喫茶店に、置き時計の秒針が時を刻む音が響く。
私が来た夕暮れ時には、店内にたくさんいたお客さんも減り、窓から見える景色も真っ暗になってしまった。
スマートフォンを取り出し時刻を見ると、もう21時を回っていた。メールボックスで、咲さんからのメールを確認する。着信はない。
Re:今週のタイトル戦のあとに
From: 宮永咲
返事、遅くなってごめんね
今週末の約束だけど、試合が終わって記者対応もあるから18時からでいいかな? 少し遅くなっちゃうけど……
18時ですね、了解です。・ω・。
To:宮永咲
わかりました、
いつもの喫茶店でお待ちしてますね
試合後ですし、体調にはお気をつけて
「今日はもう駄目かもしれないなあ……」
咲さんからもらったメールを確認しながら、私はそうつぶやいた。18時に来るって言ってたのに…………咲さんの馬鹿。
——あと、1時間だけ待ったら帰ろう
私はそう決意して、ウェイトレスさんにサンドイッチとカフェラテのおかわりを注文した。札幌の素敵なデートスポット……せっかく雑誌で予習したのに、無駄になっちゃったな。
咲さんと一緒においしいご飯を食べて、それから展望台で夜景を見たかった。
もしかしたら、咲さんはお腹がいっぱいになったら、動きたくなくなるかもしれない。それなら夜景を見てから、ご飯を食べたほうがいいかな。
カランとドアが開く音が聞こえたので、私は慌てて入り口の方を見た。チャコールグレーのスーツを着た、40代なかほどのサラリーマンだった。
——まあ、来るわけないよね……
来ないとわかっていても、ドアが開くたびに期待してしまう。
「失礼します」
ウェイトレスさんが運んできてくれたサンドイッチとカフェラテを受け取る。
早速、私はサンドイッチをパクつく。スモークサーモンと黒胡椒マヨネーズの味が口の中に広がる。なかなかおいしい。
サンドイッチを口にして、私は初めて自分がお腹を空いていたことに気がついた。
咲さんは、今日のお昼にうどんを食べていたけど、お腹空いていないかな?
うどんは腹持ちが悪い気がするので、先にどこかで食べてから、来てくれるといいなと思った。
カフェラテを一口飲むと酷く苦く感じた。
私は、砂糖を二本入れてからまたカップに口をつけた。これでもう苦くない。甘いカフェラテの出来上がり。
カフェラテを飲みながら、窓の外の雑踏を眺める。多くの人がすれ違い、別々の方向に歩いていく。なんだか、私みたいだな……そんな考え事をしていると、ドアを開ける鈴の音が聞こえたので、私は慌てて入り口を見た。
少し小柄な眼鏡をかけた女の子が、ウェイトレスさんと話しているのが見えた。
咲さんだ!
咲さんは、ブラウンのベレー帽と丸メガネをかけて変装しているが、遠目でも私には宮永咲であることがわかった。
咲さんはキョロキョロしながら、店内を歩き回る。私のことを見つけると、嬉しそうに急ぎ足で駆け寄ってきた。
「ごめんね、待たせちゃって」
「いえ、大丈夫です。でも遅れるならメールくらいくださいね、心配しますから」
「ごめん……」
私がそう言うと、咲さんは申し訳なさそうに頭をかきながら謝った。バツの悪そうに、なれない手つきで、スマートフォンを確認する咲さんが可愛らしかったので、私は違う話題をすることにした。
「ベレー帽とワンピース似合ってますね」
「あ、これね! 最近買ったんだ」
咲さんは嬉しそうに、ベレー帽を見せてくれた。いつも会う時はスーツ姿が多いが、今日は私服姿だった。おそらく試合が終わってから、ホテルで着替えたのだろうと思った。いつもとは随分雰囲気が違うので、咲さんが年下の女の子なことを少し意識した。
「咲さんはご飯、食べましたか?」
「試合終わった後ずっと今日の牌譜を見てたから、まだ食べてないや。成香ちゃんは?」
「このお店のサンドイッチを食べました、おいしかったですよ」
「じゃあ私もそうしようかな」
私がメニューを開いて、スモークサーモンサンドを指差すと、咲さんもそれとホットココアを注文した。
牌譜のことは言わなくてもいいのになと私は思ったが、約束よりも麻雀を優先させたことを正直に言ってしまうところも好きだった。
「タイトル戦防衛、おめでとうございます」
「ああ、うん……ありがとう」
咲さんはとくになんとも思ってなさそうに、私の祝福にお礼を返した。とくに麻雀の話をするつもりはないようだった。
そもそも私じゃあ、麻雀の話し相手は務まらない。実力が違いすぎる。
そんな私でも、咲さんの麻雀が異質だということはわかる。牌譜を見ても、それが誰が打っているのか一目でわかり、人を惹きつけてやまない魅力があった。
そんな咲さんと一緒に麻雀ができる揺杏ちゃんのことが、私は羨ましかった。ただ、咲さんが3期目の山紫水明のタイトルを獲得した夜に、一緒に過ごすことができるだけで私には、十分すぎる幸せなのだろうと思った。
「お昼はうどんでアイスクリームも食べたんだけど、お腹空いちゃった」
「この時間ですしね麻雀するとお腹も空きますし。昼食の時はテレビで見てました」
「あ、そうかテレビでも映ってるのか……北海道のうどんは、九州よりもだいぶおいしかったよ」
咲さんはそう言ってから、サンドイッチを両手で頬張ると少し笑顔になった。口にあったようで、私は安心する。
サンドイッチを食べ終わり、飲んでいたココアから口を離して、咲さんは言った。
「プレゼント買ってきたから。気にいってくれるといいんだけど……」
咲さんはカバンの中からリボンのかけられた、ターコイズブルーの箱を取り出す。
咲さんに促されて、リボンを外して中を開けると、ローズゴールドにダイヤモンドを散りばめたリングを組み合わせたネックレスが入っていた。喫茶店の落ち着いた照明を受けて、ダイヤモンドが万華鏡のように煌めいている。
「わ…………すてき……」
思わず口から出てしまった私の感想を聞いて、咲さんは少しほっとしたように言う。
「気に入ってもらえてよかった、じゃあつけてあげるね」
「こ、こんな高いもの頂けません! それにネックレスなら自分でつけられますから!」
「私が成香ちゃんにつけてみたいだけだから、気にしないで」
咲さんはそう言ってネックレスを手に取ると、私に慣れた手つきで優しくネックレスをかけた。幸せが溢れる。自分の目から熱い涙が頬をつたっていくのを感じた。
「嫌だった?」
咲さんは不安そうに私の方を見つめてから、ネックレスを外そうとしたので、私はそれを止める。
「そ、その……嬉しくて」
「そっか」
私の髪を優しく撫でる咲さんに、私は震える声で思いを伝える。
「咲さん、大好きです」
「うん、私もだよ」
本当に大好きです。貴方がする麻雀も、遅れて申し訳なさそうにする目尻も、慣れた手つきでネックレスをかけてくれるその指先も、全部………………大好き。
私はこんなにも、幸せですから。
だから、貴方にも幸せが訪れますように。