし、その……今まで、生きてて……よかったことなんて……数えるくらいしか……なかったんです……」
絵理は足を止めて、長い前髪の左側を止める、イルカを象った銀色のバレッタに触れながら静かにそう呟いた。
その仕草に、そして指先が触れたバレッタにどんな意味が込められているのかを、愛香はきっと完全には理解できない。
それでも、きっと無理をして笑おうとしてきたのが癖になって、くしゃりと歪んでいつも、誰かの機嫌を伺っているように笑う絵理だ。ならばその言葉には何一つ誇張などなく、真実なのだろう。
重い。わかってはいたけれど、ただひたすらに絵理の言葉は愛香の心臓を鉛の塊で包み込むような感触を持って鼓膜を震わせる。
「だから……ありがとうございます……迷惑、かけちゃったかもしれません……ごめんなさい……でも、今日は……楽しくて……わたし……本当は……思っちゃ、いけないのかも、しれません……でも、でも……生きてて……よかった、って……」
だが、それでも決めたのだ。ぽろぽろと焦点の定まらない左眼から涙を零し続ける絵理の頬にそっと右手を伸ばして、愛香はその涙を掬い取る。
そのまま口元に指先を運んでみれば、薄い塩の味が舌先を伝わって胸を刺す。こんなことが何かの代償行為になるとも思っていない。こんなことで絵理が味わってきた痛みや苦痛を分かった気になれるとも思っていない。
それでも知っておかなきゃいけない気がしたのは、もう脳みそが疲れ果てていたからなのか、それとも自分があの時、「アルス・ノヴァ」のノゾミを見た時と同じなのか──夜の塩気と気怠さと疲労に当てられて、どこか朦朧とした愛香の頭では、その答えはわからない。
だが、きっとどっちでも同じだった。痛みの味を、生きているという当たり前にさえ罪の意識が傷を作って流れ続ける無色透明な血液を、一雫でも掬い上げること、それができるなら、それしかできないとしても。
「あたしもなんだかんだ言って楽しかったよ、絵理。それじゃ……」
また、明日。駅のホームに着いてしまえば、二人は一人になってしまう。
「……っ、はい……愛香、さん……また、明日……っ……!」
それでも、きっとこの言葉があれば、明日にまた二人に戻れる。
何の確証もないけれど、何の根拠もないけれど。
願っている。そうなることを。守ろうとする。そうであれというように。
だから、世界は根拠も理由もないその言葉を、守ろうと思うことを含めて、約束と呼ぶのだろう。
そんな約束を抱えて、愛香と絵理は反対のホームに分かれて家路に着くのだった。明日の再会を、頭の片隅に描きながら。
第一部、完