インターハイ個人戦決勝直前。園城寺怜は試合会場と選手控え室から遠く離れた、会場地下の女子トイレの個室で、便器に吐物を撒き散らしていた。
おえええええ……おっ…げええええええええ
個人戦を優勝する、そう怜が決意して麻雀に取り組むと、麻雀の実力は飛躍的に上昇した。今では、セーラや竜華に練習に付き合ってもらっても、実力差がありすぎて練習にならないくらいだ。
団体戦が終わってから、個人戦が始まるまでの間、牌を持って練習していないと不安すぎて、怜はずっと麻雀を打って過ごした。
竜華とふなQは、途中から一緒に麻雀を打ってくれなくなった。それでも、セーラや泉、中牟田さんと芦野さんが練習に付き合ってくれたことに、怜は感謝していた。
「なんで、これだけ辛い思いをして麻雀してるんやろなあ……」
怜の口から弱音がこぼれる。
しかし、それももう今日で終わる。そう思うと少しは気持ちも楽になった。
麻雀が強くなるのにあわせて、怜の体調はどんどん悪化していった。未来が見えすぎて気分が悪くなったり、意識を失いそうになることが増えた。
竜華や枕神怜ちゃんは、このまま麻雀を続けることに反対していたが、怜はその警告を全て無視して能力を使い続けた。
怜自身も牌を持っている間は、常時二巡先が視えるようになり、未来視のスイッチの切り方がわからなくなったあたりから、能力に危うさを感じていたが、麻雀を止めようとは思わなかった。
あまりにも個人戦に出るのは止めろ止めろと煩かったので、枕神怜ちゃんの能力は削除したし、竜華とも絶交した。
こうして、試合前にトイレに籠るのも園城寺怜のルーティンになりつつあった。
怜は、一度トイレの水を流して便器を綺麗にしてから、人差し指と中指を口の中に突っ込んで胃液を逆流させる。
胃の中に内容物があると、未来視の力で吐き気を催すと、かなり見苦しいことになってしまう。全国放送で醜態を晒すのは嫌だったし、途中棄権という形になるのは避けたかった。
胃になにも入っていなければ、ハンカチで口元を押さえればセーフなので、牌山に倒れ込んだり、意識を失ったりしなければ大丈夫と怜は心積もりしていた。
怜は胃液しか出ないことを確認してから口元を拭うと、水面に意識を失って病院でチューブに繋がれて目覚めない自分の姿が映っていた。
「ん……試合が終わってから倒れるならええんやけどなあ、試合中は困るわあ」
そう、呟いてからトイレの個室を出る。
いつものように、液体歯磨き粉で口の中をゆすいでさっぱりさせてから、ガムシロップを2つほど飲んでおくことにした。団体戦で倒れた際には、低血糖で疲れが溜まっていたのが原因と、お医者様が言っていたので、気休めにはなるだろう。低血糖対策のために、セーラのアホが試合前に、小さいおにぎりを作って持ってきてくれたが、全部トイレの中へと消えていった。完全に余計なお世話である。
「さーてインハイ最後の試合、頑張りますか」
そう、気合いをいれてトイレの外に出ると、顔面を蒼白にした泉が立っていた。偶然この場に居合わせたのではないことは、顔が立証していたので怜の方から声をかけた。
「こんな機械室横のトイレまで応援しに来てくれるなんて律儀やん、そんなに怜ちゃんのマーライオンモード見たかったんか?」
そう声をかけると泉はビクッと震えてから、絞り出すように声を出した。
「個人戦出るのを止めて欲しいとは言いませんけど……」
「なんや心配症やなあ……せっかく麻雀部の三軍から全国の頂点まで登り詰められそうなんやから、水差すなや」
「すみません……」
そう言ってうなだれる泉の肩をポンポンと叩いて、怜は会場に向かおうとすると泉から呼び止められた。
「園城寺先輩の麻雀がずっと好きでした、中学の頃から……いえ、はじめて麻雀をした時からずっと」
「こんなに強い人がいるんだって思ってました、だから……」
「応援してます、頑張ってください」
泉からのエールで怜の心に火が灯った。泉の顔を見たら泣いてしまいそうだった。千里山を優勝させるまで、怜は振り返らない。そう決めていた。
「じゃ、楽しんできますわあ」
インターハイ個人戦決勝
東 辻垣内 智葉 50000
南 宮永 咲 50000
西 姉帯 豊音 50000
北 園城寺 怜 50000
賽が投げられ巨大な電光掲示板に、表示されている自分の名前を見て、怜は気を引き締めた。
個人戦は、くじ運に恵まれたと怜は思っていた。決勝まで、白糸台の大星淡や永水の神代小蒔、北海道の獅子原爽など、怜が苦手としているタイプの能力者には全く当たらなかった。個人戦には出ていないが、昨年団体戦でMVPを獲得した天江衣をはじめとした場の支配や、超常現象を押しつけてくるプレイヤーは怜が最も苦手とするところなので、決勝卓に相手に対応して麻雀をするタイプが揃ったのは好ましい。
——まあ、その辺の化け物をまとめて葬ってきたのが対面にいるんやけどなあ……
清澄高校の宮永咲。感情をあまり表に出さないポーカーフェイスの文学少女という出で立ちからは、想像もできない異能の打ち手。
嶺上開花 ツモ 2000 4000
宮永さんは、ツモってきた嶺上牌をほとんど見ずに、当たり前のようにそのまま手牌を倒す。高校一年生の可愛らしい見た目とは裏腹に、こいつの麻雀は殺気が強すぎる。
東二局、配牌に恵まれたので怜はさっと手を組み終えてリーチをかける。リーチ棒もちゃんと立ったし、体の調子はともかくとして、麻雀は絶好調だ。
「ちょー追いかけるけどー」
供託された姉帯さんのリーチ棒を見て、姉帯さんはなにを勘違いしているのだろうと、怜は思った。
ツモ 3000 6000
もう未来は確定しているのに、1000点余分にくれた姉帯さんに感謝しながら牌を倒す。親被りで宮永さんを削れたのも大きい。
インターハイ個人戦決勝 東3局
園城寺 怜 61000
宮永 咲 52000
姉帯 豊音 44000
辻垣内 智葉 43000
続く東3局の配牌も良かった。流れは自分にあると怜は確信したが、宮永さんの鳴きが入りその二巡先での和了が視えた。
怜が鳴いてズラしても、結局は加槓されて嶺上開花で和了されるので意味がない。それなら他家を使おうと思い、止めていた字牌を切って辻垣内さんを鳴かせたが、あまり効果が無かったようで、4巡先で普通に宮永さんに和了された。
怜の親になったが、配牌が悪く和了できそうにない。宮永さんに、完全に流れを切られてしまったように怜は感じた。
宮永さんの3900か、辻垣内さんの8000か。怜はあまり悩むことなく、辻垣内さんに和了させることを選択する。親かぶりの4000点よりも、宮永さんとの点数差が縮むことの方が嫌だった。
インターハイ個人戦決勝 南1局
園城寺 怜 55700
宮永 咲 55200
辻垣内 智葉 49700
姉帯 豊音 39400
南入して、怜はなんとか一位を保っているのものの、背後に宮永さんの気配を感じる。
次の半荘戦に向けてトップで折り返したいと、怜は感じていたが、宮永さんも同じことを考えているに違いない。
姉帯さんが積極的に鳴いてきたので、彼女を使って、宮永さんの点棒を引き出せないかと怜は思案する。宮永さんは、相手の手の高さを感覚的にわかっている節があるので、姉帯さんの安手なら誘導できる。
ロン! 2600
姉帯さんの嬉しそうな発声が聞こえて、宮永さんと怜との差が少し広がる。姉帯さんとしては安くてもいいから、和了してリズムを作っていきたいのだろう。
しかし、宮永さんの親番で全ての計算が狂う。
ツモ! 4100オール!
宮永さんは、どれだけ未来をズラしても和了してくる。牌がこの女に、全て吸い込まれていくように和了する。
インターハイ個人戦決勝 南2局 2本場
宮永 咲 70900
園城寺 怜 49600
辻垣内 智葉 43600
姉帯 豊音 35900
この展開はまずいと、怜はどんな形でも鳴ける場面では鳴いて、場を荒らすことで牌の流れを滅茶苦茶にしているのだが、あまり効果がありそうにない。山や河よりも遥かに高い嶺上から和了される。
嶺上ツモ 2500オール
——宮永さん強いわあ……
どれほど未来を視ても、宮永さんしか和了しない。一試合目で3万点差は、非常に厳しい。宮永さんの能力は姉の宮永照よりも、能力に明確な弱点がない分対応が難しい。
目の裏をスプーンで掻き出されるような頭痛に悩まされたが、怜はなんとか断么九の形を作り、辻垣内さんに差し込んでもらうことで和了する。
その後姉帯さんが一度和了したものの、2連続で宮永さんが安手を和了し、半荘が終わった。
インターハイ個人戦決勝 第一半荘終了
宮永 咲 79300
園城寺 怜 45900
姉帯 豊音 38400
辻垣内 智葉 36400
1半荘目終了時点で、かなりの疲労感を怜は感じていた。
宮永さんに関してはどうしたら、ここまで麻雀が強くなれるのか不思議なくらいだ。未来を視れば視るほどに、彼女の緻密な麻雀が際立つ。圧倒的なほどに強く、そして上手だった。35000点の差が全く詰まるイメージがない。
怜はガムシロップで糖分を補給しながら、自分を鼓舞する。うちは負けない。勝つのは千里山高校。園城寺怜。
最後まであきらめたら、あかんで。
気持ちの切り替えが功を奏したのか、流れが変わったのかは不明だが怜は、東1局リーチをかけることに成功する。宮永さんに鳴かれて一発こそ防がれたものの、そのまま満貫を和了した。
絶対に宮永さんを削りきる。
そう決意して、怜は続く宮永さんの親番、姉帯さんを支援する。姉帯さんは裸単騎まで鳴かせれば確実に和了してくれる。
ツモ! 2000 4000
対々和を和了した姉帯さんは、怜の方を見てウインクをした。怜としてはただ姉帯さんのことを利用しているだけなので、反応に困る。
宮永さんがいるとトイツ場になりやすい、オカルトだが、ほぼ確定的な事項として怜は扱っていた。
インターハイ個人戦決勝 東3局
宮永 咲 73300
園城寺 怜 51900
姉帯 豊音 44400
辻垣内 智葉 30400
かなり宮永さんとの点数も詰まってきたところで、怜は配牌に恵まれ大三元を聴牌する。二半荘目が始まってから不思議なほど配牌が良いし、有効牌もツモりやすい。流れがきているのかとも思ったが、おそらく姉帯さんが場を操作しているのではないかと、怜は当たりをつけた。この局で役満を和了すれば一気にトップだ。
しかし、自分の和了できる未来が視えない。
ツモ! 1300 2600
宮永さんがツモ和了し、また少し差が開く。こういう場面で和了出来るあたり、宮永さんは性格が悪いし強いなと怜は思った。続く親番も怜は運に恵まれず、辻垣内さんに和了してもらった。
インターハイ個人戦決勝 南1局
宮永 咲 76500
園城寺 怜 46700
姉帯 豊音 39800
辻垣内 智葉 37000
南入して3万点差。
怜は焦りを感じるが、なによりも頭痛が酷い、牌と牌の擦れる音が邪魔で仕方がない。
未来視の力にも霧が混じってきている、怜は段々と未来と牌山が視えなくなってきているのを感じていた。
ツモ! 3000 6000
怜の努力を嘲笑うかのような、宮永さんの跳満ツモに、怜の心にも諦めがよぎる。もう宮永さんは放銃さえしなければ、優勝が約束されている。
インターハイ個人戦決勝 南2局
宮永 咲 88500
園城寺 怜 43700
姉帯 豊音 36800
辻垣内 智葉 31000
——ラス親にかけるしかあらへんかなあ……
そう思いながら配牌された瞬間、怜の目の前に道が視えた。
三萬、西、一筒、六萬、西リーチ、ツモ。
枕神怜ちゃんの能力が、何故ここで急に使えるようになったのかはわからない。酷い頭痛のなか深く考えることも出来ずに、そのままの手順で手牌を切っていくと、和了することができた。
ツモ、2000、4000です……
インターハイ個人戦決勝 南3局
宮永 咲 84500
園城寺 怜 51700
姉帯 豊音 34800
辻垣内 智葉 29000
今、麻雀を打っているのは誰なのだろう。ぼーっとした頭で怜はそう考えていた。自動卓が洗牌する音が頭に刺さる。誰が、麻雀をしているのか。
配牌が終わるとまた道が示された。
西、中、九萬、九索、一索、七筒…………
怜は子供の頃、積み木で遊ぶことが大好きだった。一人だけの安全な世界でお気に入りの積み木を積んでお城を完成させて喜ぶ、そんな子供だった。それが、竜華に教えて貰って大好きなものが麻雀になった。はじめて大きい手を和了した時の嬉しさは、高校生になった今でも覚えている。
西、中、九萬、九索、一索、七筒…………
四人で麻雀をすることは、怜にとって大切な時間。麻雀は積み木よりもずっとワクワクして……ずっとドキドキした。
だから、
——君、ちょっとうるさいで?
この麻雀を打つのは、千里山女子高校三年の園城寺怜や!!!
怜は、決意を込めて九索を切る。
もう、道は見えなくなった。コンパスのないジャングルを掻き分けて、怜は麻雀を続ける。
南3局の終盤、暗刻が四つ揃う。
和了出来るかどうかはわからない。単騎待ちの四暗刻は、怜はいままで和了したことがなかった。インターハイ個人戦にダブル役満はないが、それでも和了できれば点差は、逆転する。
——頭はどっちにしたらええやろか?
海底牌の七筒か、嶺上牌の西か。
未来視の力は曇っていたが、牌山だけはっきりと視えた。視えているのに、自分はその牌を拾えない。怜は、決意を込めてリーチ棒を卓上に立てる。
宮永さんの鳴きが入って一発を潰された。これで、 宮永さんが最後に危険牌の六筒を掴むルートに入った。リーチ棒が倒れても和了しない怜のことを宮永さんは、訝しむように睨んだ。
怜の手を高いと感じ取ったのか、一巡で和了しない怜のことを不審に思ったのかは、怜にはわからなかったが、親の姉帯さん以外は全員オリていることを怜は、気配から感じ取った。
そして、誰も和了することなく六筒を宮永さんがツモる。ツモった牌をみて宮永さんは逡巡する。安牌があれば、ノータイムで切るはずなので、迷っているのだろう。
宮永さんは、手牌から三筒をカンして嶺上牌に手をかける。 海底牌を王牌につけてドラを捲ると、そのまま2枚切れの西を河に捨てた。
ロン 32000
怜が両手で手牌を倒して申告すると、宮永さんの手が震えた。信じられないものを見るような目で怜の単騎待ちを確認する。宮永さんはあまりにも強く、そして上手だった。だから、人を疑うことはあっても、あまり自分を疑うことは、なかったのかもしれない。
ほとんど、放心状態の宮永さんを置き去りにして、怜は続く南4局で3900点を和了し全国の頂点に立った。
インターハイ個人戦決勝 終了
園城寺 怜 87600
宮永 咲 51200
姉帯 豊音 33500
辻垣内 智葉 27700
麻雀の終わりは、いつも呆気ない。
試合終了のサイレンが鳴り響く。
千里山を優勝させることが出来て安心した怜は、そのまま雀卓に突っ伏し、麻雀界から姿を消した。