間接照明の暖色の柔らかい光に照らされて、私はのんびりとした時間を過ごしていた。パーソナルソファーの背もたれに、火照った体を預けた。
ホテルのソファーは、硬さが好みに合わないものも多いが、今日のホテルのソファーはなかなか悪くない。柔らかすぎず、硬すぎずちょうど良い塩梅だ。
マリーゴールドとジャスミンのハンドクリームを両手にたっぷりと伸ばす。お風呂上がりのこの時間は、唯一の癒しといっても過言ではない。私の心を支える大切な時間。
清涼感のある甘い香りが室内に広がった。
今日の名人戦は起伏のない試合展開で、心を乱されることもなく勝利することができた。
防衛戦は、タイトル保持者よりも挑戦者のほうが有利だ。私はそう思っている。手に入れたものを守るのは、手に入れることより難しい。
私たちは紙一重のところで戦っている。
私と眼前で膝を屈している挑戦者たちの間に、大きな実力差はない。微差に微差を積み重ねて、私は勝ち続けているのだ。
名人戦、楽に勝たせて貰えたのは、僥倖というほかない。
バスローブを身にまとい、気怠げにベッドに寝転びながら、足をパタパタさせている憧ちゃんに私は声をかけた。
「次のタイトル戦は、姉と戦うことになっちゃったんだよね」
憧ちゃんは、眺めていたタブレットから目を切って私の方に顔を向けた。
「せっかく名人戦は楽に勝てたのに……なんでこんなことになるんだろ、ついてないなあ」
「知らないわよ、そんなの。仲直りすれば良いんじゃないの?」
「あはは、冗談きついよ憧ちゃん」
憧ちゃんはなんでもないことのように言っているけれど、姉と仲直りしようなんて気をもってしまったら、私の心が持たない。
「実際、そんなにウジウジ悩んでいるくらいだったら関係を修復した方が良いでしょ? 何があったのかは知らないし、仲良くなれとは言わないけどさ」
「うん……」
「私にも姉がいるけどさあ、会うときはお正月くらいのもんよ。向こうは結婚してるしねー。そのくらいの距離感で付き合えれば、良いんじゃないの?」
「…………そうなれたら、いいね」
私は、ハンドクリームを塗った手の甲をじっと眺めた。憧ちゃんに言っても何にもならないのに私は何を言っているんだろう。
牌王戦は感情をオフにして麻雀をする。そう決めていたはずなのに。それが出来るのかたまらなく不安になった。
私の人間性は卓の外にだけあれば良い。
大丈夫、感情は技術で切り離せる。
自分に何度も何度も言い聞かせて、自己暗示をかける。
勝敗を分けるのはそれまでの準備。なかでも気持ちの準備が大切だ。勝利への障害になるものは全て排除して、言い訳の材料を残さない。そのために、私はあらゆる努力をするべきだ。
私が黙って怖い顔をしているのに気が付いたのか、憧ちゃんは話題をかえた。
「今日の名人戦の牌譜見たよ、防衛おめでとう」
「ありがとう、でもそれ言うのずいぶん遅くないかな?」
「ほら、牌譜見てから褒めないと地雷を踏む可能性があるじゃない?」
「ああたしかに……」
憧ちゃんは一応プロなので、牌譜が読める。今みたいに傷心中の時に会う女の子は、麻雀のことがわからない子のほうが良いのだけれど、もう呼んでしまったから仕方がない。
「あのカンチャンリーチってやっぱり曲げたほうが良かったの?」
「ん? 第3半荘の南三局でリーチしたこと?」
もう麻雀の話をすることになっちゃった。憧ちゃんは、これさえなければ最高なんだけどなあ……
「そうそう、大きくリードしてたしダマでも良かったんじゃ? というか咲がリーチしてるイメージがないんだけど……」
そうかな? わりとしてると思うんだけど。
自分の手の内はあまり晒したくない。でも、あのリーチは複雑な場面でもないし、教えてしまってもとくに問題ないか。
「あれは鉄リーだよ。四筒は嶺上牌だから、河に0枚、有効な山には3枚。リャンカン落としだから、モロひっかけになるのかな? そこはあんまり意識してなかったけど……たしか三萬と八萬が暗刻になってて、だから3種5枚。リーチすれば裏が乗るし……大明槓からの出和了を考えてもリーチしたほうが期待値がいい。あとは最近対策されすぎていて、衣ちゃんはともかくとして、三尋木さんと赤土さんが生牌を切るイメージはなかったかな? だからとくに何も考えずに曲げたよ」
「そ、そっか……よくそんな細かいとこまで覚えてるね……」
「えっ?」
憧ちゃんは、あまり牌譜研究はしないほうなのだろうか。言いたいことがよくわからなかったが、はやく麻雀の話から離れたい。
憧ちゃんは、ベッドに寝転んで手持ちぶさたにホテルの案内を眺めているので、もしかしたらルームサービスが頼みたいのかもしれない。
気を使って頼まないでいたら悪いので、ベッドに腰掛けてから、憧ちゃんから冊子を受け取ってルームサービスのページを開いてあげた。
「ここのルームサービスは、サーモンとアボカドのミックスサンドがおいしいよ。あと飲み物も冷蔵庫にあるやつ以外にも頼んでいいからね」
私がそう勧めると憧ちゃんは少し意表を突かれた様子だったが、デザートに興味を示したらしく、熱心に選び始めた。
「ありがとう、どれにしよっかなー」
ルームサービスを選ぶ憧ちゃんを眺めながら、そういえばちょっと前に、スモークサーモンのサンドイッチを成香ちゃんと食べたことを思い出した。
深夜に頼むルームサービスは、どれもおいしそうに見えてしまって困る。私は鍋焼きうどんにしよう。今日は麻雀したから、多少食べても大丈夫。たぶん……
「私は、フルーツタルトにしようかな……あとカフェラテもいいよね?」
うっ……女の子らしいメニュー頼むなあ。鍋焼きうどん、頼みにくくなっちゃったよ。
「もちろん、私は鍋焼きうどんと……ホットココアにしようかな」
「うどん!? 今、深夜1時だよ! 炭水化物の塊食べちゃっていいの!?」
「そ、そんなに言わなくても良いじゃん。食べたかったんだから……」
憧ちゃんの追及から逃れるように、手早く注文は済ませた。頼んでしまえば、もう罪悪感もない。
「咲ってマイペースだよね」
「そうかな? 私はそうは思わないんだけど……むしろ、キビキビ派だよ」
「いやいや、マイペースじゃなかったら、うどんにホットココアは頼まないでしょ」
少し呆れた顔をしながら憧ちゃんは、ベッドから立ち上がって、カウンターに置いてあった魔法瓶を手に取って、グラスに水を注いだ。
「咲も飲む?」
「うん、お風呂あがりには、水分をたくさんとったほうがいいよね」
ベッドに座ったまま憧ちゃんからグラスを受け取る。
一口ずつゆっくり水を飲んでいると、左肩に憧ちゃんがしなだれかかってきた。やわらかさと彼女の体温を感じる。どうして人肌はこんなに温かいのだろう。
ベッドの上で過ごしている一瞬の間だけは、寂しさを埋められる。でも、そのぬくもりを与えてくれる相手を、私は信頼することが出来なかった。理由はわからない。肌と肌は磁石のようにくっつきあうのに、心は近づかない。それに溺れることすら許してくれない自分の心を私は呪った。
憧ちゃんの囁きと吐息が、少しずつ私の理性を引っ掻いていく。もう少しだけこうしていよう。でも最後までは駄目だ。
だって、うどんを食べなくちゃいけないから。
「ルームサービスきたよ? 憧ちゃん?」
「えーそんなのいいじゃん?」
「ほら、インターホン鳴ってるし開けてきてよ」
私がそう言うと、憧ちゃんは渋々といった表情で私から離れた。ごめんね、憧ちゃん。
ドアのロックを憧ちゃんが開けると、ホテルのお姉さんが入ってきて、配膳をしてくれた。私の顔を見て一瞬だけ目を見開いたが、何も言わずに完璧に準備してくれたので、良いホテルだなと思った。
うどんを食べるのに、白いテーブルクロスと一輪の薔薇の花を用意してくれたのは、やりすぎ感があるのだが……フルーツタルトにはあうのかもしれない。
あつあつの鍋焼きうどんを、レンゲでとりわけてよく冷まして食べる。なかなかおいしい。カツオの出汁がよく効いたお醤油の味が、試合の疲れを癒してくれる。
うどんを食べて舌がしょっぱくなったなってから、甘いホットココアを一口飲むと、とても幸せな気持ちになれた。
明日もがんばろう。