高級料亭の一室。
葉山牛のすき焼きをまるで牛丼のように、白飯の上にのせて、かき込むジャージ姿の少女に私はため息をついた。
結局、こいつにすき焼きを食べさせることになってしまった。
座卓の上には、空になったビールの大瓶が2本、そして白飯。見ているだけで、気持ちが悪くなってきそうだ。せめてご飯にするのか、酒にするのか片方だけにしてほしい。
「ねえ、熊倉さん」
「なんだい?」
「牛肉がなくなっちゃったんだけど」
まだ食べるつもりらしい。
「……好きに頼みな」
「ありがとう、さすがお金持ちは違うわね」
そうお礼を言ってから、久は嬉しそうに牛肉のおかわりを注文した。
この料亭は繊細な椀ものが美味しい。しかし、クタクタになったネギを白飯に乗せて美味しそうに頬張ってから、ビールで流し込んでいるこの少女に味がわかるとは、とても思えない。
とりあえず、若者は肉を食べさせとけば満足するからねぇ……
3本目のビールを飲み干して、やっと少し久の顔が赤くなってきた。酔っ払いの相手をするのは癪だが、アルコールが入っているほうが饒舌になって話しやすいかもしれない。どうもこの少女には、裏があるように思えてならない。
「いやーまさか負けるとは、思わなかったわ! でもこうして、熊倉さんにすき焼き奢って貰えることになったから、私の悪待ちも捨てたものじゃないわね」
そう言って上機嫌に笑う久に、私は問いかけた。
「本当に自信があるなら、麻雀で勝っていて欲しかったんだけどねえ……だいたいあの3人組がつるんでいたのなんて、わかっていたことだろう?」
「んー、わかりきっているからこそかしら? そういう圧倒的に不利な状況だからこそ、燃えるというか……滾るのよ」
「お金もないし負けたら地獄、3人は組んでて、相手のホームグラウンド、こんなの勝てる要素しかないじゃない! ここで押せないようなら上埜久じゃないし、麻雀なんてやってられないわ」
救いようのない発言を繰り返す久に、頭が痛くなった。自分の能力へ自覚があるのは良い。自覚があるのは良いが、あまりに無鉄砲すぎる。
「とりあえず、ある分だけでも、金は返してもらおうか」
私が金の話をはじめると、久は露骨に目を逸らしはじめた。ここまでわかりやすいと、意外にこいつ根は、素直なんじゃないかと思った。
「とりあえずこれで……」
そう言いながら久は、先程のマンションの一室で拾い集めていた札束を差し出してきた。
冗談のようにペラペラだが、一応枚数を数えて見ると36枚あった。支払った600万のおつりのような金額である。
「36万……とりあえずこれは貰っておくが……家に帰ればまだあるんだろう?」
「えっ!? 40万あったはずなんだけど!?」
マンションで落としたんだと、久は慌てているが、問題はそんなところじゃない。私への借金の返済方法に、頭を悩ませて欲しい。こいつのせいで、私の3ヶ月分の給料がパアだ。
「あのマンション戻ったら、返してくれるかしら?」
「おまえ、一人でいきな」
私がそう突き放すと、すっかり意気消沈してしまった。そんな久に私は、会ってからずっと抱いていた疑問をぶつける。
「それより、デカウーピンで何故あそこまで負けられるんだい。負けたとしても200が精々だろう?」
「んービンタが3万点だったからねえ……ちょっと運が悪かったから、熱くなっちゃって……えへへ」
ちょっと気恥ずかしげに久は、後頭部に手を回して頭を掻いた。
その様子を見て、Tシャツの襟を掴んで、ぶん殴ってやりたい衝動に駆られたが、私はすんでのところで思いとどまった。
ビンタ一発15万円、1ゲームで100万円以上動くゲームに、40万円握りしめて乗り込んでいった久は、頭のネジが外れているとしか思えない。
あの三下は、40万円を見て「全然足りねえよ!」と久のことを怒鳴りつけていたが、足りないのは金額ではなく、こいつの頭のほうだ。
「あそこの場代がちょうど2万円なのよね、40万円あれば、20半荘やれるじゃない? 充分すぎるほどの軍資金よ」
「ああ、そうかい……」
負けることなど欠片も考えていないあたり、なかなか良い性格をしている。裏返せば、大学を中退してから今日まで、ロクに負けた経験をしたことがないということだ。
それならば、久はこの封筒以外にも随分とお金を溜め込んでいるはずだ。
そう思った私は、久にカマをかけてみることにした。
「家に帰れば払えると言っていたけど、それはホラなんだろう?」
「ええ、とりあえずマンションの外に出ちゃえばトンズラこいて、こっちのものだしねえ」
可笑しそうに久はケラケラと笑った。
しかし、久の言うことが本当だとしたら、計算が合わない。
「一週間前、六本木で400万近く勝ったって聞いているんだ。しらばっくれるんじゃあないよ。本当は家にあるんだろう? 金は返してもらう」
私が本気で睨みつけると、久はポカンと言う顔をした。こういう場面で、久は絶対に顔にでる。にもかかわらず、言っている意味がわからないという態度に、私は違和感を覚えた。
「よ、よくそんなこと知ってるわね……そんなに睨みつけないでよ。なんで、家にあるって思ったの?」
「お前さんが、あのレベルでそんなにホイホイ負けるとは思えない。大人を舐めるのもいい加減にしな」
「まあ、私ってば強いからね! 今日は、たまたま負けちゃっただけだし!」
久はそう言って得意げな顔をした。全く話が噛み合わない。なにが、言いたいんだこいつは?
「だから、家に400万あるんだろう! さっさとタクシーでも使ってとってきな、この小娘!!!!」
「え? そんなのあるわけないじゃない?」
「は?」
「一週間も前のことでしょ? 全部使っちゃったに決まってるじゃない。だから、赤坂のマンションで麻雀してたのよ?」
「おばあちゃん、もしかして馬鹿なの?」
なんでわからないのか不思議そうな顔をした久に、私は呆気にとられてしまい、何も言うことができなくなってしまった。
久は、私が何も言わなくなったのを見て安心したのか、追加で持って来させた葉山牛を菜箸で掴んですき焼きの残り汁で、しゃぶしゃぶをやり始めた。出来上がったしゃぶしゃぶに砂糖と醤油をぶっかけて、口に運んでは幸せそうな顔をしていた。
私はやっと違和感の正体を理解した。私の問いかけに久は、全て本当のことを話していたのだ。
400万円を稼いだのも本当なら、全部使ったのも本当。40万しか所持金がないのに、赤坂のマンション麻雀に行ってボロ負けしたのも本当だし、家にお金がないのも本当だった。
久は全て真実を話していたのに、あまりにも馬鹿すぎて、理解の範疇を超えていたため、私が勝手に裏があると、勘繰っていただけである。
「なあ久……こんな生活続けていて楽しいか?」
「んー特段楽しいわけでもないけど、お金賭けてる時は楽しいし、1人でいれば傷つかないし楽ではあるわね」
もう、傷つきたくない。
それも間違いなく久の本心だろう。久は、私に対してまだ一度も嘘をついていない。
この臆病で心に傷を負った少女に、また麻雀と向き合ってもらうのは、酷な話かもしれない。
しかし、どう足掻いても久は死ぬまで麻雀からは逃げられない。だから、私が罪悪感を感じることもないか。
たまたま久を麻雀に引き戻したのが、私だったというだけの話だ。
しかし、上埜久という才能を潰したくないというのは、私のエゴだ。それを念頭に置いて指導する必要がある。間違ってもこいつを救おうなどと思い上がってはいけない。
そう自分自身に言い聞かせてから、私は写真を取り出した。
信濃大学が春季大会で、中部最強に輝いた時の写真だ。優勝トロフィーを持った久の周りを団体戦メンバーが、最高の笑顔で囲んでいる。
写真を見た途端、久の肩が跳ねた。手が震えて、箸もまともに持てていない。
可哀想だが久には、嫌な記憶を全て思い出して貰った上で、自分の意志で麻雀に復帰してもらう必要がある。
「はやくしまいなさいよ、それ」
「高校で暴力事件なんて起こさなければ、伊稲大に行けて、こんなクズどもと触れ合うこともなかったのに、おまえは本当に運がないねえ」
少し芝居がかった口調で私がそう言うと、久は簡単に激昂した。捻くれているように見えるだけで、こいつはずっと根はまっすぐだ。
「はやくしまえって言ってるでしょ! このババア!!!」
久は、私のシャツの襟を左手で掴んで、右手を握り込んだ。殺意のこもった目で睨みつけられて、私は心底久に同情した。
「ん……さっきまで、命の恩人とか言っていたのに、もう手のひら返しかい?」
「それはそれよ! 私のチームメイトはクズじゃないわ! 取り消しなさい!!!」
「久が大学のチームメイトのことを、大切に思っているのはわかったよ。でもこいつらはそうは思ってないだろうねえ……可哀想に」
そこまで言い終えると、左頬に強い衝撃が加わって、それから口の中に血の味が広がった。これから私は、久の心を切り刻むんだ。一発くらい殴られてやるさ。
久は私の襟を離して、写真を両手に持つとそのまま泣き崩れた。涙腺が壊れたように涙が溢れているのに、声は押し殺して久は泣いた。しかしそれでも抑えきれない嗚咽が、彼女の心の叫びのように聞こえてきた。
信濃大学麻雀寮大麻栽培事件は、近年の麻雀界の中で、最低最悪と言っても良い不祥事だった。
主犯格は、信濃大学麻雀部寮の敷地内で大麻を栽培し流通させ、仲間内や他大学の選手に売り捌き金銭を得ていた。
違法薬物の濫用に関与していた麻雀部の部員は、半数近くにのぼり、誰が白なのかもわからないような惨状であった。事件発覚後、同大学は間を置かずに、麻雀部の廃部を決めている。中部地方の多くの大学の麻雀部が、薬物濫用により活動停止に追い込まれた。
「その写真に写ってる左隣のやつが主犯だし、他はみーんな薬物中毒者。そんな環境で、幸せそうにトロフィーを抱えている女は、幻覚でも見えているのかねえ?」
久は私の言葉から耳を塞ぐこともしなければ、写真から目を背けることもできない。
ただ、涙を流しながら焦点の定まらない瞳で写真を眺めていた。大粒の雨粒が金色のトロフィーを濡らしていく。
この大麻栽培事件に、久は一切関わっていない。私はそう確信していた。
なぜなら、この事件が明るみになってテレビで報道されるようになってから、久は麻雀部の部室で、乱闘騒ぎを起こしている。
この瞬間湯沸かし器は、事実を知れば絶対に騒ぎを起こす。暴力事件が報道後に起きたということは、知らなかったのだ。正確には気づかないフリをしていたというのが、正しいのかも知れない。久の明晰な頭脳なら、気づかない方が無理がある。それが事実であると、認識しないようにしていたのだろう。自分の心を守るために。
久は大学の麻雀部の中でも一際熱心で、真面目な学生だったと聞いている。
家庭の問題に振り回されて、憔悴しきっていた久が、進学先の寮で一緒に暮らす仲間たちを大切にするのは、自然な流れだ。そして依存していった。信頼しきっていたのだろう。
しかし、このクズどもは久の信頼を見事に裏切ってみせた。
指導者に感傷はいらない。
常に冷静でなければならない。
私は、拳を握りしめて感情を押し殺した。
「伊稲大の加治木さん良い選手だね、そういえばアレは久と同郷なんだろう? 6大学の舞台で羽ばたく同級生と、大学で葉っぱ遊びに興じてた女。救いようがないねえ」
「わ…………わたし……知らなくて……」
それは知っている。私の推測通りだ。
しかし、本人の口から言ってもらえて、だいぶ気持ちが楽になった。これで彼女の勧誘を躊躇する理由が、何1つなくなったことに内心微笑んだ。
震えながらへたり込む久に、私は追い討ちをかけた。
「本当は知っていたんだろう? 目を背けて、気づかないフリをしてただけさ。自分の居場所がなくなるのが怖くて。そのせいで多くの部員が、誘惑に負けて堕ちていったんだよ」
「全部お前さんが悪いな。そう思わないかい?」
もう久から返事は返ってこない。肩を震わせて、ただ泣き続けるだけだ。
この少女が上埜久ではなく、後輩の宮永咲だったら、私は絶対にこんなことはしない。というよりも、触るのが怖くて触ることが出来ない。私なんかが下手に触ったら、眩いばかりの才能が濁ってしまうかもしれない。
久くらいの手頃な才能だから良いのだ。大事な才能だが、壊れても代わりはいる。それ故に、大胆な育成方針を立てることが出来た。
なにはともあれ第一段階は達成した。あとは彼女に麻雀を選ばせるだけだ。
久の涙が枯れるのを待ってから、私は声をかけた。
「麻雀は個人競技であって、個人競技ではない。矛盾するようだが、私はそう思っている」
久は膝を抱えたまま、首だけをこちらに向けてきた。
「年寄りの戯言だと思って、聞いてくれて構わないが……麻雀というゲームは、4人居ないと出来ないんだ」
「個人戦よりも、団体戦の人気があるのは、それが麻雀の本質をついているから。チームになれば、ポジションや役割が生まれる。この競技は、団体競技としての側面がある」
久が死んだ目で私の話をじっと聞いてくれているのを確認して、私は手応えを感じた。
「久は信濃大学では失敗したのかも知れない、しかし、また良いメンバーに巡り会える。麻雀を続けていればきっと」
必ず巡り会えることをこの少女は、知っている。清澄高校では3年間待ち続けたのだ。その忍耐が、高校麻雀最強の怪物を引き当てた。
悪待ちの少女の豪運は、再び麻雀をやれと彼女に訴え続けている。その本能に従うだけでいいんだよ。
少女はずっと長い時間、写真を見つめながら逡巡していた。決断には時間がいる。
急かすことはない。
だって最後には、上埜久は麻雀を選ぶしかないのだから。