「やあ、忙しいところわざわざ呼び出してすまなかったな」
「いえ、特に予定もなかったので」
ホテルのラウンジのソファーに腰掛けた弘世さんは私の返事を聞いて、小さく頷いてから私に席とお菓子を勧めてくれた。
三段のアフタヌーンティースタンドから、イチゴのムースとクランペットを取り分けて自分のお皿の上に置く。
「紅茶で良かったのか? いつもはコーヒーを飲んでいるイメージがあるが」
「うーん、このお菓子には紅茶のほうが合いそうなので」
私がティーポットを持とうとすると、弘世さんはそれを手で制して紅茶を私のカップに注いでくれた。
ローテーブルに、ふわりとバニラとライチの混ざったような爽やかな香りが立つ。
「ありがとうございます」
「いや、これくらいはな。個人戦の疲れもあるだろうし」
「いえ、それほどは。それに秋期もありますから」
春期個人戦は、衣ちゃんの優勝で幕を下ろした。
全勝の私と姉帯さんに1敗した衣ちゃんで、衣ちゃんの方が1位になってしまうのは悔しく思わないこともないのだが、獲得素点が違いすぎるので仕方がない。
特に誰かに負けたわけでもないので、あまり気にせず、今後の対局に臨んでいければ良いと思う。
ソーサーを持ち上げてから紅茶に口をつける弘世さんの所作が綺麗だったので、私も真似してみる。
紅茶の渋みはほとんどなく、芳醇な甘い香りが鼻を抜けていく。
うん、なかなかおいしい。
「弘世さんは大健闘でしたね。おめでとうございます」
「それほどでも……いや、うん……そうだな。ありがとう」
弘世さんは気恥ずかしそうに、きゅうりのサンドイッチをパクついてから頬を掻いた。
——綺麗なだけの人じゃなくて、可愛い所もあるんだなぁ……
姉の大切なものを滅茶苦茶にしてやったら、さぞかし気持ちが良いだろう。シーツの上に彼女の肢体を沈めてみたい。
彼女の長く艶やかな黒髪に指を通し、梳いてみたくなる衝動をぐっと抑え込む。
「ホテルのラウンジって使いやすくて良いですよね、人はいるんですけど落ち着いてご飯を食べられますし」
「ん……ああ、そうだな」
私の言葉に弘世さんは少し上の空といった様子で応えた。
いつ本題を切り出すか考えているのだろう。
半個室のようになっているホテルの最上層のラウンジには、ピアノ奏者や他の宿泊客などそれなりに人がいる。
わざわざ、料亭のような密室を選ばないで誘いやすい場所を選んだということは、先に内容を話したら、私が来ないかもしれない話があるということなのだろう。
そして、個人戦が終わってしばらく試合もないこのタイミング。
この後の話は、大体見当がつく。
弘世さんがティーソーサーをローテーブルの上に置いて、コトっと小さい音が鳴る。
「咲ちゃんは、麻雀のプロになりたいと思ったのはいつくらいからなんだ?」
質問に身構えていた私は一瞬困惑した。
「え……いつからプロになりたかったか? ですか?」
「そうだ。私は家のしがらみもあって自分はプロ雀士にはなれないのだろうと、ずっと諦めながら麻雀を続けてきて……だから、咲ちゃんがいつからプロを意識したのか少し興味があってね」
いつから、なろうと思ったのだろう?
自分の職業のことなのに、全く見当もつかない。
高校3年の頃には、自分はプロ雀士になるだろうと思っていたが、積極的に望んでいたわけでもない。
「特になりたいと思ったことはないですね」
「…………そうか。結果として、そうなったということだろうか?」
「ええ、麻雀をするからには負けられませんから。負けないために、勝って。負けないために、勝って。それを繰り返していたら気がついたらプロにいました」
口に出してみると、ずいぶんと寂しい回答だと我ながら思う。
小さい子のファンと話すときには、弘世さんのように昔からプロ麻雀選手になりたくて、努力してきたと答えることにしよう。わざわざ、小さい子供の夢を壊すこともない。
「でも、強いて言えば……」
「強いて言えば?」
「清澄高校でインターハイに敗退したとき、私がプロ雀士になることは、決定していたのかもしれません」
高校で麻雀を辞めるという選択肢もあった。
しかし、私はその道を選ばなかった。
麻雀のことはあまり好きじゃない。
高鴨さんを倒してNelly Virsaladzeを倒して……それから、今度の雀聖戦で園城寺さんを倒す。
夢の続きを追いかけている間だけは、私は麻雀が大好きな宮永咲でいられる。
だから、私は麻雀を続けているのだろう。
私は牌に愛されているから。
「君は、照を助けてくれるんじゃなかったのか」
姉の名前が弘世さんの口からポツリと溢れたことで、私の右手がティーカップを掴んだまま硬直する。
その話をされることは予測できていたのに、動揺で心が塗りつぶされた。
「な、なんの話ですか……」
「咲ちゃんが照と仲直りしたくて、インターハイの優勝を望んでいたことは知っている。それから個人戦で淡が壊れて、照と言い争い……いや、一方的に照が怒っていただけかアレは」
「私は、君たち家族に何があるのかは知らない。ただ……照だってあの時のことは反省してるんだ。許してやってほしい」
そう言って頭を下げた弘世さんから、反射的に私は目を逸らした。
姉に仲介をお願いされたのだということもわかるし、弘世さんが良い人だというのもわかる。
しかし、姉が仲直りしたいと思っているのであれば、直接会いに来るべきだし、部外者の弘世さんを使ってやろうとすることじゃない。
「私に、姉はいません。家族の話はしたくないので、失礼させてもらいます」
そう言って席を立とうとすると、弘世さんは顔をあげて私のことを真っ直ぐに見据えた。
普段麻雀をしているときとは、全然違う意志の強さに思わず気圧されそうになる。
「本当にそうだろうか? 咲ちゃんは頭がいいから、ここに呼ばれた時点で照の話をされるとわかってたんじゃないか?」
たしかに、弘世さんの言うように姉の話をされるかもしれないということは、予想出来ていた。
弘世さんと会う約束は断るべきだった。和ちゃんと試合中に会ったことといい、ここのところ軽率な行動が多すぎる。
「たしかにそうですけど……なんで、弘世さんがそんなことをするんです?」
「私は照のことが好きだし、咲ちゃんも大事なチームメイトだ。だから、2人がいがみあっているのは悲しい」
「そうですか」
弘世さんの言葉を聞いて、白い紙の上にタールを塗り広げるように私の心に、鬱屈とした怒りが灯る。
——そんなに弘世さんは、お姉ちゃんのことが大切なんだ。
どうして、そんなことが許されるのだろう。
母親から人並みの愛情を受け、チームメイトにも恵まれて……姉のことを思ってくれる人がいる。
弘世さんはいい人だ。麻雀は少し残念だが、底抜けにお人好しで良識もある。
そんな弘世さんが姉のために行動したというだけで、嫉妬にも似た憤りを感じる自分に一番腹が立つ。
家族に対する思い入れは全部、消しておかなくちゃいけないのに。消そうとしても、消そうとしても私の心から離れない。
こんな不公平が許されて良い訳がない。
グラグラと視界が揺れるような怒りの中で、私は1つの名案を思いついた。
「私にそのつもりはありません」
私がきっぱりとそう言うと、弘世さんは年上として余裕があるように無表情を貫き通しながらも、落胆したように肩を落とす。
予想通りの反応に、私は内心せせら笑いながら言葉を続けた。
「でも、雀聖戦で……麻雀でならわかりあうことが出来るんじゃないかと思うんです。そう姉に伝えてくれませんか?」
少し悲しそうな顔を作って、私は心にも思っていないことを言った。
麻雀なんて所詮勝負事。それでわかりあうなんてことはありえない。
でも、雀聖戦であの女がそれを理解できるよう完膚なきまでに叩き潰して、私に勝つために麻雀に囚われ続けてくれるのなら、こんなに楽しいことはない。
「わかった。照には、必ず伝える!」
嬉しそうにそう言った弘世さんの姿を見て、本当にお人好しなんだなあと、暗い喜びで口角が上がりそうになる。
雀聖戦が終わってから姉と仲直り出来なかったことを泣いて責めたら、彼女はどんな反応をするのだろう。
憤怒に染まる姉の顔を想像して、少し胸が温かくなる。
家族はいないなどと強がっていても、私は自分の中の甘さを捨てきれていない。本当はもっと機械のように麻雀をするべきなのに。
ティーカップに残るすっかり冷めてしまった紅茶を口に含むと、香りは消えていて渋みだけが舌の上に残った。