大阪の高層マンションの一室にある防音室の扉。その前で、怜は立ち尽くしていた。
「や、やっぱり止めようや……うち竜華の側にずっとおるから」
「怜のためにいっぱい準備しておいたんや、だから開けてみて! すっごくええ感じの部屋になったし」
嬉しそうに竜華は、怜の話を無視して防音室の扉を開けるように促した。
竜華のお母さんである麗華さんが、買ったこのマンション自体には、小学校高学年の頃に葉子やしんちゃんとプールで遊んだり、一緒に料理をしたりした、良い思い出もたくさんある。
しかし、この防音室には良い思い出がなに1つとしてない。
大阪のマンションは、竜華がプロ入り後すぐに神戸のマンションを買ってから、全く使っていない。にもかかわず、清掃が行き届いていることに怜は違和感を感じた。
「んー? どしたん? 怜のために用意したんやから遠慮しないで、開けてええんやで?」
1度入ったら2度と出られないような、場所の扉を開けられるはずがない。
本当に無理なので、怜は扉からそっぽを向くと不思議そうに首を傾ける竜華と、正対してしまった。怖くて体が震える。
声がうまく出せなくなってしまったので、怜は首を横に振って拒絶の意思をするが、竜華は全く聞き入れてくれない。
「ふふっ、恥ずかしがり屋さんやなー、うちが開けてあげるね。気に入ってくれるとええんやけど」
竜華が防音室の二段ロックになっているドアノブを開けて。部屋の中を見せてくれた。
「ジャジャーン! ほらほら、オシャレでええやろ? 今回は、全部チークで揃えてみたんや!」
チーク材のフレームにアイボリーのクッションを合わせたソファーに、無垢のローテーブル。怜が気に入るようなシックな内装だ。
「ウォルナットも良かったんやけど、やっぱり少し部屋が重くなるしなあ……チークなら艶もあるし落ち着きつつも、明るい印象になるかなって」
竜華が色々と話してくれているが、怜の耳には全く入ってこない。
部屋の隅に置いてある、介護用オムツと使い捨て防水シーツの山を見て、怜の膝がガクガクと震えた。
その場でへたり込んでしまった怜のことを心配そうに覗き込んでから、竜華は問いかけた。
「どうしたん? 急にへたりこんで? 大丈夫?」
「そ、それ……どっかしまってや」
怜は、介護オムツを目を逸らしながら指差して、必死に片付けるよう主張した。日常生活でも絶対にこれに遭遇しないよう、ドラッグストアには近づかないように、気をつけてきたのだ。
「んー? 使うところの近くにあったほうが便利やろ?」
竜華は、とくに気にするでもなくそう言った。
防音室の前でへたり込んで、イヤイヤする怜のことを竜華は、お姫様だっこで優しく持ち上げた。
軽々と持ち上げられて驚いた怜は思わず、竜華の首に手を回してバランスをとる。
「ふふっ、なんか新婚の時みたいやな」
嬉しそうに竜華はそう呟いてから、怜のことをふかふかのソファーの上に、そっと置いてから扉を閉めた。
「とき。心機一転、一緒に頑張ろうなー」
竜華はそう怜に問いかけたが、返事が返ってくることはなかった。
怜は膝に両手を置いたままソファーに腰掛けて、じっと壁を見つめていた。
どうして、こうなってしまったのだろう。
体が治って、麻雀を再開できるはずだったのに。
神戸のマンションから、大阪のマンションに車で移動する際に、逃げ出さなかったことを怜は、本気で後悔した。
逃げ出す隙などなかったし、出発前に竜華から、拒絶されたらうち生きていけへんわと念押しをされた。
それでも、逃げるべきやったんやと怜は思った。
ベッドに使い捨て防水シーツを何枚もかけて、丁寧にベッドメイキングをはじめた竜華の姿を呆然と怜は眺めた。
全く気が付かなかったが、目の前のローテーブルの上に手錠とキッチンミトンが置かれていることに怜は気がついた。
全身の毛穴が逆立つような感覚を覚え、冷や汗がダラダラと流れる。
自分のトラウマが無造作に置かれているのは、抵抗されないために竜華がわざとやっているのだろうと怜は思った。冷静に分析する脳内を引っ掻き回すように、インターハイ後の思い出がフラッシュバックする。
——あかん、死ぬ……うち殺されるかもしれへん。人格壊れたら、残った体どうなるんやろ……死にたくあらへん……
呼吸が安定しない。
もっと酸素が欲しいと、肺が訴えかけて危機感だけが募っていく。
——せや! 拒絶するのを先送りにしてきたから、こんな目に遭うんや! 今逃げとかんとほんま殺される。だから、今頑張るんや!
怜は、ヨロヨロとソファーから立ち上がって小走りで扉の前にたどり着くと、勢いよくドアを開けた。
いや、開けようとした。
でも、ドアはガシャガシャと音を立てるだけで、一向に開こうとしない。防音室なので、2段回のドアノブになっているのが、良くないのかもしれないと怜は思った。はやくしないと竜華が来てしまう。
怜は両手をドアノブを力一杯、何度も何度も引いた。ドアノブを引くたびに、冷たい金属音が響く。焦りが絶望感へと変わっていっても、怜はドアノブを引くことを止めなかった。
「とき? なにしてるん? さっき鍵かけたからドアなら開かへんけど……あ、うちに相談しないで、この部屋から出たりとか絶対にあかんからな? わかった?」
ドアノブに手をかけたまま、へたり込んだ怜の背後から竜華はそう囁いた。
「あ…………あ、あ……」
意味をなさない言葉が怜の口から溢れた。
そんな怜の様子を気にするでもなく、竜華は優しく怜のことを抱き抱えて、ベッドに寝かしつけた。
怜の両手首に、手錠がかけられていく。
はじめは何をされているのか、わからず呆然としていた怜だったが、足枷をつける際に拘束されていることに気がついた。
怜は、竜華のことを思いっきり左足で蹴飛ばして抵抗したが、簡単に押さえつけられてしまい両足首にも枷がかけられた。
両手両足の自由を奪われる。めちゃくちゃに暴れれば、外れるだろうと怜は思ったが、鎖の音が部屋に響くだけでびくともしてくれない。
呼吸がうまくできない。
シーツの上で溺れてしまいそうになる感覚に、怜はパニックになった。もっと呼吸をしないと死んでしまう。動悸が激しくなって、ぐらぐらと視界が歪んだ。
手足をいくら動かしても息苦しさは改善されないが、それでも必死にもがいた。
「ゆっくり息を吸って、それから息を止めてみよっか?」
——あ、アホやろ!? 息なんか止めたらそれこそほんまに死んでまうわ。息できへんのやぞうちは。
怜は呼吸をする回数を増やして、酸素を身体にといれようとしたが、どんどん症状は悪化していった。いくら浅く呼吸をしても、酸素は脳まで届かない。
竜華のいう通りに、怜はゆっくり深く呼吸をして怜は、酸素を身体中の血管に巡らせるように息を止めた。息を吐くときに勢いよく吐いてしまって、咽せてしまったが、何度も繰り返すと、呼吸は安定していった。
「ときー大丈夫? お薬飲む?」
「おまえの持ってきた薬とか、飲めるわけないやろ!」
怜はそう言ったが、竜華は部屋の外に出てお薬箱を持ってきて帰ってきた。
せっかく安定した呼吸が、また早くなっていきそうになる。
「このお薬使うけど、ええよな?」
竜華は、包装シートに包まれたお薬を手に取って、怜に見せた。何を処方されるのかと酷く不安になった怜だったが、銀色のシートに青色の文字で、エチゾラムと記載があるのを見つけて少し安心した。
ベッドと繋がれた手錠にはだいぶ余裕があるので、竜華に体を起こしてもらって2錠ほど服用した。
「これ、しばらくはベッド生活なん?」
「せやなー、ほら最初の頃は暴れられたりすると危ないし。お風呂はしばらく我慢やけど……うちが、全部面倒見てあげるから安心してね」
ベッド横の竜華が右手の人差し指をたてて、にこやかに今後の生活について説明してくれたが怜の心は晴れない。
しかし、薬の効果か、体の筋肉が弛緩してだんだんと不安が薄れていった。
このまま竜華と話しているのも嫌だし、このまま寝てしまおうと怜は思った。
明日の朝起きたら全部夢の中の出来事になっていて欲しい。
だんだんと重たくなっていく瞼を感じながら、怜はぼうっと防音室の天井を眺め遣った。
本当にどうして、こうなってしまったのだろう。