午前7時。
隣で寝ている怜を起こさないように、目覚まし時計を鳴らさずにそっと起きる。カーテンの隙間から僅かに差し込む光が心地良い。
出勤前の朝の時間、ベッドの上で眠い目を擦りながら、怜の幸せそうな寝顔をじっと見つめること。
それが、うちの幸福の時間。
思わず怜のさらさらの髪を撫でたくなるが、起こしてしまっては元も子もないのでじっと我慢して熟睡の時間を見守る。
「でも、もう色々準備せなあかんなぁ……」
ゆっくりと怜を起こさないようにベッドからキッチンの方へと移動し、エプロンをつけて炊飯器の電源を入れる。前日の夜にお米を研いで準備をしておくと、スイッチを押すだけで良いので楽だ。
帰りは22時過ぎになるだろうから、夕食を準備しておかないといけない。
遠征中は出前を頼んでもらっていることが多いので、ホームで試合がある時には自分で作ったご飯を怜には食べてもらいたい。
お店のものはやっぱり味付けが濃いし、栄養も偏るから……
フライパンで塩しゃけのバター焼きを作りながら、レンジで付け合わせの温野菜を作る。
これに常備菜の大根と油揚げの煮物ときんぴらごぼうがあれば、夕食としてそれなりに格好はつく。
「お味噌汁も作ってあげたいんやけど……コンロは危ないしなぁ」
プラスチックのお皿に盛り付け、お盆の上に配膳してみると、少し物足りない気がしたので、薬味の小ネギを切って冷奴を足しておくことにした。
とりあえず、お豆腐があるメニューなら、怜のほうから文句が出ることは少ないので、こうしていつも使ってしまう。
朝ごはんの生ハムのサンドイッチと目玉焼き。それからトマトサラダを作りフライパンを洗い終えると一息つけたので、コーヒーと朝食を持って、ダイニングの方に移動することにした。
サンドイッチを食べながら、タブレットで保有している米国市場ETFの値動きを確認する。
お行儀が悪いが、怜はまだ寝ているだろうから見られることはあらへんから、ええかといつも自分を甘やかしている。
「銀とパラジウムがじわっときとるけど……あとは、とくになんもあらへんし。やっぱ平和が一番やなぁ」
各種インデックスを確認しながら、朝ごはんを食べ終えると、炊飯器のアラームが鳴ったので、さっそく炊き上がったご飯をお茶碗に盛り付けた。少し冷めたら冷蔵庫にしまっておこう。
怜が日中にお風呂に入りたがるかもしれないので、お風呂を簡単に掃除しておく。それから、洗顔をして軽くお化粧をしてスーツを着れば準備万端。
いつでもスタジアムに行ける。
「ときー行ってくるなー」
寝室のパーソナルソファーの上に、着替えのルームウェアを置いてから、寝ている怜に、小さく声をかけてみたが反応はない。
目を閉じているぷにぷにほっぺの世界一かわいい女の子との別れを惜しみながら、うちは職場へと向かった。
❇︎
午前10時。
スタジアム入り。
野依さんへ挨拶を済ませてから、談話室で対戦相手の3チームの各選手の直近の牌譜をチェックする。
牌譜はタブレットで見ることが主流になりつつあるが、紙で読み込むことで、頭の中にある脳内麻雀卓が稼働し始めるので併用が大切やと思う。
「清水谷先輩、コーヒーを淹れました。いかがですか?」
「ありがとや、泉も一緒にコーヒー飲まへん?」
「はい、ありがとうございます」
コーヒーサーバーを持ったまま直立している泉を席に座らせて、牌譜の用紙を分け与える。
「花田さんや、赤土さんの牌譜もありますけど……清水谷先輩と当たることあるんでしょうか?」
「団体戦じゃほとんどあらへんやろな、でも個人戦で当たるから折角の機会やしな」
「な、なるほど……ですね」
先鋒の選手の牌譜はあまり見る必要がないのだが、春季個人戦や雀聖戦の対戦相手になるかもしれへんから良くチェックしておく。
個人タイトルは優勝しなければ賞金も低い上に、対局数も多くなってしまうのであまりメリットがないので、今まであまり出場してこなかった。
「雀聖戦、応援しています」
「ん? うちを応援してくれるんか? 怜やなくて?」
牌譜を持ってそう呟いた泉に、うちは疑問の言葉を投げかけた。
「そ、そりゃあ園城寺先輩も応援してますけど。清水谷先輩だって応援してますよ」
「挑戦者決定戦、怜と当たるかもしれへんけど?」
「その時は、どっちも応援します」
「そか」
泉の正直な物言いに、うちの口角が少し上がっているのがわかった。
雀聖戦、最高の状態で怜と麻雀が出来たらええな。
「清水谷先輩、楽しそうですね」
「せやなぁ……うちというより、怜に楽しんでもらえたらええなって」
「そ、そうですか……」
泉が紙の牌譜を閉じて、タブレットでデーターベースを検索し始める。
「泉は、牌譜はタブレットでみるん?」
「はい、こっちのほうが便利なので」
泉は当然のようにそう言ったが、それではあまりにも味気ない。
「泉、そういうところがあかんねん」
「は、はい」
「これから、スタジアムで紙以外の牌譜見るの禁止な?」
「え!? さ、さすがにそれはいくらなんでも……」
「ああ、ミーティングの時はタブレットで見てええで、不便やし。だから、他の場面では全部紙や、わかった?」
「は、はい」
明らかに不満そうな顔をしている泉だが、いずれわかる時がくるので、軽く突き放しておくことにする。
「試合前のミーティング、最近うちやコーチが話してる場面が多いと思わへん?」
「そ、そうですね……清水谷先輩の意見はとても参考になります」
「そういうのはええねん。うちが一回発言したら、泉も一回発言しろや。不公平やろ?」
「わ、私がそんなに喋ったらあかんと思いますし……清水谷先輩みたいに、鋭い意見とか言うことできまへんし……」
「え? やらへんの?」
「やります」
最下位というのもあり、チームに活気が感じられないので、ミーティングで色々と意見を出し合って盛り上げていきたい。その考えに泉も納得してくれたようなので、胸を撫で下ろす。
「意見言わなかったら口聞かへんけど、あんまりつまらへんことばっか言うと、監督やコーチの信頼損ねるから気をつけてな。その紙の牌譜はあげるから」
「は、はい……ありがとうございます」
「あと、隠れてツール使ったらあかんで? わかった?」
「はい」
すごい勢いで牌譜を読み始めた泉と別れて、うちはカフェテリアに向かった。試合開始前にしっかり栄養をとって、万全の状態で臨みたい。
❇︎
午後2時。
ご飯とミーティングを怒涛の勢いでこなしてあっという間に試合開始となった。
先鋒は二軍から復帰してきたエースの椿野さんだが、気負いがあるのか乱調気味でイマイチ麻雀がまとまらない。
先鋒第一半荘だけで、戒能さんに三万点のビハインドを背負わされた段階で、今日の登板の可能性は低いだろうなとうちは、予想をたてた。
調整室のモニターで、試合の映像を流しながらダラダラと牌譜を確認する作業にも飽きてきたので、何切る問題を一冊解き終えてから、シャワーを浴びることにした。
牌の流れを無関係と仮定した牌理に、どこまで価値があるのかはわからないが、やっておくに越したことはないだろう。
❇︎
午後9時。
今日は終始チームはビハインドを背負い続けたため、出番はなかった。
監督からの簡単な連絡事項を聞いてから、足早に地下駐車場へと向かった。
荒川さんの調整に付き合って少し牌を触ったくらいで、今日はほとんど卓についていない。
「まぁ……試合勘はともかくとして、じっくり調整してタイトル戦に臨める環境は悪くあらへんなあ」
今日の試合はサクサクとしたペースで進んだため、早めに家路につくことができる。
車のキーを差し込んでベソツのエンジンが響き始めると、その音をかき消す地響きのような排気音のあとに、轟音のような野依さんのスーパーカーのエンジン音が響いた。
「野依さん、エンジン必ず乗ってからすぐ鳴らすんよなぁ……段差でモタモタされても手間やし早めに出発せな」
スーパーカーはスーパーという割には、路上の僅かな段差も上がれない欠陥品のため快適には程遠い。
良いところは、ドアが上に跳ね上がることと見た目がカッコいいところだけである。
アクセルを踏んで安全運転で帰宅する。
うちのような妻帯者には、この車が一番間違いがない。
❇︎
午後10時。
怜の待っているおうちに、ようやく帰ってくることが出来た。
「ときーただいまー」
玄関のドアを開けても、お返事がないのはいつものことなので気にしてはならない。
スーツにブラシを当ててから、ハンガーにかけてリビングルームに向かう。
「ときーただいま」
「おかえりやで」
ソファーの上で寝返りをうちながら、ゴロゴロしている怜から、そうお返事を返ってきた。
ダイニングテーブルの上に広げられた、お皿と食べ残しを見てちゃんとご飯を食べてくれたことに安心する。
「にんじんさんも食べなきゃ駄目やで?」
「す、少しだけ気分やなかったんや……」
栄養のバランスが偏ると健康に触るかもしれないので、お皿を持ってソファーのほうに行って、怜に人参を食べさせてあげることにする。
「はい、あーん」
うちが箸で人参を掴んでそう言うと、怜は嫌々ながらもお口を開けてくれた。頑張ってお口を開けている姿がとってもかわいい。
こうして『あーん』してあげると、食べてくれるあたり、うちが怜のことを好きなのと同じように怜もうちのことが好きなんやなと実感できて、とても心が安らぐ。
「ふふっ……あれ? お風呂沸かして入ったん?」
「さっき入ったで、気持ち良かったわ」
「そか、じゃあうちも後でいただくな」
職場でもシャワーは浴びているが家のお風呂の方がリラックスできる。
夕ご飯のお片付けと、怜の脱ぎっぱなしのパジャマを洗濯機に放り込んでから、ホットココアを2つ作って怜の目の前のローテーブルにおくに。
「サンキューや」
そう言って怜はタブレットを脇に置いて、両手でホットココアのマグカップを持って、ご機嫌で飲み始めた。
磁器の怜のお気に入りのマグカップで持っていってあげたのが、良かったのかもしれない。
「今日も試合出られへんかったなぁ……」
ソファーに座って、ココアを飲む愛らしい姿を鑑賞していると、怜が残念そうにそう呟いた。
しかし、うち自身は、登板機会が少ないことをあまり気にしていない。
むしろ、これはラッキーだと考えている。
「んー個人戦も近いし、別に今日麻雀せんでもええやろ」
「まあ、そういう考え方もあるやろか?」
怜はそう言ってから、頭をうちの太ももに乗せてきたので、怜が寝転がりやすいように膝枕の形を作ってあげる。
疲れていたのだろうか、怜はすぐに目を閉じてウトウトし始めた。
怜の髪を、優しく撫でる。
怜の楽しいに貢献してあげたい。
それがうちの生き甲斐だから。
雀聖戦、一緒に麻雀しようね。
すやすやと寝息を立て始めた怜を起こさないように、うちはそう小さくつぶやいた。